城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年8月12日          関根弘興牧師
                ルカ19章1節〜10節
 イエスの生涯28
   「ザアカイの回心」

1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(新改訳聖書)

 前回は、イエス様一行がエルサレムに向かっていく途中、ある裕福な役人がやって来て、「何をしたら永遠のいのちを得ることができますか」とイエス様に質問した出来事を見ました。
 当時は、金持ちで社会的に成功している人は神様の祝福を受けているのだから天の御国に一番近いと考えられていました。また、この役人には、自分は小さい頃から戒めをきちんと守ってきたという自負がありました。ですから、この人は、永遠のいのちを得ることは確実だとイエス様に認めていただきたかったのかもしれません。ところが、イエス様は、「あなたには一つ欠けたところがあります。全財産を売り払い、貧しい人に施しなさい。そしてわたしについてきなさい」と言われたのです。それは、「あなたがもし自分の行いによって永遠のいのちを得ようとするなら、完全な行いをしなければなりません」ということです。すると、この人は、悲しみながら去っていってしまいました。イエス様のおっしゃることは自分にはとてもできないと思ったのですね。彼の姿は、人が自分の力や行いによって永遠の救いを得ようとすることの限界を教えています。
 しかし、イエス様は、「人にはできないことが、神にはできる」と言われました。人が自分の行いで救いを得ることは不可能だけれど、神様は、すべての人に救いを与えることがおできになるというのです。すべての人を救うために、神様は、救い主イエスを送ってくださいました。人の努力や行いとは関係なく、だれでもこの救い主を信じるなら救われるという道を神様は備えてくださったのです。今日の出来事の中にもそれが示されています。
 エルサレムに向かうイエス様一行は、その途上にあるエリコの町にやってきました。
 エリコは大変由緒ある町です。良質な泉があり、オアシスとして古くから人々が住みついていました。「なつめやしの町」と呼ばれ、ヘロデ大王やその後継者たちは、ここにローマ風の美しい庭園のある宮殿を建てました。
 その町にイエス様一行が入って来られると、大勢の人がイエス様を見ようと集まってきました。その中にザアカイもいたわけですね。

1 ザアカイについて

@名前の意味

 まず、ザアカイという名前ですが、これはヘブル語で「きよい者」という意味の名前です。旧約聖書エズラ記2章9節に「ザカイ族」という一族の名が乗っていますが、その「ザカイ」と同じです。つまり、ザアカイというのは、旧約聖書の時代から使われていたユダヤ人の伝統的な名前だというわけですね。

A取税人のかしら

「取税人」というのは、ローマ帝国のために税金を取り立てる徴税請負人で、ローマ政府に雇われていました。
 当時この地域を支配していたローマ政府は、各地に取税人を配置し、税金を徴収させました。取税人は、ローマ政府には決められた額の税金を納めればいいことになっていたので、人々から余分に集めて差額で私服を肥やすことができました。ローマ政府の権威を笠に着て、容赦ない強引な取り立てをする者も多かったようです。もし民が取税人の不正を訴えても、ローマ政府は収入源を失いたくないので聞く耳をもつことをしなかったそうです。ですから、取税人は、ローマの属州のいたるところで嫌悪の対象となっていました。特に、ユダヤの人たちは、取税人を「ローマの犬」「汚れた罪人」と呼び、神の救いを受けることなど決してできない人間だと見なしていたのです。
 ザアカイは、そういう取税人たちのかしらでした。しかも、8節で自らが告白しているように、人々からだまし取って私服を肥やしていたのです。ですから、町中の嫌われ者だったことでしょう。

B背が低かった

 イエス様が、エリコの町に来られたとき、ザアカイもイエス様を見たいとやってきましたが、見ることができませんでした。それは、ザアカイが「背が低かったので」と書かれていますが、本当の障害は群衆でした。「ザアカイさん、こっちに来たら見ることができますよ」「私の前に出してあげましょう」と声をかける人は誰もいなかったのです。もちろん物理的に背が低いから見えないのですが、群衆は、ここぞとばかりザアカイを無視し、疎外し、押しのけてしまったわけです。

