城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年六月七日             関根弘興牧師
            ローマ人への手紙一章一八節〜三二節
ーマ人への手紙連続説教5
   「人の罪 1」

18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。 26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。 28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。 (新改訳聖書第三版))


 1章18節から3章20節までのテーマは、「人間の罪」です。パウロは、「すべての人は罪人である」ということを延々と記していきます。なぜなら、その罪の深さを知れば知るほど、今度は、逆に、イエス様の赦しの大きさ、恵みの深さを知ることができるようになるからです。
 私たちは、自分自身の姿を正直に見つめると、怖くなることがあるかもしれません。でも、悲観したり絶望するのではなく、そんな自分が神様の恵みを豊かに受け、愛され、赦され、育まれているのだということを常に確認していくことが大切ですね。
 これから数週間は、「人間の罪」という重いテーマが続くことになります。「なんだこれから罪の話か。それじゃ、当分は聞くのをやめておこう」なんて思わないでくださいね。大丈夫です。安心してください。パウロのテーマは、いつも変わらず、神様の福音、神様の恵みなのですから。繰り返しますが、私たちが自分の罪の深さを知れば知るほど、神様がそこから救ってくださるという素晴らしい恵みを知ることになるのです。そのことを覚えつつ、今日の箇所を見ていきましょう。

 パウロは、すべての人が罪人だとはっきり語っていますが、今日の箇所では、特に異邦人の罪について書かれています。異邦人とは、ユダヤ人でない民、つまり、旧約聖書を知らない民です。私たち日本人も異邦人ですね。パウロは、異邦人の罪がどういうものかを記しながら、実は、こうした罪の根っこを誰もが持っているのだ、と言うことを説明しているわけです。
 この手紙はローマの教会に向かって書かれたわけですが、そこにはユダヤ人もいれば異邦人もいました。ユダヤ人たちは、旧約聖書をよく知っていました。神様から与えられた十戒やその他の律法を先祖代々受け継いできました。また、旧約聖書に記されている先祖の歴史を通して、神様がどんな方かを知ることができました。しかし、旧約聖書を全く知らない異邦人たちは、どうしたら神様のことを知ることができるのでしょう。突然、「あなたがたは罪人で、神を神としない不敬虔な民だ」と言われたら、きっと困惑し、怒り出すのではないでしょうか。「冗談じゃないですよ。神様って言われても、私たちはそんな神様のことなんか知らないし、神様が私たちにご自分を現してくださった、なんてことは、今まで聞いたこともありませんよ」と反論するかもしれません。また、「旧約聖書に書かれている神様の戒めをよく知っていれば、それを破った時に自分が罪人だということを自覚できるかもしれないが、そういうものがあることさえ知らないのに、どうして罪人呼ばわりされなくてはならないんですか」と反論も出てきそうですね。
 それに対して、パウロは、何と書いているでしょうか。

