城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年五月一〇日             関根弘興牧師
                  ローマ一章一節
ローマ人への手紙連続説教1
   「召され選ばれた者」 

 1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ(新改訳聖書)

 今日から「ローマ人への手紙」の連続説教を始めます。
 この手紙は、パウロがローマの教会に書き送った手紙です。当時のローマは世界の中心であり、「すべての道はローマに通ず」と言われるほど郵便制度や交通網が発達していました。商業や政治のためのあらゆる道がローマに通じるようになっていたのです。ですから、ローマから発信されるものは世界中に広がるようになっていたわけですね。
 また、当時のもう一つの大きな特徴は、共通の言語である「ギリシヤ語」が普及していたことでした。紀元前四世紀にギリシヤのアレキサンダー大王が世界征服の野望を持ったことによって、各地にギリシヤ語が広く浸透していきました。その結果、ローマ時代には、ギリシヤ語が公用語として広く用いられていたのです。それは「コイネーギリシヤ語」と言われるものでした。
 ですから、この時代は、すべての道がローマに通じているだけでなく、共通の言語も普及していたので、多くの情報が幅広く伝達されるようになっていました。ですから、パウロは、何とかしてローマに行って福音を分かち合いたいと願っていたのですね。
 パウロがこの手紙を書いた時、彼はまだ一度もローマに行ったことがありませんでした。しかし、各地でクリスチャンになった人たちが仕事や商売のためにローマに移り住んでいたので、ローマにも教会がありました。パウロが伝道した現在のトルコ(小アジア)やギリシヤ(マケドニヤ、アカヤ)の地域のクリスチャンたちの中にもローマに行って、ローマのクリスチャンたちとともに礼拝をささげている人々がいたのです。
 ただ、誤解しないでください。「大都会ローマの教会に集まった」と言っても、立派な教会堂が街角に立っていたわけではありません。「出入り自由、どうぞお越しください」と大きな看板が掲げられていたわけでもありません。当時の教会は「家の教会」と言いまして、家庭が開放され、仲間が集まって、そこで小さな礼拝が行なわれていました。私たちが見聞きしているような立派な教会や礼拝堂は、四世紀になるまではどこにも見あたらなかったのです。私たちは「教会」というと、すぐに十字架やステンドグラスのついた建物を思い起こしますが、この手紙が書かれた当時のクリスチャンたちにとって、「教会」とは、建物ではなく、ただイエス様を救い主として告白した人々が集められる場所であり、その交わりそのものを意味していたのです。
 そのような教会が当時ローマにいくつあったかわかりませんが、このパウロの手紙は、それぞれの家の教会に回覧され読まれていきました。
 ですから、私たちもこの手紙をじっくりと読み、パウロがこの手紙を通して分かち合おうとしている神様の恵みを深く知り、味わいながら生きる者とされていきましょう。

 今日は、この手紙の書き出しの部分、パウロの自己紹介の言葉をご一緒に考えていきましょう。日本語訳では、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」となっていますが、ギリシャ語原文では、語順が違っています。「パウロ、しもべ、キリスト・イエスの、使徒として召された、神の福音のために選び分けられた」となっています。この原文に記されている順番に沿って詳しく見ていきましょう。

