城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年三月二九日            関根弘興牧師
                    ミカ六章六節〜八節

   「人よ。何が良いことなのか」

6 私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。7 主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(新改訳聖書第三版)

 今日は、旧約聖書の十二小預言書の中のミカ書からご一緒に考えていきましょう。
 ところで、聖書に登場する「預言者」とは、単に「未来を予見する人」という意味ではありません。もちろんそれも含まれますが、聖書の教えをもとにして、神様から預かったメッセージを人々に伝える人のことです。神様から示されたことを忠実に語るわけですから、祝福を語ることもあるし、時には、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めて神様に立ち返るように呼びかけることもありました。
 預言者ミカは、南ユダ王国出身です。「ミカ」という名前は、「だれが主のようであろう」(主のような方は他に誰もいない)という意味です。ミカが預言者として活動したのは、1章1節に「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」と書かれていますから、紀元前七五〇年頃から七〇〇年頃です。同時代には、イザヤという有名な預言者がいました。
 当時の世界は、残忍なアッシリア帝国が勢力を拡大していた時代でした。そんな時代に、ミカは、北イスラエル王国の都サマリヤと南ユダ王国の都エルサレムについて見た幻を語り始めたのです。ミカが預言者として活動している最中に、北イスラエル王国は、アッシリヤ帝国に滅ぼされてしまいました。
 残された南ユダ王国は、国の外からはアッシリヤの脅威にさらされていましたが、国の内部もひどい有様でした。賄賂が横行し、部族のかしらたちも、神殿の務めを担う祭司たちも、神の言葉を伝えるべき預言者たちも私利私欲のために不正を働き、民を苦しめていたのです。
 そんな彼らの状態を、神様はミカを通して厳しく指摘なさいました。3章11節には、こう書かれています。「そのかしらたちはわいろを取ってさばき、その祭司たちは代金を取って教え、その預言者たちは金を取って占いをする。しかもなお、彼らは主に寄りかかって、『主は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上にかかって来ない』と言う。」すべて金次第というわけですね。かしらたちは賄賂を取って不正な裁判をし、祭司たちも五分の祈祷は五千円、十分なら一万円というような具合です。預言者たちも神様の言葉を忠実に語る者はほとんどおらず、お金をとって占い師になっている始末でした。それなのに、彼らは、厚かましくも、「主が私たちの中におられるのだから、わざわいなど襲ってこない」とうそぶいていたのです。
 そのように道徳的にも宗教的にも混乱していた状況の中で、ミカは、このままでは国は立ちゆかなくなってしまう、と強く警告しました。そして、人にとって何が良いことなのか、そして、主は何を求めておられるのかを簡潔にはっきりと語ったのです。それが、今日の箇所です。もう一度読んでみましょう。
 これは、大変有名な箇所です。「たとえ幾千の羊や幾万の油や大切な子供をささげても主は喜ばれない。主が求めておられるのは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、神と共に歩むことだ」というのです。これは、時代を超えて語られる聖書のメッセージです。
 創世記に、カインとアベルの兄弟の話が出てきます。兄カインは土を耕す者、弟アベルは羊を飼う者でした。この二人がある時、感謝のささげ物を携えて神様を礼拝したのですが、神様は、弟アベルのささげ物には目を留められましたが、兄カインのささげ物には目を留められなかったのです。これは、神様が野菜より羊の肉が好きなのだとか、アベルをえこひいきなさったのだとかいう話ではありません。主は、二人の心を見られたのです。アベルは、感謝をもって最良のものをささげました。しかし、カインには、神様への感謝や喜びがなかったのです。
ミカの時代は、どうだったでしょう。神殿に行けば、たくさんの羊や穀物がささげられていました。しかし、それは、まったく形骸化しており、人々は、ただこれを行っていさえすれば安心だというような発想になっていたのです。
 今でも、何かの儀式を定期的に守っていれば大丈夫というような思いを持ってしまうことがあるかもしれません。しかし、そうではありません。主は、私たちの心をご覧になるのです。神様は、私たちがどこにおいても感謝をもって礼拝し、賛美をささげることを喜ばれるのです。
 そして、神様は、私たちが公義を行い、誠実を愛し、へりくだって神様とともに歩むことを求めておられます。その三つのことこそ、人として生きていく土台なのです。

