城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年四月五日             関根弘興牧師
                 第一コリント一章一八節

  受難週
  「十字架のことば」

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(新改訳聖書)


 今週は、イエス・キリストが十字架につけられたことを記念する受難週です。そして、来週の日曜日は、イエス・キリストがよみがえられたことを記念する復活祭(イースター)です。
 イエス様の生涯の中で最も大切な出来事は、十字架と復活です。今週は十字架について、来週は復活について、ご一緒に学んでいきましょう。
 今日の聖書箇所の第一コリント1章18節は、パウロが語った言葉です。「十字架のことば」というのは、「十字架のストーリー」という意味で、イエス様の十字架の出来事が語られるとき、それを信じて受け入れる一人一人に神様の力が働いて、救いが与えられ、生きる力が湧き上がり、新しい人生が始まるということを、パウロはここで確信をもって語っているのです。。
今日は、その十字架の出来事を詳しく見ていきましょう。

1 十字架への道

 さて、今日は、受難週の最初の日曜日ですが、棕櫚の日曜日(パームサンデー)と呼ばれています。イエス様が、ろばの子に乗ってエルサレムに入城される時に人々が道に上着や棕櫚の枝を敷いてお迎えしたことから、そう呼ばれるようになりました。
 イエス様は、それ以前にも、たびたびエルサレムに来ておられましたが、この日だけは、わざわざ弟子たちに命じて、近くの村からろばの子を借りて来させ、それに乗ってエルサレムに入られたのです。なぜそんなことをなさったのでしょうか。
 旧約聖書のゼカリヤ9章9節には、救い主が来られる時の様子がこう預言されています。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたの所に来られる。この方は、ただしい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも雌ろばの子の子ろばに。」
 当時、馬は戦争の時に用いられました。武力で敵と勇ましく戦う時は馬に乗るのです。一方、ろばは、平和なときに乗る動物です。ですから、ゼカリヤの預言の「子ろばに乗られる王」とは、「平和をもたらす王」であることを表しています。
 イエス様は、この預言の通りにろばの子に乗られました。それは、「わたしが、あのゼカリヤ書に預言されている救いと平和をもたらす王なのだ。本当の平和が到来する時がやってきたのだ」ということを人々に示すためだったのです。
 そして、当時の人々は、そのゼカリヤの預言をよく知っていましたから、ろばの子に乗るイエス様を見て、すぐに「この方こそ、私たちを救い、平和をもたらしてくださる王だ」と考えて大歓迎したのです。彼らは、口々にこう叫びました。「ホサナ、祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」彼らは、「とうとう我々をローマ帝国の圧政から解放してくれる王が現れた。この王が我々の国を再建し、繁栄と平和をもたらしてくれるに違いない。万歳!」と大喜びしたわけです。
 しかし、イエス様は、彼らが期待するような、この世での勝利や繁栄のために来られたのではありませんでした。イエス様は、人がどうすることもできない罪の問題を解決し、心の底からの平安を与えるために来てくださったのです。ですから、イエス様は、人々の期待とはまったく逆の十字架への道を進んでいかれたのです。

