城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年六月二一日            関根弘興牧師
             ローマ人への手紙三章一節〜二〇節
ローマ人への手紙連続説教7
   「人の罪 3」 

  1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか ーー 私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。ーー もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
  9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。 善を行う人はいない。ひとりもいない。」13「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」14「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」15「彼らの足は血を流すのに速く、16 彼らの道には破壊と悲惨がある。 17 また、彼らは平和の道を知らない。」 18「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
  19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 (新改訳聖書)


 パウロは、1章の後半からずっと、「人間の罪」について書いています。宗教的に優秀であると自負していたユダヤ人も、文化的に最も進んでいると自負していたギリシャ人も、その他の人々も、みな神様の前では罪人なのだ、と大胆に語ったのです。そして、今日、こうして集まっている私たち一人一人も、例外なしに罪人だというのですね。
 ところで、パウロは、まず、1章の後半で主にユダヤ人以外の異邦人の罪を指摘し、次の2章では、前回見たとおり、主にユダヤ人の罪を指摘していました。ユダヤ人は、「我々は神様に選ばれた民だ。神様から律法を与えられ、その律法に従って生活している。だから、罪深い異邦人たちとは違うのだ」と誇っていました。しかし、パウロは、「あなた方は、律法の定めた儀式や戒めを表面的に守っているだけで、律法の精神である神への愛と人への愛をないがしろにしているではないか。自分を正しいと誇っているが、実際には、あなたがたも異邦人と変わらない罪人なのだ」と厳しく指摘したのです。そして、前回は読みませんでしたが、2章23節-24節では「律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、『神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている』と書いてあるとおりです」と批判したのです。せっかくまことの神様の律法を与えられているのに、心から従おうとせず、表面的に取り繕って、神様を侮るような偽善的で高慢な生活をしているあなたがたを見たら、異邦人は、まことの神様の姿がわからないではないか、と言うのですね。
 そして、2章25節-29節には「割礼」の話が出てきます。
 割礼というのは、男性の生殖器の包皮を切り取る儀式で、神の民であることを示すものでした。ユダヤ人は、皆、割礼を受け、そのことを誇りにしていました。そして、割礼を受けていない異邦人を「無割礼の者」と呼んで軽蔑していたのです。しかし、パウロは、2章28節-29節でこう書いています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からでなく、神から来るものです。」つまり、「あなたがたは、からだの割礼を受けていても、律法にそむいているなら、無割礼なのと同じだ。大切なのは、心に聖霊による割礼を受けることなのだ」というのですね。
 今日の箇所は、その続きです。1節に「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか」とありますが、これは、「ユダヤ人が律法を守ることができず、からだの割礼にも意味がないとすれば、ユダヤ人がまず神に選ばれた意味はどこにあるのですか」という質問です。
 それに対して、パウロは、「ユダヤ人が神様に選ばれたことには理由がある。その一つは、神様のことばをゆだねられたということだ」と説明しています。ユダヤ人は、神様から示された言葉を詳しく記録し、歴史を通して正確な形で受け継いできました。それが、旧約聖書としてまとめられています。この聖書を通して、すべての人が神様について、人の罪や救いについて知ることができるのですから、それだけでもとても大切な役割があるわけですね。

