城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年二月一六日             関根弘興牧師
                 第二ペテロ三章一節〜七節
ペテロの手紙連続説教29
    「思い起こす大切さ」

1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。2 それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。(新改訳聖書)


今日から3章に入りました。ペテロは、1節で手紙の宛先の人たちに「愛する人たち」と呼びかけていますね。これは、この第二の手紙の中では初めて出てくる呼びかけで、この3章では四度も用いられています。
 ペテロがこの手紙を書いたのは、ローマの獄中にいて処刑される日が近づいていた時ではないかと考えられます。ペテロが投獄されたのは、もちろん悪事を働いたからではありません。当時のローマでは、クリスチャンたちは迫害の対象となっていました。「イエス・キリストは、十字架につけられたが復活された。このイエスこそ王の王である」などと宣べ伝えていたからです。特に、ペテロは、そのリーダーの一人でしたから、捕らえられれば死刑宣告されることは誰の目にも明らかでした。ですから、ペテロは自分の生涯の終わりが近づいていることを自覚して、この手紙を書き送ったのです。

1 純真な心を奮い立たせるために

 当時、小アジアには教会がたくさんありました。この手紙は、その小アジアの署教会に宛てて書き送られたのではないかと考えられています。小アジアというのは、現在のトルコにあたる地域です。ペテロは、そこから遙か西方のローマにいました。当時は、今のように交通網が整備されているわけではありませんから、すぐに行けるような場所ではありません。しかし、距離が離れていようが、自分に残されている時間が短かろうが、ペテロの小アジアの教会の人たちに対する愛は失われることはありませんでした。
 当時のクリスチャンたちは様々な困難の中にいました。迫害が激しくなってきただけでなく、前回の箇所にあったように、教会の中ににせ教師や惑わす者たちが入り込んできて、キリストの福音から人々を引き離そうとしていました。そこで、ペテロは、第一の手紙と第二の手紙を書き送って、クリスチャンたちを励まそうとしたのです。
 今日の1節にもこう書かれていますね。「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。」
 「純真な心」とは、神様に幼子のように純粋に信頼し続ける心です。私たちがそういう心を奮い立たせるために覚えておくべきことは何でしょうか。
 それは、2節にあるように「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」を思い起こすことです。「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことば」とは、旧約聖書のことです。また、「あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」は、今では新約聖書にまとめられています。つまり、私たちは、どんな試練の中にあっても、どんな誘惑があっても、旧約聖書と新約聖書に記されているみことばを思い起こすことによって神様を信頼する純真な心を奮い立たせることができるというのですね。
 ペテロは、1章でもこの「思い起こす」という言葉を繰り返し使っていましたね。1章の12節では「私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです」、13節では「私が地上の幕屋にいる間はいつもこれらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています」、15節では「また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです」と書いています。
 前回学んだように、当時の教会の中には、にせ教師や惑わす者たちが現れ、「これが新しい教えだ」と言わんばかりに、不遜な態度で、クリスチャンたちを別の教えに誘惑しよとする働きがありました。しかし、ペテロは、新しい教えや啓示ではなく、これまで何度も何度も聞き、旧約聖書の預言者たちによって語られ、イエス様の目撃証言者である使徒たちによって伝えられたイエス様の福音そのものをいつも思い起こさせるために、この手紙を書いたのです。
「福音」とは「よい知らせ」のことですが、イエス様の福音とは、どのようなものでしょうか。イエス様がもたらしてくださった福音は、古くて新しい福音です。昔から預言者たちが預言し、目撃証言者である使徒たちが証言した昔からの福音です。イエス・キリストの福音とは、イエス様が私たちの罪のために十字架について死なれ、三日目に復活されたという事実に基づいた福音です。私たちのすべての罪が赦され、死を打ち破る永遠のいのちが与えられるという素晴らしい福音です。人は、自分の力では救いを得ることはできません。救いは、ただ、神様の一方的な恵みにより、イエス様を信じ受け入れる信仰によってもたらされるのです。その福音は、旧約聖書の初めの頃から預言されてきており、約二千年前のイエス様が来られた時代に実現しました。そういう意味で、私たちに伝えられた福音は昔からのものです。しかし、この福音によって私たちは、新しい人生が与えられ、たえず新しくされ続けながら生きていくことができるのです。
 パウロはキリストにある新しい生涯をこう記しました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5章17節)
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(第二コリント4章16節)
 ですから、私たちがいつも思い起こすべきなのは、イエス様御自身です。イエス様が私たち一人一人に何をしてくださったかを思い起こすのです。イエス様の福音は、私たちを生かし、義の道へと導く福音であることを思い起こすのです。そして、イエス様が御自分のいのちを捨てるほどの大きな愛で愛してくださっていることを思い起こすのです。
 そして、イエス様は、私たちに何を命令なさったでしょうか。
 イエス様は、「わたしにとどまりなさい」と命じられましたまた、「わたしの愛の中にとどまりなさい」「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」とお命じになりました。また、「明日のことは思い煩うな」と言われましたね。イエス様は、たくさんの約束と私たちが生きていくための指針のみことばを与えてくださいました。私たちは、聖書のみことばを繰り返し読み続け、聞き続けるとき、イエス様の私たちに対する心を思い起こします。そして、試練や困難の中でも、みことばを繰り返し読み、聞き続けているなら、神様の恵みやキリストの福音についての記憶が呼びさまされ、純真な心を奮い立たせていくことができるのです。

