城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年一一月二五日         関根弘興牧師
             マタイ二六章二六節〜二九節
 イエスの生涯41
   「聖餐式の意味」

 26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(新改訳聖書)

イエス様は、十字架につけられる前、弟子たちと一緒に最後の晩餐をなさいました。
 それは、毎年、ユダヤ最大の祭りである過越の祭りの時に食される伝統的な食事でした。ユダヤ人たちは、今でもこの過越の祭りを祝い、家族や親戚が集まって過越の食事をしています。
 「過越の祭り」が始まるきっかけとなった出来事は、旧約聖書の「出エジプト記」に記録されています。
 今から約三千四百年も前になりますが、イスラエルの民はエジプトで過酷な奴隷生活を強いられていました。その民を救うために、神様は、モーセという人物を選び、「あなたがイスラエルの民をエジプトから導き出し、わたしが示す地に連れて行きなさい」と命じられたのです。八十歳になっていたモーセは「私には無理です」と何度も辞退しようとしましたが、神様は「わたしがあなたとともにいるから大丈夫だ」と励ましてくださいました。そこで、モーセは兄アロンとともにエジプトの王パロのもとに行って、イスラエルの民をエジプトから出してくれるようにと直談判したのですが、パロは、大きな労働力を失いたくありませんから、モーセの申し出に耳を貸そうとしません。かえって、イスラエル人たちにさらに過酷な労役を課して苦しめるようになったのです。
 そこで、神様は、エジプトの地に十の災いを次々と下されました。「ナイル川の水が血に変わる」「かえるの災い」「ぶよの災い」「あぶの災い」「家畜の疫病」「腫物の災い」「雹の災い」「いなごの災い」「三日間の暗闇の災い」がエジプトを襲ったのです。しかし、パロの心は相変わらず頑ななままでした。
 そこで、ついに、最後の災いが下されることになりました。それは、エジプト全土のすべての初子が一晩の内に死んでしまうという災いです。しかし、モーセは、イスラエルの民にこう伝えました。「主がエジプトのすべての初子を殺そうとなさっておられる。しかし、子羊をほふり、その血を家の鴨居と門柱に塗っておくなら、主はその血をご覧になって、その家を過ぎ越され、その家に災いが下ることがないようにすると約束してくださった。」イスラエルの民は、神様の命令に従って家の鴨居と門柱に子羊の血を塗りました。
 その日の真夜中、主はエジプトのすべての初子をパロの初子から牢に捕らわれている捕虜の初子まで、また、すべての家畜の初子までも打たれたので、エジプト中に激しい泣き叫びの声が起こりました。しかし、子羊の血を鴨居と門柱に塗ったイスラエルの民の家は無事でした。神様がその血を見て災いを下さずに過ぎ越してくださったからです。
 この災いの結果、さすがのパロも「もういい、出て行け」ということで、ついにイスラエルの民はエジプトから脱出することができ、神様に導かれながら約束の地に向かって旅をしていくことになったのです。
 この出来事を記念して「過越の祭り」が毎年祝われるようになりました。過越の食事も、この出来事を記念するためのもので、子羊の肉、ぶどう酒、種を入れないパン、一鉢の塩水、苦菜、練り物が用意されました。
 子羊の肉は、子羊の血を鴨居と門柱に塗ったことによって主が災いを下さずに過ぎ越してくださったことを思い起こさせるものです。また、ぶどう酒は、その子羊の血を連想させるものであり、また、神様の恵みと祝福を味わうものでもありました。種を入れないパンは、エジプトを慌ただしく脱出しするときにパン種を入れて発酵させる時間がなかったことを思い起こさせるため、また、味気ない種無しパンを食べることによって、出エジプトの苦難を思い起こすためでした。塩水は、エジプトで流したたくさんの涙を象徴すると同時に、海の水が分かれて道ができ、その道を通ってエジプト軍の追跡を逃れることができたという奇跡的な出来事を象徴するものでもありました。また、苦菜は、エジプトでの奴隷生活の苦しみを覚えるためのもので、練り物は、エジプトで大変な煉瓦造りをさせられたことを連想させるものです。
 ですから、過越しの食事は、イスラエルの民が奴隷生活から解放されて自由になったことへの記念であり、神様が救いをもたらしてくださったことを感謝する喜びの宴でした。その過越しの食事こそが、イエス様と弟子たちとの最後の晩餐となったのです。
 ところで、旧約聖書の出来事は、新約聖書で明らかにされる真理をあらかじめ象徴的に示していることが多くあります。出エジプトの出来事もその一つです。子羊の血によって滅びを免れ、奴隷状態から解放され、神様の約束の地へ向かうことができるようになったという出エジプトの出来事は、実は、後の時代に、イエス様の十字架の血によって滅びを免れ、罪と死の奴隷状態から解放され、天の御国に向かって行くことができるようになるということをあらかじめ象徴的に示したものだったのです。
 ですから、イエス様が、出エジプトを記念する過越の祭りの時期に十字架につかれたということには深い意味があります。そして、イエス様の最後の晩餐は、出エジプトの出来事を記念する食事という意味から、イエス様の十字架による救いのみわざを記念する食事という意味に変わっていくことになったのです。
 イエス様は、今日の箇所で大切な三つのことを言っておられます。その意味を探り、私たちが毎月行っている聖餐式との関係を学んでいきましょう。

