城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年八月一九日          関根弘興牧師
              マタイ二一章一二節〜二二節
 イエスの生涯29
    「祈りの家」

12 それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」14 また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。15 ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。16 そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」17 イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(新改訳聖書)


 今まで、イエス様がエルサレムに向かう途中に起こった出来事を見てきました。先週はエリコの町でザアカイがイエス様に出会うことによって劇的に変わった様子を見ましたね。イエス様は、私たちのすべてをご存じの上で、ありのままの私たちを愛し、私たちの名を呼び、私たちの人生の真ん中に来てくださるのです。そのイエス様の愛と恵みを知るとき、私たちは新しい歩みを始めることができるのですね。
 さて、今日からは、イエス様がいよいよエルサレムに入られ、地上での生涯の最後の一週間を過ごされるわけですが、その間に起こった出来事を見ていくことにしましょう。イエス様は、以前から「私はエルサレムに行って苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と弟子たちに語っておられましたが、ついにその時が近づいてきたのです。
 今日の箇所の直前の1節からは、イエス様がろばの子に乗ってエルサレルムに入って行かれたことが書かれています。ちょうどユダヤの最大の祭りである「過越の祭り」が行われる時でした。成人したユダヤ人男子は皆、エルサレムに上って祭りに参加することになっていましたから、世界中から多くのユダヤ人が集まっていました。実際、多い時には二百万人もの人々が集まったという記録があります。町は大変混雑し、エルサレムに続く道は、人々であふれていたことでしょう。
 イエス様は、エルサレムの近くまで来ると、弟子たちにろばの子を連れてこさせ、それに乗ってエルサレムに入られました。なぜろばの子に乗られたのでしょうか。
 旧約聖書の預言者ゼカリヤは、紀元前五世紀前半に活動していましたが、救い主の到来を次のように預言していました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ9章9節)
 イエス様は、御自分こそが、ゼカリヤの預言した救い主なる王であることを示すために、ろばの子に乗られたのです。
 そして、このゼカリヤの預言は皆が知っていましたから、子ろばに乗ったイエス様を見た人々は、「この方が救いをもたらす王なのだ」と思い、自分たちの上着や棕櫚の枝を道に敷いてお迎えし、口々にこう叫び出したのです。「ホサナ。主の御名によって来られる方に祝福あれ」と。「ホサナ」とは、元々は「今、救ってください」という意味ですが、人々は、イエス様が今のローマの支配下で苦しむ状態から解放してくださる救い主だと期待し、賛美の声をあげてイエス様を迎えたのです。
 
1 神殿の現状

 さて、イエス様は、エルサレムに到着すると、まず神殿に入って行かれました。神殿は、中心から順に祭司の庭、イスラエル人の庭、婦人の庭、異邦人の庭に囲まれていました。異邦人は一番外側の異邦人の庭までしか入ることができませんでした。
 その異邦人の庭には、大勢の両替人や商売人がいました。
 なぜ両替人がいたかというと、ユダヤ人の成人男性は皆、神殿の維持管理のために神殿に税を納めるという決まりがありました。一人につき二日分の賃金に相当する半シェケルを納めるのですが、神殿用の時別な銀貨を使って納めなければならないことになっていたのです。そのため、世界中から集まってきたユダヤ人たちは、自分たちの持っている通貨を神殿用の銀貨に両替してもらう必要がありました。ですから、両替人の存在自体は悪くはないのですが、彼らは、両替する時に十から十五パーセントの手数料を取っていたと言われています。神様にささげる税を利用して私腹を肥やしていたわけですね。
 また、神殿にささげる牛や羊や鳩を売る商売人たちがいました。神殿にささげる動物は「完全で、傷がなく、汚れがないものでなければならない」と決まっていました。そこで、神殿当局から任命された検査官が動物を調べるわけです。ささげる動物を自分で連れてきた場合は、検査を受けるために検査料を払わねばなりませんでした。そして、もし不合格だったら、神殿で代わりの動物を買わなければなりません。また、遠くから来る人は、わざわざ動物を連れてくることなどできませんから、やはり神殿で動物を買う必要があります。結局、神殿で売られている検査済みの動物や鳥を買ったほうがいい、買わざるを得ないような仕組みができていたわけですね。それをいいことに、商売人たちは、一般の市場よりはるかに高い値段で動物や鳥を売りつけていたのです。もちろん、こうして集められたお金は神殿の維持管理のためにも用いらたわけですが、彼らは神様にささげる動物を利用して大きな利益を得ていたわけですね。
 しかも、両替人や商売人は、おそらく神殿の管理者や祭司に賄賂を送って利権を確保していたことでしょう。そこで祭司たちも彼らのやり方を黙認していたようです。ですから、両替人も商売人も祭司たちも、信仰の名を借りて、また、礼拝の場所を利用して、不正な利益を得ていたわけですね。ですから、イエス様は、「あなたがたは神殿を強盗の巣にしている」と激怒し、商売人たちを追い出されたのです。
 いつの時代でも、宗教が金銭と結び付いたときほど醜いものはありません。金儲けのために宗教を利用するとき、そこには混乱が起こるだけです。残念ながら、キリスト教会の歴史を見ても、その誘惑はいつもありましたね。中世の時代、教会は「これのお札を買えば罪が赦される」と言って免罪符を売り、多大な利益を得ていました。もしイエス様がその売り場におられたら、やはり激怒して、その台をひっくり返されたことでしょうね。

