城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年九月二三日         関根弘興牧師
             マタイ二二章一五節〜二二節
 イエスの生涯33
    「神のものは神に」

 15 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。16 彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。17 それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」18 イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。19 納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。20 そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」21 彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」22 彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。(新改訳聖書)


 イエス様は、地上の生涯の最後の一週間をエルサレムで過ごされました。今、その一週間の間に起こった様々な出来事を何回かに分けて読んでいますね。
 イエス様は、エルサレムに来られると、まず、神殿に行って、そこにいた両替人や商売人たちを追い出されました。彼らは、神殿に納める銀貨の両替をしたり、礼拝でささげるいけにえの動物を売ったりするときに、不当な利益を得ていたからです。イエス様は、「あなたがた神殿を強盗の巣にしている。聖書に『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか」と厳しく叱責なさいました。
 また、イエス様は、当時の宗教家たちがただ形式的に礼拝しているだけで自己満足し、人々を見下し、高慢になっている姿を見て、厳しく批判なさっていました。
 その一方で、イエス様は、宗教家たちが軽蔑している罪人や病人を招き、彼らに罪の赦しを宣言したり、いやしたりしておられたのです。そんなイエス様のまわりには多くの人々が集まってきました。
 そういうイエス様の姿を見て、神殿の運営を任されている祭司たちやユダヤの最高議会の議員たち、また、ユダヤ教の指導者であるサドカイ派やパリサイ派の人たちは、怒りとねたみに燃え、何とかしてイエスを葬り去りたいと様々な策略を企てていました。
 今日の箇所には、その策略の一つが出てきます。パリサイ人たちがイエス様を「ことばのわな」にかけようとしたのです。詳しく見ていきましょう。

1 パリサイ人たちとヘロデ党の者たち

 まず、パリサイ人たちがイエス様をことばのわなにかけようとして、「弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやった」と書かれていますね。
 パリサイ人とヘロデ党の者たちがいっしょに行動するというのは、普通は考えられないことでした。なぜなら、彼らは、水と油のような、対立する立場の人々だったからです。
 パリサイ人というのは、ユダヤ教の中でも非常に厳格なパリサイ派に属する人々のことです。彼らは、律法や細かい規則や先祖の言い伝えを厳格に守ることを誓い、熱心に実行しようとしていました。そして、自分たちこそ神の民であり、神以外の何者にも支配されるべきではないと考えていました。当時はローマ帝国の支配下にあって、カイザル、つまり、ローマ皇帝に税金を納めなければならない状態でしたが、パリサイ人たちは、それを非常に嘆かわしいことだと思っていたのです。
 一方、ヘロデ党の者たちとは、ヘロデ王朝の復権を強く願っていた人たちです。
 イエス様がお生まれになった時、ユダヤの地は、ヘロデ大王が支配していました。このヘロデ大王は、エドム人の子孫でしたが、巧みな政治力や策略によって、ローマ皇帝からユダヤやその周辺地域を支配する王に任命されていました。ヘロデはユダヤ人の歓心を買うために大規模な神殿の修復工事しましたが、世俗的で、思うがままに強権を振るっていました。イエス様がユダヤ人の王としてお生まれになったという知らせを聞いたときには、自分の王座が脅かされるのを恐れて、イエス様を亡き者にするために、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺すよう命令するという、非常に残忍な王だったのです。
 しかし、そのヘロデ大王が死ぬと、ローマ皇帝は、ヘロデの息子たちの身分を「王」から「領主」に格下げしてしまい、土地をその息子たちに分割統治させ、ヘロデ王家の政治的な力を分散させてしまいました。そして、エルサレムのあるユダヤ地方は、ヘロデ家ではなく、ローマ皇帝直属の総督に支配させるようにしたのです。
 ヘロデ党というのは、ローマに奪われた権力を再びヘロデ家に取り戻すために活動した政治的なグループです。ですから、ローマ帝国に好意を寄せているわけではありませんでしたが、ヘロデ家を盛り上げるための方便として、ローマ帝国に忠義を尽くし、税金を納め、ローマ政府からの心証を良くしようと考えていました。
 つまり、パリサイ人たちは、神様に選ばれた純粋なユダヤ人の王が立てられることを望み、ローマ帝国の支配もヘロデ家の支配にも否定的で、カイザルに税金を納めることに反対の立場でした。一方、ヘロデ党の人たちは、ローマ帝国の権威のもとにヘロデ家が再び王として権力を振るうことを望み、カイザルに税金を納めることに肯定的な立場だったわけです。
 ですから、まったく正反対だったわけですが、たった一つ共通点がありました。それは、イエス様の存在が邪魔だと思っていたことです。パリサイ人は、イエス様を陥れるために、内心は軽蔑しているヘロデ党の者たちと手を組むことも辞さなかったわけです。

