城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年五月三一日            関根弘興牧師
                 ローマ一章一三節〜一七節
ローマ人への手紙連続説教4
   「福音、それは神の力」 


13 兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(新改訳聖書第三版)

 このローマ人への手紙は、パウロがコリントで書いたものです。
 『使徒の働き』には、パウロがアテネやコリントなどギリシャの町々にもイエス・キリストの福音を伝えたことが記されていますが、使徒17章16ー34節には、アテネでの出来事が書かれています。アテネは有名ですね。大きな神殿が建ち、当時の世界において文化的にも学問的にも最高峰にあった都市でした。哲学の都として、当時のインテリ集団が住み、世界中から学問を追求する人々が集まってきていました。学問の聖地、世界に誇る文化都市だったのです。
 また、アテネは、多種多様な神々を生み出した場所でもありました。市内には、たくさんの神々の像がありました。アテネに住む住民の数よりも神々の数のほうが多かったと言われるほどです。そして、念入りにも「知られない神に」という祭壇まであったというのです。
 アテネには、たくさんの哲学者たちがいて、暇さえあれば論じ合って生活していました。『使徒の働き』には、「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」と書かれています。パウロも、アテネに行って、毎日いろいろな人々と論じ合っていましたが、パウロがイエス様と復活について語るのを聞いた人々は、「その新しい教えは、今まで聞いたことのない珍しい教えだから、説明してほしい」とパウロをアレオパゴスの議会に連れて行きました。そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って、こう語り始めました。「あなたの町には『知られない神に』と刻まれた祭壇がありますね。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」そして、アテネの人たちにまだ知られていない聖書の神様について説明したのです。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」そして、パウロは、「イエス・キリストこそが救い主であり、さばき主です。この方は、死からよみがえられた力ある方、福音そのものなのです」と説教したのですね。
 それを聞いて、信仰に入った人も何人かはいましたが、ほどんどの人はパウロの話を真剣に受け取ろうとはせず、あざ笑う者もいました。彼らにとって、イエス・キリストの福音は愚かな戯れ言としか思えなかったのです。
 パウロは、第一コリント1章23節でこう言っています。「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょう。」しかし、ガラテヤ6章14節では、こうも言っています。「しかし私には、主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」
 考えてみてください。今だからこそ十字架を見ても誰も奇異に感じる人はいません。しかし、当時の人たちにとってはどうでしょう。十字架は、最も残酷な死刑の道具で、恐ろしく、忌むべきものでした。その処刑の道具をパウロは「誇る」と言ったわけですから、人々が「パウロはついに頭がおかしくなった」と思ったのも無理はありません。しかも、さらに死人が復活したなどというのですから、「何て愚かなことを言っているんだ」とアテネの人たちは思ったのです。
 しかし、これが神様の方法でした。罪のないひとり子イエス・キリストを人々の罪の身代わりとして十字架につけることによって罪の赦しを与え、また、復活したイエス・キリストを信じ受け入れる人々に永遠のいのちを与えるという方法です。ですから、パウロは、人が何と言おうが、大胆にはっきりと十字架と復活の福音を語り、「私は福音を恥とは思いません」と宣言しているのです。そして、ぜひローマの人々にも福音を伝えたいと願っていたのですね。
 さて、今日の箇所は、このローマ人への手紙の要約と言ってもいい箇所です。なぜなら、ここに「福音」、そして、その福音につながる「救い」「神の力」「神の義」「信仰」というこの手紙の中心テーマとなる言葉が出てくるからです。
 パウロは、自分が誇りを持って伝えている福音について、どのような確信を持っていたでしょうか。今日の箇所から、見ていきましょう。

