城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一月二七日          関根弘興牧師
           ヨハネ一七章一〜八節、一七〜二〇節
イエスの生涯45 
   「イエスの祈り 1」

1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。4 あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。6 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。7 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」
17 「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(新改訳聖書)


ヨハネ13章ー16章には、イエス様が最後の晩餐の席で弟子たちにお語りになった教えや約束が記されています。その内容をこれまで数回に分けて学んできましたね。
 イエス様は、動揺している弟子たちに、「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。そして、イエス様の名によって祈り求めることは何でも聞き入れられること、もう一人の助け主が与えられること、イエス様のことばと愛の中にとどまることによって豊かな実が結ばれていくことを教えられたのです。そして、最後の16章33節で、イエス様は「あなたがたは、世にあっては困難があります。しかし、勇敢でありなさい、わたしはすでに世に勝ったのです」という力強い励ましの言葉をお語りになりました。
 さて、今日はその続きですが、イエス様は弟子たちへの話を終えると祈り始められました。この17章には、聖書の中で最も長いイエス様の祈りが記されています。この数時間後にイエス様は逮捕され十字架へと向かって行かれるわけですから、これは、この世に残していく弟子たち、また、これからクリスチャンになっていく人々のためのとりなしの祈りであり、また、告別の祈りでもあるわけです。
 今週と来週は、この祈りについて学んでいきましょう。

1 イエス様の栄光

 まず、イエス様は、父なる神様に向かって「栄光」という言葉を繰り返し使って祈っておられますね。イエス様の栄光とは何を意味しているのでしょうか。

(1)世界が存在する前から持っていた栄光

 まず、5節で、イエス様は「世界が存在する前に、ごいっしょにいてもっていましたあの栄光で輝かせてください」と祈っておられますね。イエス様は、世界が存在する前から父なる神とともにおられ、父なる神とともに天地万物を創造した方、つまり、本来、神の栄光に輝いておられる方なのです。

(2)地上で成し遂げたわざによって現される栄光

 そのイエス様が、神の栄光を捨てて、人として地上に来てくださいました。なぜでしょうか。4節で「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と祈っておられるように、地上で神様のわざを成し遂げて、この世の人々に神様の栄光を現すためでした。では、イエス様が成し遂げられたわざとは、どのようなものでしょうか。

@神様の御名を明らかにした

 まず、イエス様は、6節で「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました」と言っておられますね。イエス様が成し遂げられた大切なわざの一つは、「神の御名を明らかにする」ということでした。名前というのは、単なる呼びではなく、その人がどんな存在であるか、その人がどんな性質をもっているのかを表すものです。つまり、イエス様が「あなたの御名を明らかにしました」と言われたのは、神様がどのような方で、どのようなみこころを持っておられる方か、また、何をしてくださる方か、ということを明らかに示してくださったということなのです。神そのものであられるイエス様が私たちのもとに来てくださり、神のことばを伝え、神のわざを行い、神がどのような方であるかを身をもって示してくださったのです。
 ヨハネ1章18節には、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と書かれています。また、ヨハネ14章9節では、イエス様御自身が「わたしを見た者は、父を見たのです」と言っておられます。神様が目に見える姿で私たちのもとに来てくださった、それが、イエス様です。ですから、私たちは、イエス様を見ることによって、また、イエス様のことばを聞くことによって、神様のみこころやみわざや御性質をそして、永遠の救いのご計画をはっきり知ることができるのです。

