城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一月二〇日          関根弘興牧師
             ヨハネ一五章七節〜一七節
イエスの生涯44
   「あなたはわたしの友」

7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。(新改訳聖書)


 今日の箇所も、イエス様が最後の晩餐の時に弟子たちに語られた言葉が記されています。イエス様は、御自分がこれから十字架につけられることをご存じで、「これからわたしが行く所に、あなたがたはついて来ることができない」と言われました。弟子たちは、イエス様の言葉を理解できず、ただ動揺していましたが、その弟子たちにイエス様は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。そして、いくつもの希望と励ましの約束を与えてくださったのです。たとえば、「わたしの父の家にあなたがたのために場所を備えたら、あなたがたをわたしのもとに迎えます」「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう」「もうひとりの助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるようになります」「わたしを信じる者は、わたしのわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」と約束してくださいました。
 続けて、イエス様は、15章5節で「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われました。イエス様がぶどうの木で、私たちはその枝だというのですね。枝は木につながっていなければ、決して実を結べないだけでなく、枯れてしまいます。私たちもイエス様につながっていなければ、死んで滅びてしまうだけです。それは、つまり、私たちが滅びることなく永遠のいのちによって生かされていくためには、百パーセントイエス様の恵みに頼る以外にないということなのです。枝にとって最も大切なのが木につながっていることであるのと同様、私たちにとって最も大切なことはイエス様につながっているかどうかということなのです。
 では、「イエス様につながる」「イエス様にとどまる」とは、具体的にどういうことなのでしょうか。また、その結果、どのような状態になっていくのでしょうか。

1 イエス様にとどまるとは

@イエス様のことばをとどめる

 イエス様にとどまるとは、ただ闇雲に「イエス様を信じます」と言い続けることではなりません。7節にあるように、イエス様のことばが私たちの中にとどまることなのです。イエス様のことばが聖書の中にたくさん記されていますね。そのことば受け取り、そのことばに信頼し、そのことばに従って生きていくこと、それがイエス様にとどまることになるのです。
 イエス様のことばには、力があります。無から有を生み出し、暗闇に光を照らし、励まし、慰め、平安、勇気、希望を与えることばです。そのことばを私たちの内にとどめていきましょう。

Aイエス様の愛の中にとどまる

イエス様は、また、9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」と言っておられます。
 イエス様にとどまるとは、イエス様の愛の中にとどまることです。怒りの中にとどまるのではありません。厳しい戒律の中にとどまるのでもありません。罪と呪いの中にとどまるのでもありません。憎しみや虚しさの中にとどまるのでもありません。イエス様の愛の中にとどまるのです。
 イエス様は、私たちのありのままを受け入れ、理解し、赦し、慰め、励ましてくださいます。時には私たちを戒めたり叱ったりなさることもあるでしょう。しかし、イエス様は、いつも変わらぬ愛をもって接してくださるのです。
 私たちは、時々「私は駄目な人間だからイエス様に愛される価値がない」とか「イエス様に愛されるためにはもっと頑張らなくてはならない」などと思ってしまうことがありますね。
 しかし、そういう時にこそ、「イエス様は、私がどんな状態であるかにかかわらず愛し続けてくださっている」ということを思い起こすことが大切です。イエス様がこんな私をも愛してくださっている、イエス様ならこんな私も導き成長させてくださることができる、イエス様は、私の欠点も失敗もすべてのことを働かせて益にしてくださる、だから、イエス様におまかせしていれば大丈夫、そのことを改めて確認するのです。
 自分の尺度で自分を評価したり、自分で自分を成長させなければと頑張るのではなく、いつもイエス様の愛を思い起こし、イエス様にゆだねていくこと、それがイエス様の愛にとどまることなのです。それを、いつも覚えていきたいですね。
 そして、イエス様は、10節で「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」とも言っておられます。イエス様の戒めとは何でしょうか。17節にあるように「互いに愛し合いなさい」ということです。
 私たちは、自分の力では互いに愛し合うことは出来ませんね。けれども、イエス様の愛の中にとどまっているなら、互いに愛し合う者とされていくのです。なぜなら、イエス様に愛されていることを知ると、そのイエス様の愛に応えたい、イエス様の喜ぶ生き方がしたいと心から思えるようになるからです。また、イエス様が自分だけでなく、他の人々もありのままで愛しておられることがわかってくるからです。互いに愛し合うとき、私たちは、より深くイエス様の愛にとどまることができるようになっていくのです。

