城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年八月二六日          関根弘興牧師
               マタイ二二章一節〜一四節
 イエスの生涯30
    「婚宴への招待」

1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(新改訳聖書)


 先週から、イエス様の地上での生涯の最後の一週間が書かれている箇所を読み始めましたが、今日は、イエス様がエルサレムでお語りになったたとえ話を見ていきましょう。
 イエス様は、福音書の中でたくさんのたとえ話をされていますが、まず、たとえ話を理解するために大切なことを知っておいてください。
 第一は、そのたとえ話が語り出された経緯を知るということです。第二に、たとえ話には当時の人々が見聞きしている光景が用いられていますから、当時の習慣や生活様式などを知ることです。そして、第三に、通常ではあまり考えられないようなことが語られている場合は、それがたとえの中心点、強調点であることが多いので、そこを注意しながら読んでいくことです。

1 このたとえ話が語られた経緯

 さて、前回は、イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入り、神殿の庭にいた両替人や商売人たちを追い出されたという出来事を読みましたね。イエス様は、「あなたがたは神殿を強盗の巣にしている」と激しく憤り、「聖書に『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか」と言われました。これは、イザヤ書に書かれている神様の言葉の引用です。神様は、「わたしは、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。・・・わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」と言われました。それは、「外国人も、宦官も、取税人も、罪人も、だれでも、真心から主を求めて礼拝に来るなら、私は受け入れよう。そこには何の差別もない。だから、卑屈になったり負い目や劣等感を持つ必要はない。心配する必要も無い。神殿は、すべての民がやって来て主に祈り、主と共にいることを楽しむ場所なのだから」ということなのです。
 そして、イエス様は、みもとにやって来た盲人や足の不自由な人たちをいやされました。また、また、子供たちがイエス様に対して「ダビデの子にホサナ」と賛美し始めたのです。それは、本来の神殿の姿を表す麗しい光景でした。
 しかし、神殿の運営を任された祭司たちやユダヤの最高議会の議員などの宗教指導者たちは、この光景を見て憤慨し、イエス様に論争を仕掛けてきたのです。
 彼らは、以前からイエス様に対して敵意を持っていました。 なぜなら、イエス様が「わたしを父とは一つです」とか「わたしを見たものは、父を見たのです」などと言って、自分が父なる神と同等の存在である、と語っておられたからです。彼らにとって、それは神を冒涜しているとしか思えませんでした。
 また、イエス様は、彼らに向かって「あなたがたは、表面的には神様を信じて敬虔な生活をしているように見せかけているけれど、心の中は自己中心的で欲望や悪意や高慢に満ちている。あなたがたは偽善者だ」とはっきり指摘なさったので、彼らは怒り狂いました。
 彼らは、当時の世界で誰よりも旧約聖書の内容をよく知っていましたから、本来なら、イエス様が旧約聖書の中で約束されている救い主であることを一番最初に認め、喜び、出迎えてもいいはずでした。ところが、彼らは、まったく正反対の行動を取りました。何とかしてイエス様を捕らえて、この世界から葬り去ろうとしたのです。
 そんな彼らが、神殿でのイエス様の振る舞いを見て、「あなたは何の権威によってこれらのことをしているのか」と詰問してきたのです。すると、イエス様は、彼らに対していくつかのたとえ話をなさいました。彼らは自分たちこそ神の国にふさわしいという高慢な思いを持っていました。その彼らに、イエス様は、神の国はどのようなものか、神の国に入ることができるのはどのような人たちなのかということをたとえを使って話されたのです。今日のたとえ話も、そのうちの一つです。
 ですから、今日のたとえ話は、イエス様を救い主として認めようとしない頑なな祭司や宗教指導者たちに対して語られたものだということを頭に入れて読んでいきましょう。

2 王子の結婚披露宴

 さて、まずイエス様は、「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます」と話し出されました。このたとえ話は、三幕構成になっています。

?第一幕 招待を断る人々

 人生の中でもっとも華やかで祝福に満ちた瞬間は結婚式だと思います。そして、結婚式に招待されるのは、うれしいことですね。もちろん、付き合いで仕方なく出席する場合もあるでしょうが、もしロイヤル・ウエディングに招待されたとしたら、それはとても光栄なことではないでしょうか。通常、ロイヤル・ウエディングに招かれるのは、一部の特別な人たちだけですからね。
 ところが、今日の話では、ロイヤル・ウエディングであるにもかかわらず、招待しておいた客がだれひとり来たがらなかったというのです。「来たがらなかった」とは、来ることを願わなかったということで、招きを拒否する頑なな姿を表しています。
 王は、それでも忍耐強く別のしもべたちを遣わし、「宴会のための料理もすべて準備が整ったので、どうぞ宴会にお出かけください」と招きました。しかし、招待された人々は、まったく行こうとしませんでした。王の招待を気にもかけず、畑仕事や商売に出かけてしまったというのです。通常なら考えられないことですね。しかも、それだけではありません。王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、殺してしまった者もいたというのです。王子の結婚披露宴を祝おうとしないどころか、王にも王子にも敵対していたというわけです。それは宣戦布告に匹敵する行為でした。
 すると、王は、そんな彼らの態度に応えるように、兵隊を出し、彼らを滅ぼしてしまった、というのです。これが第一幕です。
先ほどご説明しましたように、このたとえ話が語られている時、そこには、イエス様に敵対し、イエス様を神のひとり子として受け入れようとしないユダヤの指導者たち、宗教家たちがいました。彼らは、旧約聖書のことを最もよく知っている人たちでした。そして、先祖の歴史を通して、神様がどのような方であるか、また、神様がどのような約束をしてくださっているかを知ることが出来たはずでした。しかし、その神様が約束の通りに遣わしてくださった救い主イエス様が来られたにもかかわらず、彼らはイエス様を歓迎しようとも祝おうともしませんでした。それどころか、殺そうと企てているわけですね。
 イエス様は、そのような当時のユダヤの指導者たちや宗教家たち対して、「あなたがたは、せっかく王子の結婚披露宴に招待されたのに断って敵対した人々と同じことをしているのだ」と鋭く指摘なさっているわけです。

