城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年八月一八日             関根弘興牧師
              第一ペテロ二章一一節〜一七節
ペテロの手紙連続説教11 
   「神の民のふるまい」

 11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、14 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。15 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。16 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。 17 すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(新改訳聖書)


 前回の箇所で、ペテロは、旧約聖書を引用しながら、「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」と記していました。旧約時代には、信仰の父であるアブラハムの子孫であるイスラエル民族だけが神の民だと考えられていました。しかし、実は、本当のアブラハムの子孫とは、アブラハムのように神様のことばを心から信じて従う人々、つまり、神様が遣わしてくださった救い主イエス様を信じる人々だということが明らかにされたのです。だれでもイエス・キリストを信じるなら、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民となるのです。
 それでは、神の民として、私たちは、この世の中でどのようにふるまい、生活していけばいいのでしょうか。それが今日のテーマです。
 ペテロは、まず、「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします」と書いていますね。この「お勧めします」という言葉には、「慰め、励まし、力づける」という意味が含まれています。でも、ペテロが続けて、「ああしなさい、こうしなさい」といろいろなことを命令形で書いているのを読むと、慰めや励ましよりもプレッシャーを感じてしまう、という方もおられるでしょうね。とてもできそうもないなと感じてしまうからです。また、ペテロが命じていることの中には、素直に納得できないようなことが含まれていますね。ペテロが、どのような意味で書いているのか、詳しく見ていきましょう。

1 神の民としての自覚

 ペテロは、「あなたがたは、旅人であり寄留者だ」と書いていますね。神と民となった私たちは、この世では旅人、寄留者なのだというのです。
ピリ3章20節には、「私たちの国籍は天にあります」と書かれています。「天」とは神様の臨在しておられる所です。私たちは、この世に属する者ではなく、天に属する者です。ですから、天にある永遠の住まいを目指す旅人であり、また、しばらくの間だけこの世の中で生活する寄留者なのですね。

 といっても、私たちは決して世捨て人のようになるのではありません。また、「旅の恥はかき捨て」というようないい加減な生き方をするのでもありません。
 イエス様は、ヨハネ17章18節で「わたしは彼らを世に遣わした」と言われました。また、弟子たちに「あなたがたは、地の果てにまで、わたしの証人となる」と言われました。
 私たちは、イエス様がまことの救い主であることを伝えるためにこの世に遣わされているのです。暗やみを照らす世の光、腐敗を食い止める地の塩としての役割を果たす者とされているのですね。この世の旅には、困難も苦しみもあるでしょう。しかし、いつも神が共にいてくださるのですから、神の民としての自覚を持ちつつ、希望と感謝と喜びを持って歩んで行きましょう。
 では、その歩みの中で、ペテロは、どのようにふるまうことを勧めているでしょうか。

2 神の民のふるまい

@たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい

ペテロは、まず、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」と記しています。
 「肉の欲を遠ざける」という言葉には、非常に禁欲的なイメージがありますね。本能的な要求はすべて押さえ込んで、精神生活に励まなければならないということか、と誤解する方も多いでしょう。しかし、聖書は、肉体の欲望そのものが悪いと言っているわけではありません。食欲、性欲、向上心、より良い人間関係を求める思いなどは、神様が私たちに与えてくださった生きていく上で必要な欲求です。美味しいものを食べること、家族や友人と楽しむこと、趣味を持つこと、やりたいことをやってみること、そういうことを私たちが神様に感謝しつつ喜びをもって行うのは、決して悪いことではありません。
 ペテロがここで「遠ざけなさい」と言っているのは、「たましいに戦いをいどむ肉の欲」です。つまり、たましいを神様から引き離してしまうような欲に誘惑されないよう遠ざけなければならないというのです。それはどのような欲でしょうか。
 パウロはガラテヤ5章19節ー21節にこう記しています。「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」
ここに挙げられているのは、自分や他人を傷つけ、神様との関係を破壊するものですね。神様の一番大切な「神を愛し、隣人を自分と同じように愛しなさい」という戒めを破るものです。このようなものに引きずり込もうとする欲を感じたら、断固として遠ざけることが大切だと、ペテロは教えているのです。

