城山キリスト教会  二〇一八年九月一六日         関根弘興牧師
               マルコ一四章一節〜九節
 イエスの生涯32
    「ナルドの香油」

1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。2 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。3 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(新改訳聖書)


 しばらく前からイエス様の生涯の最後の一週間の出来事を読み進めています。前回は、イエス様がお語りになった有名な言葉について考えましたね。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」という言葉です。これは、イエス様が十字架にかかって死なれることによって、すべての人々に豊かな救いをもたらす道が開かれることを意味していました。
 そして、今日の箇所には、ひとりの女が非常に高価なナルドの香油をイエス様の頭に注いだという出来事が書かれています。詳しく見ていきましょう。

1 この出来事が起こった日

 まず、この出来事がいつ起こったかということですが、1節に「過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていた」と書かれていますね。「過越」というのは、昔、イスラエル人の先祖がエジプトの奴隷状態にあったとき、神様は、エジプトに国中の初子(最初に生まれた男の子)が一晩のうちに死んでしまうという災いを下されましたが、神様の命令に従って子羊の血を家の門柱と鴨居に塗ったイスラエル人の家は、その災いを免れました。神様が災いを下さずに過ぎ越してくださったということで、その記念に過越の祭りが行われるようになったのです。そして、過越の祭りの一週間は、種なしパンを食べることになっていました。それは、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を旅する間、種をいれないパンを食べていたことを記念するためです。
 マルコの福音書では、その祭りが二日後に迫っているときに今日の出来事が起こったと書かれているわけですね。
 ところで、同じ出来事がヨハネの福音書の12章にも記されているのですが、そこには、「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた」とあり、そのときにこの出来事が起こったと書かれています。そして、その翌日にイエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入られたと書かれているのです。
 なぜ福音書によって違いがあるのかはっきりわかりません。ただ、ヨハネは、イエス様に関する様々な出来事をただ時系列に並べるのではなく、それぞれの出来事の象徴的な意味を明らかに示すために、わざと並べ変えて記しているようです。今回の出来事も、イエス様がエルサレムで成し遂げようとなさっているみわざがどのようなものかを象徴的に示すものとして、ヨハネがわざと順番を入れ替えて、イエス様がエルサレムに入られる前の位置に記しているのかもしれません。

2 この出来事が起こった時の状況

 では、この出来事が起こったとき、イエス様は、どのような状況におられたのでしょうか。
 1節ー2節にあるように、祭司長、律法学者たちは、「何とかしてイエスをだまして捕らえ、殺してしまおう。ただし、イエスは人気があるから、人がたくさん集まる祭りの間に手を出すと大混乱が起こる可能性がある。どうすればいいだろう」と策略を練っていました。これまでも彼らは、イエス様に対して反発したり攻撃したりしてきましたが、ついに殺してしまおうと考え始めていたのです。イエス様は、いのちの危険にさらされていたわけですね。
 また、イエス様は、これまで「わたしは、これからエルサレムに行って、捕らえられ、殺され、三日目によみがえる」と繰り返し語っておられました。御自分でも、いのちの危険が迫っていることを知っておられたわけですね。しかし、同時に、それが神様のみこころであり、御自分がいのちを捨てることによって多くの人々に救いを与えることになるということを十分自覚しておられたのです。

3 この出来事が起こった場所

 この出来事が起こったのは、3節にあるように「イエスがベタニヤでツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき」です。
 ベタニヤは、エルサレムの郊外にあり、イエス様は、最後の一週間、昼間は、エルサレムに行って人々に語り、夜はベタニヤにあるマルタとマリヤの姉妹の家に滞在されていたようです。イエス様が死人の中からよみがえらせたラザロは、マルタとマリヤの兄弟です。
 ヨハネの福音書では、今日の出来事が起こったときに、ラザロもそこにいて、マルタが給仕をしていたと書かれていますし、ナルドの香油を注いだのはマリヤであったと書かれているので、マルタたちの家で起こった出来事のような感じがしますが、今日の箇所には、シモンの家で起こったことだとはっきり書かれていますね。シモンは「ツァラアト」に冒されていたとありますが、これは、一種の皮膚病で、ツァラアトに冒された人は、汚れた者と見なされ、家族からも社会からも隔離されて生活しなければなりませんでした。しかし、ツァラアトがいやされて、祭司に体を見せていやしを宣言してもらえば、社会復帰ができたのです。このシモンは、たぶんイエス様にツァラアトをいやしていただき、祭司のもとにいって承認を受け、自分の家に戻ってくることが出来たのでしょう。そして、感謝のためにイエス様を食事にお迎えしたのではないでしょうか。近所の人たちも招かれて、感謝と喜びの宴が開かれていたのかもしれません。

