城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年五月三日              関根弘興牧師
                         詩篇42篇

    「魂の渇き」

指揮者のために。コラの子たちのマスキール
1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。4 私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
 6 私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言っています。11 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。(新改訳聖書第三版)


 今日は、礼拝の聖書交読でもたびたび読まれている詩篇42篇から、信仰に生きるということはどのようなことなのか、そして、私たちがどのような態度でこの人生を歩んで行けばいいのかをご一緒に考えていきましょう。
今日の詩篇には、表題が付いています。「指揮者のために。コラの子たちのマスキール」とありますね。
 旧約聖書の有名なダビデ王は、神様を賛美するために特別に訓練した聖歌隊と楽団を作り、アサフ、ヘマン、エドトンという三人を指導者として任命しました。第一歴代誌25章の記録を見ると、聖歌隊は12人が一組で、24組あり、三人の指導者の息子たちが各組のリーダーとなっていました。彼らは、交替で公の礼拝の際に楽器を演奏し、賛美しました。詩篇の言葉にメロディーをつけて歌ったのですね。
 ですから、詩篇には、いろいろな表題がついています。たとえば、「フルートに合わせて」「弦楽器にあわせて」とか、また、歌い方の技法のようなものが書かれているものもあります。今日読んだ詩篇42篇の表題には、「指揮者のために。コラの子たちのマスキール」と書かれていますが、「コラの子たち」は聖歌隊で奉仕をした人たちです。そして、「マスキール」というのは、意味がよくわからないのですが、「教える歌」「教訓的な歌」という意味があると言われています。あるいは、「特別な歌の技法」のことだと考える人もいます。
 とにかく、旧約の時代の人々は、神様に賛美をささげることを大切にしていました。礼拝のために特別な聖歌隊が編成され、賛美をささげ、また、賛美を通して神様が語りかけてくださるということを覚えながら礼拝していたのですね。
詩篇22篇3節には、「神様はイスラエルの賛美を住まいとしておられる」と書かれていますが、私たちが神様を心から賛美するとき、神様が共にいてくださることを味わうことができるのですね。
 ですから、私たちがここで礼拝するときにも、賛美は大切です。賛美は説教前の「刺身のつま」ではありません。賛美を通して、時には説教以上に神様の現実に触れ、励まされ、支えられることもあるのです。ですから、私たちは、心からの信仰の告白として賛美をささげていくのです。
 さて、今日読みました「詩篇42篇」は、大変な苦悩の中で書かれた詩篇です。この詩篇を通して苦しみの中にあっても希望を告白することが私たちの信仰生活にとても大切なのだということを学んでいきたと思います。