2 神殿の本来の姿

 イエス様は、強盗の巣のようになっている神殿の状態を見て、嘆き、「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか」と言われましたね。
 これは、旧約聖書のイザヤ書からの引用です。イザヤ56章3節ー7節に、こう書かれています。「主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ』と。まことに主はこう仰せられる。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」
 ここに外国人と宦官が出てきますね。ユダヤ人は、自分たちだけが神に選ばれた民だと考えていましたが、外国人でも神様を信じた人は改宗者と呼ばれ、神の民の中に加わることはできました。しかし、イエス様の時代は、神殿の一番外側に異邦人の庭が造られ、しかも、そこには「改宗者であっても、これ以上神殿の中に入ったら殺されても責任を負わない」という看板が立てられていました。ですから、彼らは、「いつか神様から見捨てられ、切り離されてしまうのではないか」という不安を感じていたようです。また、宦官は、宮廷に使える去勢された人たちで、「私は神様から枯れ木のようにしか見られていないのではないか」と考えてしまうこともあったようです。自分は身に欠陥があるから神様から疎んじられているのではないかと感じてしまったのでしょうね。
 しかし、神様は預言者イザヤを通して、「わたしは、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」と約束してくださいました。それは、「外国人も、宦官も、取税人も、罪人も、だれでも、真心から主を求め礼拝に来るなら、受け入れよう。そこには何の差別もない。だから、卑屈になったり負い目や劣等感を持つ必要はない。心配する必要も無い。神殿は、すべての民がやって来て主に祈り、主と共にいることを楽しむ場所なのだから」ということなのです。
 その意味で、イエス様も「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか」と言われたのですね。
 神様は、私たちを誰でも分け隔て無く迎え入れてくださり、楽しませてくださいます。誰でも神様を礼拝し、神様に祈り、楽しむことができる場所、それが本来の神殿の姿なのですね。
 しかし、イエス様が見た当時の神殿の現実は、どうだったかというと、人々がそれぞれの庭によって差別され、お金がなければ礼拝もできないような状態だったわけです。イエス様が嘆かれるのも当然ですね。
 そこで、イエス様は、両替人と商売人を追い出し、次に、本来の神殿の姿を身をもって示されました。
 14節に「また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」と書かれていますね。当時、盲人や足のなえた人たちは、宮の外に追い出されてしまっていました。しかし、イエス様は、彼らを暖かく迎え入れ、いやされたのです。このことを通してイエス様は、「もし礼拝を形式的に守るための両替人や商売人が本来の祈りの家としの礼拝を妨げてしまうなら、そんなものは止めてしまえ。むしろ、今ここにいる人々に愛とあわれみを差し出すことのほうが、本来の神殿にあるべき光景だ」ということを示されたのです。
 また、15節には、子供たちが宮の中で「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたと書かれていますね。旧約聖書に、ダビデ王の子孫から救い主が生まれると預言されていますから、「ダビデの子」とは「救い主」のことです。子どもたちは、イエス様に向かって「あなたは救い主です」と賛美していたわけですね。それを聞いて、宮の指導者である祭司長や律法学者たちは腹を立てました。「あなたは、礼拝に必要な両替人や商売人を追い出したり、勝手にいやしを行ったりするだけでなく、自分が救い主だと言われて否定もしないとは、自分を何様だと思っているのか」と怒ったのですね。
 すると、イエス様は、詩篇8篇を引用し、「『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』と聖書に書かれているのをあなた方は読まなかったのですか」と言われました。「神様が子どもたちに賛美をさせておられるのだ。子どもたちがわたしを救い主として賛美するのは神様のみこころなのだ」ということなのですね。子どもたちは百パーセント意味がわかって「ダビデの子にホサナ」と歌ったわけではないでしょう。しかし、イエス様は、その賛美を受け入れ、喜んでくださいました。イエス様こそ賛美を受けるにふさわしい方だからです。
誰もが分け隔て無く受け入れられ、イエス様によって癒やされ、イエス様を賛美する場所、それが「すべての民の祈りの家」である神殿の本来の姿であり、真の礼拝のあり方なのですね。

