城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年五月一七日             関根弘興牧師
              ローマ人への手紙一章二節〜六節
 ローマ人への手紙連続説教2
   「福音とはキリスト」 


2 ──この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、──このパウロから、(新改訳聖書第三版)


 今日は、ローマ人への手紙連続説教の二回目です。
 先週の一回目では、パウロの自己紹介を学びました。パウロは、自分をキリストの愛に捕らえられたしもべ(奴隷)であり、キリストによって使徒として召された者であり、福音のために選ばれた者であると紹介していましたね。
 そのパウロと同じように、私たちも、キリストの愛に捕らえられ、キリストの言葉を届ける者として召され、福音を伝える者として選ばれています。ただし、それは、私たちが立派で非の打ち所がないからではありません。私たち自身は、不完全で弱く小さな存在ですが、神様は、そんな私たちを選び、私たちの弱さのうちにキリストのみわざを現すと約束してくださっているのです。
 さて、今日は、1章の2節から6節までを学びましょう。2節の頭と、6節の終わりにダッシュが引いてありますね。これは、1節に出てくる「福音」という言葉を受けて、その「福音」とはこういうものなんですよ、と注釈を付けているのです。パウロは、1節で「私は神の福音のために選ばれた」と書いていますが、では、その「福音」とはいったい何かということを、今日の箇所で説明しているわけです。
ところで、日本語で「福音」と訳されているのは、「ユーアンゲリオン」というギリシヤ語で、「良い知らせ」という意味です。英語だと「グッド・ニュース」ですね。
 良い知らせなら、誰もが聞きたいですね。しかし、何が「良い知らせ」なのかは、普通は、人によって違います。受験生にとっては、合格の知らせでしょう。病気の人にとっては、その病気を治す新薬の発見の知らせでしょう。災害の被災者にとっては、水が出ること、電気がつくことが良き知らせですね。普段なら当たり前のことでも、状況によっては本当に良き知らせになることがあるわけですね。
 しかし、聖書が伝えようとしている良き知らせとは、人によって違うとか、置かれている状況によって違うということはありません。聖書の伝える「福音」は、すべての人が必要とし、すべての人が普遍的に求めている知らせです。それを聞くことによって、自分の存在の価値を知り、人生の意味や目的を見出し、生きる希望と力を得ることができる知らせなのです。
 ヨハネの福音書4章に「サマリヤの女」の記事があります。
 イエス様がサマリヤ地方の井戸端で休んでおられたとき、サマリヤ人の女性が水を汲みにやってきました。通常、水汲みは朝の涼しいうちに行う仕事です。しかし、この女性は、人目を避けて、暑い真っ昼間にやってきました。彼女は何度も結婚を繰り返し、周りから不道徳な女と見られていたからです。
 イエス様は、この女性に「水を飲ませてください」と言われました。すると、彼女は、いぶかしげにイエス様を見て言いました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」当時、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪く、また男性が女性に声をかけることもほとんどなかったからです。すると、イエス様は、こうお答えになりました。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」これはどういう意味なのでしょう。それは「イエス様ご自身が、人を癒し、潤し、生かす福音そのものである」ということなのです。この女性の人生の渇きを満たすお方は、イエス様御自身なのです。イエス様は、「人が本当に必要としている福音を与えることが出来るのはわたしだ」と言われたのですね。
 パウロは「福音とは何か?」と問われたとき、躊躇せずに、「福音とは、私たちの主イエス・キリストです」と告白しています。イエス様の中に神様の愛と赦しといのちが示されているからです。そのイエス様御自身を通して示された福音について、今日の箇所から三つのことを考えていきましょう。

1 福音は、主イエス・キリスト

 パウロは、福音は神の御子に関することだと言い、その御子について二つの面を紹介しています。

(1)肉によれば

 まず、3節に「肉によればダビデの子孫として生まれ」たと書かれていますね。「肉によれば」、つまり、肉体を持つ人としては、イスラエルのダビデ王の子孫として生まれたということですが、ここには二つの大切な意味が含まれています。

