城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年二月三日          関根弘興牧師
              ヨハネ一七章二〇節〜二六節
イエスの生涯46 
   「イエスの祈り 2」

20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(新改訳聖書)


 ヨハネ13章ー16章には、イエス様が最後の晩餐の席で弟子たちにお語りになった教えや約束が記されています。そして、17章には、聖書の中で最も長いイエス様の祈りが記されています。この数時間後にイエス様は逮捕され、十字架へと向かって行かれることになります。ですから、この祈りは、この世に残していく弟子たちやこれからクリスチャンになっていく人々のためのとりなしの祈りであり、また、告別の祈りでもあるわけです。
 前回は、この祈りの前半部分を学びました。イエス様は、弟子たちについて、「彼らはあなたのみことばを守りました」「彼らはわたしを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」と祈りの中ではっきり言い切っておられましたね。これは、弟子たちの信仰が立派だという意味ではありません。弟子たちは、決して立派な人々ではありませんでした。イエス様の教えを十分理解できないこともたびたびありました。自分が偉くなりたいという自分勝手な野心を捨てることができず、そのくせイエス様が逮捕されると散り散りばらばらに逃げていってしまうような弱い弟子たちでした。しかし、イエス様は、「わたしが神様のみことばを彼らに与え、彼らがそれを受け入れたのだから、すでに永遠のいのちに生きる者とされている。彼らはすでに、唯一のまことの神と、神から遣わされた救い主であるわたしとの人格的な結びつきを持っているのだから大丈夫、決して失われることはない」と確信しておられるのです。弟子たちがどんな状態であるかにかかわらず、イエス様にとどまっているかぎり、イエス様の愛と恵みの中に守られ、生かされていくことは保証されているのですね。
 それから、イエス様は、弟子たちのために「真理によって彼らを聖め別ってください」と祈られました。前回もお話したとおり、「聖め別つ」とは「神様の専用品として取り分ける」という意味です。クリスチャンとは、イエス様によって、神様の専用品にされた者、神様のために生きる者として用途変更された者です。そして、イエス様によって、この世に遣わされているのですね。
 さて、今日は、イエス様の祈りの後半の部分を見ていきましょう。

1 一つとなるように

 ここでイエス様は、弟子たちが一つとなるようにと祈っておられますね。まず、この「一つとなる」ことについて考えていきましょう。

(1)「一つとなる」とは

 「一つとなる」とは、どういう意味でしょうか。皆が一つの組織に組み込まれることでしょうか。皆が同じような外観、態度、考え方になることでしょうか。
 キリスト教会にはいろいろなグループがあります。「教団」「教派」がありますね。そして、同じ聖書を使っているのに、どうしていろいろな団体があるのだろうと疑問に思われる方もいるでしょう。「イエス様が『一つとなるように』と祈っているのだから、教団や教派などをすべて取り払い、すべてを一つにすべきだ」と考える人もいます。でも、本当にそうでしょうか。人にはそれぞれ個性があって、様々な人が集まるからこそ互いに補い合い、助け合うことができます。各地にある教会もいろいろなスタイルがあって、それぞれが比べることの出来ない大切なものです。そして、いろいろな教会によって特徴があるからこそ、いろいろな人々が教会に繋がることができると思うのですね。
 イエス様は、個性豊かな弟子たちに同じ制服を着させ、同じ言葉を使わせ、同じ行動をさせるようなマニュアルを作ったりはなさいませんでした。
 個性豊かで違いのある弟子たちのために、また、私たちのためにイエス様が「一つとなるように」と祈られたのは、決して皆が同じようになりなさいという意味ではありません。では、イエス様が「一つとなるように」と祈られたのは、どういう意味でしょうか。