1 「これは、わたしのからだです」

イエス様は、パンを取り、祝福して後、そのパンを裂いて弟子たちにお与えになりました。過越の食事の時、家長がパンを取って祝福するのは普通の光景です。しかし、イエス様は、続けて「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言われたのです。
 イエス様は、以前から、御自分をパンにたとえておられました。例えば、ヨハネ6章35節では、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と言われましたし、ヨハネ6章51節では、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」と言われました。
 ですから、弟子たちは、この最後の晩餐で、イエス様が「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言われたとき、以前から「わたしはいのちパンです」と言われた言葉を思い出したかも知れませんね。
 最後の晩餐の席で、イエス様はご自分をパンにたとえ、そのパンを裂かれました。それは、これから十字架について御自分のからだが裂かれることを象徴するものでした。また、裂いたパンを弟子たちに分け与えられたのは、一人一人がイエス様のいのちを受けることの象徴でした。
 でも、こう思う方がおられるかもしれません。「出エジプトの時は、子羊が屠られ、その血によって救われたわけでしょう。それなら、パンではなくて、子羊の肉を裂いて与えるほうがいいのではないですか」と。でも、そう思うのは、私たちが過越の食事のことをよく知らないからです。
 過越の食事でパンを渡すときは、パンに子羊の肉と苦菜をはさんで渡すのが一般的だったそうです。ですから、今日の箇所でイエス様が裂いて弟子たちに渡されたパンは、過越の食事そのものを象徴的に意味するものであると考えればいいのです。
 過越の食事の中心的な意味は、「初子の身代わりとなって屠られた子羊の血によって神の裁きを免れ救われた」ということです。そして、イエス様が「このパンを取って食べなさい」と言われたのは、「イエス様がすべての人の身代わりとなって十字架で流される血によって神の裁きから救われるのだから、そのイエス様を信じ、イエス様の永遠のいのちを自分のものとして受け取りなさい」ということなのです。

2 「これは、わたしの契約の血です」

 続けてイエス様は、「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」と言われました。
 イエス様は最初にパンを取り、「これは、わたしのからだです」と言って分けられましたね。からだなら、骨も肉も血も含んでいますから、先ほどご説明したように、パンもイエス様の十字架の血による救いを象徴しているのです。それなのに、イエス様はここで、あえてぶどう酒も弟子たちにお与えになりました。なぜでしょうか。

@血を流すことなしに、罪の赦しはない

 旧約聖書のレビ記17章11節には、「いのちとして贖いをするのは血である」と書かれています。また、ヘブル9章22節には「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」と書かれています。旧約聖書の時代は、動物の血によって罪の赦しと罪からのきよめの儀式をしました。しかし、動物の血は罪を完全に解決することはできませんから、繰り返しささげる必要がありました。しかし、神の御子イエス・キリストが十字架で流された血は、ただ一度で完全な罪のゆるしときよめを成し遂げることができるのです。そのことをはっきり示すために、イエス様は、パンだけでなく、さらに、血の象徴であるぶどう酒の杯を弟子たちに与えて「飲みなさい」と言われたのです。

