城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年九月二日          関根弘興牧師
              ヨハネ一二章二〇節〜二八節
 イエスの生涯31
    「一粒の麦」

20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」(新改訳聖書)


前々回から、イエス様の地上での生涯の最後の一週間に起こった出来事を見ています。四つの福音書はどれも、この最後の一週間の出来事を詳しく記録しています。なぜなら、イエス様はこの一週間の間に、御自分の使命や目的について大切なことをお語りになり、また、実際に成し遂げられたからです。
 まず、一週間の最初の日曜日にイエス様は、ろばの子に乗ってエルサレムに入られました。すると、群衆は自分の上着や棕櫚の枝を道に敷き、「ホサナ!」と叫びながらイエス様を喜び迎えました。ちょうどユダヤ最大の祭りである過越の祭りの時でしたので、エルサレムは、人であふれかえっていました。
 イエス様は、エルサレムに入るとすぐに、神殿の外庭にあたる「異邦人の庭」と呼ばれる場所に行かれました。そこには、神殿に納める特別な銀貨を扱う両替人がいましたが、彼らは高い手数料を取って儲けていました。また、神殿にささげる動物を不当に高い料金で売って儲けている商売人もいました。イエス様は、彼らを追い出し、「ここは、すべての民の祈りの家なのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」と厳しく叱責なさったのです。そして、集まってきた目や足の不自由な人々をいやされました。子どもたちもやって来て、イエス様を賛美し始めました。それは、「すべての民の祈りの家」と呼ばれるにふさわしい光景でした。
 そして、今日の箇所には、ギリシヤ人たちもイエス様のもとに来たことが書かれています。当時のギリシヤ人たちは、ヘレニズム文化の担い手で、探求心が旺盛でした。目新しいものを求めて旅をし、真理を探求するために様々な哲学や宗教の教師のもとを渡り歩く者たちもいました。今日の箇所でイエス様のもとに来たギリシヤ人たちは、「祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中にいた」と書かれているので、ユダヤ教に改宗した人たちだったかもしれません。彼らは、神様を礼拝するためにやってきました。しかし、異邦人ですから、神殿の一番外側にある異邦人の庭にしか入ることができませんでした。
 もしかしたら、彼らが異邦人の庭に行ったとき、イエス様が商売人を追い出したり、病んでいる人をいやされたりする光景を見たかも知れません。また、イエス様が「神殿は、すべての民の祈りの家だ」と言われた言葉を聞いたかもしれません。とにかく、「この方は何か特別な方なのかもしれない」と思ってイエス様にお目にかかりたいとやって来たのでしょう。
 ギリシヤ人は当時の異邦人たちの代表とも言える人々ですが、このギリシヤ人たちの来訪をきっかけに、イエス様は、とても大切なことを話し始められました。ユダヤ人だけでなく、異邦人も含めたすべての人のために、これから御自分が何をしようとしておられるのか、ということについてお語りになったのです。詳しく見ていきましょう。