2 十字架の意味 

 イエス様は、罪を犯したことがないどころか、苦しむ人々や迷う人々をあわれみ、助け、励まし、導き、愛と希望と赦しを語られました。しかし、このエルサレム滞在中に当時の指導者たちのねたみによって捕らえられ、いいかげんな裁判にかけられ、十字架刑を宣告されてしまいます。これは、表面的に見れば、イエス様が悪意を持つ人々によって理不尽にも十字架にかけられてしまっただけのように見えますね。しかし、聖書は、それも神様の大きな御計画の中にあったのだと教えています。
 マタイ20章17節ー19節を見ると、イエス様は、エルサレムに向かう途中で弟子たちにこう言っておられました。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」この「人の子」とは、救い主という意味で、つまり、イエス様御自身のことですね。イエス様は、これから御自分が十字架につけられることを前もって知っておられ、そのためにエルサレムに行かれたのです。
 また、エルサレムで、弟子たちにこう言われました。「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」(マタイ26章2節) イエス様は、御自分が具体的にいつ十字架につけられるかも前もってご存じでした。そして、弟子たちとの最後の晩餐の時を設け、裂いたパンとぶどう酒を手に取って、「これは、これからわたしが人々の罪の赦しのために十字架にかかって裂かれる体と流す血を表すものだ」と言われたのです。
 旧約聖書の預言者イザヤは、イエス様の来られる七百年も前に、救い主についてこう預言しました。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53・5)やがて来られる救い主が私たちの罪のために苦しみを受けてくださり、それによって私たちは癒やされ平安を与えられるというのですね。イエス様の十字架は、この預言を成就するものでした。
 また、イザヤは、同じく53章の6節と10節でこう言っています。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」つまり、イエス様がすべての人の罪を背負って十字架で苦しみをうけることは、主である神様のみこころであり、神様がはるか昔から立てておられた御計画だったということなのです。
 実は、神様は、旧約聖書の有名な出来事の中で、その御計画を象徴的に示しておられました。エジプトで奴隷状態になっていたイスラエルの民を解放するために、神様はエジプトに十の災いを下されたのですが、最後の災いは、エジプト中の初子が一晩のうちに死ぬというものでした。しかし、イスラエル人たちは、神様の命令に従って子羊をほふり、その血を鴨居と門柱に塗りました。すると、血を塗った家は、神様が過ぎ越してくださり、災いは起こらなかったのです。この出来事を記念して、毎年、過越の祭りが行われるようになりました。つまり、過越の祭りは「子羊の血によって救われた」ことを記念する祭りだったのです。イエス様は、その過越の祭りの時に十字架にかかられました。それは、イエス様こそ「世の罪を取り除き、まことの救いをもたらす子羊だ」ということを示しているのです。
 しかし、神様は、なぜ御子イエス様を十字架にかけるなどという御計画をお立てになったのでしょうか。
 それは、神様の御性質によるのです。神様は完全に義なる方で、いかなる罪も容認することはできませんから、罪ある私たちは罰せられ滅びるしかありません。しかし、神様は私たちを愛しておられるので、何とかして救いたいと願われたのです。そこで、御自分の義と愛を同時に示すために、御自身が大きな犠牲を払うという方法をとられました。それは、御子イエスを私たちの身代わりに十字架につけるという方法です。神であるイエス様が私たちと同じ人となって来られ、私たちの身代わりにすべての罪の罰を受けてくださる。その結果、私たちは罪なしと認められ、神様との正しい関係を回復し、神様のいのちによって新しく生かされ、神様の愛の中で歩むことができるようになるのです。
 聖書にはこう記されています。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(第二コリント5・21)「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(第一ヨハネ3・16)
 イエス様の十字架を通して、神様の完全な義と、いかなる犠牲をも惜しまない深い愛が示されました。十字架こそ、私たちが神様の御前で義と認められる根拠であり、また、神様の私たちへの深い愛のしるしなのです。ですから、私たちは、イエス様の十字架を見上げる時、赦されている感謝と愛されている喜びを味わうことができるのです。
 