A異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい

次に、ペテロは12節にこう書いています。「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」
 この「りっぱにふるまう」というのは、非の打ち所のないふるまいをするという意味ではありません。
 イエス様が「あなたはりっぱです」とお褒めになったのは、どんな人々だったでしょうか。
 たとえば、ローマ軍の百人隊長が病気のしもべの癒やしをイエス様にお願いに来たとき、こう言いました。「主よ、あなた様を私の家にお迎えする資格はありません。どうぞ、おことばをください。そうすれば私のしもべは癒やされます。」イエス様が「癒やされなさい」とお命じになるだけで十分だと彼は信じていたのです。イエス様の権威とイエス様の発する言葉の力を単純に信じて行動したこの人をイエス様は賞賛なさいました。
 また、神殿で一番安いレプタ銅貨2枚をささげたやもめの姿をイエス様はお褒めになりましたね。神様に自分のすべてをお任せしようとする信仰があったからです。
 つまり、私たちにとって「りっぱにふるまう」とは、神様に単純に信頼し、すべてをおゆだねすることなのです。
 それから、「異邦人の中にあって」とありますが、ここで「異邦人」というのは、神様を信じていない人々のことです。神などいない、神の助けなどない、と考えている人々の中で、神様に信頼して生きていきなさいというのです。そうしていくときに、取るに足りない無に等しいような者を、赦し、愛し、支え、励まし、慰め、生かしてくださる神様がおられるということを、自分自身で味わうだけでなく、神様を知らない人々にも示していくことができるというのですね。その結果、異邦人も「神をほめたたえるようになる」というのです。
 「彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても」とありますが、この手紙が記されたローマ帝国の時代には、クリスチャンに対する様々な誤解や偏見に満ちた噂が広まっていました。たとえば、「クリスチャンは、人肉を食べ、生き血を飲んでいる」と噂されました。それは、聖餐式の時に唱えられる「これはわたしのからだです。これはわたしの血です」というイエス様のことばが曲解されたからです。また、クリスチャンは、共に食事をする集まりのことを「アガペー(愛)」と呼びましたが、それが「秘密のベールに包まれた官能的、不道徳な集会だ」と誤解されました。その他にも、「商売の邪魔をする者」「家族関係を破壊する者」「奴隷を主人に反抗させる者」「皇帝に反逆する者」などという様々な批判が浴びせられました。
 こうした根も葉もない噂や批判に対して、クリスチャンたちはどうしたでしょうか。ただ、自分たちの誠実な生き方を示すしかなかったのです。しかし、その結果、キリスト教がローマの国教になるほどの大きな影響を与えたのです。
 私たちも、信仰が理解されない辛さや苦しさがあるかもしれません。それは、何年も続くかもしれません。しかし、りっぱにふるまうなら、つまり、神様に信頼して生きていくなら、今は理解してくれない人々も、いつか神をほめたたえるようになるのだ、と聖書は約束しているのです。

B人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい

それから、ペテロは、13節ー15節にこう書いています。「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」
 当時のローマ帝国は、広大な領土を持ち、いろいろな国を属国として治めていました。ですから、ローマ帝国に反旗を翻す過激分子や反政府グループが各地に現れました。ユダヤ人の過激分子も現れました。特に、ガリラヤ地方に多かったのですが、彼らは、「神様以外に王はいない。神様以外に貢ぎ物をしたり、税金を納めるのはおかしい」と言って武力蜂起したのです。クリスチャンの中にも一部に極端な人々がいて、「ローマ政府に武力で対抗すべきだ」と主張していました。その当時だけではなく、いつの時代にも「人の作った制度など従う必要はない。信仰だけで生きるべきだ」と極端な主張する人はいますね。
 それに対して、ペテロは、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と記したのです。このペテロの言葉に反発を感じる方もおられるかも知れませんね。しかし、これは、盲目的に無理にでも従えということではありません。
 使徒の働きの4章に、ペテロとヨハネが生まれつき足の不自由な人をイエスの御名によっていやしたという出来事が記録されています。驚く人々に向かって、ペテロたちは、「イエス様以外には、だれによっても救いはありません」と大胆に宣べ伝えました。するとユダヤ当局は、二人を捕らえ、「今後、いっさいイエスのことを語ったり教えたりしてはならない」と命じたのです。しかし、ペテロとヨハネはこう答えました。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
 もし、人のたてたすべての制度に無条件に従えというなら、ペテロは、ユダヤ当局の命令にも素直に従うべきですね。ところが、彼は従いませんでした。「人の立てたすべての制度に従う」ということには条件が付いているからです。「主のゆえに従う」という条件です。
マルコ12章で、イエス様のもとに、パリサイ人とヘロデ党の者がやって来ました。ヘロデ党というのは、ローマの共鳴者です。ローマ政府の宣伝広報係みたいなものです。これに対して、パリサイ派というのは、ヘロデ党と全く逆で、強烈なユダヤ愛国主義者です。この水と油のような両者が、何とかイエス様を言葉の罠にかけようとして、こう質問しました。「カイザル(ローマ皇帝)に税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」すると、イエス様は、デナリ銀貨を指して「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と逆に質問なさいました。彼らが「カイザルのです」と答えると、イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と答えられたのです。
 このイエス様の教え、つまり、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返す」ということが、私たちが人間の作った制度に従うときの原則となるのです。
 「神のもの」とは何でしょうか。礼拝は、神様だけにささげられるべきものです。国家も指導者も神ではないので礼拝の対象になりえません。神でない者に礼拝を強制するのは、神様のものを横取りする行為です。また、いのちは、天地を創造された神様に与えられたものですから、いのちをもてあそんだり、人格を否定することは、神様のものを人が勝手に思い通りにしようとしていることになりますね。
 私たちは、はっきりと二つのことを自覚しなければなりません。一つは、この社会における責任ある一員としての自覚です。日本に住んでいるなら、この国に住む者として、人の立てた制度に従うのです。しかし、もう一つは、この世界を支配しておられる神の民としての自覚です。私たち一人一人には神様の名が刻まれているのですから、神のものとして生きていくことが大切なのです。
 どの制度も国家も神様の許しのもとに存在していますから、私たちはその一員として従うことが必要です。「人の作った制度に従う」ことは、私たちの基本姿勢です。しかし、人の作ったものは不完全ですから、時には、神のものが神に返されないような事態が起こるかもしれません。そのときには、置かれている社会の中での権利を行使しながら、警鐘を鳴らす必要があります。また、そういう事態に陥らないように、国家のため、指導者のために祈っていくことも大切なのですね。第一テモテ2章1節に「国の指導者のために祈りなさい」と記されているとおりです。なぜなら、「神のものは神に返す」ということが失われていく国家は、必ず滅びの道へと進んでいくからです。