1 人の子が栄光を受ける時

 まず、イエス様は、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と言われました。「人の子」とはイエス様御自身のことですから、「わたしが栄光を受ける時が来た」と言われたわけですね。
 イエス様は、それまでは度々「わたしの時はまだ来ていない」と言っておられました。たとえば、カナの結婚式で葡萄酒がなくなったと心配する母マリヤに向かって、イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。また、弟たちから「あなたが救い主なら、エルサレムに行って公に自分を示せばいいではありませんか」と言われた時も、イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。
 しかし、今日の箇所で、イエス様は、ついに、「わたしが栄光を受ける時が来ました」と言われたのです。いよいよイエス様の生涯のクライマックスの時が来たというわけです。
 ところで、イエス様は、御自分のことを「人の子」と言われることがよくありますが、これは、旧約聖書のダニエル書から引用した表現です。
 ダニエルは、ある時、幻を見ました。「荒々しい獣のような王たちの支配が続いた後に、柔和な人の子のような方が天の雲に乗って来られ、主権と光栄が与えられて、すべての民を支配するようになる。そして、その御国は永遠に滅びることがない」という幻です。イエス様は、御自分こそが、このダニエルが預言した「人の子」なのだと言っておられたのです。
 ですから、イエス様が「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と言われるのを聞いて、ダニエル書をよく知っているユダヤ人たちは、「このイエス様こそ、ダニエル書に書かれている人の子ような方で、これから私たちの国を再建して世界を支配してくださるのだ」と思ったことでしょう。弟子たちも、「いよいよイエス様が王になって世界を支配される時が来た。ついに出陣の時が来た。さあ、ローマを倒すぞ」というような思いを持ったことでしょう。
 ところが、イエス様は、続けてこう言われたのです。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それはひとつのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。」
 イエス様が「わたしが栄光を受ける時が来た」と言われたのは、この世の戦いに勝利して世界の王になることを意味しているのではありませんでした。御自分がすべての人の身代わりになって十字架でいのちを捨てることによって、多くの人々に豊かないのちを与えることができるようになる、それこそが御自分の受ける栄光だと言われたのです。つまり、イエス様が栄光を受ける時が来たと言われたのは、イエス様が十字架で苦しみを受ける時が来たことを意味していました。これは、人々や弟子たちが考えていた「栄光」の内容とは全く違っていました。ですから、弟子たちは、イエス様の言葉を聞いて動揺したに違いありません。
 イエス様にとって、栄光を受ける時とは、凄絶な苦しみを受ける時でした。罪のないイエス様が、人々の罪をすべて背負って十字架の苦しみを受けなければならないのです。ですから、27節でこう言っておられます。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」と。これは、十字架の苦しみを前にしたイエス様の苦悩の言葉です。
 他の福音書には、イエス様が十字架を目前にして、ゲッセマネの園という場所で祈られた姿が記されています。それについては、後日、改めて詳しくお話ししようと思っていますが、ゲッセマネの園でイエス様は、深く恐れもだえ始め、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言い、こう祈られました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
 ヨハネの福音書には、このゲッセマネの園での祈りは記されていませんが、その代わりに27節の苦悩の言葉が記されているのです。
 イエス様は、十字架の苦しみを前にして、できれば、その苦しみを受けずにすむようにしてください、と祈らずにはいられませんでした。私たちの想像を絶するような苦悩があったのです。
 しかし、イエス様は続けて、「いや。このためにこそ、わたしはこの時に到ったのです」と言われました。御自分の使命をはっきりと自覚しておられたのです。
 そして、「父よ。御名の栄光を現してください」と祈られました。ゲッセマネの園でも「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られました。十字架の道に進むことが神様のみこころなのだから、それに従おうと決意なさったのです。
ですから、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それはひとつのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます」という言葉は、単なる一般論ではなく、イエス様御自身が一粒の麦となり、御自分のいのちをかけて救いのみわざを成し遂げ、私たち一人一人に豊かな実を結ばせてくださるという約束の言葉なのです。
 そして、そのイエス様の決意を承認し、力づける天からの声が聞こえました。それは、イエス様が十字架にかかること、また、それによって神様の栄光が現されることは、神様のみこころなのだということを保証する声でした。

2 自分のいのちを愛する者と憎む者

 さて、その一方で、イエス様は、御自分が十字架についた後に残される弟子たちのことを深く気にかけておられました。そこで、いよいよ十字架の時が迫ってきた最後の一週間に、弟子たちに対して大切な教えや約束の言葉を語っておられ、それが四つの福音書に詳しく書かれているのですが、今日の箇所では、イエス様は、こう教えておられますね。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」これは、どういう意味でしょうか。
 この言葉を間違って受け取る人が多いのですが、それは、ここで使われている「愛する」と「憎む」という言葉が、私たちが日常で使うのとは違う意味で使われているからです。イエス様の言葉の意味を正しく理解するためには、まず、この「愛する」と「憎む」という言葉の使い方を知る必要があります。
 以前にも何度かお話ししていますが、二つのものがあって、どちらか一つを選んだとします。すると、選ばれた方は「愛された」、選ばれなかった方は「憎まれた」という言い方をします。例えば、とても良いウクレレが二本あって、私はどちらも好きなのですが、もしどちらか一つを選んだ場合、私は選んだ方を「愛し」、選ばなかった方を「憎んだ」ということになるのです。
 ルカ14章26節で、イエス様はこう言われました。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」これも同じ使い方です。つまり、自分の家族や自分のいのちも大切にしなければならないけれど、まず、何よりもイエス様を主とあがめていくことを第一にし、それを人生の土台として生きて行きなさいと教えているわけです。
 
@「自分のいのちを愛する者」とは

 では、今日の箇所でイエス様が言われた「自分のいのちを愛する」とは、どのようなことを指しているのでしょうか。
 聖書の中では、「自分を愛する」とか「自分のいのちを愛する」という言葉は、二つの違う意味で使われています。
 一つは、自分が神様に愛され、神様に造られた尊い存在であることを自覚し、自分のありのままを受け入れ大切にするという意味です。そういう意味では、私たちは、自分のいのちを愛する者になるべきですね。
 しかし、イエス様がここで言っておられるのは、もう一つの意味の方です。それは、自分を最優先にして生きるという意味です。何とかして自分を生かそう、自分が生きようとする生き方です。どうすれば自分が立派になれるか、どうすれば人に認められるか、どうすれば成功するか、どうすれば自分の利益になるか、そのように、自分のことだけを考えて生きる生き方をしていると、かえって自分のいのちを失う結果になるのだ、とイエス様は教えておられるのです。

