城城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年8月5日           関根弘興牧師
               ルカ18章18〜30節
 イエスの生涯27
 「誰が救われることができるでしょう」

 18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。20 戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」21 すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」22 イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」26 これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」28 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、30 この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」(新改訳聖書)

前回は、イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに向かっていかれる途中の出来事を見ました。天の御国で一番偉い者になりたいと互いに競い合っている弟子たちに対して、イエス様は、権力で人を支配するのではなく、仕える者、しもべとして生きることが大切だということをお語りになりました。イエス様御自身が神の栄光を捨て、人となって十字架でいのちをささげるほどに仕えてくださったのです。そのイエス様を模範として生きることが神の国にふさわしい者なのですね。
 さて、今日の箇所には、それより少し前に起こった出来事が書かれています。ある役人がやってきてイエス様に質問をしました。この役人とイエス様の対話を通して、大切なことを学んでいきましょう。
 ところで、今日の箇所の直前の15節ー17節に、子供たちが親に連れられてイエス様のもとに来たことが書かれています。弟子たちは彼らを押しとどめようとしましたが、イエス様は、こう言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
 これを聞いた弟子たちや周りの人々は驚きました。なぜなら、当時は、聖書の教えを理解できない子供たちは神の国に入れないと考えられていたからです。神の国に一番近いのは、律法の戒めをきちんと守り、社会的立場がしっかりしていて裕福な人だと考えられていました。しかし、子供は、戒めをきちんと守れるわけでもなく、地位も財産もありません。それなのに、イエス様が「子供のようにならなければ神の国に入ることはできない」と言われたので、弟子たちは驚いたわけです。
 そして、それに続く今日の箇所では、イエス様は、さらに当時の常識を覆すことを言われました。詳しく見ていきましょう。

1 イエス様と金持ちの役人

 イエス様のもとに役人がやってきました。「役人」という言葉は、「指導者」「議員」と訳す場合もあります。最高議会の議員か、それとも、ユダヤの会堂の役員のような立場だったのかもしれません。そして、他の福音書には「青年」と紹介されていますから、ユダヤ社会の若きリーダーの一人だったようです。さらに、23節に、彼は「たいへんな金持ち」だったと書かれていますね。当時のユダヤの社会では、繁栄は神様の祝福のしるしと見なされていました。その人が善人だから、神様が祝福してくださっているのだと考えられていたのです。財産がたくさんあれば神様に愛されていて、少なければ少ししか愛されていない、マイナスにでもなれば、呪われているんじゃないかというふうに極端に考える場合もあったわけですね。とにかく、この地上で富めば富むほど、神様が祝福してくださっているのだから永遠のいのちを受けて天国に入るのは確実だと思われたわけです。
 今日の箇所に出てくる役人は、たいへん裕福でした。立派な立場もあり、戒めもきちんと守って生活していたようです。ですから、誰の目にも、この人ほど天国に近い存在はない、と見えて当然だったわけです。彼が天国に入れなくて、いったい誰が神の国に入れるだろうと、弟子たちも思ったでしょう。
 では、天国確実と思われるその役人は、なぜイエス様のもとに来たのでしょうか。理由は書いていないので推測するしかありませんが、もしかしたら、今一番人気のイエス様から自分の人生にお墨付きをいただきたいと思ったのかもしれません。あるいは、天国行きを百パーセント確実にするために、何かやり残したことはないか知りたいと思ったのかも知れませんね。
 その役人に対してイエス様が何を言われたか見ていきましょう。

@「尊い方は神おひとりのほかにだれもありません」

 役人は、まず、イエス様に「尊い先生」と呼びかけました。すると、イエス様は、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません」と言われました。なんだかそっけない感じがしますね。「わたしに質問するのはお門違いですよ」と冷たくあしらっておられるような感じがしますが、そうではありません。
 ここで「尊い」と訳されている言葉は、「善」という言葉です。そして、旧約聖書には、神様は「善」なるお方であるということが、いろいろな箇所に出てきます。たとえば詩篇106篇1節の「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」という言葉がありますが、これは聖書の至る所に出てくる、誰もがよく知っている賛美の言葉です。これを直訳すると、「ハレルヤ、主に感謝せよ。なぜなら、主は善なる方だから。主の慈しみはとこしえだから」となるんです。つまり、ユダヤの人たちは、いつも礼拝の度に「主は善なる方」という言葉を聞かされ、また、賛美していました。ですから、「善」、「尊い」という言葉は、神様を言い表すのに使われていたのです。恵みと慈しみをもって、いのちを与えてくださる善なる方は神様以外にはいません。ですから、イエス様は、「『尊い』という言葉にふさわしいのは、神おひとりだけです」と言われたわけですね。
 この役人も旧約聖書を熟読していたでしょうから、そのことはよく知っていたはずです。その上で、あえてイエス様に「尊い先生」と呼びかけたのですね。それは、イエス様が他の教師とは明らかに違う、神から遣わされた方だと思ったからでしょう。その役人に対して、イエス様は、こういう意味のことを言われたのだと思います。「尊い方は、神おひとりのほかにだれもありませんね。わたしは、その父なる神様から永遠のいのちを与える権威を授けられています。だから、あなたが永遠のいのちを求めてわたしのもとにやって来たのは、筋の通った正しい選択です。」つまり、イエス様は、この人を冷たく突き放そうとしておられるのではなく、むしろ、歓迎しておられると言えるでしょう。

