城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年九月三〇日         関根弘興牧師
             マタイ二二章二三節〜三三節
 イエスの生涯34
    「生きている者の神」

23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、24 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。25 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。26 次男も三男も、七人とも同じようになりました。27 そして、最後に、その女も死にました。28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」29 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。30 復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。31 それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。32 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。(新改訳聖書)

 イエス様は、地上の生涯の最後の一週間をエルサレムで過ごされました。今、その一週間の間に起こった様々な出来事を何回かに分けて読んでいます。
 前回は、パリサイ人が弟子たちをヘロデ党の者たちと一緒にイエス様のもとに送り、「ことばのわな」をしかけた箇所を読みました。彼らはイエス様にこう質問しました。「カイザル(ローマ皇帝)に税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
 もしイエス様が「律法にかなっているから、納めなさい」と言えば、ローマに不満を持っていた民衆の心はすぐに冷めてしまいます。民衆の反応を恐れていた当時の宗教指導者たちにすれば、思うつぼです。民衆の心が離れてしまえば、適当な口実を設けてイエス様を捕らえ、抹殺してしまうことができるからです。また、もしイエス様が「律法にかなっていないから、納めなくてよい」と言えば、すぐにローマ政府への反逆罪で訴えられ、処刑されてしまうわけです。どちらにしても、イエス様が窮地に立たされるという「ことばのわな」だったわけですね。
 しかし、イエス様は、納税に使うデナリ銀貨を持ってこさせ、そこに刻まれているカイザルの銘を見せて、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。
 私たちは、神の国に属する者であると同時に、この社会に属する者として生かされています。ですから、社会の一員としての勤めにも忠実であるべきです。しかし、神様のものは神様に返さなければなりません。神様だけが礼拝されるにふさわしい方ですから、私たちはこうして礼拝を捧げています。そして、神様以外のものを礼拝すべきではありませんね。また、私たち自身が神様のものですから、自分自身を神様にゆだね、神様の栄光のために生かされていることに誇りを持って生きていくことが大切です。そのことをイエス様は教えられたのです。
 さて、イエス様に敵意を持っているのは、パリサイ人やヘロデ党の者たちだけではありませんでした。今日の箇所では、サドカイ人たちが、イエス様に神学論争を仕掛けてきたのです。

1 サドカイ人とは

 サドカイ人とは、ユダヤ教の一派であるサドカイ派に属する人々です。「サドカイ」という名前の由来には諸説あって、ダビデとソロモンの時代に活躍した祭司ツァドクの名前に由来するのでないかとか、ヘブル語の「ツァッディーク(義なる者)」という言葉に由来すのではないかなどと考えられていますが、はっきりしたことはわかりません。
 サドカイ人は、エルサレムの神殿を管理、運営する祭司の家系に連なっており、宗教上の最高位である大祭司は彼らの中から選ばれていました。また、「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤの最高議会の議員の大半はサドカイ人でした。ですから、サドカイ人は、宗教的にも政治的にも力を持っており、経済的にも裕福な上流階級に属していました。
 サドカイ人は、教理的に大きな特徴がありました。聖書の中の最初の五つの書、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」は、モーセが編纂したと言われ、「モーセの五書」(「律法」=「トーラー」)と呼ばれていますが、彼らは、このモーセの五書だけを権威ある神の言葉として受け入れ、それ以外の書を軽視していたのです。そして、「モーセの五書には、復活のことは何も教えられていない。だから、復活や死後のいのちなどない」と考えていたのです。(ちなみに、前回登場したパリサイ人たちは、旧約聖書全体を神の言葉として認め、復活も信じていました。)
 ところが、イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです」(ヨハネ11・25)「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」(ヨハネ6・40)と言って復活を教えておられましたから、サドカイ人たちにしてみれば、面白くないわけです。しかも、イエス様は、神殿のあり方や彼らの偽善的な姿を厳しく非難なさっていましたから、イエスをこのまま放っておくと自分たちがこれまで築いてきた秩序や権力が崩されてしまうという思いもあったことでしょう。
 そこで、彼らは、イエス様を神学的に論破し、イエス様の教えが偽りであることを暴こうとしてやって来たわけです。

2 サドカイ人たちの質問

 サドカイ人たちが仕掛けてきた神学論争のテーマは、最大の対立点である「復活」についてでした。イエス様の「復活」の教えが聖書と矛盾する間違った教えだということを示そうとして、彼らはこんな質問をしました。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
 ここで、「モーセは言いました」というのは、「神様がモーセを通して与えてくださった律法の中に書かれている」という意味です。そして、「もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない」という律法の規定が申命記25章5節に書かれています。これは「レビラート婚」と呼ばれるもので、死んだ人の家系を絶やさないために多くの国で一般的に行われていたものですが、律法の中でも規定されていました。
 サドカイ人たちは、この箇所を引用して、「一人の女性が七人の兄弟全員と結婚した場合、復活が起きたら大混乱になる。復活した七人兄弟全員が一人の女性を自分の妻だと主張して争奪戦が起こるではないか。だから、復活があるなど、考えるだけでも馬鹿らしいではないか」と言ってきたのです。彼らは心の中で、「どうだ。参ったか」と高笑いしたことでしょう。