2 ザアカイの行動

 その状況で、ザアカイはどんな行動を取ったでしょうか。
 実は、この前の18章に、一人の盲人のことが記されています。他の福音書によると、この盲人の名はバルテマイでした。彼は、エリコの町の近くの道ばたで物乞いをしていたのですが、ある日、イエス様がエリコに入るためにその道をお通りになると知りました。彼は、イエス様が多くの病人を癒やし、盲人を見えるようになさったこと、そして、イエス様こそダビデの子孫から生まれる救い主に違いないという噂を聞いていました。そして、何とかしてイエス様に助けていただきたいと思ったのです。彼は目が見えませんから、まわりの群衆のざわめきの様子でイエス様が近づいてこられるのを判断するしかありません。それに、目が見えませんから、とにかく大声で叫ぶしか方法がありませんでした。きっと、イエス様がまだ五十メートル手前、いや、百メートル手前におられるときから、叫び始めたのでしょうね。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください!」「ダビデの子よ。私をあわれんでください!」と叫び続けました。人々からたしなめられても叫ぶのを止めませんでした。すると、イエス様は彼の声を聞いて立ち止まり、彼をみもとに連れてこさせ、彼の目を見えるようにしてくださったのです。何としてもイエス様の救いをいただきたいという彼の思いに、イエス様が応えてくださったのですね。
 一方、ザアカイはどうでしょうか。彼は盲人ではありませんでしたが、群衆に遮られてイエス様を見ることができませんでした。でも彼は諦めませんでした。恥も外聞も捨てて、すぐ近くのいちじく桑の木に登ったのです。何とかしてイエス様を見たいという強い願いから行動を起こしたわけですね。
 では、なぜザアカイはそれほどまでにイエス様を見たいと思ったのでしょうか。おそらくザアカイは自分の人生に虚しさのようなものを感じていたのではないでしょうか。なぜなら、豊かな人生を送るために必要な三つのものが、彼の人生には欠けていたからです。

@愛情

 人は、愛なしに、人生をより良く生きることはできません。人は、ありのままの自分を受け入れて愛してくれる存在と出会ったときに安息します。そして、人を愛することができるようになり、本当の満足を得ることができます。愛されて安息し、愛して満足するのです。

A所属意識 

 自分には居場所がある、自分はここにいていいのだ、と思えることはとても大切です。人は、自分の存在を認めてもらいたいと願っています。自分の存在が認められていないと感じる場所では、とても不安になります。ですから、人を落ち込ませるのは簡単です。その人を無視すればいいんです。「お前なんて必要ないんだ」といろいろな方法で示せばいいのです。逆に、自分の存在が認められるとき、人は安心することができます。

B自己尊敬

 だれでも自分のしたことで他の人が喜んでくれたら、とてもうれしい気持ちになりますね。人に助けられることも感謝なことですが、自分が人を助けることができたとき、自分が誰かの役に立っていると思えるとき、人は安心します。人は、自分も必要とされている存在だとうなずくことができたら、前向きに生きていくことが出来るのです。

この愛情、所属意識、自己尊敬を養うことは、私たちがより良く生きていくためにとても大切なことなのですね。しかし、ザアカイはどうでしょうか。人々から憎まれ、疎外され、また、強制的に税金を搾り取っている自分を尊敬することなどできなかったでしょう。ザアカイは、そんな自分の人生を変えたい、イエス様ならその方法をご存じなのではないか、という期待を無意識のうちに持っていたのかもしれませんね。

3 イエス様の呼びかけ

イエス様は、そういうザアカイの思いを見抜いておられました。そこで、ザアカイがいる木の下に立ち止まり、ザアカイを見上げて、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と呼びかけられたのです。

@「ザアカイ。急いで降りて来なさい」

 イエス様は、ます「ザアカイ」と名を呼ばれました。
 「ザアカイ」とは「清い者」という意味ですが、人々がザアカイの名を口にするときは、「あいつはユダヤ人の由緒ある立派な名前がつけられているのに、やっていることは名前と正反対だ。きよい者どころか汚れた者ではないか。ザアカイと名乗るなど、ふざけた話だ」と皮肉や陰口を言っていたことでしょう。
 しかし、イエス様の呼びかけは違いました。愛をもって、親しみを込めて彼の名を呼ばれたのです。ザアカイは、さぞ驚いたことでしょう。「イエス様は、なぜ私の名前をご存じなのか。私の名前を知っているということは、私の職業も今までしてきたことも全部知っておられるに違いない。それなのに、なぜ親しく呼びかけてくださるのだろうか」と思ったのではないでしょうか。
イザヤ43章1節ー4節で神様はこう言っておられます。「恐れるな。・・・わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。・・・わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
 また、ヨハネ10章で、イエス様は、こう言っておられます。「門から入る者は、その羊の牧者です。・・・彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。・・・わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
 イエス様は、ザアカイを批判したり追い払うのではなく、ザアカイの名を呼んで「急いで降りてきなさい」と御自分のもとに招いてくださいました。それによって、ザアカイは、心を開くことが出来たのです。

A「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」

 イエス様の次の言葉は、さらに驚くべきものでした。「きょう、あなたの家に泊まることにしてある」というのです。それはつまり、イエス様はそのことを前から計画しておられたということですね。イエス様はザアカイのことをすべてご存じの上で、彼の家に泊まろうとしておられたのです。しかも、それは、今急に思いついたことではなく、前から計画されていたことだというのですね。
 ここに福音の本質が示されています。福音とは、イエス様が、あなたのことをすべてご承知の上で、あなたの名を呼び、あなたの家、つまり、あなたの人生のただ中に来てくださるということです。そして、それは、神様が永遠の昔から計画してくださっていたことなのですよ、と聖書は教えているのです。