A「戒めを守りなさい」

 さて、この役人は、イエス様にどんな質問をしたでしょうか。それは、「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」ということでした。
 すると、イエス様は、モーセの十戒の後半の部分を引用して、こう言われました。「戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」つまり、「あなたも知っている神様の戒めを守れば永遠のいのちを受けることができる」と言われたのです。
 このイエス様の答えに「おや、変だな」と思う方がおられるでしょうね。イエス様は、いつもは、「人は律法の行いではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われる」と教えておられるのに、なぜここでは「戒めを守りなさい」とお答えになったのでしょうか。
 それは、この役人の質問に問題があったからです。彼は「何をしたらいいか」と質問しました。自分が何かを行うことによって永遠のいのちを受けようとしていたのです。つまり、自分の力で救いを得ることができると思っていたわけですね。ですから、イエス様は、「もし自分の行いで救いを得たいなら、神様の戒めを完全に守りなさい」とお答えになったのです。
 しかし、神様の戒めを完全に守ることのできる人がいるでしょうか。だれもいません。本気で守ろうと思っても、守れない不完全な自分の姿に気づくだけです。
 イエス様は、以前、山上の説教で、神様の戒めの基準の高さを教えられたことがあります。例えば、兄弟に向かって怒ったり批判したりするなら、人殺しと同じだと言われたのです。表面的に非の打ち所のない生活をしていたとしても、心の中に汚れた思い、憎しみ、妬みがあるなら、神様の基準に達することはできないというのです。
 ところが、この役人は、若かったせいもあるかもしれませんが、それがわかっていませんでした。「そのような戒めは、小さい時から守っております」と即答したのです。表面的に正しい生活をしているだけで、自分は大丈夫だと思っていたのですね。彼は、真面目で、戒めを厳格に守り、人々の評価も上々でした。自分のような人間が永遠のいのちを受けずして誰が受けることができるのかと思っていたかもしれません。イエス様に「あなたなら大丈夫。百点合格」と言ってもらいたかったのでしょう。しかし、そんな彼の思いは、イエス様の次の言葉で完全に崩れてしまいました。

B「あなたには、欠けたものがあります」

 イエス様は、そんな彼にこう言われました。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」これは、衝撃的な言葉ではありませんか。「莫大な財産を全部貧しい人々に分け与えなさい」というのですから。イエス様は、「あなたが自分の行ないによって永遠のいのちを得ようとするなら、実際に完全な行ないをすることによってそれを示してみなさい」と言われたのです。
 彼は、これを聞いて、「非常に悲しんだ」とありますね。他の福音書では、「悲しんで去って行った」と書かれています。これが、人間が自分の力で救いを得ようとする限界なんです。 私たちは、ここでとても大切なこと学ばなければなりません。もし自分の行ないによって永遠のいのちを受けよう、救いを得ようとするなら、そこには必ず失望と悲しみが襲ってくるだけだということです。ですから、聖書は繰り返し、「行ないによっては救われない。行ないによっては永遠は保証されない」と記しているわけですね。私たちも、もし自分の行いでいのちを得ようとするなら、この役人と同じように、結局、出来ない自分に悲しむだけになってしまうことでしょう。