A血による契約

 また、イエス様は、「これは、わたしの契約の血です」と言われましたね。イエス様が十字架で流される血によって契約が結ばれるというのです。
 この「契約の血」という表現は、私たちには馴染みがありませんね。しかし、旧約聖書には度々登場します。
 エジプトを脱出したイスラエルの民に、神様はシナイ山で律法をお与えになりました。そして、「この律法を守り行うならあなたがは祝福されるが、律法に違反したら呪われる」と言われました。すると、民は「主の仰せられたことはみな行います」と口々に誓いました。そこで、モーセは、雄牛を屠り、その血の半分を祭壇に注ぎかけ、残りの半分を民に注ぎかけて、「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である」(出エジプト記24章8節)と宣言したのです。これはどういう意味があるかというと、もし、自分が契約違反をしたら、牛が屠られたようなことが我が身に起こってもかまわないという誓いを表す契約のしるしだったのです。しかし、イスラエルの民は、神様の契約を守ることができず、違反を繰り返し続けました。人は自分の力で神様との契約を守ることは不可能なのですね。ですから、「契約の血」と言う言葉は、もし契約を破ったら受けなければならない忌まわしい罰を思い起こさせるわけですね。
 しかし、神様との契約を守れない人々を救うために、神様は御子イエスを遣わしてくださいました。そして、イエス様は、今日の箇所で「これは、わたしの契約の血です」と言われましたね。ルカの福音書では、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言っておられます。イエス様の血によって新しい契約が結ばれるというのですね。
 では、新しい契約は、古い契約と何が違うのでしょうか。古い契約では、私たちは自分の罪の結果を自分で負わなければなりませんでした。しかし、新しい契約は、罪も違反も犯すことのなかったイエス様の側だけが血を流すという一方的な契約なんです。イエス様は、ご自分の血が「罪を赦すために多くの人のために流されるものです」と言っておられますね。つまり、契約の責任を私たちに負わせるのではなく、イエス様お一人がすべての責任をかぶってくださるというのです。だから、私たちの側では、罪の責任を負う必要がまったくなくなるのです。
 この新しい契約については、旧約聖書に登場する預言者エレミヤがこう預言していました。「見よ。その日が来る。││主の御告げ││その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。││主の御告げ││彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。││主の御告げ│わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。││主の御告げ││わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31章31節ー34節)
 新しい契約の内容は、どのようなものでしょうか。
 一つは、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」、つまり、神様が私たちの罪を完全に赦してくださるということです。
 もう一つは、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」、つまり、神様が私たちの内側を変えてくださり、心から神様に従う者に変えてくださるということです。
 また、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしについて互いに教え合う必要はなくなる。彼らがみな、わたしを知るようになるからだ」と約束されています。つまり、父、御子、聖霊の三位一体の神様が私たちの内に住んでくださるようになるので、私たちは一人一人が神様と親しい関係を持ち、神様の御性質を深く知り、神様とともに歩むことができるようになるということなのです。
 この契約は、神様が一方的に与えてくださる恵みの契約です。しかも、イエス様の十字架の血によって保証されている決して破られることのない完全な契約なのです。
 ですから、イエス様が「この杯から飲みなさい」と言われたのは、「この新しい恵みの契約を自分のものとして受け取りなさい」ということなのですね。

3 「わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」

 それから、イエス様は、「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」と言われました。
 これは、イエス様の十字架が間近に迫っていることを予告した言葉であるとも言えますが、それだけではありません。
 過越の食事は、まず、家長が「われらの神、ぶどうの実を造りたもうた汝は、ほむべきかな」と唱えて始まることになっていました。ですから、イエス様がここで「もはやぶどうの実で造った物を飲むことはありません」と言われたのは、「もう過越の食事をすることはない」という意味だと解釈することができます。ルカの福音書22章16節では、イエス様は、はっきりとこう言っておられます。「過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」つまり、イエス様は、「今まで、毎年毎年、この過越の食事をしてきたけれど、今日この日をもってこの食事は最後となった。もうこれから過越の食事はしない」と言われたわけですね。
 過越の食事は、出エジプトの出来事を思い起こすためのものでした。その出エジプトの出来事は、イエス様の十字架による救いを前もって象徴的に表すものでした。ですから、イエス様の十字架によって完全な罪の赦しと救いが成し遂げられたら、もはや昔の出エジプトの出来事を思い起こす必要はなくなるので、過越の食事をする必要もないということなのですね。
 しかし、そうすると、イエス様は「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、過越の食事をとらない」と言われたことになりますが、それは、一度必要なくなった過越の祭りの食事を天国でまた弟子たちと一緒にとるようになるという意味ではありません。イエス様が天の御国でとる過越の食事とは、昔の出エジプトの出来事を記念するものではなく、イエス様の十字架によって神様が私たちに救いを与えてくださったことを感謝する本当の意味での過越の食事です。ですから、イエス様が言われたのは、私たちが天に行ったとき、神様に救っていただいた喜びの宴をイエス様とともに持つことができるということなのです。
 ですから、昔の出エジプトを記念する過越の食事はこの最後の晩餐で終わり、将来、私たちが天に帰ったときにはイエス様による救いの完成を祝う喜びの宴が待っているわけですね。
 では、その二つの食事の間の期間、私たちは何をするのでしょうか。聖餐式です。
 イエス様は「わたしのからだであるパンと取って食べ、契約の血を杯から飲みなさい」と言われましたね。今日の箇所では、一回限りのように書かれていますが、ルカの福音書では、イエス様は「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい」と言っておられます。この「行いなさい」という言葉は、「行い続けなさい」という継続の意味を含んでいます。ですから、教会では、繰り返し聖餐式を行っているのです。
 第一コリント11章23節ー26節で、パウロはこう書いています。「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
 聖餐式は、イエス様の十字架による救いのみわざを感謝し、新しい契約の中で生かされていることを覚えるためのものです。私たちは、主イエス様が再び来られる日まで、つまり、この世の終わりを迎えるまで、聖餐式を通して私たちのために十字架で死なれたイエス様の恵みを味わい、伝えていくのです。
 聖餐式の時に覚えておいていただきたいことがあります。パンやぶどう液はイエス様のからだと血を象徴していますが、パンやぶどう液そのものに神秘的な力が宿っているわけではありません。また、聖餐式を単なる儀式として行うことのないようにしましょう。私たちは、聖餐にあずかることを通して、イエス様が私の罪を赦すために身代わりとなって死んでくださったことを深く思い、イエス様がご自分のいのちをかけて新しい契約を成就してくださった恵みを味わい続けていこうではありませんか。