1 魂の渇き

この詩篇の作者の魂は、非常に渇いていました。パレスチナ地方では、日本と違って、いつも水が流れているわけではありません。乾季になると多くの川は枯れてしまいます。そこで、鹿は、少しだけちょろちょろ流れている水を求めて谷底まで下っていくのです。それは、水を必死に求める孤独な姿です。この作者は、自分の姿をその鹿の姿と対比しているのですね。
 作者はその時、礼拝の中心地であったエルサレムから遠く離れざるを得ない状態にあったようです。その場所に行きたくても行くことが出来ない、許されないような状況にありました。6節に「それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします」とありますね。ヨルダンとヘルモンには高い山があります。ミツァルというのは小さいという意味があるそうですので、低い山ということなのかもしれません。
 ある学者は、「この詩篇は、エルサレムがバビロン軍に破壊された時に捕虜となった祭司が、バビロンに連れていかれる途中のヨルダンやヘルモンの地で書いたのだろう」と考えます。また別の学者は、「1節の動詞の形が女性形だから、この作者は、もしかすると、奴隷狩りで捕らえられた女性ではなかったか」と言います。いずれにせよ、この詩篇は、人生で最も困難な中で書かれたものの一つなのです。
 この作者は、苦しみの中で、魂の渇きを覚えていました。また、3節には、「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」と書かれていますね。自分の置かれた状態を考えて、絶えず涙し続けていたようです。
 とくに、この作者を苦しめていたのは、「どうして、まことの神様を礼拝していた私がこんな惨めになるのだろう」「神様が生きているなら、どうしてこんな事態をほっておかれるのだろう」という思いでした。詩篇73篇1節を読むと、「まことに神は、心のきよい人たちに、いつくしみ深い」と記されています。だから、神様を信頼し生きているなら、当然、神様のいつくしみと恵みがあふれていいはずだと考えるわけですね。それなのに、なぜこんな苦しみが襲ってくるのかという思いが作者を苦しめていました。しかも、周りの人々からは「おまえの神はどこにいるのか」というあざけりの声が聞こえてくるのです。
 これを読むと、あのヨブ記に出てくるヨブの妻の言葉を思い出しますね。ヨブが突然すべての財産と子どもたちを失い、しかも全身に悪性の腫物ができて苦しんでいたとき、ヨブの妻は、「こんなひどいことになっても信仰を持ち続けるのですか。信仰なんか持っていても何の意味もない。くだらない。いっそ神様をのろって死になさい」と言ったのです。これは、実に多くの人の考えを代表している言葉だと思います。それに対してヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と応じました。
 しかし、それからしばらくの間、ヨブは、絶望との壮絶な戦いを経験しなければなりませんでした。きれいごとなど言っていられません。神様をのろうことはしませんでしたが、あまりの苦しみに、「私なんか生まれて来なければよかった。私の生まれた日はのろわれよ」と叫んだのです。
 ヨブを最も苦しめたのは、「神様は、私のことを本当に理解してくださっているのだろうか」という心の渇きでした。ちょうど、今日の詩篇の作者と同じようにです。私たちもそのような状態に陥ることがあるでしょう。今がそのようなときであるかも知れませんね。そんなとき、どのような信仰のあり方が必要なのでしょうか。

2 信仰のあり方

@生ける神を求める

私たちが「信仰」という言葉を使うとき、いくつかの自分勝手な思い込みがあるように思います。
 一つは、神様を信じると良いことがある、神様を信じると立派になれる、お金が儲かる、とにかく自分の色々な欲求を満足させるために信仰があるという思い込みです。いつも自分が中心で、神様は自分に都合のいいことをしてくださるはずだと思い込んでいるのです。ですから、調子の良いときは、何も問題はありませんが、突然、問題や苦しみ、病気などが起こると、途端に「神様は、なんでこんなことをなさるのか。神様なんて信じられない」で終わってしまうんです。こうした信仰の持ち方をしていると、つまずいてしまいます。
 もう一つは、「信仰を持っていれば、問題が襲って来ても悩んだり落ち込んだりすることはないはずだ」という思い込みです。そして、もし悩んだり落ち込んでしまうと、それは自分には立派な信仰がないためだと考えてしまい、自分は神様を信じ切れない不信仰な者だと決めつけてしまうのです。こう考えている人の信仰生活は辛いですね。なぜなら、問題が起こらないことなど人生にはないからです。問題が起こるたびに落ち込み、悩み、そのたびに自分を責めていくわけですから、辛いですね。このような信仰生活も、いつしか疲れ切って、つまずいてしまうのです。
 しかし、聖書が教えている信仰のあり方は、そういうものとは違います。「自分」が中心にならないんです。たとえ困難があっても、悩んでも、「神様はなお私を愛してくださる」「神様がなお私を導いてくださる」というように、いつでも主語が自分ではなく神様なんです。
 旧約聖書の詩篇23篇には「主は私の羊飼い」「主は、導いてくださる」「主がともにいてくださる」「主が食事を整えてくださる」とすべての主語は神様です。神様がすべてのことを支配し、導いておられる、神様が羊飼いで私たちを養ってくださる、だから、「たとえ、死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざいわいを恐れない」と告白することができたわけです。
 今日の詩篇の作者はどうだったのでしょう。この作者は「生ける神を求めて渇いています」「あなたを慕いあおいでいます」と記していますね。生きている神様に求めるのでなければ、その求めはむなしいものです。木や石にすぎないいのちのない神々に求めるのではなく、生ける神に求めるのだ、と告白しているのです。
人生最大の困難の中で、渇きを覚え、苦しみが襲ってきた時、この作者は「こんな苦しみがあるのだから、もはや神などいない」と告白したのではなく、「生ける神を慕い求めた」のです。
 神様を否定して、問題の解決を得ることはできません。神様をのろって、道が開けることなどありません。自分では理解出来ない苦しみがある時、信仰の葛藤がある時こそ、生ける神がおられることを信頼し、なおこの神様に求め続けていく姿が大切であることをこの詩篇は教えているのです。

