城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年六月二八日            関根弘興牧師
            ローマ人への手紙三章二一節〜三〇節

 ローマ人への手紙連続説教8
   「信仰の原理によって」 

21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。(新改訳聖書第三版)


 先週まで、三回にわたって「人間の罪」について学んできました。神の選びの民として誇りを持っていたユダヤ人も、学問と博識を誇っていたギリシャ人も、世界中を支配していたローマ人も、例外なしにすべての人は罪人なのだとパウロは記しています。そして、どんなに立派な修行をしても、どんなに宗教的な戒律を守っても、自分で自分を救うことはできないというのが、ここまでの話でした。
 しかし、パウロは、今日の3章21節から力を込めて、救いの道があることを記しています。今日の箇所には、聖書の神髄、キリスト教の神髄とも言える内容が書かれているのです。

1 イエス・キリストによる贖罪

 今日の箇所の中心は、「イエス・キリストによる罪の贖い」ということです。
 23節ー24節に非常に大切な言葉が出てきます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
 人は、自分の罪の故に、どんなにがんばっても、自分の力では永遠の救いという栄誉を得ることはできません。しかし、ただ「神の恵み」によって、「キリスト・イエスによる贖い」のゆえに、「値なしに」「義と認められる」というのです。
 「恵み」とは、「本来受けるにふさわしくない者に与えられるプレゼント」です。神様を無視し、自分勝手な生き方をしている私たちを神様はなおも愛し、私たちを救うために御自身の御子を与えてくださいました。それが恵みです。そして、御子イエスが私たちの罪をすべて購ってくださったので、私たちは「値なしに」、つまり自分では何の犠牲を払うこともなく、「義と認められる」というのですね。そのことについて詳しく見ていきたいと思いますが、今日の箇所のキーワードは、「神の義」と「贖い」です。まず、この二つの言葉の意味を正しく理解することが大切です。

@「神の義」とは

 「神の義」には、神様はどこから見ても正しい方、義なる方という意味があります。私たちが信頼する神様は、正しい方で嘘偽りのないお方です。そういう意味で、「神の義」は、神様のご性質を示す言葉です。
 しかし、「神の義」には、もう一つの意味があります。神様と私たちの関係を表しているのです。先週、「罪」とは「的外れの状態」「ズレている状態」だということを学びました。罪とは神様との関係がズレているということなんですね。逆に、「義」とは、神様とのズレた関係が正され、まっすぐにされている、ということを指す言葉なんです。
 パウロは、前回の箇所で「義人は、ひとりもいない」と記していますね。それは、皆、神様との関係がズレている状態だということなのです。これは、ちょうど断線して電気が通らないような状態なんです。でも、その断線が回復したら、電気が通り、明かりがつきますね。
 私が司会をしているテレビ番組の名称「ライフ・ライン」とは、直訳すれば「命綱」です。神様と私たちをつなぐ命綱のことを考えて名付けられたわけです。神様との関係が断線している状態から回復して神様とのつながりを取り戻すこと、それが「義とされる」ということなんです。
 ですから、この手紙で使われている「神の義」という言葉と「神の救い」という言葉は、同義語と考えたらいいのですね。
たとえば、21節-22節の「神の義」という言葉を「神の救い」という言葉に置き換えて読むと、こうなります。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の救いが示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の救いであって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」
 これから「神の義」とか「義と認められる」とかいう言葉が出てきたときには、「神の救い」、また、「救いが与えられる」という意味なのだと理解していただきたいと思います。そして、それは、「神様とまっすぐな関わりを持って生きることができる状態になること」だということも覚えていてください。
 では、神様とのまっすぐな関わりを持つためには、どうしたらいいのでしょうか。罪人である私たちは、そのままでは正しい神様とつながることはできません。完全に義なる方である神様は、いかなる罪も受け入れることはなさいません。神様の正しさは、罪を罰せずにはおれないのです。ですから、まず、私たち人間の罪の問題を解決するために、特別なことがなされる必要があるのですね。
 そこで、次の大切な言葉「贖い」ということを理解する必要があるのです。