A第二幕 招待された人々

 次に、第二幕です。最初に招待された人たちが来なかったので、王はどうしたでしょう。8節-9節を見ると、王はしもべたちにこう言いました。「宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」
 王子の結婚披露宴に誰でもかまわないから招きなさいというのですね。これも通常では考えられないことです。
 大通りにいる人たちは、自分が王子の結婚披露宴に招かれるなどとは考えてもいなかったでしょう。買い物のためにそこにいた人もいたでしょうし、散歩している人もいたでしょう。誰かと待ち合わせのためにそこにいたかもしれません。大通りですから、外国人も通ったでしょう、そしてさまざまな職業の人たちもそこにはいました。ほとんどの人は、王子の結婚披露宴があることは知っていても、自分とはまったく関係ないと思っていたことでしょう。そこに王のしもべがやってきて、道行くすべての人を披露宴に招待し始めたのです。
 こんなことは普通は考えられないことです。道を歩いていて、いきなり「あなたをロイヤル・ウエディングに招待しますよ」と言われたら、これは怪しい、詐欺ではないか、そんな話があるはずがない、と誰もが疑うのではないでしょうか。
 それに、もしあなたが王なら、こんなことをしますか。王としての面子があります。王子の結婚披露宴なのですから、普通なら、地位の高い人、功績のある人、有名な人たちを招きますね。通りで出会った者すべてを招いたら、王の招待客としてふさわしくないと思われる人もたくさん来てしまうはずです。
 しかし、王は、だれもかれも出会ったすべての人、良い人も悪い人も招いたのです。そして、宴会場はいっぱいになりました。もちろん料理の質を落とすことなどしません。最高級のもてなしをするのです。職業の違いや国籍の違いで料理に差があるなどということもありません。王様だからこそできるもてなしをしたのです。
 実は、このたとえ話の強調点はここにあります。それは、天の父なる神様の招きはすべての人に分け隔てなく差し出されている招きだということです。前回、イエス様は「神殿はすべての人の祈りの家と呼ばれる」と言われましたね。だれでも自由に入って喜びをもって神様に賛美をささげ礼拝することができる場所こそ、まことの神殿なのだというのです。そして、今日のたとえ話では、神様がすべての人を喜びの婚宴に招いてくださるということが示されています。良い人でも悪い人でも、すべての人が神様の与える救いに招かれているというのですね。
 当時のユダヤの指導者たちは、自分たちこそ特別に選ばれた民で、自分たちこそ神様に招かれているのだと考えていました。まさか、異邦人や罪人が神様に招かれるはずはない、と思っていたのです。しかし、イエス様は、「そうではない。神様は、すべての人を招いてくださる。そして、その招きに応じた人は皆、神の家で食卓に着くことができる。すべての人が救いに招かれる時が来たのだ」と話されたのです。
 この招きは、すべての人に対しての招きです。例外はありません。すべての人は招かれているのです。今日ここにいる私たち一人一人も神様が招いてくださったのです。