1 キリスト・イエスのしもべ

 パウロは、まず、「パウロ、しもべ」と自己紹介しました。この「しもべ」とは、「奴隷」のことです。
 考えてみてください。自己紹介で「私は、関根弘興です。奴隷です」なんて言ったら、「何だ、あいつ、奴隷なのか。奴隷の手紙なんか読む価値がない」と思うのではないでしょうか。日本は肩書きが大切と言われますからね。「何々大学の教授の世界的有名な○○先生からの手紙です」と言われたら、読んでみようと思うかもしれません。しかし、パウロは「私はキリスト・イエスの奴隷です、しもべです」とまず最初に語ったのです。
 パウロは、由緒ある家柄の出で、一流の教育を受け、学者としてもやっていける人でした。そして、国会議員の地位が約束され、当時の人たちの羨望の的であったローマ市民権も持っていました。ユダヤ教の中でも特に厳格に戒めを守ることで有名なパリサイ派に属し、宗教的にも指導的な立場にいました。
 しかし、パウロは、テモテに書き送った手紙の中で、こう記しています。「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」(第一テモテ1・13)パウロは、確かに外側は立派でした。才能も地位もありました。しかし、熱心なユダヤ教徒だったので、イエス様を救い主と認めず、クリスチャンを迫害することが神に仕えることだと考え、実行していたのです。
 しかし、この世の成功者であったパウロが、この手紙では「私は、キリスト・イエスの奴隷だ」と言っています。また、ピリピ人への手紙の中では、「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ3・8)とも記しているのです。
 この大きな価値観の変化は、いったいどこからきたのでしょう。それは、イエス・キリスト知ったことによるのです。「イエス・キリストは、神であられる方なのに、私と同じ人となって来てくださり、私のような罪深い者を愛し、私の罪のために十字架にまでかかってくださった」ということをパウロは知りました。ですから、パウロが「キリストの奴隷」という言葉を使うときは、「イエス様が、私のために栄光の姿を捨てて来てくださり、こんな私のために仕えてくださった。だから、私は、喜んで、このキリストの愛と真実に捕らえられた奴隷として生きていこう」という思いがあふれているのです。
 ところで、人は皆、本来、何かに仕えて生きていく存在です。会社であれば、上司に仕えます。夫婦であれば、お互いに仕え合う必要があるでしょう。ある人は自分のために自分だけに仕えるという人もいるでしょう。また、欲の奴隷、快楽の奴隷になってしまうこともあります。また、聖書の中には、罪の奴隷という表現が出てきますが、人は、いろいろなものに仕えて生きているのです。
 問題は、何に仕えるかということです。人は、何に仕えるかによって人生が変わっていきます。人間関係の中で、自分にだけ仕えて他者のために仕えることをしないなら、喜びも平安も失われていきます。悪い者に仕えたら人生が破壊されます。惑わす者に仕えたら、正しい方向に進むことができません。
 しかし、真実の愛をもって愛してくださる方のしもべとして仕えることができたら、人生に新しい変化が生じてくると思いませんか。
 パウロは、「キリストのしもべとして生きていこう」と決心してからは、自分が世界に大きな影響を与えてやろうとか、大人物になろうとか、そんなことは一切考えなくなったことでしょう。捕らわれの身になっても、一生、日陰を歩むような状況になっても、人から認められなくても、裏切られても、それならばそれでいい、私はキリストのしもべなのだから、という意識を持っていたようです。
 ガラテヤ人への手紙2章20節にはこう記されています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」 私のために十字架で命を投げ出してくださったキリストの愛と真実によって私は生かされ、支えられている、それで十分なのだ、と言っているようですね。
 今日、私たち一人一人も、キリストのしもべです。表面的な成功や肩書きなどはいっさい関係なく、ただ、キリストの愛に捕らえられた者として歩んでいきましょう。

2 使徒として召された

 パウロという人は、不思議な人ですね。さきほど「私は奴隷です」と言ったかと思ったら、その直後に、「私は使徒として召されたのだ」とも記しています。奴隷と使徒では大違いです。「使徒」という言葉は、単に「メッセージを配達する者」という意味ではありません。ヘブル語では「シャーリアハ」と言いますが、「遣わされた者」という意味で、ユダヤ教の大切な用語として使われていた言葉です。ユダヤ教の「使徒」とは、「神殿当局から各地のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に派遣される公的使節」のことです。そして、使徒の語る言葉には、その使徒を派遣した当局の権威が付随していました。ですから、使徒の語る言葉には非常に権威がありました。ギリシャ語に訳されるときに「アポストロス」という言葉が使われましたが、その言葉は、「指令官」とか「指揮官」の意味としても使われているくらいです。
 ですから、「私はイエス・キリストの使徒です」と言う場合、それは「私はイエス・キリストから遣わされ、キリストの権威のもとにキリストの言葉を伝える者です」ということになるのです。
 聖書で「使徒」というと、まず、イエス様に選ばれた十二弟子がいますね。彼らはイエス様と一緒に生活し、イエス様の公生涯の目撃者となった人々です。ただし、ユダが裏切って十一人になりましたので、後にマッテヤという人が加えられました。
 そして、もう一人、使徒と呼ばれているのは、パウロです。彼は、クリスチャンを迫害するためにダマスコの町に向かっている途上で復活されたイエス様と出会い、劇的な回心をしました。そして、イエス様から使命を与えられ、使徒として生きていくことになったのです。
 ですから、「使徒」という言葉は、狭い意味では、十二弟子とパウロだけに使われます。しかし、広い意味では、クリスチャン一人一人が神様の恵みを運び、伝える使徒であると言えるのですね。クリスチャンは皆、キリストのしもべであり、また、神様の言葉を分かち合う使徒、スポークスマンとされているのです。
 それは、私たちの意欲や意志によって決まったのではありません。パウロは、使徒として「召された」と書いていますね。「召される」とは受身形です。私たちが自分で決めて自分の力でなったのではありません。神様に呼び出され、神様が任命してくださったということですね。
 私たちは、自分の意志で教会に来て、自分の意志で信じた、と考えます。しかし、本当はそうではありません。キリストが私たちを呼んでくださり、キリストが召してくださったからこそ、私たちはクリスチャンとして生きる生涯を始めることができたのです。