A弟子たちに信仰と永遠のいのちを与えた

それから7ー8節で、イエス様はこう言われました。「彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」
 神様が弟子たちをイエス様のもとに導き、その弟子たちにイエス様が神様のみことばを与え、それを弟子たちが受け入れて、イエス様が救い主であることを知り、信じたというのです。つまり、弟子たちが信じることができたのは、神様の恵みとイエス様の働きによるのだということです。イエス様は、神様がどんな方であるかを示してくださるだけでなく、私たちが神様のことばを受け入れ信じることができるように導いてくださるのです。
 そして、2節でイエス様はこう言っておられますね。「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」イエス様は、信じる人々に永遠のいのちを与えてくださるのです。
 では、「永遠のいのち」とは、どのようなものでしょうか。聖書の教える「永遠のいのち」というのは、ただいつまでも生き続けることではありません。3節にこう書かれていますね。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」神様とイエス・キリストを知ることが永遠のいのちだというのですね。この「知る」という言葉は、ただ知識として知るのではなく、人格的な深い交流を持つという意味です。「天地を造られた神様がいるんですね。イエス様が救い主なんですね。はい、わかりました」というだけでなく、永遠の存在者なる神様、そして、救い主イエス様との親しい関係を持つこと、いつも私たちを愛し、守り導いてくださる神様と共に歩み、互いに語りかけ応答し合う関係を持ち続けること、それが永遠のいのちそのものだというのです。
 先週お話ししましたように、イエス様は「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われました。私たちは、イエス様につながっていさえすれば、永遠のいのちを受け取り続けることができるのですね。
 弟子たちは、決して立派な人々ではありませんでした。勘違いも多かったし、自分が偉くなりたいという野心を持っていたり、そのくせイエス様が逮捕されると散り散りばらばらに逃げていってしまうような弱い弟子たちでした。自分こそ一番弟子だと自負していたペテロでさえ、「イエスなど知らない」と三度も否定してしまうのです。
 しかし、イエス様は、そういう弟子たちについて、「彼らはあなたのみことばを守りました」「彼らはわたしを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」とはっきり言い切っておられますね。ここでイエス様は、「弟子たちは、立派な人間だから、自分の力で信じ、みことばを守ることができた」と言っておられるのではありません。弟子たちの信仰が深いとか浅いとか強いとか弱いとかいうことを言っておられるのではないのです。
 イエス様が言っておられるのは、弟子たちがイエス様との人格的な結びつきを持つことができるようになったということなのです。つまり、「わたしが神様のみことばを彼らに与え、彼らがそれを受け入れたのだから、すでに永遠のいのちに生きる者とされている。だから、大丈夫なのだ」「彼らが唯一のまことの神と、神から遣わされた救い主であるわたしとの人格的な結びつきを持ったなら、永遠のいのちの中にあるのだから、決して失われることはないのだ。神様の守りの中で必ず実を結んでいくことができる」と確信しておられるのですね。ですから、イエス様は、弟子たちに大きな信頼を寄せておられるだけでなく、彼らに対して何一つ不安を持っておられないのです。驚くべきことだと思いませんか。
 今日、私たちは、信仰についての視点を変えていきましょう。このイエス様の弟子たちに対する確信は、私たち一人一人に対する確信でもあることを知っていただきたいのです。私たちは、聖書の約束を知り、イエス様を信じることが出来ました。しかし、「自分の信仰は弱くて、まるでジェットコースターのように不安定だ」と思っておられるかも知れません。でも、イエス様は、「大丈夫、あなたは、わたしと結びついているのだから、わたしがあなたを支え、成長させる」と言ってくださいます。私たちがただイエス様に信頼してつながってさえいれば、イエス様が確信をもって導いてくださるのです。ですから、安心して主とともに歩んでいきましょう。

B十字架のみわざ

 イエス様は、神様のもとから地上にくだり、父なる神様について明らかに示し、様々な神様のわざを行って栄光を現されました。病人をいやし、盲人を見えるようにし、死人を生き返らせたことも何度かありました。また、嵐をしずめたり、わずかなパンで大勢の人々を満腹にするという奇跡もなさいました。それだけでも、神様の栄光を現しておられたと言えますね。
 しかし、一方で、「わたしの時はまだ来ていない」と言っておられました。そして、今日の祈りの最初にいよいよ「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」と祈られたのです。
 ここで言われている「栄光」とは、イエス様が十字架にかかることを意味しています。十字架は、イエス様が地上で行われる様々なみわざの中でも最も神様の栄光を現すみわざなのです。
 イエス様が世に来られた目的は、イエス様を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。すべての人は、神様とのつながりを失って罪の中で滅びに向かっています。神様との関係を回復して永遠のいのちを持って生きるためには、まず、罪の問題を解決する必要があります。そこで、罪のないイエス様が私たちの罪をすべて背負って十字架にかかってくださいました。それによって、私たちの罪はすべて赦され、神様との親しい関係を持って生きることができるようになったのです。ですから、極悪人の処刑の道具であり、人々が忌み嫌う、呪いの象徴のような十字架の上に、救い主イエス様の栄光が現されるというのですね。
ヘブル12章2節には、こう書かれています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」イエス様は「ご自分の前にある喜びのゆえに」、つまり、神様の素晴らしい救いの栄光が現される時が来たという喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架への道を進んで行かれるのです。十字架は呪いの場所であるけれど、イエス様は、それが神の栄光が現される場所となることを知っておられたのです。
 