3 「枯れたいちじく」の意味

 さて、この出来事の後、イエス様は、エルサレムの郊外のベタニヤに行ってお泊まりになりました。イエス様は、ベタニヤに滞在し、そこから毎日エルサレムに通っておられたのです。
 翌朝、ベタニヤからエルサレムに行かれる途中、驚くことが起こりました。空腹のイエス様が、葉ばかりで実のないいちじくの木に向かって「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われると、その木がたちまち枯れてしまったのです。
 マルコの福音書では、イエス様がいちじくの木を見て「実がならないように」と言われたのは月曜日の朝で、翌日の火曜日の朝、その木が枯れていた、と書かれています。そして、その月曜日の朝と火曜日の朝の間に、今日の神殿での出来事がサンドイッチのように挟まれて紹介されているのです。つまり、いちじくの木に起こった出来事は、神殿の出来事と密接な関係があるということなのですね。
 では、このいちじくの木の出来事には、どういう意味があるのでしょうか。
 最初、これを読むと、とても奇異な感じがしますね。イエス様が空腹の時に葉ばかりのいちじくの木を見て逆ギレして枯らしてしまったという、とても自分勝手な行動のように見えるからです。これは、他の箇所のイエス様の姿とまったく違うように思えますね。
 しかし、もちろん、これは、イエス様がただ気分を害して、いちじくの木に八つ当たりしたという話ではありません。
聖書の中には、象徴的な行為をすることによって何らかの真理を伝えるという方法が取られている場合がいくつも記されています。
 たとえば、預言者エレミヤは、神様から「亜麻布の帯を買って、それをユーフラテス川の岩の割れ目に隠せ」と命じられました。その後、多くの月日を経て、今度は、神様は「ユーフラテス川へ行き、あの帯を取り出せ」と言われたのです。エレミヤがその通りにすると、帯は腐って何の役にも立たなくなっていました。それは、イスラエルの人々が初めは役に立つ者だったけれど、今では腐ってぼろぼろになっていることを示す象徴的な行為だったのです。
 イエス様がいちじくの木を枯らされたのも、象徴的な行為でした。聖書の中では、イスラエルの民を象徴する植物として、ぶどうといちじくがよく用いられています。今日の箇所でも、実がなっていない葉ばかりのいちじくは、当時のイスラエルの民、そして、彼らの信仰の中心であるエルサレムと神殿の姿を示しているのです。そして、イエス様が空腹を覚えられたというのは、単に肉体的にお腹がすいたということだけではありません。イエス様がエルサレムの現状と神殿の姿を見たときに、魂の飢えを感じられたということでもあるのです。そして、イエス様は、実際にいちじくの木を枯らされたのは、どんなに立派な建物があっても、形だけの礼拝の姿は結局いつか枯れてしまう、ということを示しています。実際に、エルサレムも神殿も、この後、紀元七十年にローマ軍によって滅ぼされてしまいます。そのことも、いちじくの木を枯らすことによって、イエス様は預言的に示されたわけですね。

4 「祈りの家」の回復

イエス様は、エルサレムと神殿の滅亡を預言されましたが、その一方で、新しい神殿、新しい礼拝の時が来ることも教えておられます。
 ヨハネ2章18節ー22節には、イエス様が両替人や商売人を宮から追い出し、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と言われた時のことがこう書かれています。「ユダヤ人たちが答えて言った。『あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。』イエスは彼らに答えて言われた。『この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。』そこで、ユダヤ人たちは言った。『この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。』しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」
 イエス様は、「目に見える神殿は破壊されてしまうけれど、わたしは三日で新しい神殿を建てる」と言われましたが、それは、イエス様が十字架にかかり、死んで、三日目によみがえられることを意味していました。このイエス様の十字架と復活によって、イエス様を救い主と信じる一人一人に、罪が赦され、聖なる者とされ、内側に聖霊が宿ってくださるという道が備えられたのです。ですから、パウロは、イエス様を信じる一人一人が生ける神殿であり、また、信じる人々が集まり礼拝をささげる場こそまことの主の宮なのだと教えているのです。
 今、私たちは、特別な場所や建物は必要ありません。いつでもどこでも誰とでも、共に神様に感謝と賛美をささげ、祈ることができる恵みの中に生かされています。それは、私たち自身が祈りの家とされているからなのですね。
そして、イエス様は、その私たちの祈りの力がどのようなものものかを教えてくださいました。21節ー22節でこう言っておられますね。「もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
 この言葉を誤解しないでください。これは自分勝手な好き放題の祈りでも神様が答えてくださるという意味ではありません。
 ヨハネ15章16節でイエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求める者は何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
 イエス様が私たちの名を呼んで招いてくださったので、私たちはイエス様を信じ従うことができるようになりました。イエス様は、私たちに実を結ばせてくださいます。そして、私たちがイエス様の名によって求めるなら、つまり、イエス様のみこころにそって祈り求めるなら、何でも与えられるのです。
 今日の箇所で、イエス様が望んでおられるのは、「すべての人の祈りの家」の本来の姿が回復されることでした。ですから、イエス様は、「私利私欲に支配された形式だけの虚しい礼拝ではなく、隔ての壁が壊され、すべての人が共に集まり、憩い、癒やされ、楽しみ、心から礼拝をささげることができるように祈り求めていきなさい。そうすれば、かならずそのようになる」と、ここで約束してくださっているのです。
 イエス様は、私たちを「祈りの家」として新しく造り変えてくださいました。そして、「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」と約束してくださっています。主の恵みに生かされ、お互いに神様の豊かな祝福が注がれるように、共に祈り合い、神様に心からの賛美をささげていきましょう。