3 神の福音のために選び分けられた

 パウロは自己紹介の三番目に、「私は神の福音のために選び分けられた者だ」と言っています。キリストに選ばれたのは、神の福音を伝えるためなのだというのです。
 皆さん。「選ばれた者」という言葉にどんな印象を持ちますか。普通は、選ばれるためには、自分が頑張って努力しなければならないとか、優秀な成績や才能や特別な能力がなければならないなどと思ってしまいますね。
 しかし、パウロが「選ばれた」と書いているのは、難関中の難関を突破して神の栄誉を受けたという意味なのでしょうか。もちろん、パウロは優秀な人物です。しかし、神様が人を選ばれるのは、その人が優秀で非の打ち所がないからではありません。
 時々、私はとても不思議に思います。この世界には、優秀な人はたくさんいるし、地位のある人も、財産のある人も、世界中に発信できるような発言力のある人もたくさんいます。こういう人を神様がどんどん選んでくださったら、あっという間にこの日本にもクリスチャンがたくさん生まれるのではないかと思うのです。
 しかし、聖書には、こう書かれています。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。 まさしく、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」(第一コリント1・26ー31)
 皆さん、私たちが優秀であってもなくても、学歴があってもなくても、経済状態がどうであっても関係ありません。神様は、日常の平凡な私たちの存在そのものを通して福音を分かち合うために、私たちを選んでくださったのです。
 そして、神様は、ずっと以前から私たちを選んでいてくださった、と聖書は教えています。パウロは、ガラテヤ1章15節で「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった」と書いています。自分がクリスチャンを迫害していたその前から、いや母の胎にあるときから神様は自分を選んでくださっていたのだというのです。また、エペソ1章4節ではさらにこう書いています。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」 神様は私たちをこの世界が始まる前から選んでくださっていたというのです。これは、神様が私たちに対して永遠に真実な方だということです。
 神様が「あなたは福音のために選ばれたんだよ」とおっしゃるとき、それは、私たちは、イエス・キリストのすばらしさを紹介するために、福音に生きるために、また、日常生活の中でキリストの恵みを味わうために生かされているということなのですね。私たちが生かされているこの人生、何年生きるのか分かりませんけれども、この地上での生涯を最善に生きるために、私たちは世界の基の置かれる前から選ばれているというのですから、驚きですね。
 皆さんは今日、自分の意思でここに来ているわけです。また、信仰を持った時、自分の意思で「信じます」と告白しました。しかし、実は、その背後に神様の導きがあったのです。このことをじっくり考えるとき、イエス様の言われた言葉が思い起こされます。イエス様はおっしゃいました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネ15・16)
 これからしばらくの間、「ローマ人への手紙」を学んでいきますが、今日は、まず、パウロが自己紹介した内容を、皆さんもぜひ自分のものにしていただきたいのです。自分自身をどのように見、どのように自己紹介したらいいのでしょうか。
 第一に、私たちは、キリストのしもべです。キリストの愛に捕らえられた者として、どんな境遇に置かれても喜んでキリストに仕える者として生きていきたいですね。
 第二に、私たちは、キリストによって召された使徒です。キリストの恵みを伝える者としての権威を与えられているのです。大切な使命をゆだねられたものとして誇りをもちましょう。
 第三に、私たちは、福音のために選ばれた者です。そして、この福音とは何かということが、この手紙の大きなテーマなのです。福音とは何かを知り、福音に生かされ、分かち合う者として、この手紙を読んでいきましょう。
 「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」、この「パウロ」の名前の代わりにあなたの名前を入れて読んでみてください。
 私たち主にある者の姿が、ここに凝縮されているのです。