4 ナルドの香油

 すると、ひとりの女性、マリヤが大変高価なナルドの香油の壺を割り、イエス様の頭に注ぎ始めました。当時、お客に歓迎の意味で香油を注ぐことは一般的によく行われていましたが、今日の箇所では、その量が比較にならないほど多いのです。
 ヨハネの福音書12章3節には、こう書かれています。「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。」大変高価なナルドの香油三百グラムを頭にも足にも注いだというのですね。ナルドの香油というのは、ヒマラヤ原産で、インドを通って運ばれてきたそうです。「三百デナリ以上に売れる」と書いてありますが、一デナリは当時の一日分の労賃ですから、三百日分の労賃に匹敵するほどの高価なものだったわけですね。
 マリヤは、自分の兄弟ラザロをよみがえらせていただきましたし、イエス様にいやされた人をたくさん見てきたことでしょう。また、イエス様が自分の家に滞在なさっているときには、熱心にイエス様の言葉に耳を傾けていました。自分自身もイエス様に助けていただいたのかもしれません。ですから、イエス様への尊敬、感謝、賛美の思いを込めて、惜しみなく高価な香油を注いだのでしょう。その香りは、家中に広がっていったことでしょう。

5 批判の声

 しかし、それを見て、「何という無駄なことをするのか。これを三百デナリで売って、貧しい人に施したほうがよいではないか」という批判の声が起こりました。
 ヨハネの福音書を見ると、これを言い出したのは、イスカリオテのユダでした。そして、「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである」と書かれています。ユダは、イエス様一行の財布を預かっていましたが、いつの頃からか使い込みを始め、その都度、うまくごまかしていたのでしょう。そして、もしマリヤがこの香油を壺に入れたままイエス様に捧げれば、それを売って使い込みの穴埋めができたのに、と考えたのかもしれません。それで、ことさらにマリヤを批判したのでしょう。
 しかし、批判したのは、ユダだけではありませんでした。4節には「何人かの者が憤慨して」と書かれていますが、マタイの福音書26章では「弟子たちが憤慨して言った」と書かれています。イエス様の最も身近な弟子たちが批判したというのですね。
 では、私たちはどうでしょうか。私たちも、もしこのような場面に遭遇したら、「何て無駄なことをするんだ」と思ったり、批判的な目で見てしまうのではないでしょうか。
 そんな私たちに、イエス様は、何を教えておられるでしょうか。 

6 イエス様の教え

 イエス様は、こう言われましたね。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
 この言葉から、私たちはどのようなことを学べるでしょうか。 

@イエス様の評価と人の評価は違う

マリヤが香油を注いだとき、弟子たちは「無駄だ」と批判しましたが、イエス様は「りっぱなことをしてくれた」と賞賛なさいました。
 私たちは、ともすれば、自分自身の狭い判断で物事を評価してしまいがちです。マリヤは、イエス様に対する心からの感謝と愛と献身の思いを込めて香油をささげましたが、弟子たちは無駄だと批判しました。同じように、クリスチャンが心から何かをささげるときに、批判が起こることがあります。
 しばらく前ですが、ある方に「関根さん、礼拝も大事かも知れませんがね、礼拝していても食っちゃいけないんですよ」と言われました。イエス様を礼拝したって一銭も得にならない、そんな無駄なことに時間を使うより、もっと別のことのために時間を使いたい、というわけですね。
 私の兄が、大学を卒業後、牧師になるために海外に留学しました。その時、母の親類は「留学までして牧師になるなんて、もったいない。牧師になっても生活が保証されるわけでないし、社会的な地位を得ることもできないじゃないか」と言ってきました。
 また、私たち自身も、祈りの結果がなかなか見えないと、祈っても無駄だと思えてしまうことがあるかもしれません。わざわざ礼拝のために教会に行くことに何か意味があるのだろうかと感じてしまうこともあるかもしれません。
 しかし、イエス様の見方は違います。もし私たちが心から主にささげるなら、人の目に無駄と見えるようなことも、イエス様は「りっぱなことをしてくれた」と喜んでくださるのです。
 しかも、私たちのささげたものを主は大切な意味あるものとして用いてくださるのです。イエス様は、マリヤの行為について、「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」と言われましたね。マリヤは、それを聞いてびっくりしたのではないかと思います。たしかに、イエス様は「わたしはもうすぐ十字架にかかって死ぬ」と言っておられましたから、それを聞いていたマリヤは、今のうちにイエス様のためにできるだけのことをしたいと思っていたかもしれません。しかし、普通は、死んだ人のからだに香油を塗って埋葬の用意をするわけです。この時点では、イエス様はまだ生きておられますから、マリヤは自分がイエス様の埋葬の用意をしているとは全く思っていなかったでしょう。
 しかし、イエス様は、マリヤが心から惜しみなくささげた香油は、御自分がこれから成し遂げようとしている十字架の栄光のみわざを象徴的に現しているのだと言われたのです。
 イエス様は、人の目には無駄に見えたとしても、私たちが心からささげるものを、私たちの思いを遙かに越えた方法で、御自分の栄光を現すために用いてくださいます。ですから、何一つ無駄になることはないのです。