3 十字架上の七つの言葉

 ですから、イエス様は、神様のみこころに忠実に従って、自ら進んで十字架にかかられたのです。
 当時、十字架刑は、最も極悪なことをした社会的に地位の低い人々を処刑する道具でした。古代カルタゴで始まった死刑の方法です。囚人の手と足に生きたまま釘を打ち付けてぶら下げ、囚人は、のたうち回り苦しみ続けて死んでいくのです。世にも残酷な処刑法でした。しかも、兵隊たちは、十字架につけられる囚人に対しては何をしても許されたそうです。前もって痛めつけておいたほうが十字架上で苦しむ時間が短くて済むという理屈をつけて、「これは、慈悲だぞ!」とうそぶきながら、兵隊たちは囚人にさんざん残虐な行為をしました。あまりにも残酷なので、ローマの市民権を持っている人には十字架刑を科してはならないことになっていました。その十字架に、イエス様はつけられたのです。
 十字架刑を宣告されたイエス様は、兵士たちに鞭打たれ、笑いものにされました。茨の冠をかぶせられ、その長いとげが頭に刺さり血が流れました。また、背中は鞭打たれ、裂けて肉が飛び出るほどになっていたでしょう。その痛む背中に十字架を背負わされて、ゴルゴタという丘に引かれていったのです。(「ゴルゴタ」は「どくろ」という意味で、ラテン語では「カルヴァリアCalvaria」、英語では「カルバリCalvary」と言います。)途中、何度も倒れ、その度に、ローマ兵は容赦なく鞭を打ち付けました。
 ゴルゴタの丘に着くと、三本の十字架が立てられました。真ん中の十字架にはイエス様が、そして、左右の十字架には、極悪な犯罪人がつけられたのです。両手首と重ねた足に太い釘が打ちつけられ、その三点で全体重を支えなければなりません。十字架が垂直に立てられると、想像を絶する痛み苦しみに襲われるのです。
 その激しい痛みの中で、イエス様は七つの言葉を発せられました。人の本心は最も大きな痛みの中で出てくるものです。イエス様は、十字架の苦しみの中で何を言われたのでしょうか。

@「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23・34)

 これが、イエス様が十字架上で最初に発せられた言葉です。 自分をむち打ち、あざけり、十字架につけたローマ兵たちのために、また、自分を憎み、十字架刑に引き渡し、してやったりと思っているユダヤの宗教指導者たちのために、また、「イエスを十字架につけろ」と叫び、高みの見物をしている群衆のために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。彼らに、のろいではなく、赦しを宣言なさったのです。
 以前、この教会にも来てくださいましたが、国立駿河療養所の中にある神山教会の工藤清牧師のことを思い出します。工藤先生は、ハンセン病を病み、自暴自棄になっていたときに、聖書に出会いました。「愛なんて、絵空事だ」と考えていた工藤先生は、キリストの十字架の記事を読んで、こう思ったそうです。「キリストは何も悪いことをしていないのに十字架につけられた。それなのに、『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』と語った。この人こそ、まことの愛の持ち主だ。救い主でなければ、こんな愛は持ち得ない」と。そして、聖書を読み進めていくうちに、その十字架の言葉が、十字架のまわりにいた人たちだけに語られたのではなく、自分自身にも語られているのだと知ったのです。「こんな罪深い者のためにキリストが身代わりに十字架についてくだり、赦してくださった」ということを知り、そのキリストとの出会いによって、人生が百八十度変わったのです。
 イエス様は、私たちに対しても、「わたしは、あなたの罪を背負った。だから、あなたは赦されている」と語ってくださっているのです。

A「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23・43)

イエス様の両脇には、二人の犯罪人が十字架につけられていました。その一人はイエス様をあざけりました。「お前はキリストではないか。自分と俺たちを救ってみろ」と。しかし、もう一人は、「俺たちは自分のしたことの報いを受けているのだ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。イエス様、あなたが御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言ったのです。彼は、十字架につけられているイエス様を見て、「この方はみ国の位に着く方だ」とわかったんですね。不思議ですね。すると、イエス様は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイス(天国)にいます」と約束されたのです。
 この十字架につけられた犯罪人は、何もできない状態でした。出来たのは、イエス様こそ永遠のみ国へと導いてくださる方であると告白することだけです。しかし、その告白によって、イエス様は、彼に永遠のみ国の住まいを約束されたのです。
 私たちもこの犯罪人と同じです。自分の救いのために自分では何もすることが出来ません。ただ、イエス様が救い主だと信じて告白すること、それによって、イエス様は永遠の救いの約束を与えてくださるのです。

B「女の方。そこに、あなたの息子がいます」「そこに、あなたの母がいます」(ヨハネ19・26ー27)

