城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年六月一四日            関根弘興牧師
             ローマ人への手紙二章一節〜一六節
ローマ人への手紙連続説教6
   「人の罪 2」 

1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。2 私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。 3 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。 4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。 5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。 6 神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。 7 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、8 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。 9 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、 10 栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。 11 神にはえこひいきなどはないからです。 12 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。 13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。 14 ーーー律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。ーーー 16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。(新改訳聖書第三版)


 聖書を読むことは、神様を知ることにつながります。それとともに、人間の本質、人間の内面を知ることにもつながっていきます。
 この手紙の1章の後半から3章20節には、人間の真実の姿、つまり、人間の頑なさや罪の姿が様々な面から詳しく記されています。その内容を先週、今週、来週と三回に分けて、詳しく見ていこうとしているわけですが、「せっかくの日曜日なんだから、罪の話はあまり聞きたくない」と思う方がおられるかもしれませんね。でも、正直に人間のありのままの罪の姿を見ていくことによって、そんな人間のためにいのちを捨てることもいとわないイエス様の愛の大きさ、そして、救いの素晴らしさをより深く知ることができるようになるのです。
 まず、前回の内容を少し思い出していただきたいのですが、前回の箇所で、パウロは、異邦人の罪の姿を指摘していましたね。人や動物の偶像を作って、それを神のように拝んでいる罪、欲望に支配され、欲望の赴くままに不品行、不道徳な生活をエスカレートさせている罪、そして、自分は理性的だと自負しながら、実際には、人をねたみ、破壊し、争いばかりしているという罪の姿でした。
 それを読んだユダヤ人たちは、「その通り、その通り、まったく異邦人は、不品行で汚れた民だ。不道徳な行いばかりして、どうしようもない奴らだよ」と思ったことでしょう。ユダヤ人たちは、「私たちは神の選民だ。唯一の神様だけを信じて、律法を守って生活している。だから、異邦人のような罪人とは違うのだ」と誇っていたからです。
 ところが、彼らには予想外だったでしょうが、今日の2章では、そのユダヤ人たちの罪がテーマになっているのです。前半部分には、特にユダヤ人とは書いていませんが、後半を読むと、ユダヤ人たちの罪を指摘していることがわかります。
 ただ、前回の罪の内容が異邦人だけでなくすべての人に当てはまるのと同様、今回指摘されている罪の内容も、ユダヤ人だけでなく、すべての人、つまり、私たちにも当てはまることなのですね。ですから、自分のこととして真剣に受けとめつつ読んでいきましょう。