1 言い訳と屁理屈

 でも、ユダヤ人としては、「あなたがたは、律法を持ってはいるが守っていない。からだの割礼だけ受けていてもだめだ」と指摘されると、ついつい反論したくなるのですね。
 人は、自分の罪を指摘されると、二通りの反応をします。一つは、「その通り」と自分を正直に見つめ、解決の方法を模索していく生き方です。もう一つは、何かと言い訳、屁理屈を言って、自分の姿を認めようとしない生き方です。
 先週学んだように、人は隠し、隠れることが大好きです。しかし、神様の前では、すべてをさらけ出していいのです。常に品行方正な姿を見せていなければならないのではなく、正直な自分を、葛藤し悩み、時には失望しているありのままの姿を、神様の前に出すことができるのです。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」(詩篇34・18)とあるとおりですね。
 しかし、残念ながら、パウロがこの手紙を書いた当時も、いろいろな言い訳や屁理屈を言って、自分の罪ある姿を認めようとせず、かえって自分を正当化するような人々がたくさんいたようです。
 そこで、パウロは、こう語りました。「あなたがたの姿は、不真実な姿です。あなたがたは神様を敬っているというけれど、実際の行ないはそうではありません。あなたがたのそうした不真実が、逆に神様の真実さを証明することになるのですよ」と。 すると、こんな反論が返ってきたのです。「それじゃ、私たちはもっと不真実になろうじゃないか。私たちが不真実になったら、それによって、神様の真実がさらに現されるのなら、そのほうがいいではないか」と。
 それに対して、パウロは語気を強めて言います。「絶対にそんなことはありません。神様の真実は、あなたがたが不真実だから現れるのではありません。あなたがたがどうであれ、あなたがたに関係なく、神様は永遠から永遠に至るまで真実なお方であって、あなたがたの行動に左右されるようなお方ではありません」と。
 すると、今度は、こんな「屁理屈」を考え出す人がいました。「神様は正しい方、義なる方ということですね。しかし、正しさというのは、正しくないものと比べるからはっきりわかるのではないですか。人間が悪いことをすればするほど、神様の正しさが明らかになるのでしょう。だから、私たちが悪いことをするのは、神様の正しさを証明されるために協力しているようなものではありませんか。」まさに、屁理屈ですね。泥棒が捕まって、「私が泥棒をしたおかげで、持ち主は、もっと注意して物を大切にしなければならないってことがわかったじゃありませんか。だから泥棒というのは、人に大切なことを教えているんですよ。ほめられるべきではありませんか」、こんな屁理屈を言うのと同じですね。
 それに対して、パウロは、「神様はあなたがたに関係なく、永遠から永遠に至るまで全く正しい、義なる神であり、あなたがたに証明してもらう必要などありません。だから、あなたがたの不義は不義として、あなたがたの罪は罪として裁かれるのです」と記しています。
 すると、今度は、彼らは、こう言いました。「私たちの偽りによって、神様の真理がますます明らかになっているのに、なぜ私たちが裁かれなくちゃならないんですか。私たちが悪を行った方が、神様の善がもっと現れるのだから、好き勝手に思いのまま悪いことをして生きていけばいいではありませんか。」これは、投げやりな態度、破れかぶれ的発想ですね。しかも、8節にあるように、彼らはパウロたちが宣べ伝えている福音の内容を誤解して、「パウロさん、あなただって、『罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれる』と教えているじゃないですか。どんどん罪を犯したほうが、神様の恵みをたくさんもらえるということでしょう?」と言うのです。人は、神様の恵みの言葉さえも、いつのまにか自分勝手な、自己正当化の道具にしてしまう罪人なんですね。

2 罪人の姿

 しかし、パウロは、いろいろな言い訳や屁理屈をこねる人々に対して、9節で「ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にある」と明言しています。律法に照らしても、一人一人に与えられている良心に照らしても、どんなに屁理屈で自己正当化をしてみたところで、人は、神の前にみな罪人なのです。 ただ、私たち日本人が「罪」という言葉を聞いて持つイメージは、どうも聖書が言っている意味とは違うようです。私たち日本人は、「罪」というと、だいたい「犯罪」というものを思い浮かべます。ですから、「あなたは罪人です」なんて言われると、「冗談じゃない。いままで人様から後ろ指をさされたことなどありません。お巡りさんのお世話になったことなどありません」と反発したくなってしまうのです。
 しかし、聖書は、人は皆「罪人」だと言っています。それは、どういう意味なのでしょうか。聖書の「罪」という言葉には、「的はずれ」という意味があります。「本来の状態から、ズレてしまっている」という意味なんですね。
 体のことを考えてみましょう。たとえば、体調を崩して病気になるのは、正常な状態からのズレが生じることから起こります。血圧が正常値よりも高いとか、血糖値が高いとか、本来のあるべき状態からズレを起こすことによって体は病気になってしまうわけです。
 それでは、わたしたちの心はどうでしょう。
 人は本来、愛し愛されるべき存在です。愛に生きるのが正常な姿です。しかし、それがズレたらどうなるでしょう。憎しみや分裂が起こります。そして、その結果、大きな痛みを持つようになるでしょう。
 また、人は本来、神様に創造されたものですから、存在そのものに意味があるし、価値があります。でも、ズレが生じているとどうなるでしょう。生きる意味が分からない、虚しい、生きていてもしょうがない、自分なんて価値がない、と勝手に思い込んでしまうのです。
 聖書は、神様との関係がズレていることが、人間の根本的な罪なのだと教えます。子供が親から離れて迷子になってしまった時、とても不安になりますね。それと同じように、神様との関係がズレている時には、私たちの中に、言いしれぬ不安や虚しさや、そして、ついには、神様から背を向けてしまう反発が生じてくるのです。
 つまり、「罪人」とは、「ズレ人」のことです。身体がずれているなら、それを直すために病院に行きますね。では、罪というズレのためには、どうすればいいのでしょうか。神様との関係のズレを直し、正しい関係に回復させることができる唯一の医者がいます。イエス・キリストです。イエス様は、「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人です。私は正しい人を招くために来たのではなく、罪人を招くために来たのです」とおっしゃいましたね。イエス様は、私たちのズレを解決するために来てくださったのです。次回からは、そのイエス様がどのようにズレの問題を解決してくださるかということが中心になります。
 でも、今日は、もう少し、人間の罪の姿を見ていきましょう。 3章10節ー18節でパウロは旧約聖書の詩篇や預言者の言葉を引用して、的外れな生き方をする人間の姿を説明しています。
 まず、10節の「義人はいない。ひとりもいない」というのは、新聞の大見出しのような言葉です。パウロは、「人は皆、神様との関係がズレてしまっている。そのズレを自分の力で直すことは誰にもできない」と言っているのです。確かに、自分の心を素直に見たら、「私の心を見てください。私ほど正しい人間はいません。私にはズレなどまったくありません」と誇れる人など一人もいませんね。では、そうした人の生き方をどうパウロは語っているのでしょう。
 