@同じ信仰告白を土台とする者として

マタイ16章17-18節で、イエス様が、ピリポ・カイザリヤ地方に行かれたとき、弟子たちにこんな質問されましたね。「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」すると、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。すると、イエス様はこう言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
 イエス様は、ここで、「『あなたは、生ける神の御子キリストです』という告白の上に教会を建てる」と言われました。つまり、私たちは、この告白をすることによって、イエス様にあって一つとなり、キリストのからだである教会を建て上げていくことができるのです。この告白こそ、私たちが「一つとなる」ための大前提なのです。
 こんな話を聞いたことがあります。18世紀のイギリスの教会の指導者でウェスレーという人がいました。彼はメソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導した人物で、彼の働きによってメソジスト派という大きなプロテスタントの教派が生まれました。そのウェスレーが、あるとき天国に行った夢を見ました。天国の門番に「ここには、イギリス国教会の人は来ていますか」と尋ねると、門番は「来ていません」と答えました。「それではカトリックの人は?」「来ていません。」「ルター派の人は?」「来ていません。」「長老派の人は?」「来ていません。」ウェスレーは、恐る恐る尋ねました。「それでは、メソジスト派の人は来ていますか?」すると、門番は「来ていません」と答えたのです。ウェスレーは、大変なショックを受けて門番に尋ねました。「それでは、いったい誰が来ているのですか。」すると門番は「クリスチャンだけです」と答えたというのです。天国では、教派の違いなど問題にならないということですね。大切なのは、イエス様を神の御子、救い主として信頼して生きていくことなのです。この告白をする人々は、皆、イエス様にあって一つとされています。使徒信条で、「公同の教会を信じます」という言葉がありますね。これは、「世界中のクリスチャンたちが『あなたは生ける神の御子キリストです』という告白によって一つにされていることを信じます」という告白なのです。

A神様の御性質に預かる者として

 それから、21節でイエス様はこう言われました。「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。」
父なる神がイエス様の内におられ、イエス様が父なる神様の内におられる、それは、つまり、父と子が一つとなっておられるということですね。私たちの信じる神様は、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神という三つの位格を持っておられますが、この父、子、聖霊が完全な愛と調和の中に一つとなって存在する神様です。私たちが「唯一の神様を信じます」というとき、それは、三位一体なる神様を信じているのです。神様は、御自身の中に完全な愛と調和を保っておられます。ですから、私たちがこの神様を信じるときに生まれてくるのは、愛と調和です。神様の御性質に預かり、一つとされていくのです。

B救いを共有する者として

 次に、22節で、イエス様は、「わたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです」と言われました。
 この「あなたがわたしに下さった栄光」、つまり、父なる神様がイエス様にお与えになった栄光とは何でしょう。それは、十字架と復活によって、人々に罪の赦しと永遠のいのちを与えることです。それは、神様がどれほどまでに私たちを愛してくださっているかを示すものです。愛する御子イエス様のいのちを私たちに与えるほどの大きな神様の愛が注がれているのです。 私たちが、その愛を知り、永遠の救いに預かり、その愛に生きていくこと、それこそがイエス様が私たちに与えてくださった栄光です。私たちは、この救いの栄光を共有する者とされ、神様に愛され、同じ救いを与えられたものとして一つとされていくのです。

Cイエス様と一つとされている者として

 そして、23節で、イエス様は、「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです」と言われました。「わたしは彼らにおり」と言っておられますね。イエス様が信じる一人一人の内にいてくださるというのです。私たちがイエス様を信じる時、イエス様と同じ本質をもった聖霊が私たちの内に宿ってくださいます。それは、三位一体の神様が私たちの内におられるということですね。私たちは、イエス様と一つとされた者なのです。
信仰生活を送っていくとき、自分がイエス様と一つとされているということを知ることはとても大切です。
パウロは、ガラテヤ2章20節に、こう書いています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」また、ローマ6章4ー5節には、こう書いています。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」
イエス様と一つとされているということは、私たち一人一人がキリストと共に十字架につき、キリストとともによみがえり、新しいいのちに生きる者とされているということです。キリストの十字架と復活は他人事ではありません。私たちは、主イエス様と一つにされているのです。皆がそれぞれイエス様と一つにされているということは、お互い同士も一つとされているということですね。

 さて、以上のように、私たちは、イエス様が神の御子キリストであると告白する者として、三位一体の神様の御性質に預かる者として、神様に愛され救いを共有する者として、また、イエス様と一体になった者として一つにされているのです。

(2)一つとなることを表すたとえ

 聖書では、信じる人々が一つとなることの意味を、いくつかのたとえで説明しています。

@ぶどうの木の枝として

 イエス様は、ヨハネ15章で「わたしはまことのぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われましたね。私たちは、同じ木の幹につながっています。その意味で一つです。