4 ザアカイの応答

@イエス様を喜んでお迎えした

ザアカイはイエス様の言葉を聞くと急いで降りてきて、大喜びでイエス様をお迎えしました。それは、単に家に泊まっていただき接待したという以上のことを示しています。自分の家、自分の一番大切な場所にイエス様に来ていただいた、それは、イエス様を救い主と認め、お迎えしたということなのですね。

A新しい人生への出発

 イエス様をお迎えしたザアカイの人生は、ここから一変していきます。8節を見ると、ザアカイは、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」と告白し、今までの愚かな行為を反省するだけでなく、その償いをすること、また、人々に自分の財産を分け与えることを約束したのです。それを、ザアカイは、強いられてでも嫌々ながらでもなく、自発的に言い出したのです。
 ここで、イエス様は、ザアカイに「貧しい人に施しなさい」とか「償いをしなさい」とはひと言も言っておられません。なぜなら、そういう行いは、救いの条件ではないからです。でも、自分のありのままを受け入れてくださるイエス様と出会って、ザアカイの心は変わりました。自分の不正をわび、償おうとする気持ちを持つことができるようになったのです。
 私は、こう考えます。人は、ありのままを受け入れられたら、もはやそのままではいられなくなるのです。イエス様がありのままの自分を受け入れてくださると知ったとき、私たちは、以前のままではなく、新しくキリストの愛に生きる歩みを始めるようになるのです。

5 イエス様の宣言

 イエス様は、そんなザアカイにこう言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」
 「救いが来ました」というのは、来たけれどまた去ってしまうかもしれないという意味ではありません。「救いが実現した」「救いが成った」という意味です。
 では、「アブラハムの子」とは、どういう意味かというと、アブラハムはイスラエル民族の先祖です。神様は、すべての人に救いと祝福をもたらすために、まずアブラハムを選んで、「地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される」と約束なさいました。ですから、「アブラハムの子」というのは、ただ肉体的にアブラハムの子孫であるというだけでなく、「神様の祝福を受け継ぐことのできる者」という意味があるのです。
 ザアカイは、人々から無視され、嫌われ、罪人呼ばわりされているような人でした。でも、そんな彼をも神様は愛し、祝福を与えたいと思っておられるということを、イエス様は言われたのです。そして、だからこそ、イエス様は、ザアカイの名を呼び、ザアカイの家に来てくださり、救いを実現してくださったのですね。
 今まで、嫌われ、安心できる居場所もなく、自分にマイナスのイメージしか持てなかったザアカイは、イエス様をお迎えすることによって、愛と所属意識と自己尊敬という大切な三つのものを味わうことができるようになりました。その結果、かれの人生は一変し、神様の祝福を味わいつつ、他者に祝福をもたらすことができるようになっていったのです。

6 イエス様の目的

 そして、イエス様は、10節でこう言われました。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」これは、イエス様が来られた大きな目的を表す大切な言葉です。
 これより前、ルカ15章で、イエス様は三つの有名な例え話をなさいました。百匹の羊のうちの一匹がいなくなった話、十枚の銀貨の一枚がなくなった話、息子が父親から財産を分けてもらって家を出ていなくなってしまった話です。それぞれの話に出てくる「いなくなる」とか「なくなる」という言葉は、どれも同じ言葉で、元々は「行方不明になる、滅びてしまう」という意味があります。10節に出てくる「失われた」という言葉もこれと同じです。
 羊も銀貨も息子も行方不明になってしまいました。しかし、それぞれの話の中で、迷子の羊を懸命に探す羊飼い、無くした銀貨を懸命に捜す女性、いなくなった息子を待ち続け、ついに帰ってきた息子の姿を遠くに発見して駆け寄って抱きしめる父親の姿が描かれています。羊飼いも女性も父親も行方不明だったものが見つかって大喜びするのです。
 この行方不明になった羊、銀貨、息子は、どれも人間の姿を表しています。人は皆、本来の場所である神様のもとから離れ、人生に迷い、本来の自分の価値を見失っています。しかし、イエス様は、そんな失われた一人一人を捜して救うために来てくださったというのです。
 私たちがどんな状態であるかにかかわらず、イエス様は私たちの名を呼んで招いてくださいます。ですから、イエス様を喜んでお迎えしましょう。そうすれば、イエス様は、必ず私たちのもとに来てくださって、「今日、救いが実現した」と言ってくださるのです。
そのことを深く感謝しようではありませんか。また、まだイエス様を喜び迎え入れていない方がおられるなら、単純に心を開いて、イエス様をお迎えしていこうではありませんか。