@イエス様は、旧約聖書の預言の通りに来られた

 まず、これは、イエス様が旧約聖書の救い主に関する預言の通りにお生まれになったということを示しています。
 旧約聖書の第二サムエル記7章で、神様は、ダビデ王にこう約束なさいました。「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。・・・あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」また、旧約聖書では「救い主はダビデの家系から生まれる」とも預言されています。つまり、パウロが「ダビデの子孫として生まれ」と書いているのは、イエス様が「旧約聖書の預言の通りに生まれた救い主なのだ」という意味なのです。
 マタイの福音書の最初には、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と題して、アブラハムから、ダビデ王を経てイエス・キリストに至るまでの系図が詳しく記されています。これも、イエス様が旧約聖書の預言通りにお生まれになったまことの救い主であることを証明するためなのです。
 
Aイエス様は、私たちと同じ人となってくださった

 イエス様がダビデの子孫としてお生まれになったということは、イエス様が歴史上に実際に存在する人として来られたという事実も示しています。神の御子であるイエス様が、私たちと同じ肉体を持つ人となってくださったということです。パウロは、「イエス様が人として来られたことが、あなたがたの福音なのだ」と言っているのですね。
 イエス様が人となってくださったからこそ、私たちの代わりにすべての罪を背負って十字架にかかり、赦しと救いの道を開くことがおできになりました。また、イエス様は、私たちと同じ立場になって、私たちが経験するであろういっさいの苦しみを味わわれたがゆえに、私たちを本当に理解し、慰めと癒やしをもたらすことがおできになるのです。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4章14節ー15節)イエス様は、大祭司として、私たちの罪のための完全ないけにえとして御自身をおささげになりました。また、イエス様は、大祭司として、いつも神様の御前で私たちの立場に立ってとりなし、神様の祝福を祈り求めてくださっているのです。
 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」(第二コリント1章4ー5節)
 ですから、イエス様が人としてきてくださったことは、私たちの救いであり、大いなる慰めなのです。

(2)聖い御霊によれば

 それから、パウロは、3節に、イエス様のもう一つの面を紹介しています。イエス様は、「聖い御霊によれば、復活により、大能によって公に神の御子として示された方」であるというのです。
 イエス様は人として来られました。そして、十字架につけられました。しかし、惨めな敗北者として終わったのではありません。死を打ち破り、復活されたのです。そして、多くの弟子たちの前に姿を現し、御自分が復活されたことを明らかにされました。この復活によって、イエス様がまことに神の御子であり、まことの救い主であることが証明されました。そして、イエス様の約束がすべて必ず実現することも保証されたのです。たとえば、イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と約束なさいました。もし、復活がなければ、なんとむなしい言葉でしょう。しかし、イエス様が復活なさった今、この約束の確かさが証明されたのです。ですから、私たちは、永遠のいのちを与えられ、希望をもって生きていくことができるのです。

 このように、イエス様が「肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、復活によって公に神の御子として示された方」であるということこそ、すべての人にとって、イエス様がまことの救い主であることを示す「福音」なのです。

2 福音は、信仰の従順をもたらすもの

 次に、パウロは5節でこう書いていますね。「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。 」
 この「信仰の従順」とは、どういう意味でしょうか。
 「従順」と訳されているギリシヤ語には、「聞く」という意味からできた言葉です。つまり、パウロのいう「従順」とは、盲目的に服従するとか、思い込みや熱狂でついて行くという意味ではなくて、「聞いたことに従う」という意味があるのです。ローマ人への手紙10章17節には「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と書いてあります。イエス・キリストについて聞くこと、そして、聞いたことを信頼して行動していくことが「信仰の従順」なのですね。この信仰の従順について、特に次のことを覚えていてください。

(1)聖書の言葉を聞く

 まず、イエス・キリストについて書かれた聖書の言葉に耳を傾けることが大切です。私たちの従順は、イエス様に対するもので、聖書の言葉を通してイエス様から聞くことが福音そのものなのですね。
 もし、牧師が聖書から離れたことを言い始めたら、もうその牧師の言葉を聞く必要はありません。教会は親分子分の世界ではありません。牧師が親分で、信徒は牧師の言うことに絶対服従しなさい、などというのはおかしいのです。また、牧師が聖書以外のものに権威があるかのように語り始めたら、「福音の本来の姿から離れている」と牧師に注意するくらいに、聖書を読み、聖書に親しんでください。