2 ことばのわな

 さて、今日の箇所では、「パリサイ人の弟子たちとヘロデ党の者たちがいっしょにイエス様のもとに行った」と書かれていますが、ルカの福音書20章20節には、「彼らは、義人を装った間者を送り、イエスの言葉を取り上げて、総督の支配と権威に引き渡そう、と計った」と記されています。
 パリサイ人たちとヘロデ党の者たちは、真面目に真理を探究している者のようなふりをして、イエス様を「ことばのわな」にかけて、ローマの総督に逮捕されてしまうようにしようとしたのです。
 では、「ことばのわな」とは、どのようなものだったでしょうか。
 彼らは、まず、いかにもイエス様を敬っているかのような口調で話し始めました。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。」
 もし本当にそう思うなら、イエス様に従えばいいじゃないですか。しかし、彼らは、イエス様をおだてて、逮捕の口実にできるような言葉をはっきり言わせようとしていたのです。
 そして、続けてこう質問しました。「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
 これは、二者択一の単純な質問ですが、巧妙なわなが仕掛けられていました。もしイエス様が「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっている」と言われたら、どうでしょう。ユダヤの民は、ローマ帝国に支配され、税金を取り立てられていることに大きな不満を持っていました。ですから、イエス様が「カイザルに税金を納めなさい」と言えば、民衆は、「このイエスが私たちの王になってローマ帝国の支配から救い出してくれると思っていたのに、カイザルに税金を納めろとは、どういうことだ。ローマ皇帝の支配に服従するのか。今まで、天の御国が近づいたと教えていたのは何だったのだ」と反発し、イエス様から離れていってしまうでしょう。いままでの熱気が一気に冷めてしまうわけです。そうすれば、宗教家たちは、もはや民衆の反応を恐れることなく、「イエスは神を冒涜している」「イエスは、騒動を起こした不届きな奴だ」などという理由でイエス様を捕らえ、いかようにもすることが出来たわけです。
 それでは、イエス様が「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていない」と言われたらどうでしょう。これは、すぐに大問題になります。なぜなら、納税を拒否することは、ローマ政府に対する反逆罪とみなされるからです。
 使徒の働き5章37節には、ある事件のことが記されています。「人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。」この人口調査というのは、税金を集める資料を作成するためにローマ政府が行ったものでした。その時、ユダという人が「ローマに税金など納めない」という納税反対運動を起こしたけれど、鎮圧されてしまったというのです。
 つまり、もしイエス様がここで「税金を納めないでいい」と言えば、すぐにローマ政府によって逮捕され、弟子たちもろとも滅ぼされてしまうことになるわけです。
 イエス様が「税金を納めなさい」と答えても「税金を納めなくていい」と答えても、どちらにしてもイエス様は窮地に立たされるわけですね。

3 イエス様の答え

 しかし、イエス様は、彼らの偽装を見抜いておられました。納め金にするデナリ銀貨を持って来させ、カイザルの肖像が刻印されているのを見せて、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と答えられたのです。その答えを聞いた者たちは驚嘆し、立ち去っていきました。イエス様を訴える口実を見つけることができなかったのです。
 この「カイザルのものはカイザルに」という言葉は、とても有名ですね。広辞苑にも載っていて、こう説明されています。「この世の務めと神への務めを共に果たせと教えたキリストの言葉。転じて、本来あるべきところに返せ、の意で用いられる。」
 では、私たちは、このイエス様の言葉を、どのように理解していくべきなのでしょうか。

(1)カイザルのものはカイザルに

 クリスチャンは、二つの世界に属しています。神様の国の民であるとともに、この世の住民でもありますね。
 クリスチャンになったからといって、この世での権利や義務がなくなるわけではありません。例えば、私は、小田原市民としての権利と義務を持って生活し、税金を払っています。
 クリスチャンになったら、この世のことはどうでもいい、この世と隔絶して生きるのだと思い込んでしまう方が時々おられますが、そうではありません。
 イエス様は、ヨハネ17章18節で父なる神にこう祈られました。「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」クリスチャンは、世の光、地の塩となるためにこの世に遣わされているのです。そして、イエス様御自身が仕えるためにこの世に来てくださったように、私たちもこの世でイエス様を模範として仕える者として生きて行くのです。
 イエス様は、ローマ政府打倒を叫ぶのではなく、世の中のものを滅ぼそうとするのでもなく、社会の一員として生活し、すべての人に救いを与えるために仕えておられたのです。「カイザルのものはカイザルに」というイエス様の言葉は、私たちも社会の一員としての義務を果たしつつ、仕えて生きるべきことを教えています。