2 イエス様にとどまる結果

(1)多くの実を結ぶことができる

 今日の箇所の直前の5節で、イエス様はこう言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」
 では、この「実」とはどのようなものなのでしょうか。

@品性の実

エペソ5章9節に「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」と書かれています。また、ガラテヤ5章22ー23節には「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書かれています。
つまり、イエス様にとどまり続けていると、麗しい品性の実が結ばれていくというのです。 ただし、愛、喜び、平安などの実は一夜にしてはできませんね。私たちは、キリストのいのちを受け取りながら、一生涯かけて豊かな実を実らせていくのです。どのような実がなっていくか楽しみではありませんか。

A賛美の実

 ヘブル13章15節には「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」とあります。賛美は、くちびるの果実だというのですね。
第一テサロニケ5章16-18節には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と書かれています。神様が私たちに望んでおられるのは、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝することなのです。クリスチャン生活の特徴は何ですか。賛美です。私たちは、どんな状況にあっても「主をほめたためます!」と賛美していきましょう。

B福音の実

 コロサイ1章6節にこう書かれています。「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」とあります。「福音が世界中で実を結び広がり続けている」というのですね。
 私たち一人一人が福音の実を実らせていく者とされています。といっても、「頑張って伝道していくぞ」と気負って生きることでありません。福音を伝えることは、企業の営業成績を競うような類いのものではないのです。
 大切なのは、まず自分自身が神様の恵みをほんとうに理解していくことです。イエス様の愛に生かされていることを喜び、賛美し、礼拝をささげ、互いに愛し合う生活を続けていくときに、その私たちの姿を見て、人々は、イエス様がまことの救い主であることを知るようになっていくでしょう。もし、私たちがイエス様の愛の中で安息することがなければ、どうして人々はイエス様を求めようとするでしょう。
 また、ピリ2章13節に「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」とあり、エペソ2章10節には「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」とあります。神様が一人一人にふさわしく志を与え、福音を広めるために必要なことを行わせてくださるのです。
新しい年が始まりましたが、私たちがイエス様の愛の中に生かされつつ歩んでいくとき、人々が不思議なようにして主のもとに導かれてくることを楽しみにしようではありませんか。
 
(2)イエス様の友となることができる

それから、イエス様は、14節で「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われました。イエス様にとどまり、互いに愛し合う者に変えられていく私たちを、イエス様は「わたしの友」と呼んでくださるというのです。
 皆さんは、「友」というとどのようなイメージを持ちますか。なんとなく仲のいい人というような感覚かも知れませんね。しかし、ここでイエス様が言っておられる「友」いう言葉には、もっと深い意味があるのです。

@いのちを捨てるほどに大切な存在

 まず、13節で、イエス様は、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言っておられますね。イエス様が「あなたがたはわたしの友です」と言われるのは、「わたしはあなたのためならいのちを捨ててもかまわない」というほどの大きな愛をもって私たちを愛してくださっているということなのです。
 ヨハネがこの福音書を記したときには、すでにクリスチャンの数も増え、教会もいろいろな所にできていました。クリスチャンたちは自分を「主イエスのしもべ」と呼んでいました。特に、パウロは手紙の中で「しもべ」という言葉をたくさん使っています。もちろん、私たちは皆、主のしもべであることに違いありません。しかし、ヨハネはイエス様のことばをここに記して「私たちは、イエス様のしもべであるだけでなく、イエス様の友でもあるのだ。イエス様は、私たちのためならいのちを捨てることもいとわないほどに、私たちを大切な友として愛してくださっているのだ」ということを伝えたかったのでしょう。