C「人にはできないことが、神にはできる」

 イエス様は去って行く役人を見て、弟子たちに言われました。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 この言葉を誤解しないでいただきたいのですが、イエス様は、裕福なことが悪いとか金持ちではいけないとかおっしゃっているのではありません。この世の富によって永遠のいのちを買うことはできないし、かえって富に執着してしまったり、富がまるで万能であるかのように錯覚してしまい、それが私たちを縛り、苦しめることになるということを警告なさっているのです。大切なのは、富を得たら、その富を神様から託された物として適切に管理し、賢く使っていくことなのです。
 しかし、イエス様の言葉を聞いた弟子たちは、驚いてしまいました。金持ちは神様の祝福を受けているはずなのに、その金持ちが神の国に入るのが難しい、しかも、らくだが針の穴を通るより難しいとイエス様は言われたのです。弟子たちは、ただただ驚いて、「らくだが針の穴を通るなんて、全く不可能ではないか。金持ちが神の国に入るのがそれより難しいとしたら、救われる人など誰もいないではないか」と思ったのです。そこで、「それでは、だれが救われることができるでしょう」と質問したのですね。
 すると、イエス様はこう言われました。「人にはできないことが、神にはできるのです。」皆さん、今日は、この言葉をぜひ覚えて帰ってください。これが福音なんです。
 永遠のいのちを自分の力で得ることは、人には出来ません。でも、神様は、すべての人に永遠のいのちを与えることがおできになるのです。
 ヨハネ3章16節にこう書かれていますね。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」そして、エペソ2章8節には、こうあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
 神様は、自分の力で神様の基準に達することのできない私たちを愛しておられるので、私たちのもとに御子イエスを救い主として送ってくださいました。私たちは、その御子を信じるだけで永遠のいのちを持つことができるのです。それは、自分の努力や行いとはまったく関係ありません。ただ神様が御子によって救われる道を恵みによって一方的に与えてくださったのです。
 ですから、自分の力で救いを得ることが不可能だと知ったら、今日の役人のようにイエス様のもとを去ってしまうのではなく、「私にはできません」と告白し、イエス様の救いを求めることが大切です。人にはできないことが、神にはできるのですから。
 聖書には書かれていないのでわかりませんが、この役人は、後で思い直してイエス様のもとに戻ってきてイエス様を信じたのではないかと考える学者もいます。そうであってほしいですね。

2 神の国のために捨てるとは

 さて、こんなやりとりが続く中、ペテロが黙っていられなくなって、こう言い出しました。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」
 ペテロは本当に愉快ですね。マタイの福音書を読むと、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」と尋ねているんです。金持ちの役人は、全財産を捨ててイエス様に従うことができませんでした。でも、ペテロは、自分は何もかも捨ててイエス様に従ってきたという自負がありましたから、それ相応の見返りがあるはずだと思ったのでしょうね。でも、すべてを捨てて従ったのだから、もう特に何ももらわなくてもいいはずなんですけどね。
 でも、イエス様は、「お前は何を考えているんだ」とお叱りにはなりませんでした。このように言われたのです。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」
 これも誤解されやすい言葉ですね。「家族を捨てたら、幾倍かの報いを受けるのか。よし、家出して、父と母から逃げよう。それに妻も捨ててしまおう。これは、いい言葉だ」と考えたら大間違いです。
 では、イエス様の言葉は、どういう意味なのでしょう。
 この「捨てる」と言葉は、もう不要になったのでゴミ箱にポイと捨ててしまうという意味ではありません。聖書は、白か黒かというような書き方をする特徴があります。たとえば、ここにおいしそうなリンゴが二つあったとしましょう。私が右のリンゴを選んだら、「関根弘興は左のリンゴを捨てた」とか「関根弘興は右のリンゴを愛し、左のリンゴを憎んだ」というような表現になるのです。
 ですから、「神の国のために、家族を捨てる」というのは、家族をないがしろにすると言うことではなく、「神様をいつも家庭の中でも、その他の場所でも認め、神様に人生をゆだねて、神様にすべてのことを支配していただくことを優先しなさい」ということなのです。つまり、私たちは、ここで、まず何を選び、何を基準として生きていくのかということが問われているのです。「イエス様、わたしがぎゅっと握っていた手を開きます。あなたに人生を委ねます、問題もたくさんあります、でもあなたに委ね任せます、イエス様の言葉を信頼し委ねて生きていきます」と告白しながら歩むことの大切さを教えているのです。
 そして、それが結果的に、家族をより愛することに繋がっていくでしょう。自分が神様に愛されていることを知れば、家族をもっと愛することができるように変えられていくでしょう。自分の家族への態度を反省させられることになるかもしれません。それに、家族にとって何が最善なのかは神様が一番よくご存じですから、家族のためにただ自分で頑張るよりも、まず、神様に信頼するほうがいいですね。つまり、イエス様を信頼し、イエス様に委ねつつ歩んでいくとき、結果的に豊かな充実した人生を送ることになっていくのです。
 もちろん、イエス様に従うことを選び取ることによって、家族との軋轢が生じることがあるかもしれません。でも、ローマ8章28節にはこうありますね。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」すべてが益となるという約束を信頼して、イエス様に従っていきましょう。
 イエス様と共に生きることを選び従った初代教会は、いろいろな迫害を経験しながらも、キリストを信じる人々が大勢加えられていきました。そして、人種、国籍、性別、社会的地位などの様々な違いを乗り越えて兄弟姉妹となっていったのです。私たちも、キリストに信頼して歩んでいくとき、神の家族の一員として幾倍もの報いを味わうことができるのです。
 イエス様は、今日の箇所で、神の国のためにキリストに従う道を選んだ人は「この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はない」と約束してくださっています。今はまだ問題しか見えないような状態かもしれません。しかし、イエス様の約束に期待しようではありませんか。
 私たちが信じる神様は、「善なる神様」であり、私たちを愛して一方的な恵みを与えてくださる神様であり、人にはできないこともおできになる方なのですから、この方を賛美しながら、今週も歩んでいきましょう。