(2)神のものは神に

 一方で、イエス様は、「神のものは神に返しなさい」といわれました。これは、どういう意味でしょうか。

@礼拝をささげる

 それは、まず第一に、神様だけがまことの主、すべてを造られ、すべてを支配しておられる方であることを認めて、礼拝をささげることです。
 黙示録4章11節には、神様の前で礼拝をささげる人々の言葉が記されています。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」礼拝されるべき方は、すべてのいのちの源であり、愛とまことに満ちた三位一体の神様だけです。栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方は神様だけなのです。
 もし、人や物が礼拝されるなら、それは、神様にささげるべきものを他に与えてしまっていることになります。
 カイザルは、当時の世界の広大な地域の支配者でしたから、その命令に従い、税金を納め、法律に従う必要がありました。当時のクリスチャンたちも、ローマの社会の一員として生活していました。しかし、彼らは、皇帝礼拝が義務づけられたときには、どんなに迫害を受けても断固として拒否しました。礼拝は、神様だけのものだからです。
 私たちがこうして毎週礼拝をささげることは、「神のものは神に返す」生き方の実践です。礼拝の中で賛美、感謝、祈り、信仰の告白をささげることが、私たちの人生の基本なのです。

A自分自身をささげる

 それから、イザヤ43章1節で、神様はこう言っておられます。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」
 私たち自身が神様のものであり、その自分自身を神様の栄光をあらわすために用いていただくこと、それも神のものを神に返すということです。それは、具体的にどのようなことなのでしょうか。

・与えられたいのちを大切にする

 神様は、私たちを造り、いのちを与えて、御自分にとって大切な存在として生かしてくださっています。そのことを覚え、与えられたいのちを大切にしていくことが神のものを神に返すことになるのです。

・ゆだねて生きる

詩篇37篇5節に、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」とあります。
 「ゆだねる」とは、自己放棄でもなければ、努力をやめて何もしないというのではありません。自分ができる最善をしながら、なお、結果を神様にゆだねるのです。
「ゆだねる」とは、「任せる」ことです。飛行機に乗るとき、操縦は機長に任せます。また、宅配便を出したら、荷物が届くかどうかは業者に任せます。自分が心配してもどうしようもないことは、任せるしかありませんね。
 それと同じように、自分の人生は神様にお任せするのです。私たちは明日のこともわからない弱い存在です。重荷や心配や思い煩いも出てきます。しかし、単純に「神様にお任せします」と告白し生きていくのです。
 第一ペテロ5章7節にこう書かれています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」神様は最善の方法で私たちの人生を導いてくださることができます。だから、「私の人生の支配権は、神様のものです」と告白しつつ生きていくのです。それも、神のものを神に返す生き方です。

・自分に誇りを持って生きる

 エペソ人への手紙1章13節には、「(あなたがたは)キリストにあって、真理のことば、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました」と書いてあります。
 ローマ政府が発行したデナリ銀貨には、カイザルの銘が刻まれていました。しかし、私たちひとりひとりには、神様の銘が刻まれ、キリストにあって聖霊の証印が押されているのです。
 物の価値は、誰の銘が刻まれているかによって変わります。私たち一人一人には、全能者なる神様の銘が刻まれているのですから、どれほど価値高いことでしょうか。神様は、私たちを高価で尊いものとして見てくださっているのです。
 ですから、自分に誇りを持ちましょう。どんなに肉体が衰えたとしても、出来なくなることが増えても、神様の銘が刻まれていることに変わりはないのです。
 そして、イザヤ49章16節で、神様は、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」と言っておられます。神様は私たち一人一人の名を御自分の手のひらに刻んで、決して忘れず、大切にしてくださるというのです。
 自分がそのように大切な存在であることを覚えて生きていきましょう。
 
・神のために生きる

第一コリント6章20節には、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」と書かれています。
神の栄光を現すために生きること、それも神のものを神に返す生き方です。
 でも、神の栄光を現すとは、どうすることでしょうか。「神様の栄光を現す」という言葉を聞くと、私たちは、「私には、そんなことはとても無理です」と思ってしまいがちですね。何か立派なことをしたり、人に賞賛されるような人間にならなければならないのではないかと考えてしまうのです。
 しかし、パウロは、第一コリント10章31節に、こう記しています。「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」
 誰でも、食べたり飲んだりしますね。それは、特別なことではなく、生きていく上で最低限必要なことです。つまり、パウロは、毎日の平凡な日常生活の中でも、神の栄光を現しながら生きていくことができる、と言っているのです。私たちが、感謝して食卓につくとき、そこに神の栄光が現わされているということなんですね。
 私たちは、大それたことをする必要はありません。ただ与えられた日々を神様に感謝し、神様にゆだねて生きていくとき、そこに神様の栄光が現されていくのです。
 「主の祈り」で「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈りますが、それは、私の毎日が神の栄光のために生きる一日となりますようにという祈りでもあるのです。
 神様が私たちに託された人生は、みな違います。それぞれが与えられた場で、社会の一員として誠実に自分の務めを果たしていけばいいのです。そして、心から神様を礼拝し、自分自身を神様にゆだねつつ、毎日の生活を通して神の栄光を現わす者とされていることを喜びつつ歩んでいきましょう。