C自由人として行動しなさい

 そして、16節ー17節でペテロはこう書いています。「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」
 「自由人」と聞くと、他の人に従わず、自分の思うがままに生きていくようなイメージが浮かびますね。しかし、ペテロは、神の奴隷となって生きていきなさいと勧めているのです。なぜでしょうか。
 神様は、人に自由意志を与えてくださいました。自分で選び取る自由です。最初の人アダムとエバは、愚かにも、神様に従わないで自分で判断し、自分で自分の人生を支配していくという選択をしてしまいました。神様から自由になろうとしたのです。しかし、かえって罪と死の奴隷になってしまいました。
 私は、学生時代、親元から自由になろうと思い、東京に出てきました。しかし、そこで、それまでに経験したことのない不自由を経験したのです。また、ある時、友達からポータブルテレビをもらいました。これで自由にテレビが見られるぞと思って、一週間テレビを見続けました。すると、何とも言えない、むなしさが襲ってきたのですね。結局、不自由になってしまいました。人は、自由になろうとしても、結局、何かの束縛から逃れることはできないのですね。かえって、虚しさや無力感や後悔や焦りや義務感や罪責感に縛られてしまうのです。
 聖書は、人が本当に自由になれるのは、神様とともにいるときだと教えます。本当に自分らしくいられる場所は、愛と恵みと赦しにあふれた神様のみもとなのです。ヨハネ8章32節には、「真理はあなたがたを自由にします」とあります。真理とは、イエス・キリスト御自身です。ガラテヤ5章1節で、パウロはこう書いています。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」
 イエス様の十字架と復活によって、私たちは罪赦され、新しいいのちを与えられ、神様とともに歩むことができるようになりました。それが、本当に自由な状態です。
 しかし、この自由をはき違えて、何でも好き勝手なことをしてもいいのだと考えるクリスチャンたちがいました。罪を犯してもイエス様の十字架によって赦されるのだから、何回罪を犯しても大丈夫だなどと言う人々までいたのです。そこで、ペテロは、「その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい」と忠告しているのです。
 私たちには、選択する自由が与えられています。神様に従うか、従わないかを選ぶ自由、他の人々に対してどのような態度をとるかを選ぶ自由があります。だからこそ、神様のことばに全面的に従い、すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊ぶことを選び取りなさい、とペテロは勧めているのです。そういう生き方を神様が望んでおられるからであり、また、そういう生き方の中にこそ本当の自由が味わえるからです。
 でも、すべての人を敬い、兄弟たちを愛することなど難しくてできない、と思う方もおられるでしょうね。
 パウロは、ピリピ2章3節で「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と教えています。自分がただ神様のあわれみによって救われたことを忘れることのないように、また、他の人も神様に愛され、価値あるものとされていることを覚えましょう。そして、相手の中に自分に欠けているもの、自分よりもすぐれたものを見つけようとしていくときに、相手を敬う気持ちが持てるようになっていくでしょう。一人一人がそうしていくことによって、兄弟たち、つまり、クリスチャンの仲間同士の内に愛が育まれていくでしょう。
 私たちはみな違う背景からきました。性格も気質も皆違います。しかし、教会の中にいつも互いに敬い合う愛の雰囲気があるなら、そこには、主にある自由な空気が満ちていくのです。
 そして、「神を恐れ」とありますが、怖がるという意味ではありません。愛と恵みに満ちた神様を愛し、すべてを支配しておられる方として敬い、礼拝をささげるのです。礼拝なくして、神様を恐れ敬うことなどありえません。礼拝は、私たちの生活の一部なのです。
 そして、最後に「王を尊びなさい」と続きます。神様を恐れ敬いながら、この世の指導者のためにも祈っていくのです。
 ダビデは、サウル王に命を狙われ逃亡生活を送っていました。その間にサウル王を暗殺する絶好の機会が二度も巡ってきたのですが、ダビデは「主がサウルを王にされているのだから、その王に手を下さすことなどできない」ときっぱりと言い切ったのです。この世の国も王もどんな支配者もすべて神様の御手の中にあります。神様がふさわしい時にふさわしいさばきをされるのですから、私たちは、指導者や支配者のために祈っていきましょう。ただ、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という心をしっかりと持つことが大切ですね。
 ここに集う一人一人が、主に愛される大切な存在であることを覚え、互いに敬いながら、自由人として、主のしもべとされていることを喜びつつ、今週も歩んでいきましょう。