3 イエス様の答え

 すると、イエス様は言われました。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」
 サドカイ人は、自分たちは知識人だと自負し、「私たちほど頭のいい人間はいない」と思っていたような人たちでした。しかし、イエス様は、「あなたがたは知っているようで何も知らない。思い違いしているのだ」と言われました。そして、その思い違いの原因は、「聖書も神の力も知らないから」だと言われたのです。これは、どういう意味でしょうか。

@聖書を知らない

 サドカイ人は、イエス様に「あなたがたは聖書を知らない」と言われて猛反発したでしょう。彼らは、モーセの五書の内容を誰よりも詳しく知っていると自負していたからです。しかし、イエス様は、「あなたがたは自分が聖書をよく知っていると思い込んでいるが、聖書を正しく理解することができていない」と言われたのです。
 サドカイ人は、「モーセの五書は、復活のことを教えていない。だから、復活はない」と主張していました。そこで、イエス様は、御自分もモーセの五書を引用して、「モーセの五書も復活があることを教えているではないか」と言われたのです。
 イエス様は、モーセの五書の中の出エジプト記3章6節を引用して、こう言われました。「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。」
 昔、イスラエル民族はエジプトで奴隷生活を強いられていましたが、彼らの叫びを聞いた神様は、彼らをエジプトから脱出させることになさいました。
 その時、モーセは八十歳で、荒野で羊を飼っていたのですが、羊の群れを追ってシナイ山まで来たときに燃えている柴を見つけました。その柴がいつまでも燃え尽きないので不思議に思って近づいていくと、その燃える柴の中から、神様がお語りになったのです。「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。モーセよ。あなたはエジプトに行って、苦しんでいるわたしの民を約束の地に導き出しなさい。」神様はモーセにそうお命じになりました。
モーセはこう質問しました。「もし、私がエジプトへ行ってあなたのご命令を話せば、彼らは私を遣わされたあなたのお名前を尋ねることでしょう。そうしたら、私は何と答えればいいのでしょうか。」すると、神様は、「わたしは、『わたしはある』という者である」と言われました。
 この「わたしはある」というのは不思議な名前ですね。「ある」というのは「存在する」という意味ですが、「成る」とか「起こす」という意味もあります。つまり、「わたしは、いつでも存在する永遠の存在者だ。何かを成そうと思ったら成すことができるし、何かを起こそうと思ったら起こすことができる存在なのだ」ということです。
 そして、神様は、続けてこう言われました。「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え」と。
 これは、ユダヤ人なら子供からお年寄りまで知らない人はいない有名な箇所です。イエス様は、この有名な箇所を引用して、何を言おうとされたのでしょうか。
 アブラハム、イサク、ヤコブはイスラエル民族の先祖たちです。モーセの時代には、すでに死んでしまっている人たちです。しかし、神様は、「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブの神であった」とは言われませんでした。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と言われたのです。それは、つまり、「わたしは、以前は彼らの神であったが、彼らは死んでしまったからもう何の関係もない」というのではなく、「彼らとわたしの関係は、神であるわたしが死なない限り、決して失われることはない。彼らは永遠にわたしとともに生きるのだ。彼らは肉体的には死んだけれども、わたしにあって今も生きているのだ」という意味なのです。
 「だから、モーセの五書にも死者の復活が教えられているではないか」とイエス様は反論なさったわけですね。
 人間関係では、夫が死ねば、その夫婦関係は終わります。ですから、夫の弟が残された妻と新たな夫婦関係を結ぶこともあるでしょう。しかし、神様と私たちの関係は違うのです。神様は永遠に生きておられる方です。その方と私たちが親しい関係を持ったら、神様が死ぬことはありませんから、永遠にその関係は継続されるのです。神様との関係は、たとえ私たちのこの肉体が失われても、継続されていくのですね。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」というイエス様の言葉の通りなわけです。