A思い起こす

 さて、この作者が魂の渇きの中でもがき苦しんでいたとき、その問題解決の糸口となったのは何だったのでしょう。この作者はまず、「思い起こす」ということをしていきました。4節にこう書かれていますね。「私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。」この作者は、喜びと感謝をもって神様に礼拝をささげた時のことを思い起こしたのです。エルサレムの神殿で、みんなと一緒に礼拝をした時のことです。
 でも、思い起こすのはいいのですが、ただ「昔はよかった。でも、今は駄目だ」で終わってしまっては意味がありません。今を否定し、無益な回想をするだけというのは虚しいですね。 しかし、この詩篇の作者にとって、昔、喜びと感謝をもって神様を礼拝したことを思い起こすことは、大きな慰め、力となっていきました。みんなと一緒に喜びと感謝をもって礼拝をささげた神様は、今の全く違う環境の中にも共にいてくださる生ける神様ではないか、ということを深く思うようになっていったのです。
 詩篇103篇には「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあります。主の良くしてくださったことはたくさんありますが、中でも、特にイスラエルの人々が困難な時にいつも思い起こした出来事があります。それは、エジプトで奴隷であった彼らがモーセに率いられてエジプトを脱出し、紅海を渡り、約束の地へと導かれた出来事でした。そのすばらしい主のみわざを思い起こし、彼らは、「あの時、私たちを守り、導いてくださった神様が、今もおられるではないか」と再確認していったのです。
私たちは、時々、信仰に生かされていることに感動が失われ、主の恵みに慣れっこになってしまうことがありますね。だから、いつも繰り返し、神様の恵みを想起することが大切です。
 今、私たちは、コロナ・ウィルス感染拡大のために、今まで当たり前のように礼拝をしていたこの場所に集まることを自粛しています。しかし、この場所に集うことができなくても、それぞれの場所で、生ける神様に喜びと感謝の心を込めて礼拝をささげていこうではありませんか。
 困難に直面した時、何を思い起こしますか。この詩篇の作者は、「あの時は喜びと感謝をもって礼拝したんだ。本当に生き生きとした礼拝をささげたんだ。なぜなら、生ける神様がおられるのだから」ということを思い起こしたのです。私たちは、今、会堂に共に集まることができませんが、「いまそれぞれが礼拝を捧げているその場所で、主の豊かな現実を見させてください。恵みをあふれるほど味わわせてください」と期待していこうではありませんか。