2 終わりの時

 さて、ペテロが繰り返し聖書の言葉を「思い起こしなさい」と勧めているのは、3節ー4節に書かれているようなことが起こることを予測していたからです。こう書かれていますね。「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」

@聖書の歴史観

 「初め」があって「終わり」がある、それが聖書の歴史観です。この世界には終わりがある、そして、その終わりの時には復活して天に昇って行かれたキリストが再び来られ、神様の正しいさばきが執行されるというのです。この世には、正しいことが正しいとされず、正直者が馬鹿を見る、というような不条理がまかり通っているような現実が続いているように見えるかもしれないけれど、神様は必ず正義と公正をもって最終的なさばきを行ってくださるというのですね。
 それは、神様に背を向けている人々にとっては、悲嘆の時になるかもしれませんが、神様を信頼する私たちにとっては、新しい始まりの時であり、完成の時でもあります。第二コリント3章18節で、パウロはこう書いています。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」この私たちを主と同じ姿に変えていってくださる聖霊の働きが終わりの時には完成するのです。
 私たちの人生を見る見方はいろいろありますね。一つは、過去や今の現状に基づいて将来を見るという見方です。過去がこうだったから、きっと将来はこうなるだろう、今がこうなのだから、きっとこれからもこうであるに違いない、と考えるわけです。皆さんもそのように考えることがあると思います。それが悪いわけではありません。しかし、聖書の見方は、そうではないのです。聖書では、将来の完成の時に基づいて今を見るのです。先ほどお話しましたように、私たちにとって、この世の終わりの時は、悲嘆にくれる時ではありません。完成の時です。そして、今の私たちは、その完成に向かって栄光から栄光に変えられつつあるのです。イエス様は、その完成の時まで、私たちとともに歩み、支え、導き、育ててくださるのです。
 イエス様は、私たちの将来の姿に基づいて現在の私たちを見てくださる方です。そのことは、ペテロ自身がよく知っていました。ペテロは、以前、自分がイエス様の筆頭弟子だと自負し、「ほかの弟子がつまずいても、私は決してつまずきません」と豪語していました。しかし、イエス様が逮捕されたとき、「イエスなど知らない」と三度もイエス様を否定してしまったのです。イエス様は、そのペテロのつまずきをずっと以前から予知しておられました。しかし、それだけでなく、将来、ペテロが立ち直り、主を愛する忠実なしもべとして福音を宣べ伝えていく姿を見ておられたのです。ですから、イエス様は、あらかじめ、ペテロにこう言われたのです。「見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22章31節ー32節)
 私の友人の牧師が、このペテロの手紙の講解説教の中でこう記しています。「神は『やがて』を見つめておられます。今の欠けだらけの私だけでなく、ご自分のねんごろなお取り扱いの中で、成長し、整えられ、完成されてゆく『やがての私』をも見つめていてくださいます。」
この「やがての私」という言葉は、心に響きますね。今の自分を見ると落胆するかもしれません。でも皆さん、今日から落胆するのはやめましょう。自分の足りなさを嘆くこともやめましょう。むしろ、私たちを栄光から栄光へと変えてくださる主を信頼し、終わりの時にくる完成の日を見つめながら、誠実に今を生きていこうではありませんか。主のまなざしは、「やがての私」に注がれているのですから。