A「自分のいのちを憎む」とは

では、「自分のいのちを憎む」とは、どういうことでしょうか。これは、「自分を嫌いになる」とか「自分自身を粗末に扱う」とか「自分のことはどうでもいい」とか「自分が喜んだり楽しんだりしてはいけない」などというような意味ではありません。生きることを放棄することでもありませんし、いつも自分の弱さを嘆いたり、自己卑下することでもありません。
 ここでイエス様が言っておられる「自分のいのちを憎む」というのは、自分で自分の人生を握って支配しようとするのをやめて、手を離し、イエス様にお任せするということです。つまり、いつも自分に固執し、自分が中心であるかのような生き方、自分が主人になるような生き方をするのではなく、イエス様を人生の主と認め、イエス様に仕える生き方へと変えられていくことなのです。
 イエス様は、私たちに口で教えるだけではありませんでした。イエス様御自身が、父なる神様のみこころに従って仕える生き方の模範を示してくださったのです。マルコ10章45節で、イエス様は、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」と言われました。十字架で御自分のいのちを捨てるまでして、徹底的に私たちの救いのために仕えてくださったのです。ですから、ペテロは、第一ペテロ2章21節で、こう言っています。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」
 神様がまず私たちを愛して救い主イエスを遣わしてくださいました。そして、イエス様が愛をもって仕える姿を模範として示してくださいました。そのイエス様を模範として生きることが「自分のいのちを憎む」ことであり、それが、結果的に永遠のいのちを得ることにつながっていくのです。
 
3 「イエス様に仕える」とは

 では、「イエス様に仕える」とは、具体的にどういうことなのでしょう。「仕える」というと、自分のことは犠牲にして無理をして奉仕に没頭し、疲れ果ててしまうようなイメージを持つ方がいますが、そうではありません。
 26節で、イエス様は、こう言われました。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」
 「イエス様に仕える」とは、まず、「イエス様についていくこと」「イエス様とともにいること」です。いつもイエス様と共にいて愛と恵みを受け取っていくなら、私たちは、イエス様のような姿に変えられていきます。心から神様を愛し、互いに愛し合う者へと変えられていくのです。
 私たちは、今日、こうして共に集まり礼拝していますね。神様を心からほめたたえ、礼拝の喜びの中に生きること、それこそが、イエス様に仕えて生きているということです。朝の礼拝のことを、英語ではモーニング・サービスといいます。喫茶店のメニューではありませんよ。礼拝は、神様へのサービス・奉仕なんですよ。心からの賛美と感謝と信仰の告白をもってささげるサービスなんです。もちろん、教会に来ることができないときもありますよね。でも、いつでもどこでも、自分が置かれたその場所で賛美し、感謝し、礼拝するなら、神様はそれを喜んで受け取ってくださるのです。
 また、マタイの福音書25章34節-40節には、この世の終わりにイエス様が王座につかれる時、すべての人が主の前に集められて、右と左に分けられる時の光景がこう説明されています。「王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」
 つまり、私たちがお互いのために自分ができることをしていくなら、それが、イエス様に仕えることになっているというのです。私たちが日常生活の中で、誠実に生き、自分のできる小さな愛の行為を行っていくとき、その一つ一つを主は喜んでくださるのです。
 私たちは、キリストの愛に生かされ、その愛に生きるのです。人と比べる必要はありません。競う必要もありません。もちろん、私たちは完全な愛など持ち合わせていませんから、愛のない自分に失望することもあります。でも、そんな私をも愛してくださるイエス様がいてくださることを感謝し、喜び、また、イエス様のような姿に変えられていくことを期待して生きることができるのです。
 イエス様は、私たちのために一粒の麦となって、いのちを捨てくださいました。それによって、私たちは、罪赦され、豊かないのちを受けて生きる者とされました。
 イエス様を信じる私たちの人生にも同じ原則が働いています。自己中心的な生き方がイエス様によって変えられ、自分のいのちを神様におゆだねし、イエス様に仕えて生きていくとき、まわりの人々に豊かないのちがもたらされていくのです。
 最後に、ガラテヤ2章20節の言葉を御一緒に読みましょう。
 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」