1 福音は、信じるすべての人に救いを得させる神の力

 人は、誰もが何かに支配されながら生きています。そして、何に支配されているかによって人生は大きく変わります。たとえば、物資が万能だという価値観に支配されていれば、物に執着する生き方になるでしょう。ねたみや憎しみや恨みに支配されていると、人や自分を傷つける生き方になります。また、虚しさに支配されていると、享楽的になったり、鬱々とした生き方になったりするでしょう。
 パウロの場合は、イエス・キリストに出会うまでは、「律法や儀式を厳格に守るべきだ」という戒律的な考え方に支配された生活をしていました。一生懸命戒めを守ることによって救いと平安を得ようとしていたわけです。そういう生き方をしている人はたくさんいますね。自分の行いによって救いを達成しなければならないという考え方に支配されているわけですね。そういう人は、「善行を重ねなければ救われない」と考えて頑張ろうとするのですが、しかし、百パーセント完全な行いができる人などいるでしょうか。だれにでも、弱さや限界がありますし、予測できない事態が起こることもありますね。それで、戒めを守れなかったり、善行が行えないと、悪いことが起こるのではないかとか、罰を受けるのではないかと恐れるのです。パウロは、律法を守らなければのろわれるという恐れを持っていたでしょうが、この日本でも前世の因縁だとか、方角がいいとか悪いとか、字画がいいとか悪いとか、もし間違ったことをしたらバチが当たるというような考え方に捕らわれてしまっている人が多いですね。
 しかし、パウロは、イエス・キリストの福音によって、人生が一変しました。人生を支配するものが変わったのです。
 福音とは何でしょうか。イエス様がもたらした「良き知らせ」であり、イエス様ご自身です。
 イエス様は、公の活動を開始されたとき、開口一番こう語られました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」また、イエス様は、「御国の福音」を宣べ伝えたと記されています。「御国」と訳されているのは、ギリシャ語の「バシレイア」という言葉で、「王国」「支配」を意味します。つまり、イエス様が「神の国が近づいた」と言われたのは、「神様があなたを支配する時が近づいた」ということです。神様は、万物を創造し、いのちを与え、愛と義とまことに満ちた方ですから、その神様に支配されることが、私たちにとって最も幸いな人生です。だから、イエス様は、神様の支配の中に生きることこそ福音なのだと言われたわけですね。
 また、イエス様は、ヨハネ8章32節で、「真理はあなたがたを自由にします」と言われました。神様は、私たちを強制的に束縛したり、無理矢理従わせようとする方ではありません。神様は、私たちに愛と恵みを満たし、私たちが心から喜んで神様に従うことができるようにしてくださるのです。神様に支配されるとき、私たちは最も自分らしく生きることができるようになります。あらゆる束縛から解放されて、自由になるのです。イエス様は、私たちをその神様の支配の中に導き入れるために来てくださったのです。
 そして、パウロは今日の箇所で「福音は、救いを得させる神の力だ」と言っていますね。私たちが救いを得ることができるのは、自分の力によるのではなく、神様の力によるのだというのです。私たちがただ福音を受け入れるときに、神様の力が働いて、救いがもたらされるというのですね。
 この「力」と訳されているのは、ギリシャ語の「ドュナミス」という言葉です。スウェーデンの化学者ノーベルが、火薬の実験をしていました。そして、ある物とある物を化合したら、大爆発を起こし、実験室がめちゃめちゃになってしまったのです。彼は真っ青になって実験室から飛び出し、「えらいものを発見してしまった。これが平和のために使われるならいいけれど、もし人を破壊するために用いられたら世界は破滅するだろう」と思ったのです。そして、彼は、この非常に破壊力のある火薬に、「力」=「ドュナミス」というギリシャ語から「ダイナマイト」と名付けました。福音は、ダイナマイトです。堅い岩をも吹き飛ばすダイナマイトです。福音には力があります。私たちには不可能と思える状況すらも打ち砕くことができます。岩のような心をも砕くことができるのです。
 福音は神の力です。人を生かす力です。本当の救いを与える力です。私たちをいっさいの束縛から解放して自由にする力があるのです。

2 福音のうちには神の義が啓示されている

 「神の義」とは何でしょうか。「神の義」ということを考えるときには、いつも二つのことを思い起こしてください。一つは、神様のご性質について、もう一つは、神様と私たちとの関係についてです。

@神様の御性質としての「義」

 神様は、正義そのものなるお方です。神様には一点の曇りもありません。神様の中には偽りが一つもありません。神様の中には真実しかない、神様はまったく正しい方だということです。