A無駄をいとわない愛

 神は愛です。聖書は、神を愛すること、互いに愛し合うことの大切さを教えています。
 しかし、あれは無駄だ、これも無駄だ、と損得の計算ばかりしていたら、本当の愛によって行動することはできません。
 と言っても、それは、どんな浪費をしてもかまわないという意味ではありません。何でも与えればいいのだという意味でもありません。
 しかし、考えてください。イエス様の姿の中には、一見無駄と思えることがたくさんあります。イエス様は、すぐに御自分から離れていってしまうような人々のためにいやしを行い、恵みの言葉を語り続けられました。五千人にパンと魚を分け与えられたときには、十二のかごにいっぱいになるほどパンが余りました。それを見て、何と無駄なことかと思えるかもしれません。また、イエス様は、たった一人のサマリヤの女と話をするために、わざわざユダヤ人が嫌っていたサマリヤ地方にいかれました。ユダヤ人にとっては、それは、まったく時間の浪費で馬鹿げたこととしか見えなかったでしょう。エリコの町では、わざわざ嫌われ者の取税人ザアカイの家に行かれましたね。町の人々から見たら、なんと無駄なことをしているのかと思われたことでしょう。
 そして、イエス様は、私たちのために何をしてくださったでしょうか。イエス様に背を向けている私たちのような者の身代わりとなって十字架についてくださったのです。御自分に逆らい罵倒する人々のために十字架で血を流すなんて、なんと無駄なことか、と思いますね。しかし、イエス様のこの無駄死と思われた十字架の死が、人々の罪を赦し、神様の豊かな愛を示す出来事となったのです。
 そもそも神様が私たちのために御子イエスを与えてくださったこと自体が、人の目から見たら大いなる無駄ですね。しかし、神様は、私たち一人一人に、「あなたはわたしのひとり子のいのちを与えても惜しくないほどに大切な存在だ。あなたのためにイエスが自分のいのちを差し出すことは決して無駄とは思わない。あなたをそれほどまでに愛しているのだから」と言ってくださるのです。
 無駄をいとわない愛、それこそ福音です。ですから、私たちも無駄をいとわない愛に生きることを少しずつ学んでいくことが大切です。私たちは、伝道ということを考えるときに、これをしなければ、あれをしなければ、と思ってしまいます。無駄を省いて効率よく伝道する方法はないかと考えてしまいがちですね。しかし、大切なのは、まず私たちが心を注ぎだし、感謝と賛美をあふれさせて礼拝をささげていくことです。神様は、それを用いて福音を広めてくださるのです。
 マリヤは、無駄をいとわずにイエス様に精一杯の愛をささげました。それは、福音の本質を象徴する行為でした。だからこそ、イエス様は、「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」と賞賛なさったのです。

B自分のできることをする

マリヤは、ナルドの香油を注いだとき、イエス様は、「この女は、自分のできることをしたのです」と言われました。
 つまり、私たちも、自分にできることをすればいいのです。
 皆がマリヤの真似をして、ナルドの香油を注ぐ必要はありません。一人一人が自分のできることを通して、イエス様への愛と心からの感謝と賛美をあふれさせていけばいいのです。
 互いに競い合ったり、比べ合ったりする必要はありません。自分にできないことをやろうとすると、結局できない自分に落ち込むだけです。できることはできる、できないことはできない、と言える正直さは必要です。大言壮語する必要もないし、無理に頑張る必要もありません。見栄を張ることも不要です。主の助けを得ながら、与えられたそれぞれの場で自分にできる方法で、感謝と賛美をささげていくのです。それを主は、喜んで受け取ってくださいます。
 結核を病み、二十九歳の若さでこの世を去ったクリスチャンの詩人八木重吉の詩を紹介しましょう。

    「仕事」            八木 重吉
          
 信ずること
  キリストの名を呼ぶこと
  人をゆるし出来るかぎり愛すること
  それを私の一番よい仕事としたい    

 イエス様のこの地上での生涯の最後の一週間を見ると、冷たく暗い陰謀と策略に満ちた空気が漂っています。しかし、そのような中にあって、今日のナルドの香油の出来事は麗しい香りを放っています。私たちが単純に主を信じ、主を愛し、主に賛美と感謝をささげることが、主の大きな働きの備えとなり、記念となっていくことを覚えながら歩んでいきましょう。