1 他人をさばく人

 まず、1節で、「すべて他人をさばく人よ」という鋭い調子の呼びかけがされています。「他人をさばく人」というのは、「私たちは正しい。しかし、あなたがたは汚れていて、愚かだ」と人を見下し、さばいている人ですね。ユダヤ人たちは、神様を知らず、神様の律法も知らない異邦人たちをさばいていましたが、パウロは、「あなたがたも同じようなことを行っているのだから、同罪ではないか」と指摘したのです。この言葉は、特に、当時の宗教家たちに向けられていたようです。今日は読みませんでしたが、17節以下で、パウロは彼らの姿を厳しく糾弾しています。たとえば、21節から読みますと、「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか」とあります。
 イエス様も、当時のパリサイ人や律法学者たちを厳しく叱責なさいました。彼らは「自分は、宗教的な儀式を欠かさず行い、様々な戒めもきちんと守っている。聖書の教えもよく知っている」と自負していましたが、彼らの実際の「行い」は、その「言葉」とはかけ離れていたからです。イエス様は、いつもは優しくお話になるのですが、パリサイ人や律法学者たちの前に出たときには、口調ががらりと変わり、厳しく指摘なさいました。「あなたがたは口では立派なことを言っているけれど、全然実行しないではないか。あなたがたは人の肩に重荷を載せるけれども、自分はその重荷を持とうともしないではないか。忌まわしい者たち、偽善者たち。あなたがたは白く塗った墓だ。外側は美しく見えても、内側は腐っている。」(マタイ23章)彼らは、表面的に神様の教えに従っているように見せかけながら、その心は神様から遠く離れていました。自分の心の状態を正直に見ようとせず、外側を飾ることで自分を誇り、他の人々を見下し、さばいていたのです。
 どうも人は、すぐに「自分は正しい症候群」に陥ってしまう傾向があるようです。ついつい「自分は正しい」と言いたくなるので、自分以外の誰かを悪者にして、さばいてしまうのです。それが一番簡単だからです。「私は悪くない。悪いのは、私以外の人や物だ」というわけですね。この自己正当化と責任転嫁は、人間の歴史の初めからありました。
 創世記の2章、3章に書かれていますが、神様に最初に造られた人、アダムとエバは、エデンの園で快適な生活をしていました。神様のそばにいて必要なものをすべて備えられ、互いに愛し合って生活していたのです。しかし、狡猾な蛇がエバを誘惑しました。神様は「園の中央にある善悪の知識の木の実を食べてはならない。それを取って食べると必ず死ぬ」と命じておられたのですが、蛇は「大丈夫。死んだりしませんよ。その実を食べたら、目が開かれて、神様のようになれるんですよ。神様に支配されるより、自分が神様と同じようになって、すべてを支配するほうがいいんじゃないですか」と言って、自分が神のようになろうとする傲慢な思いをエバに植えつけていきました。エバは誘惑に負けて、その実を取って食べ、夫のアダムにも食べさせたのです。すると、どうなったでしょうか。アダムとエバは、自分自身のありのままの姿を恥じて隠すようになりました。また、神様の声を聞いたとき、恐れて身を隠したのです。そして、神様に対して、アダムはこう弁解しました。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」つまり、「私が悪いのではありません。私があの木の実を食べてしまったのは、この女のせいです。そもそもあなたがこの女を私のそばに置かれたのがよくなかったんです」と責任転嫁をしたのですね。すると、エバはエバでこう言いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」「神様。私をあまり責めないでください。私も少しは悪いかも知れませんけれども、本当に悪いのはあの蛇ですよ。蛇が私を惑わしたのですから。」こんな具合ですね。
 神様の言葉を信頼せず、従おうとしなかった人間は、このような自己正当化と責任転嫁を繰り返すようになりました。今日でも、「私は悪くないですよ。こうなったのはあの人が悪いのです。学校の先生が悪いのです。親が悪いのです。社会が悪いのです。政治が悪いのです。国が悪いのです」というふうに、責任を他人になすりつけて自己正当化しようとする人間の性質は変わっていませんね。
 イエス様は、マタイ7章3節でこう言われました。「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」 この「梁」を縫物をするときの「針」と間違えておられる方が時々いますが、 「梁」とは建物を支える大きな材木です。そんなに大きな障害物が自分の目の中にあるのに気づかずに、人の目の中にある小さなちりを批判する、それが「他人をさばく人」の姿なのですね。気を付けないと私たちもすぐにそのようになる傾向を持っているのです。
 しかし、自己正当化と責任転嫁をしている限り、人は、イエス・キリストの福音が必要であることに気づくことができません。だから、イエス様は、正直に自分自身を見つめようとしない当時の宗教家たちの姿を「忌まわしい者たちだ」と言って厳しく糾弾し、彼らから離れていかれました。
 一方、イエス様は、当時、最も罪深いと言われていた人たち、取税人や病にある人たちに対して、「お前たちは忌まわしいものだ」とは決して言われませんでした。それどころか、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2・17)と言われました。これは、「罪の中にずっといてもいいのですよ」ということではありません。自分の心の状態を素直に認めて、「神様あわれんでください」と正直に心をさらけ出す人こそ、福音を素直に受け入れることができます。ですから、イエス様は、そういう人々に近づき、深いあわれみのわざを行われるのです。自己正当化と責任転嫁をやめてありのままの自分自身の姿を見つめ、神様の助けと福音が必要であることを正直に認めて、「私は罪人です。私は本当に弱さを持っています。神様あわれんでください」と祈る一人一人には、イエス様がいつも共にいてくださるのです。