1 すべての被造物は、神様を知ることができる

 パウロは、「人は、神様によって造られたのだから、神様のことを認めることができるはずだ」と言います。神様に造られたこの世界を見、神様によって命が与えられた自分自身を見たら、神様がおられること、また、神様の素晴らしさがわかるはずだというのです。ただし、皆さん、誤解しないでください。神様の造られた世界を眺めたら、聖書に書かれていることがすべてわかるという意味ではありません。自然界を調べたら神様のすべてがわかる、人間の罪や救いの道がわかる、ということではありません。この宇宙を自然を見るとき、漠然とですが、神様を知ることができるというのです。
 詩篇19篇の作者は、こう歌いました。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」
 私は、聖地旅行をした時、シナイ山に登りました。朝早く二時頃に起きて登ったのです。外に出ると、満天の星空、数え切れないほどたくさんの星が天を覆っていました。私たちは、大自然や大宇宙を前にすると、人間の小ささを感じますね。また、その背後に、これを造り治める方、創造者がいるのではないか、ということを漠然と感じるのです。
 しばらく前に、筑波大学の教授で、素粒子の研究をされている方だと記憶していますが、その方がこう言っていました。「この世界、宇宙にはわからないことがたくさんある。そして、この宇宙の背後に、何か偉大な存在があるとしかいいようがないのです」と。この教授は、その偉大なものを「Something Great(何か偉大なもの)」と英語で表現していました。この方はクリスチャンではありませんが、自然と正直に向き合うと、その背後に大きな存在を認めないわけにはいかない、という思いを持たれたのでしょう。
 パウロは、「異邦人は、『私たちは旧約聖書のことを知らないから、神様など分からない』と言うかもしれないが、この造られた世界を見てごらんなさい。そうすれば創造者を知ることができるではありませんか」と言っているのです。
 しかし、多くの人たちは、相変わらず、「この世界は偶然にできたのですよ」と言うのです。「物質と物質が偶然に出合って、この世界ができたのですよ」と言っていますね。
 でも、もしすべてのことが偶然で出来たとするなら、私たちはどうして人生の意味を考える必要がありますか。偶然に存在しているのですから、意味など考える必要がありません。なぜなら、「偶然」とはそれ自体「意味がない」ということだからです。私がこの日本に生まれたのも偶然、ここにいるのも偶然、人生はすべて偶然の集まりなのだ、と言うなら、決して「人生の意味は何か、目的は何か」なんて考えることはしませんし、それは無意味なことです。なぜなら、偶然だからです。意味を持たないから偶然なんですね。もし、そこに意味があるとするなら、それは偶然とは言わないのです。
 しかし、「人生の意味や目的など必要ない」と考えている人はほとんどいません。そう考えている人も、実は心の奥底に意味や目的を求めています。人生で最も苦痛なこととは、何でしょうか。自分の行っていることに意味を見いだせない時ではありませんか。アウシュヴィッツの強制収容所の最も過酷な労働の一つは、穴を掘り、その穴を埋める、それを延々と繰り返させるというものだったそうです。何の意味も目的もない労働をさせられるわけです。人は意味のない人生に耐えられないのです。
 しかし、もし私たちがこの大自然を見つめ、また、私たちの人生を真剣に見つめるなら、創造者なる神様がおられ、神様が私たちを意味と目的をもって創造してくださったということを、特に聖書を知らなくてもぼんやりだけれど理解することができるのだ、とパウロは言っているのですね。

2 神を拒む人々の罪

 しかし、人々は、どういう態度だったでしょうか。その神様を拒んできた、とパウロは言います。18節に「不義をもって真理をはばんでいる」と書いてありますね。「真理をはばむ」とは、どういうことでしょうか。「はばむ」とは、「蓋をしてしまう」という意味です。嫌な物を箱の中に入れて蓋をして、その箱の上に腰掛けてしまっているような状態です。神様の真理に蓋をして、その上に腰掛けて、自分勝手にふるまっているという姿、それが聖書が示している人の罪の姿だというのです。
 そして、その罪の姿は、三つの分野に現れているとパウロは教えています。

@霊的な分野での罪

 聖書が教える「霊」とは、人の中心にあって、その人の意志や思いや感情に影響を与える最も基本的なものです。霊の状態は、何を自分の神とするかによって決まってきます。そして、それによって生き方が大きく変わってくるのです。
 たとえば、自分自身を神とする人は、すべてを自分の思い通りに支配しようとする生き方になります。「神などいない」という無神論を神とする人は、虚無的な生き方や享楽的な生き方になるでしょう。また、21ー23節を読むと、人が自分の都合のいい神々を作り出していったことが書かれています。滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物を作り、神のように拝んでいるというのです。確かに、今でも有名な人や功績のあった人がいつのまにか聖人とか神様として祭られてしまっていることがよくありますね。鳥や獣が神になってしまっていることもあります。これは、二千年前のパウロの時代と変わりませんね。しかし、そういうものを神としていると、たたりや呪いを恐れたり、迷信に縛られる生き方になってしまうでしょう。
 このように天地を創造された神様を無視し、蓋をして、自分勝手な神々を造ってしまうこと、それが霊的な分野での罪なのです。