B第三幕 礼服を着ていない人

 さて、宴会場は客でいっぱいになりました。それは楽しい宴となったことでしょう。
 ところが、その中に婚礼の礼服を着ていない者が一人いました。すると、王は、その人を縛って外の暗やみに放り出すよう、しもべたちに命じたというのですね。
 ある方がこの箇所を読んで、「先生、出会った人を手当たり次第に招いておいて、礼服を着ていないというだけで外に放り出してしまうなんてひどいじゃないですか」とおっしゃいました。でも、実は、そうではないんです。
 考えてみてください。大通りにいた人たちがそのまま招かれて来たわけですから、だれも礼服など着ていなかったはずです。皆さんもスーパーに買い物に行くとき、礼服を着てはいかないでしょう。自分は王子の結婚披露宴とは無関係だと思っていた人ばかりですから、礼服など誰も持っていなかったはずです。それなのに、礼服を着ていなかったのは一人だけで、他の人は皆、礼服を着ていました。なぜでしょうか。それは、婚礼にふさわしい礼服を主催者側ですでに用意していたからです。「出会った者をみな宴会に招きなさい」と命じた王は、その人たちのための礼服をちゃんと用意していたわけです。ですから、招かれた人たちは皆、会場に行ってから用意されていた礼服に着替えて席に着いたわけですね。
 当時、礼服を着ることには、どのような意味があったのでしょう。当時、王に謁見するときには、王から与えられる晴着を身につけ王の前に出ることになっていました。普段着で王の前に出ることなど決してありえませんでした。それは王の栄光を傷つけることになるからです。ですから、王子の披露宴に礼服を着ないで出ることは、王の栄光を傷つける行為、王に対する背信行為だったのです。それは、当時の常識でした。ですから、王は、招いた人々が王子の披露宴に参加することができるように礼服を用意しておいたわけですね。
 ここに、イエス様がこのたとえ話で教えておられるもう一つの大切なことが示されています。それは、神様が、私たち一人一人を祝宴に招いてくださるだけでなく、神様の前に出るにふさわしい礼服も備えてくださっているということです。
 私たちは、そのままでは誰も神様の前に出ることができない者です。神様の招待に応じて神様の御前に出るためには、礼服を身につけなければなりません。その礼服を神様が用意してくださっているのです。
 では、礼服とは何を表しているのでしょうか。
 ローマ3章23節ー24節には、こう書かれています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」すべての人は、そのままでは神からの栄誉を受けることができない存在です。しかし、イエス様の十字架の贖いによって、すべての罪を赦され、価なしに、無条件で神の御前にでることのできる者、つまり義と認められ生きる者とされたのです。
 また、ガラテヤ3章27節には、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」と記されています。
 つまり、神様は、私たちのために、キリスト御自身を礼服として与えてくださったのですね。
 キリストを着るとは、キリストの愛の衣、義の衣によって覆っていただくということです。また、キリストという礼服を着せていただくことは、私たちの罪が覆われ、義と認められ、神様の前に大胆に感謝と賛美を持って出ることができるようにされたということなのです。
 本来は、招かれるはずのないような私たちが招かれ、暗闇の外に追い出されても文句を言えないような私たちがキリスト御自身を衣として身につけさせていただき、この宴の一員とされているのです。そして、神様は、一人一人のために衣を用意してくださっています。感謝なことに、品切れも、サイズが合わないということもありません。すべての人のために礼服が備えられているのです。どうして、それを拒否する必要があるでしょう。
 ところが、一人だけ礼服を着ない人がいましたね。それは、礼服のサイズが合わなくて着れなかったというようなことではありません。礼服を着る意志がなく、着ようともしなかったということです。
 12節に、王が礼服を着ていない人に「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と尋ねると、彼は黙っていた、と書かれていますね。礼服を着ない理由を自分からまったく説明しようとしませんでした。なぜでしょうか。初めから祝うつもりがなかったからです。披露宴を冷やかすか侮辱をするためにだけに来たかのような態度だったのです。彼は、せっかく礼服が与えられたのに拒否してしまいました。すると、王は、彼を暗やみに放り出してしまったというのですね。
 これは、キリストという礼服がなければ、私たちは誰一人、神様の宴席に参加することができない者なのだ、ということを示しています。せっかく神様が与えてくださったキリストを拒むなら、ただ暗闇で泣いて歯ぎしりするしかないのですね。
 神様はすべての人のためにキリストという礼服を用意してくださっています。それを感謝して受け取り、喜んで身に付けて、神様の宴会に連なり、豊かな恵みを味わっていこうではありませんか。

3 「選ばれる者は少ない」とは

 さて、イエス様は、このたとえ話の最後に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」と言われました。これは、どういう意味でしょうか。
 最初に招待された人々は、招かれても誰も来なかったのですから、「選ばれる者は少ない」というのはわかりますね。しかし、後半に登場する人たちは、大勢招待された中でたった一人だけが礼服を着ていなかったわけですから、「選ばれる者は多い」と言ってもいいではありませんか。でもイエス様は、「選ばれる者は少ない」と言われたのです。なぜでしょうか。
 一つには、「この礼服を着なかった人のようにならないように」という戒めの意味で言われたのかもしれません。しかし、私は、このイエス様の言葉に神様の心があるように思います。それは、約束された救いの衣を受け取らない人が一人でもいる限り、神様の目には「選ばれた者は少ない」と映っているということです。
 第一テモテ2章4節には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と書かれています。また、エゼキエル33章11節で、神様はこう言っておられます。「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。」悪者でさえ、失われることを願わない、と神様はお語りになるのです。
 神様は、一人でも失われることを望んでおられないのです。一人でも失われたら、それは、神様にとって大きな悲しみだからです。神様は、私たちが招きに応え、神様の御前で救いを喜び、神様の豊かな恵みの中に歩んでいくことを願っておられます。私たちは、その愛に満ちた神様に招かれ、キリストを着せていただいた者として、神様が与える祝福を味わって歩んでいこうではありませんか。