Aあざける者ども 

 しかし、聖書の言葉を信じず、この世に終わりなどないと考えて、クリスチャンたちをあざける者たちがいました。彼らは、こう言ってあざけりました。「クリスチャンたちは、この世の終わりのときにキリストがまた来て、私たちを完成させてくださるなどと言っているけれど、いっこうにその気配はないではないか。神は本当に約束を果たすのか。神が生きて働いている、などと言うけれど、いったいどこにその痕跡があるのか。ずっと昔から同じじゃないか。」そして、聖書のことばを侮り、自分の欲望のままの生活をしていたというのです。
皆さんは、どう思いますか。自分の人生を振り返って、主は今も働かれる、と聖書では教えているけれど、いったいどこにその痕跡があるのか、私はそんなことは一切経験していない、と思う方がいますか。少なくとも、ここに集まる一人一人は、生活の些細な事柄の中に主のみわざを覚えたり、様々な出来事の背後に主の働きがあったとうなずかれるのではないでしょうか。残念ながら主のみわざは、ある人には、当たり前にしか見えないかもしれません。また、偶然にしか思えないかもしれません。しかし、毎日の生活の中で、確かに主の働きがあった、主のみわざが現された、とうなずきながら生きることの出来る生涯は本当に幸いですね。なぜなら、そこに新たな感謝と賛美が生まれてくるからです。
 しかし、あざける者たちは、歴史を見ても何も変わっていないではないかと言い、日常の生活の中でも、どこに神の働きがあるのか、どうして神に感謝しなければいけないのだ、と思いながら、本当の満足も喜びもない生き方をしているのです。

Bペテロの警告

 ペテロは、そのようなあざける者たちに対して、再びノアの時代の大洪水の出来事を取り上げて、厳しい口調で反論しています。この世の終わりなどないと言って神様の警告を馬鹿にしている人々は、大洪水でノアの家族以外のすべての人が滅ぼされてしまった出来事を見落としているではないか、というのです。ノアの時代、神様は、あらかじめ警告なさっていた通りにことを大洪水を起こされました。最後の最後まで神様の警告を無視して自分勝手な生活を続けていた人々は皆、水で滅ぼされてしまったのです。 
 ペテロは、その大洪水の出来事に言及し、神様が人間の歴史の中に確かに介入されたのだと記しているのです。そして、これからも神様の介入が確実にあるし、神様は、約束通り最後にはこの世界を、今度は水でなく、火によって滅ぼしてしまわれるのだというのです。
 自分の人生を振り返るときに、また、この世界の長い歴史の流れを見るときに、そこに神様の不思議な御計画や介在を認めることが出来るか、それとも、何の痕跡も見つからないと否定するかによって、私たちの価値観も、世界観も、生きる方向性もすべてが変わってしまうのです。
 私は、自分の生涯を振り返るとき、決して劇的なことなどありませんでしたが、確かに神様が生きておられ、私の人生に深く関わってくださっていることを否定することが出来ません。そして、自分では気づかなかったけれど、当たり前だと思っていたことの多くの中に、実は神様の愛の御手による備えがあったことがどれほどたくさんあったことだろうと思います。
皆さん、主は今日も生きて働かれるお方です。この歴史の中に働かれ、あなたの人生の中にも働かれているのです。
 ペテロは、今日の箇所で、思い起こすことの大切を教えました。いつも神様に愛されていることを思い起こし、子供のように純真な心をもちながら、主と共にこの週も歩んでいきましょう。