A神様と人との関係としての「義」

 神様は、御自身が全く正しい方ですから、私たちとのかかわりにおいても、正しい、まっすぐな関係が保たれることを求めておられます。しかし、私たちが正しくなければ、神様との正しい関係を持つことはできません。
 旧約聖書の最初の創世記には、神様に最初に造られた人であるアダムとエバが神様との約束を破ってしまったために、神様と人との正しく親しい関係が破壊されてしまったことが書かれています。神様は、その関係を回復させるために、まず、イスラエルの民を選び、「律法」をお与えになりました。律法を守ることによって神様との正しい関係を持つことができるからです。しかし、イスラエルの民は、律法の戒めを一生懸命守ろうとしても、いつも失敗してしまうのですね。旧約聖書を読むと、神様は大変厳しい方だなと感じる方もいるでしょう。なぜなら、人が神の戒めを完全に守り、神様の義の基準に達しようとするなら、それは一点の曇りのないものが要求されるからです。しかし、そんなことは不可能です。
 実は、神様がイスラエルの民に律法をお与えになったのは、人は自分の力では神様の義を満足させることなど出来ないということを徹底的にわからせるためでした。つまり、旧約聖書は、人が自分の力では自分を救うことが出来ないこと、救い主が必要であるということを示すための書物なのです。でも、そのように示されているにもかかわらず、難行苦行や修行によって救いを得ようと努力する人がたくさんいますね。それは、当時も今もまったく同じです。
 しかし、パウロは、聞いた人がびっくり仰天するようなことを言いました。「神の義は、福音のうちに啓示されている」というのです。今までは、神様と正しい関係を持つために、人は一生懸命頑張って修行し、正しい行いをし、立派な行いをして、善行を重ねて、神様の戒めを守らなければならないと言われていたのです。しかし、福音によって示された神の義は、それとはまったく違いました。私たちのために十字架にかかり、復活されたイエス・キリストをただ信じるだけで、罪が赦され、義と認められ、神様との正しい関係が回復できるというのです。 つまり、「福音のうちに啓示された神の義」とは、神様が正しいお方であるという神様のご性質のことだけを言ったのではなくて、神様御自身が、罪人である私たち一人一人のために、神様とまっすぐな関係を持つことができる道を用意してくださったということなのです。神様の方で罪人である私たちを義とし、罪無しと認める道を用意してくださったから、私たちは神様との正しい関係を回復できるようになるというのです。
 神様は、「わたしは罪人であるあなたを義とする。しかし、それは、あなたの努力の結果ではない。あなたが立派なことをしたから、あなたを正しいと認めるのではない。わたしが遣わしたイエスがあなたの身代わりに十字架にかかり、あなたの罪の贖いを完全に成し遂げたゆえに、あなたを罪のない者として認めるのだ」と言われるのです。
 福音の真髄は、受け取るのに全くふさわしくない者に与えられる神の恵みです。罪ある私たちが、神の恵みによって義と認められました。それは、イエス様の十字架と復活を通して、可能になったのです。イエス様は私たちのすべての罪、不義を全部背負ってくださいました。イエス様が十字架で死んでくださったのは、私たちの罪、汚れを全部背負って罪の罰を受けるためでした。私たちの身代わりになってくださったのです。私たちは一生懸命努力しても、自分の内側をきれいにすることはできません。しかし、イエス様が私たちの罪を全部引き受けてくださったがゆえに、その贖いのゆえに、神様は私たちを義としてくださるのです。義の衣で私たちを覆ってくださるのです。
 これは、すごいことですね。私たちは神様にさばかれるのではないかとビクビク怯えながら生きる必要はありません。また、義と認められるために一生懸命善行を重ね、努力をする必要もありません。神様の恵みの世界に生きるということは、自分の努力で救いを得ようとするのではなくて、私たちの救いは一方的に神様から与えられた、ということを信じ、うなずきながら生きることなのです。

3 福音のうちに啓示された神の義は、信仰に始まり信仰に進ませる

 それでは、一方的な恵みであるこの救いを受け取るのに、私たちはどうすればいいのでしょうか。単純なことです。単純に、「感謝して受け取ります」と言えばよいのです。これが信仰です。信仰というのは、何か立派なことをすることではありません。基本的には、「受け取ります」「ありがとうございます」という応答です。
 人は、自分の努力で自分を救うことはできません。自分を正しいとすることはできません。これは旧約聖書が徹底的に教えていることです。そうすると、私たちができることは二つに一つです。救いをあきらめるか、それとも、神様が差し出してくださる救いの贈り物を「ありがとうございます」と受け取るか、のどちらかです。ある人が、「信仰とは、心の手だ」と言いました。その通りだと思います。救われる方法として、心の手を差し出すしか私たちには残されていないのです。
 『ヘブル人への手紙』11章を見ると、「信仰」という言葉がたくさん出てきます。信仰に生きた人たちが紹介されているのです。その6節に、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」という言葉があります。神様が私たちを喜んでくださるのは、私たちが立派なことをしたからではないのです。「神様。あなたを信頼します」と応答するとき、神様は喜んでくださるのです。神様からの贈り物を素直に「ありがとうございます」と受け取る時、喜んでくださるのです。
 ヘブル12章2節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と書かれていますね。私たちの生活の基本は、神様を信頼し、神様から受け取り、神様に感謝することです。つまり、私たちの人生は、信仰に始まり、信仰に進み、信仰で終わるのです。そして、その信仰を与え、また、完成してくださるのはイエス・キリストです。
 私たちは、御国の福音の中に生かされている仲間たちです。この福音の広さ、高さ、深さを、人生の中で味わっていきましょう。また、人を変えることのできる福音の力に期待しましょう。赦され、愛され、さまざなな束縛から解放され、歩んでいく者とされていきましょう。