B告白

 そして、この作者は正直な告白をしています。大切なのは、神様の前に素直になることです。神様は、私たちが素直に告白する悩みや真実な叫びを無視されることは決してありません。
 この詩篇の作者は、3節で「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」と言ったかと思うと、8節では「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが」と言っています。しかしまた、9節では「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」と言っています。泣いたり、賛美したり、不満をぶつけたり、まるでジェットコースターみたいですね。この作者の置かれている状況は何も変わっていませんが、この作者は本当に素直に、自分を隠そうとせずに、その時々の自分の思いを素直に告白しています。そして、「昼も夜も涙があるけれど、でも、その傍らには恵みの歌もあるのだ」ということを苦しみの中で体験していったのです。人生には、涙もあるけれど、同時に恵みの歌も備えられているということを味わうことができるのですね。
 私たちは、この作者にとても親近感を持つことができますね。私たちの心も、まるでジェットコースターみたいですね。でも、それでいいではありませんか。私たちは、喜んだり悲しんだり、賛美したり嘆いたりします。それを隠す必要はありません。無理をして自分をよく見せる必要はありません。ただ、素直に主の前に正直な告白をしていくとき、主の恵みへの感謝の歌も生まれてくるのです。

C待ち望む

 さて、神様に素直に自分の状態を告白するとともに、この作者は、5節でこう言っています。「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」
 大変な心の葛藤の中で、作者は「なぜうなだれているのか」と自分に問いかけています。そして、自分に向かって「神を待ち望め」、「なおも神をほめたたえる」と意志的にあえて自らに言い聞かせているのです。
 この作者は生ける神に求めています。生ける神様がいてくださるから求めたのです。そして、求めたら、今度は神様の働きを待つのです。もちろん何もしないでただ待っているということではなくて、与えられた毎日を誠実に生きながら待つのです。 この詩篇の作者は、「私は、生ける神様に求めたのだから、その生ける神様の働きを待ちます」と告白しました。そして、それを自分に言い聞かせ続けたのです。
 私たちは、なかなか待てないことがあります。そして、焦り、恐れ、不安に駆られてしまうのです。だから、この作者が行ったように、何度も何度も「神を待ち望め。私は、なおも神をほめたたえる」と自分に繰り返し言い聞かせていくのです。
 私たちの人生で訓練される必要があるのは何かというと、この「待つこと」ではないかと思います。「忍耐」です。私たちは、自分の考えている時間と神様の時間がなかなか一致しないので焦ります。そして、待てないのです。そして、委ねることをしなくなってしまうことがあるのです。でも伝道者の書3章11節には、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と書かれています。ですから、「神を待ち望め」と自らに語りかけ続けるのです。
ところで、お気づきなった方もいると思いますが、5節と11節にはほとんど同じ文が書かれていますが、違いが二つあります。一つは、「なぜ」という言葉が5節は一回なのに11節には二回出てきます。もう一つの違いは、最後の行です。5節では「御顔の救いを」となっていますが、11節では「私の顔の救い、私の神を」となっていますね。
 聖書では「顔」という表現を使ってその人自身を表すことがあります。ですから、5節で「御顔」と訳されているのは、神様ご自身のことです。つまり、「御顔の救い」とは「神様の救い」という意味です。「神様が与えてくださる救い」ということですね。
 一方、11節では、「私の顔の救い」となっていますね。「私の顔の救い」というのは、とても奇異に感じる表現ですね。しかし、先ほどお話しましたように、「顔」とはその人自身をさす表現として使われることがよくあります。ですから、「私の顔」とは、この作者自身のことなんですね。つまり、「私の顔の救い」とは「私自身の救い」、「私自身に与えられる神様からの救い」という意味なんです。ですから、5節と11節の意味は結局、同じなんですね。
 困難な中でも、なおも生ける神様をほめたたえ、神様の救いを待ち望む、それが大切だということをこの詩篇は教えているのです。

 今週、神様の様々な恵みを思い起こしながら、「主よ。私はあなたをほめたたえます」という祈りをもって過ごすことができたら、幸いですね。この状況がいつまで続くのか誰もわかりません。時には、自分自身に向かって「わがたましいよ。なぜ、絶望しているのだ。なぜ、思い乱れているのだ。神を待ち望め、なおも神をほめたたえよう」と問いかけるようなことが起こるかもしれません。でも、その涙の叫びの傍らに恵みが備えられていることも覚えて歩んで行きましょう。