(2)心から進んで

 福音を聞くと、私たちは、心から従いたいという思いが与えられることでしょう。もし、無理強いされたり、よくわからないけれど従わないと悪いことが起こるかもしれないなどと恐れて従うなら、それは神様が喜ばれる従順ではありません。まず、聖書から、神様の深い愛と赦しと恵みを受け取り、喜んで自発的に従う者とされていきましょう。
 パウロも、すばらしいイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことによって、あらゆる国の人々が心からキリストに従うようになることを期待し、どんな困難があっても、自分の使命を果たしていったのです。

3 福音は、受け継がれるもの

 パウロは、優秀な神学者でした。しかし、イエス・キリストの福音は、パウロが自分で勝手に作り上げたものではありません。
 福音を最初に宣べ伝えたのは、イエス様御自身です。
 イエス様は、ガリラヤ地方のナザレという町で成人し、三十才を過ぎてから、福音を宣べ伝え始められました。イエス様は、開口一番、こう言われました。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。
 このイエス様の言葉には三つのポイントがあります。

(1)「時は満ちた」

 これは、「旧約聖書で約束されていた時が今来た」ということです。旧約聖書には、救い主が来られることが預言されています。創世記から始まり、様々な預言者たちによって救い主の到来が預言されていました。その救い主が今来た、とイエス様は言われたのです。

(2)「神の国は近づいた」

 これは、イエス様が王として私たちを支配してくださる時が近づいたということです。人は、何かに支配されながら生きている存在です。もし、私たちが自分で自分を支配するなら、間違ったり、不安になったり、自分勝手で傲慢な生き方になったりしてしまうでしょう。また、物に支配されるなら、人のつながりや心が失われていくでしょう。しかし、もし恵みとまことに満ちたイエス様によって支配されるなら、そこに愛と平和に満ちた神の国が実現するというのです。イエス様が来られたことによって、人は、本来の自分らしい生き方をすることができるようになるのです。

(3)「悔い改めて福音を信じなさい」

 「悔い改め」とは、神様に背を向けた状態から神様の方に向き変えることです。心の方向転換です。「心の方向を変えて、神様の方を向いて、福音を信じなさい」とイエス様はおっしゃったのです。

 このイエス様のメッセージは、弟子たちに引き継がれていきました。「使徒の働き」を読むと、弟子たちの大胆な説教がいくつか記録されています。たとえば、2章には、ペテロの説教が記されているのですが、ペテロも、やはり大きく分けると三つのポイントで説教しているのが分かります。「皆さん。イエス・キリストは旧約聖書で預言されていた方です。私たちが勝手な思いこみや想像で造った人物ではありませんよ。イエス様は救い主です。イエス様は十字架と復活を通して、罪の赦しをもたらし、人々が神の国に入る道を備えてくださいました。神の国は近づいたのです。だから、罪を悔い改めて、心の方向を変えて、イエス様を信じなさい」こう説教したわけです。
 そして、パウロも同じように、福音を語るときに、「イエス様は、旧約聖書で約束されていた通りに十字架と復活によって救いを成し遂げ、信じるすべての者を救ってくださる。だから、このイエス様を信じなさい」と語っていきました。
 つまり、福音は、旧約聖書の預言で予告され、イエス・キリストによって成就し、弟子たちに受け継がれ、弟子たちから世界中の人々に受け継がれていったのです。そして、現代の私たちにも受け継がれてきたわけですね。
 今まで 歴史において、たくさんの異端が出てきました。異端は、受け継ぐべきものを受け継がないところから生じるのです。しかし、私たちがここで礼拝しているのは、二千年以上も前に成就した救いの福音が今にいたるまで受け継がれてきたからなのです。
 私たちが信じているイエス・キリストの福音は、歴史を通して受け継ぎ、受け継がれていくものです。時代は変わります。礼拝のスタイルも賛美も会堂も雰囲気も変わるでしょう。しかし、キリストの福音は決して変わることがありません。イエス・キリストは、昨日も今日もとこしえに変わることのないお方です。だから、この方の福音も変わることはないのです。
 イエス様は旧約聖書の預言の通り、人として来てくださり、私たちの罪を背負い、十字架につき、復活され、今も生きておられます。そして、イエス様は、私たちを理解し、私たちの痛みを共に痛んでくださいます。このイエス様が今週も共に歩んでくださることに心から感謝し、イエス様のことばに聞き従っていきましょう。