A信頼できる存在

次に、15節で、イエス様はこう言われました。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」イエス様があの頼りない弟子たちにこう言われたのは驚きですね。
 しもべは、主人から「この仕事をしなさい」と言われたら理由を問うことなどしません。絶対服従なわけですね。とにかく命じられた仕事を行うだけです。しかし、友は違います。何かを頼まれて、理由がわからなければ、「どうして?」と尋ねます。相手が何かを隠していたら、「水くさいな。なぜ打ち明けてくれないの?」と言いますね。自分の考えや計画や目的を、友だからこそ打ち明けますね。
 旧約聖書を見ると、王の側近の中に「王の友」と呼ばれる人がいました。イスラエルの国を統一したダビデ王には、フシャイという「王の友」がいました。また、ソロモン王には、ザブデという名前の「王の友」がいました。この「王の友」とは、特別な役職で、いつでもアポなしで王様の部屋に入ることが許されていました。どんな大臣や家来よりも先に王様と語る権利を持っていたのです。それほどに王に信頼され、王と親しく語り合うことができたわけですね。
 また、旧約聖書には、神様から「わたしの友」と呼ばれた人物がいます。イスラエル民族の父祖であるアブラハムです。(イザヤ書41章8節参照)
 創世記18章にこんな出来事が書かれています。アブラハムの甥であるロトが住んでいるソドムの町は、悪と暴虐に満ちていました。神様は、ソドムの状態を調べさせるために三人の使いを遣わしましたが、その三人がソドムに行く前にアブラハムのもとに立ち寄りました。その時、神様は、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と考られた、と書かれています。つまり、神様は、「ソドムを滅ぼそうとしていることをアブラハムにだけは話しておこう」と思われたというのです。そして、親しい友に語るように、ご自分の計画をアブラハムに打ち明けられたのです。
 イエス様は、15節で、「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」と言われましたね。イエス様は、私たちを友と認めてくださり、私たちに、救いについて、永遠のいのちについて、歩むべき道について、神様のご計画の大切な内容をすべて語ってくださったのです。また、いつも私たちに必要なことを語りかけ、教え、慰め、励ましてくださるのです。
 もし、神様のみこころや聖書の真理が、一部の限られた人にしか示されないとするなら、どうでしょう。私たちは、イエス様の友とは言えなくなりますね。そして、一部の人だけが、まるで特別な存在となっていくでしょう。でも、感謝でありませんか。イエス様は私たち一人一人を「わたしの友」と呼んでくださり、「わたしは、あなたに隠し立てすることなど何もない。あなたはわたしの友だから」と言ってくださるのです。
 信頼関係が無ければ、知っていることを全部言うことなどありません。イエス様は、私たちを深く信頼してくださっているのです。その信頼に応えていきたいですね。

4 イエス様の選び

ところで、16節でイエス様は弟子たちにこう言っておられますね。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」
 弟子たちがイエス様を信じ、イエス様のわざを行うことが出来るようになったのは、自分たちの知恵や力によるのではなく、イエス様が選んでくださったからだというのですね。
 ところで、この「選ぶ」ということばを聞くと、急に落ち着かなくなる人もいるのではないでしょうか。普通は「選ばれる人」と「選ばれない人」がいるからです。選挙でも受験でも就職でも、選ばれなければどうしようもありませんから、選ばれるために必死で努力するわけですね。それと同じように「イエス様に選ばれるためには必死で頑張らなければならない」と思ってしまう人もいます。中には、「私は選ばれるのは当然だ」と思う人もいれば、「私なんか選ばれるはずがない」と思う人もいるでしょう。
 でも、イエス様の選びは、それとはまったく違います。弟子たちは特に優秀だったわけではありませんでしたが、イエス様は彼らを選び、「わたしの友」と呼ばれました。そして、イエス様は、私たちも含めてすべての人を選び、招いておられるのです。マタイ11章28節で、イエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と招いておられますね。イエス様の招待状は、すべての人に配られているのです。
 こんな文書を読んだことがあります。「この世の求人広告は、『有名校卒業、有資格、品行方正、学術優秀、容姿端麗、身元確実、思想堅固』。イエスキリストの求人広告は、『学歴不問、性別年齢資格不問、前歴前科賞罰不問、国籍人種家柄不問、赦罪安心、聖霊能力付与、永世天国復活保証、難行苦行律法不要、要信仰、即採用』」
 イエス様は、私たち皆を選んでくださっているのです。ただし、選ばれた私たちは、「選ばれて感謝です。これからよろしくお願いします」という意思表示が必要ですね。イエス様の選びに応じること、それが信仰なのです。ですから、イエス様に選ばれたからといって誰一人自分を誇ることはできません。ただ、イエス様の恵みに感謝するだけです。
 そして、11節で、イエス様は「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」と言っておられますね。イエス様は、私たちがイエス様の選びに感謝してイエス様につながり、多くの実を結び、イエス様の友として生きることを大いに喜んでくださるのです。
 元日礼拝の聖書の言葉をもう一度思い起こしてください。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」ゼパニヤ3章17節
 イエス様は、私たちのただ中におられ、救いをもたらし、私たちの存在を喜び楽しみ、愛によって安らぎを与えてくださるお方です。だからこそ、今週も、イエス様の恵みと愛の中にとどまり、主の友とされていることに感謝しつつ歩んでいきましょう。