Aキリストの体の器官として

 第一コリント12章27節には「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」と書かれています。私たちは、それぞれ異なった特徴や役割をもっているけれど、結び合わされて一つのからだとされているのだというのです。

B同じ羊飼いに牧される羊として

また、ヨハネ10章には、私たちは皆、イエス様という同じ羊飼いに導かれる羊であり、一つの群れとなるのだと書かれています。

C神の家族、神の国の国民として

 また、エペソ2章19節には、こう書かれています。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」私たちは、神の子とされ、神様に「父よ」と呼びかける者、神の家族の一員となりました。また、神様の支配なさる神の国の国民でもあるのです。

F神様の専用品として

 先週お話ししましたように、私たちは、一人一人がイエス様によって聖別され、神様なしの秩序の世界から、神様ありの秩序の中に生かされる者として、この世から取り出された者です。神様のために生きる人生へと用途変更、神様の専用品となったのです。その意味でも一つとされているのです。

パウロは、ガラテヤ3章28節で、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」と記しています。イエス様を信頼して生きる一人一人は、イエス様にあって一つとされているのです。教派、教団、国籍、人種、性別、性格など全く関係なく、イエス様を信じる一人一人が一つとされ、愛と調和の中に歩んでいけるようにとイエス様は祈っておられるのです。
 
(3)一つとされることの結果

それでは、私たちが一つであることを知り、歩んでいくとき、どんな結果がもたらされるでしょう。
イエス様は、21節で「そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです」と言われ、23節では、「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです」と言っておられますね。
 私たちが主にあって一つとされているということを自覚し、イエス様の愛の中に生かされていくとき、神様を否定している世の人々でさえ、神様の愛や救い主イエス様のことを認めざるをえなくなるというのです。
 教会では、伝道ということを考えますね。「伝道」というのは、「まことの道であるイエス・キリストを伝える」ということです。私たちは、伝道のためにいろいろな企画を考えたり、特別なことをしなければいけないのではないかと考えてしまうことが多いのではないでしょうか。
 でも、イエス様は、何と言っておられるでしょうか。私たちがキリストにつながり、愛によって一つとされ、神様に愛されていることを感謝し、喜んで生きていくときに、世の人々は、神様の愛を知り、イエス様が神様によって遣わされたまことの救い主であることを知るようになっていくのだというのです。まず、自分自身が神様に愛されていることを味わい、その愛に生きていくことが伝道そのものなのだ、というわけですね。だからこそ、イエス様も「彼らが一つとなるように」と熱心に祈り求めておられるのです。

2 わたしといっしょにおらせてください

さて、イエス様は、長い祈りの最後に、何を祈っておられるでしょうか。24節でこう祈っておられますね。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」
イエス様は、「弟子たち、そして、これからわたしを信じるようになる一人一人を、わたしと一緒におらせてください」と祈られました。また、26節では「あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」と祈りを締めくくっておられます。
 イエス様は、この祈りの少し前に、「わたしの行くところにあなたがたは来ることができません」と言われましたね。それは、「すべての人の罪を背負って十字架にかかることは、わたしにしかできないことだ」という意味でした。
 しかし、イエス様の十字架によって救いが成就された後、イエス様は、復活し、信じる一人一人に聖霊を送ってくださいました。それによって、イエス様が私たちの中におられ、いつも一緒にいてくださるということが可能になったのです。そして、私たちは、いつも神様の栄光を見、神様の愛を味わいつつ生きることが出来るようになりました。
 皆さん、信仰の歩みは、主と共に歩む続ける、一生涯、いや永遠と続く息の長いものです。イエス様は、私たちのために今日も祈ってくださっています。「わたしはあなたに神様の御名を知らせよう。神の愛がわたしを通してあなたに豊かに注がれるように」と。また、イエス様は、いつも私たちとともにいると約束してくださっています。いつくしみと恵みにあふれた方が一緒に歩んでくださるのです。
 私たちは、主にあって一つとされている仲間です。神様に愛されていること、キリストの内にいること、そして、キリストが一人一人の内にいてくださることを覚えながら、恵みの中を歩んでいきましょう。