イエス様の十字架のもとで、母マリヤには、嘆き悲しむ女性たちがいました。その中に母マリヤもいました。母として十字架上で苦しむ息子を見るほど辛い経験があるでしょうか。
 イエス様は、そんな母マリヤを思いやり、そばにいた愛弟子であるヨハネにマリヤを託されました。ご自分が激しい苦しみの中にあるにもかかわらず、イエス様は、人を思いやることがおできになりました。イエス様は、決して自分の痛みのゆえに人の痛みを忘れる方ではないのです。

C「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27・46)

イエス様が十字架につけられたのは、午前九時でしたが、十二時になったとき、突然全地が暗くなり、三時まで続きました。そんな中で、イエス様は、この言葉を叫ばれたのですが、訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味です。
 この言葉を読んで、「神に見捨てられたのだから、イエスの十字架は失敗だった」と言う人がいます。しかし、それは、聖書もイエス様の十字架の意味も全く知らないからです。
 さきほどお話ししたように、イエス様は私たちの代わりに罪を背負い十字架上で罪の罰と呪いを一身に引き受けてくださいました。その結果、愛と希望といのちの源である神様との関係を完全に絶たれるという絶望を味わい、こう叫ばれたのです。
 また、この叫びは、詩篇22篇1節の言葉と同じです。詩篇22篇は「キリストの受難の詩篇」と呼ばれ、将来、救い主が味わう苦しみを預言したものです。つまり、イエス様こそ、旧約聖書で預言されていた救い主であることが、この叫びの言葉からも明らかになっているのです。

D「わたしは渇く」(ヨハネ19・28)

イエス様は、十字架上で、肉体的な渇きだけではなく、父なる神様との交わりが途絶えてしまうという最も大きな渇きを覚えられました。私たちの罪のために、神様の愛や恵みから切り離されてしまったのです。どうして渇きを覚えないはずがあるでしょうか。

E「完了した」(ヨハネ19・30)

 この「完了した」という言葉は「成就した」「成し遂げた」という意味です。
 もし十字架が失敗なら「失敗した」と言うでしょう。また、もし、意に反して十字架につけられたのなら、「やり残したことがまだある!」「不当な仕打ちだ」と叫ぶのではないでしょうか。しかし、イエス様は、「完了した」と言われました。それは、イエス様が十字架につけられることによって、救いのみわざが完成したと言うことです。イエス様の十字架によって、私たちの罪が赦される道が開かれたのです。
 十字架は、決して偶発的な出来事ではありません。最初から神様のご計画によって定められ、イエス様がその神様のみこころに従って自ら進んで十字架にかかり、想像を絶する苦しみを味わい、救いのみわざを完了してくださったのです。

F「父よ、わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23・46)

イエス様が最後に言われたのは、この言葉でした。イエス様は、最初から最後まで、父なる神様の救いの計画に従順に従われました。私たちの救いのために、神の子であるイエス様が私たちと同じ立場にまで下ってきてくださり、私たちの代わりに十字架の苦しみを味わってくださいました。そして、最後にすべてを父なる神様にゆだねて息を引き取られたのです。

 イエス様の十字架と復活と聖書の教えの中心であり、私たちの信仰の土台です。
 聖書はこう教えています。
 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(第一ヨハネ1・7)
 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2・20)
 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6・6)
 キリストの十字架によって罪を赦され、きよめられた私たちの内には、復活されたキリストが生きておられます。キリストのいのちによって新しくされ、生かされ、キリストのような姿に変えられていくのです。そして、そのキリストは、いつまでも私たちと共にいてくださいます。
 キリストが十字架につけられたのは金曜日です。そして、ユダヤ式数え方で三日目となる日曜日に、キリストはよみがえられました。そして、今も生きておられます。来週は、そのキリストの復活を記念するイースターですから、復活について、改めてご一緒に学びたいと思っています。
 今週一週間は、キリストの十字架の苦しみが私たちのためであったことを覚えつつ、感謝をささげていきましょう。