1 主が求めておられる三つのこと

(1)公義を行う
 「公義」とは、「神様の判断に従って行動する」ということです。神様のみこころを求めて生きることです。聖歌の中に、「成したまえなが旨」という歌があります。「私の人生の中にみこころを成していってください」という内容です。
 パウロは、第二テモテ1章7節でこう書いています。「神が私たちに与えて下さったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」この「慎み」という言葉には、「正しい判断力」という意味があります。何が神様のみこころであるかを正しく判断できる力です。ただ、「神のみこころを求める」などというと、何となく神様からのお告げを受けるような大げさなイメージを持ってしまうかも知れませんね。でも、本当は、とてもシンプルに考えたら良いのです。生活の中で、「神様、あなたはこのことをどう思われるのでしょうか。教え導いてください」と祈りつつ、もしそれをしようとする思いが与えられ、平安があり、道が開かれたら、進んでみればいいのです。もし間違っていたら、神様は必ず何らかの方法で気づかせてくださいます。そして、その間違いも益にしてくださるのですから、心配することはありません。大切なのは、神様のみこころを知りたい、みこころに沿って生きていきたいという願いを持ち続けることです。そうすれば、神様は、必ず一人一人にふさわしい導きを与えてくださいます。
 ところが、ミカの時代の人々は、残念ながら、神のみこころを求めて生きようとしていませんでした。ただ、自分のため、自分さえよければ他人はどうであってもいいという生き方が蔓延していたのです。

(2)誠実を愛する
この「誠実」という言葉は、契約に対する誠実さを意味しています。たとえば、夫と妻であるなら、結婚の契約の内容である愛の結びつきと互いに対する忠実さを果たすことが誠実だということですね。
 神様は、「わたしは、あなたを愛している」と何度も聖書を通してお語りになっています。イザヤ54章10節では、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」と語りかけておられます。神様の私たちへの誠実は決して変わることがありません。
それから、「誠実」とは、相手の立場に立つということでもあります。上から見下すのでもなく、自分が卑屈になるのでもなく、お互いに神様の誠実な愛に生かされている者として、同じ目線で、共に歩んでいくのです。

(3)へりくだって神と共に歩む
「へりくだる」とは、別の言葉で言えば「謙遜」です。それは、自分のありのままの姿を認めることです。自分が神様に造られ、神様の愛と守りと導きが必要な存在であることを自覚することです。そういう謙遜な人は、神と共に歩もうとします。
 その反対は「高慢」です。高慢とは、自分が神であるかのように振る舞うことです。自分の力を誇り、神など必要ないと考えるのです。ですから、人は、高慢になると、神と共に歩めなくなるのですね。

 ミカは、公義を行い、誠実を愛し、へりくだって神と共に歩むことこそ、人としての生き方であると語りました。しかし、当時は、この三つのどれもが欠けていたのです。この三つが欠けた国を想像してみてください。またそういう人物を想像してみてください。そういうグループを想像してみてください。そういうところに属したいと思いますか。行き着くところは決して希望を持つことの出来ない世界です。

2 ミカの信仰告白

 人々は、ミカの言葉に耳を傾けようとしません。現状を改めようとせず破滅に向かっていました。そんな状態を歎きながらも、ミカは、最後の7章で、神様への信仰を告白しています。

(1)主が私の光
 ミカは、絶望的な状況の中でも、こう告白しています。「私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。」(7節)「私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。」(8節)「主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。」(9節) 皆さんは、今日、このことを信じますか。倒れることがあります。闇に押しつぶされてしまうこともあります。出口の見えない困難に遭遇するかも知れません。しかし、「主が私の光です」と告白し、主を仰ぎ見、主が光に連れ出してくださることを待ち望むことができるのです。

(2)主は罪を赦し、いつくしみを喜ばれる
 18節でミカはこう告白しています。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。」そして、11節には、「あなたの石垣を建て直す日、その日、国境が広げられる」という神様の約束が書かれています。神様は、南ユダ王国を罰せられるけれど、いつまでも怒っておられるのでなく、赦し、いつくしみ、建て直してくださるというのです。

3 ミカの祈り

 その信仰をもとに、ミカは、自分の言うことをまったく聞かない民のために熱心に祈っています。ミカは、民の罪を厳しく糾弾しましたが、民への深い愛も忘れていなかったのです。

(1)「あなたの杖であなたの民、あなたご自身のものである羊を飼って下さい。」(14節)
 神様から離れて自分勝手にさまよう羊のような民を、もう一度神様のみもとに集めて養い育ててください、という願いです。神様こそ最もすばらしい羊飼いだからです。

(2)「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。」(7章19節-20節)
 「もう一度、あわれみをもって私たちの罪を完全に赦し、昔、先祖たちに与えた祝福といつくしみを与えてください」とミカは祈りました。そして、主が必ずその願いを聞いてくださることをミカは確信していました。

 私たちは、決して完全ではありませんが、主の赦しは完全です。そのことを信頼し、いつくしみと恵みに満ちあふれた神様のみわざを期待しつつ、礼拝をささげていきましょう。

 「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」(詩篇103篇8節ー13節)