A神の力を知らない

 では、聖書をよく読んでいるサドカイ人たちは、なぜそのことを正しく理解することができなかったのでしょうか。イエス様は、「それは、あなたがたが神の力を知らないからだ」と言っておられます。サドカイ人たちは、自分で十分な知識を持っていると自負していましたが、実は、神様がどれほど偉大な方なのか、どれほど大きな力を持っておられる方なのかをわかっていなかったのです。
 パウロは、第一コリント8章2節でこう書いています。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」
 私たちの知識というのは、ごくごく僅かな限られた知識です。それなのに、その小さな知識の範囲の中で神様を批判し、自分の小さな理性の中に神様を閉じこめてしまうようなことをするのです。そして、まるで自分の知識や理性が絶対であるかのように思い込み、自分に理解できないことは、「そんなことは有り得ない。起こるはずがない」と反発するのです。
「貝殻で海を測る」という言葉があります。小さな貝殻で海の水をすくって大海の水の量を測ろうとすることで、自分だけの狭い知識をもとに大きな問題を論議することの浅はかさを例える言葉です。私たちがわかっていることは、ほんのわずかにすぎません。ですから、学べば学ぶほど、探究すれば探究するほど、人は謙遜になるはずです。優秀な科学者ほど謙遜です。しかし、中途半端な人ほど高慢になりやすいのです。
 サドカイ人たちは、自分の小さな理性の中だけで、復活のことを考えました。彼らが考えた復活は、この世が終わったら、また同じような世が来る、というような安っぽいイメージのものでした。ですから、「復活などあったら、妻を巡って争奪戦を起こすだけだ」という発想しか出てこなかったのですね。
 しかし、イエス様は、「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」と言われました。これは、「人が天に住まいを移すときには、地上の家族構成がそのまま継続されるのではない。一人一人が、まことの神様の家族となり、神の子として永遠に変わることも朽ちることもない者とされて生きるようになるのだ」と言われたのです。
 ある人が子供に「天国は素晴らしい所だよ」と言ったら、その子供は喜んで「それじゃ、天国にいったら何時間もテレビゲームができるんだね!」と言ったそうです。黙示録22章1節には「天国には水晶のように光る川が流れている」と書かれていますが、釣り好きの私などは「天国へ行っても釣りができる。天国での釣りは最高だろうな」と考えたりするわけですね。私たちは、こういう自分勝手にいろいろなイメージを作り出してしまうことがあるわけですが、私たちの発想というものは、自ずと限界があるのですね。
 今日のサドカイ人たちの質問も同じでした。彼らは知識を誇っていましたが、言っていることは、子供の「天国に行ったらテレビゲームがたくさんできるぞ」という発想と変わらないのです。彼らは、自分たちの狭い知識と理性の範囲で「死んだ者が復活するなどあり得ない。そんなことがあったら混乱するだけだ」と考えていました。
 今でも「復活なんかあるはずがない。馬鹿らしい」と考える人は多いでしょう。しかし、考えてみてください。天地万物を無から創造することのできる力をもった神様がおられるなら、その神様は、死者を復活させることもおできになるはずですね。サドカイ人たちは、その神様の力を彼らはわかっていませんでした。だから、的はずれな質問をしてきたわけですね。
 私たちは、自分の限られた知識や理性だけで考えると、永遠の世界を十分に理解することができません。しかし、わからないことがあっても、愛と真実の神様を信頼して生きていくことができます。私たちの肉体は必ず朽ちていきます。そして、天の住まいに移されたとき、それがどんな場所なのか、今はまだよくわかりません。でも、神様が備えてくださっている場所なのですから、最善な場所であることは確かです。黙示録21章3節ー4節に、こう書かれています。「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」ですから、私たちは希望をもって生きていくことができるのです。

4 生きている者の神

 さて、イエス様は、32節で「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」と言っておられますね。
 先ほどもお話ししましたが、「神は死んだ者の神ではありません」というのは、「神は、死んでしまった人たちに対しては、もはや神ではない」という意味ではありません。アブラハムたちは肉体が死んだ後も神様にあって生きている者とされています。そのように、神様を信じる人々は、永遠に神様と共に生きる者とされているのです。
 そして、それは、肉体が死んで天の御国に入ってからだけのことではありません。
 エペソ人への手紙2章1節には、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・」と書かれています。私たちは皆、罪過と罪との中に死んでいた者でした。神様との関係が断絶し、神様のいのちを受け取ることができない状態だったのです。死んだ人は、いくら呼びかけても応答しませんね。それと同じように、生まれながらの私たちは、神様の愛の呼びかけに応答することができない、死んだ者でした。
 しかし、そんな私たちを、神様は愛してくださり、イエス様によって永遠のいのちを与え、生きている者としてくださったのです。それによって、私たちは、神様との関係を回復し、神様の愛に応答することができるようになりました。
 つまり、イエス様が言われた「神は生きている者の神です」という言葉は、肉体の死を迎えた後だけでなく、この世の中に生活しているときにも、神様の愛に応答し、神様との麗しい関係の中にとどまり続けることができるということを示しているのです。
 また、ローマ8章28節には、こう書かれています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 「すべてのことを働かせて益としてくださる」とは、「すべてを生かしてくださる」ということでもあります。神様は、すべてのものを生かすことのできる神様です。神様は、私たちの人生を生かしてくださいます。私たちの失敗や挫折さえも生かしてくださいます。私たちの置かれた環境も、愚かさも、弱さも、病も、死さえも、すべてを生かすことがおできになります。神様によって、すべては生きるのです。
神様によって「生きている者」とされたことを感謝し、神様に信頼し、希望をもって歩んでいきましょう。