(3)昇天後の栄光

 イエス様は、世の始まる前から神の栄光に輝いておられました。そして、地上では、私たちに神の栄光を現してくださいました。では、その後はどうでしょうか。イエス様は、5節でこう祈っておられますね。「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。」イエス様は、十字架上で死んで葬られた後、三日目に復活し、天に昇っていかれます。そして、神の右の座に着座され、再び神様の栄光の輝きをまとわれるのです。そして、すべての人に救いをもたらすみわざを成し遂げた方として、また、すべてを支配する王として、永遠にほめたたえられていくのです。


2 真理による聖別

 それから、イエス様は、17節で弟子たちのために「真理によって彼らを聖め別ってください」と祈っておられます。これは、どのような意味があるのでしょうか。
 聖書には「聖め別つ」「聖別」「聖とする」などの言葉がよく出てきますね。これは、汚れているものをきれいにするという意味ではなく、「神様の専用品として取り分ける」という意味です。人でも物でも神様のために用いるときには、聖別します。一般用から神様用に用途変更するわけです。たとえば、ここにギターがありますね。これを「聖別する」というのは、「このギターは、神様のために取り分けられ、神様のために用いられるものになりました」ということなんです。
 ですから、イエス様が「彼らを聖め別ってください」と祈られたのは、「彼らをあなたの専用品として用いてください」ということなのです。
 では、19節の「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」という言葉はどういう意味でしょうか。まず、イエス様が御自分自身を聖め別つというのですが、イエス様は神のひとり子で、初めから聖なる方なのですから、聖め別たれる必要などないように思いますね。でも、イエス様は、あえて「わたし自身を聖め別ちます」と言われました。それは、イエス様が私たちに救いを与えてくださる神の専用品となってくださった、ということです。人々の救いのために十字架にかかるという使命に自らをささげようとする意志を明確に言い表した言葉なのです。イエス様が御自分を聖別し、神様のみこころに従って十字架にかかってくださったからこそ、弟子たちも神様の専用品と用いられ生きることができるようになったのです。
 それから、「真理によって聖め別つ」とありますが、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われましたね。真理なるイエス様の十字架の贖いによって弟子たちは聖め別たれるのです。
 ですから、イエス様は、16節で「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」と言われています。つまり、「弟子たちは、この世のものではなく、神様の御用のために聖別されている。すでに用途変更済みだよ」ということですね。
 ここでいう「世」とは、「神様なしの秩序の世界」「神様がいなくても自立して生きていけると考えている世界」を意味しています。弟子たちは、そういう神様なしの秩序に支配されていきるのではなく、神様に信頼し、神様に導かれ、神様の御名の中に保たれて生かされている者だというわけです。そういう意味では、私たち一人一人も、この世から聖別され、聖なる者とされている者たちです。
 でも、だからといって、この世とまったく関わりを持たずに生きていくというのではありません。イエス様は、18節で「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」と言っておられますね。つまり、弟子たちは、この世のものではなく、神様のものとして聖別された者ではあるけれど、だからといって、世捨て人のように、世との関わりをまったく断ち切って生活するのではなく、逆に、世に遣わされた者として生きていくのだといわれたのです。
 イエス様が選ばれた十二人の弟子たちとパウロは「使徒」と呼ばれますね。この「使徒」という言葉は、「遣わされた者」ということです。父なる神様がイエス様をこの世に遣わし、救いを成就してくださいました。そして、イエス様が十字架つけられ、復活し、天に昇られた後には、イエス様の救いのみわざを世界中の人々に知らしめるために、弟子たちが遣わされていくわけです。弟子たちは、用途変更された存在として、世に遣わされていくわけですね。その弟子たちのために、イエス様は、「彼らは、これから世の中に遣わされていくけれど、世の秩序に取り込まれるのではなく、いつも神様の真理の内にとどまってあゆみ、神様の専用品としての働きが全うされるように」と祈られたのです。
 そして、20節にあるように、この祈りは、すべてのクリスチャンのための祈りでもあります。私たちは、神様の御名の中に保たれ、神様の豊かな愛を味わう者とされています。また、神様の栄光を現す器として聖め別たれています。
パウロは、こう記しています。
Tコリント10章31節 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」
 ですから、私たちは、圧倒的な恵みと愛をもって支えてくださっている主によってそれぞれの場に遣わされ、何をするにしても神の栄光を現す者とされていることを覚えながら歩んでいきましょう。