2 神のさばきの基準

 さて、パウロは、今日の箇所で「最終的に神様がすべての人に正しいさばきを下される日が来る」と書いていますね。「他人をさばく人」たちは、他の人々には神のさばきが下るけれど、自分たちは大丈夫だと思っていました。しかし、パウロは、「あなたがたも他の人々と同じことを行っているのだから、神のさばきを免れることはできないのだ」と警告しています。
 そして、神様のさばきの基準はどこにあるのかということについて記しています。

@神にはえこひいきはない

 まず、神様は、ユダヤ人でもギリシヤ人のような異邦人でも、えこひいきなさることなく同じ基準でさばきを行われます。9節、10節にあるように、「善を行う者」なのか「悪を行う者」なのかという基準があるだけです。

A律法を行う者が正しいと認められる

 では、「善を行う者」とは、どのような者でしょうか。「律法を行う者」です。13節に「律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められる」とありますね。律法を聞いたことがあるかないかに関係なく、つまり、ユダヤ人か異邦人かに関係なく、律法の命じる行いをする者が正しいと認められるというのです。そして、もし律法の命じる行いをすることができない場合、律法を持っているユダヤ人は律法の定めに従ってさばかれ、律法を持たない異邦人は律法の規定はないけれども相応のさばきを受けるということなのですね。
 では、「律法の命じる行い」とは何でしょうか。
 「律法」は、出エジプト記に記されているように、モーセを通して神様から与えられたものです。有名な十戒が基本法で、それに様々な細かい規定や戒めが付随しています。神様は、「この律法を守れば、あなたがたは、わたしの民として祝福を受けることができる」と言われました。律法は、人が神様とともに人としてふさわしく生きていくための基準であり、自分が正しいのかどうかを判断する基準でもあるわけです。そして、その律法の中心は、「神様を愛すること」と「隣人を自分と同じように愛すること」です。律法の戒めはすべてそのために与えられているのです。ですから、本来の意味で「律法を行う者」とは、神様への愛と人への愛を実践する人のことだと言っていいでしょう。
 しかし、実際にその律法を完璧に守ることのできる人がいるでしょうか。律法の基準に照らせば照らすほど、私たちは、自分がやはり罪深い者なのだということを知るわけです。自己中心で、神様に逆らってばかり、人を愛することができない、そんな自分を自覚するのが健全な姿です。「人は自分の力では神様の基準に達することはできない」ということを教えるために神様は律法をお与えになったのですから。
 ところが多くのユダヤ人たちは、特に宗教家たちは、自分たちは、律法の規定のとおりにいけにえや献金をささげ、儀式を行い、いろいろな規定を守っているから、律法の命じる行いをしていると思い込んでいました。しかし、彼らは、表面的に律法を守るだけで、神様よりも自分が中心の生活をし、隣人をさばいたり、ないがしろにして、律法の精神にまったく反する行いをしていたわけですね。そういう人は結局、与えられた律法を守れなかったことによってさばかれるのだとパウロは言っているのです。
 では、異邦人はどうでしょうか。聖書も律法も知らないのに、律法の命じる行いをすることができるでしょうか。神様について聞いたこともないまま死んでしまった人はたくさんいますね。そういう人たちに対する神様のさばきはどうなるのでしょうか。 それに対してパウロは、14節でこのように答えています。「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。」これは、どういう意味でしょうか。それは、「人には律法の命じる行いがどういうものかを示す良心が与えられているのだ。だから、直接、律法を知らなくても、律法の精神を実践していくことができるはずだ。だから、良心という光に照らして、人生をどう送ったかということで、神様はその人をさばかれるのだ」ということなのです。神様は、律法を持っているかどうかでさばきを変えるような方ではありません。神様は、すべての人を同じように愛しておられ、それぞれの置かれている状況をよくご存じの上で、えこひいきなく公平なさばきをしてくださるのです。
 しかし、もちろん、律法を完璧に守ることのできるユダヤ人がいないように、良心に従って完璧な生き方を出来る異邦人も一人もいませんね。つまり、神様に正しいと認められる人は世界中に一人もいないということなのです。このままでは、ユダヤ人も異邦人も、結局は、神様のさばきの日に滅びを宣告されるしかありません。