@人は無知である。

 パウロは、11節で「悟りのある人はいない」と言っています。つまり、「人は皆、無知である」というのです。「あなたは無知ですね」と言われたらムカっと来ますね。でも、本当に努力した人は自分の限界を知っています。私たちが知っていることは本当にわずかです。明日がどうなるのかすらも分からないのですから。自分が何かを知っていると思ったら、実は、ほんのわずかのことしか知ってはいないのだということを忘れないでください。自分は悟りがあると思って高慢になると、神様の導きを求めようとしなくなり、本来の生き方を見失ってしまいます。自分が無知であることを自覚する謙虚さが必要なのです。

A人は言葉に無責任である。

 13節ー14節には、「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている」と書かれていますね。人は語る言葉に無責任だというのです。私たちの口は、いったい今まで何を語ってきたでしょうか。人を祝福し、慰め、励ますために用いられてきたでしょうか。考えてみると、人を責め、傷つけ、破壊し、人に要求ばかりする、そんな棘や毒のある言葉を発することが多いのではないでしょうか。

B人は行動においても無責任である。

 15節ー17節には「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない」と書かれています。歴史は、このことを証明していますね。私たちは、自分を欲求を通すために、他人を押しのけます。そして、人を傷つけたり破壊したりすることがあるのです。

Cまことの神様に対する敬虔な態度がない。

 そして、パウロは、18節で「人にはまことの神様に対する恐れがない」と指摘します。神を恐れない人生は、高慢な人生です。神を恐れることを教えない社会は滅んでいきます。愛と真理と正義の源である神様に背を向ける生き方は、惨めな結果を刈り取るだけだからです。

3 罪の解決の道
 
 さて、パウロは1章後半からずっと人の罪の姿を指摘してきました。そして、20節で結論を出しています。「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」「律法によっては、かえって罪の意識が生じる」という結論です。
 前回もお話ししましたが、律法を完璧に守ることのできるユダヤ人は一人もいません。また、律法を精神を示す良心に従って完璧な行いをする異邦人も一人もいません。つまり、律法を行って神の御前に義と認められる人は一人もいないのです。かえって、努力すればするほど、私たちは、自分の力では神様の律法を守ることができない者なのだという罪の意識を持つようになるのです。
 パウロは、そのことをはっきりと指摘しました。しかし、「人間というものは罪深いものだ。どうしようもない。人生をあきらめるしかない」と言っているのではありません。彼は、「人が罪の中にいるなら、つまり、ズレた状態に留まっているなら、最善の人生を送れるはずがない。しかし、その状態から私たちを救うことができるダイナマイトのような力のあるものがある。それが、イエス・キリストの福音だ」ということを知らせようとしているのです。
 皆さんが病気になって、お医者さんのところに行ったとします。「その病状について、きちんと説明してもらいたい」と思いますね。ところが、お医者さんがこう言ったらどうでしょう。
「そのまま放っておいても大丈夫ですよ。心配する必要はありません。人間はどうせ死ぬのですから。まあ早いか遅いかの違いですよ。」こんな医者のところには、もう絶対に行かないぞと思いますね。また、せっかく行っても、原因を見つけることができない医者や間違った治療をする医者の所には行きたくありませんね。
 逆に、あなたがお医者さんにこう言ったらどうでしょう。「先生は、私のおなかを胃カメラで見て、癌があると言いましたね。その胃カメラは、どこの製品ですか。性能が悪いのではないですか。それに、先生の視力はいくつですか。見間違ったのではありませんか。私は自分が癌でないと思っているんです。私は自分しか信用しません。だから、私は決して癌ではありません。」お医者さんは、「じゃ、もう私は必要ありませんね。お帰りください」と言うでしょうね。
 イエス様は、「わたしは正しい人を招くために来たのではなく、罪人を招くために来た」と言われました。それは、自分のズレを認め、ズレを直してくれる医者が必要だと認め、最高のの医者であるイエス様のもとに行くときに、必ず解決があるということなんです。
 クリスチャン一人一人は、すでにイエス様の救いを受けて、新たな歩みを始めました。でも、「罪が赦される」ことと「もう罪を犯さなくなる」こととは違います。私たちは、クリスチャンになってからも何度も罪を犯し、失敗もします。だから、いつも医者が必要なんです。イエス様の十字架の贖いによって与えられる赦しの恵みが必要なんです。いつもイエス様につながっている必要があるのです。
 さて、パウロは、延々と人の罪の姿を指摘した後、待ってましたとばかり、21節ー22節にこう記しています。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」これが次回の説教のテーマです。ご期待ください。
 今週もイエス様の恵みのみわざを覚え、歩んでいきましょう。