A道徳的な分野での罪

 24ー27節を読むと、パウロは、「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡された」と書いています。これは人々は、自分の欲望のままに進むことを自らが選び取ったということです。人が自分の欲望のままに生きていったら、どうなるでしょう。理想的な世界が出来ると考える人がいるでしょうか。皆が欲望のままに生きていったら、本当にひどい世界しか生まれないということを誰もが予想できますね。
 パウロはこの手紙をコリントで書いたと言われますが、当時コリントは、不道徳、快楽の町として大変有名でした。コリントには女神アフロディーテの大きな神殿がありました。そこには神殿娼婦がたくさんいました。また、神殿男娼もおり、性的倒錯の場となっていました。それがあたかも宗教行事の一つであるかのようにカモフラージュされていたわけです。
 一方、ローマはどうだったでしょうか。世界の都ローマも負けてはいません。この手紙が書かれた時代は、前代未聞の不道徳な時代と揶揄されるほどでした。豊かさがローマに集中し、その豊かさが極度の快楽を追求することになっていったのです。刺激が刺激を呼び、倒錯した欲望はエスカレートしていきました。そうした中で、浪費は蔓延し、家族の絆は崩され、大きな痛みと虚しさという代償を支払うことになっていったのです。
 では、今の私たちの世界はどうでしょう。パウロの時代より高度な教育があり、文明が遙かに発達しています。しかし、刺激的なものが氾濫し、欲望が引き起こす様々な事件を報じるニュースが毎日のように報じられています。私たちの心を覗いて見たら、実はパウロの時代の人々と大差のない姿があるのですね。
パウロは、18節でこう書いています。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」人の不敬虔と不正に対して神の怒りがあるというのですね。
 「神の怒り」「神の裁き」というと、ノアの洪水の出来事や、ソドムとゴモラの町が燃える硫黄に滅ぼされた出来事などを思い浮かべますが、ここでパウロが言っている神の怒りというのは、28節にあるように、「神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました」ということです。少し理解するのが難しいかもしれませんが、どういうことかというと、人が自分の欲望のまま勝手に進んでいくと、結局、「糸の切れた凧」の状態になってしまいますよ、ということなんです。凧は、糸が付いている限り、空高く泳いでいられます。しかし、糸が切れたら、どこに行ってしまうかわかりません。自分では自由に飛んでいると思っているかも知れませんが、制御できず、最後は墜落してしまうでしょう。そのように、欲望がさらなる欲望を生みだし、制御不能状態になっていき、人生を台無しにし、自らを滅ぼしていく、それが結果的には神様の怒りであり、さばきなのだ、というのです。

B理性的な分野での罪

22節に「彼らは、自分では知者であると言いながら愚かな者となり」とありますね。
 人は、「自分のことは自分がいちばんよく知っている」と言います。多くの人が自分は理性的だと考えます。そして、「私は目に見えない神様のお世話など必要ありません」と言うのです。しかし、パウロは、28ー32節で「人生を導くはずの理性が全く狂ってしまっている」と書いています。
 人は自分には理性があると誇りますが、29節からのリストを見ると、どうも理性豊かな人間の姿からは程遠いですね。そして、残念ながら、このリストの中にあるものに一つも当てはまらないという人は一人もいないでしょう。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」
 パウロは、「あなたがたは理性では悪いと分かっていながら、それを行なってしまうではありませんか。そればかりか、悪いことだと分かっていながら、人にも勧めているではありませんか」と言っています。昔、植木等が歌っていたように、「わかっちゃいるけど、やめられない」という姿なのですね。
 人は本来、愛し、愛されるべき存在です。でも、これだけ文明が進み、情報が豊かな時代でさえ、争いは絶えません。どうして、殺し合わなければならないのでしょう。人を人とも思わない行動は、いつの時代にも決して無くなることがありませんね。

 さて、今日の箇所にある罪のリストは、あなたにとって大げさすぎますか。パウロはここで一部の特定の人々のことだけを考えて言っているのでしょうか。いいえ、パウロ自身も「私は罪人のかしらです」と告白しているように、罪のない人など一人もいません。私たちは、皆、神様の目から見たら、このような罪人の一人に過ぎないのです。自分の道徳的な生活を誇ることなどできません。自分の理性を誇ることもできません。
 聖書の言う「罪人」とは、「ずれている人」という意味です。神様との親しい関係からずれ、心にも体にも理性にも深刻なずれを生じている、それが人の姿なのだ、とパウロはここで言っているのです。
 しかし、繰り返しますが、この手紙の中心は、「福音」です。パウロは、今日の罪のリストを書き出す前にこう書いていましたね。「福音こそが、救いを得させる神の力です」と。
 私たちは、自分のずれを自分の力ではどうすることもできません。一生懸命努力しても救いを得ることはできません。しかし、神様が私たちに手を差しのばし、救い主イエスを与えてくださいました。その救い主が私たちと神様とのずれた関係を修復し、私たちが本来の人としての生き方を回復することができるようにしてくださるというのです。それが、福音です。どんなに頑なな心もダイナマイトのように打ち砕く力のある福音なのです。

 これからあと二回は、人間の罪ということをテーマにお話しする予定です。罪人である自分自身をしっかりと自覚することによって、その私たちを罪人扱いせず、愛し、赦し、いのちを与えてくださるイエス様の恵みをさらに深く知り、感謝しつつ歩んでいきましょう。