3 神の慈愛、忍耐、寛容

 しかし、神様は、すべての人を愛しておられますから、一人として滅びることを望んでおられません。
 4節でパウロは、「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」と言っていますね。ここに神様の三つの御性質が挙げられています。

@神の慈愛

 すべての人は罪人で滅びに向かっています。しかし、神様に背を向けて自分勝手に歩んでいる私たちを、神様はなおも愛して救おうとしてくださるのです。それが慈愛です。パウロは「神の慈愛はあなたを悔い改めに導くのだ」と言っていますね。
 「悔い改め」とは、ただ単に後悔すること、ただ罪を嘆き悲しむことではありません。方向変える、向きを変えることですから、人生の大きな変革につながるのです。悔い改めは、自分の姿をありのまま認めることから始まります。そして、向きを変えて、神様のいつくしみと恵みに目を向けて歩み始めるのです。こんな罪ある私をも愛してくださる神様を見上げる人生へと方向が変わるのです。自己憐憫の人生から、自分を大切にする人生へと変わるのです。さばく人生ではなく、共感し、共に生きる人生へと向きを変えていくのです。赦され、愛され、生かされていることの喜びを味わい生きる生涯へと変えてられていくのです。

A神の忍耐

 私たちの神様は、忍耐深い方です。出エジプト記34章6節に「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み」とあります。感謝ですね。神様が短気な方だったら、私たちはとっくの昔に滅ばされていたでしょうね。
 私たちは、なかなか忍耐できませんね。エレベーターが来ない、信号がなかなか青にならない、子供が言うことを聞かない、いろいろなことにすぐイライラしてしまいます。わずか十数秒が待てずに怒るのです。しかし、幸いなことに、神様は、怒るにおそく、恵み豊かな方です。頑なで自分勝手な私たちを神様は豊かな忍耐をもって導いてくださるのです。

B神の寛容

 そして、神様ほど寛容な方はいません。私たちを罪があることを承知の上で受け入れ、赦し、移り変わりやすい私たちの心をご存じの上で、「恐れるな、いつも私はあなたと共にいる」と語りかけてくださり、私たちの必要を満たし続けてくださるのです。

 つまり、私たちは、神様の慈愛と忍耐と寛容によって滅びを免れ、永遠のいのち、栄光、誉れ、平和を得ることができるのです。ところが、「その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじている」人々がいるというのですね。つまり、「神のさばきなどないではないか。やっぱり神様は、私たちを正しいと認めているんだな」と考えている人々がいるというのです。しかしパウロは、「それは大いなる勘違いだ」と鋭く指摘しています。「なぜ今神様のさばきが下らないのか。それは神様の慈愛と忍耐と寛容のおかげなのだ。だから、神様がさばきを下すのを待ってくださっている間に悔い改めて人生の向きを変えて行くべきなのだ」と言っているのです。
 私たちは、この神様の豊かな慈愛と忍耐と寛容の中に生かされ、育まれていることをますます味わっていこうではありませんか。パウロは、「今は恵みの時だ。今は救いの時だ」と言いました。そうです。今、このいつくしみ深く、忍耐と寛容に富んでいらっしゃる神様の愛が私たちに注がれています。だから、正直に神様の前に心をさらけだし、主の助けをいただきながら、「主よ。あなたに信頼して生きて行きます」と告白し、今週も歩んでいきましょう。