A「贖い」とは

 聖書には「贖い」という言葉がよく出てきますが、私たちは日常の中でこの言葉を使うことはほとんどありませんから、イメージがつかみにくいですね。
 この言葉には、二つの意味が含まれています。
 まず、ギリシャの世界で使われる場合には、「奴隷市場で競売にかけられた奴隷を、相当な代価を払って自分のものにする、買い取る」という意味があります。
 パウロは、第一コリント6章20節でこう記しています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(1コリント6・20)
 つまり、「私たちは罪の奴隷だったが、イエス・キリストが御自身を代価として捧げることによって私たちを買い取ってくださり、神様の専用品としてくださった」ということ、それが「贖い」の一つの意味なのです。
 もう一つは、ユダヤの世界で使われている意味です。旧約聖書の律法には、「人が罪を犯した場合は、それを贖うために身代わりの動物を捧げなければならない」という規定があります。人の罪を動物に負わせ、その動物が人の身代わりに罪の罰を受けることによて、人は罪が赦され、神様の民として生きていくことができるというわけですね。ですから、この動物のいけにえによる「贖い」は、ユダヤ人にとってはとても大切な意味を持っており、神殿では、毎日たくさんの動物がささげられていました。年に一度の「大贖罪日」には、大祭司が神殿の最も奥にある至聖所に入り、そこに置かれていた契約の箱のふたの上に、ほふられた動物の血を注ぎました。その契約の箱の蓋の部分は「贖罪所」、つまり「罪の贖いをする場所」と呼ばれていました。
 今日の箇所の25節に、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」と書かれていますね。この「なだめの供え物」と訳されている言葉は、別の訳では、「罪を償う供え物」「あがないの供え物」となっています。また、この言葉は、さきほどの契約の箱のふたに動物の血が注がれる場所を指す「贖いをする場所」というふうにも訳される言葉なのです。
 つまり、神の小羊として来てくださったイエス・キリストが、すべての人の罪を背負い、身代わりとなって十字架で血を流してくださった、自らが贖いの供え物となってくださったということなのです。そして、十字架こそ贖いの場所そのものであるということなのですね。
 動物のいけにえは不完全ですから、人の罪の問題を根本的に解決することはできませんでした。しかし、神の御子イエスは、完全ないけにえですから、すべての人を罪から贖い出すことができます。イエス・キリストが十字架にかかって御自身のいのちを支払い、私たちを贖ってくださったからこそ、私たちの罪が赦され、無償で救いを得ることができる道が開かれたのです。ですから、十字架は神様の大きな愛と赦しを示す場所となったのです。

2 信仰の原理

 それでは、イエス様の贖いによって与えられる罪の赦し、神の救いを得るために、私たちはどうすればよいのでしょうか。努力や修行をしなければならないのでしょうか。いいえ、救いを得るため必要なことは、ただ一つだけです。それは、「信仰」です。
 パウロは、28節で「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」と書いています。これは、神学用語では「信仰義認」と言って、聖書の最も中心的な教えです。
 では、「信仰」とは、どのようなものでしょうか。

@「信仰」とは

 「信仰」、つまり「信じる」とは、信頼することです。実は、私たちの毎日の生活は、「信じる」ことの繰り返しで成り立っています。今日は、礼拝に電車で来られた方もいますね。その方は、「この電車は小田原に行く」と信じて乗り込みましたね。そして、その結果、教会まで無事にたどり着くことができました。そのように、私たちは、信じたことに基づいて行動し、その行動がもたらす結果を受けて生きているのです。
 では、救いという結果を得るためには、何を信じればいいのでしょうか。26節に「神はイエスを信じる者を義とお認めになる」と書かれていますね。イエス様を信じると、その結果、救いを得るのです。
 では、イエスを信じるとは、どういうことでしょうか。イエス様が神の御子であり、まことの救い主であること、また、イエス様が私たちのために十字架について私たちのすべての罪を贖ってくださったこと、そして、復活し、今も生きて私たちとともに歩み、新しいいのちを与え、守り、導いてくださる方であることを信じるのです。
 そして、大切なのは、信じたことに基づいて行動することです。先ほど、電車の例を挙げましたが、「この電車は小田原に行く」と信じても、実際に乗らなければ、いつまでたっても小田原に行けませんね。同様に、イエス様は救い主だと信じたら、それに基づく応答や行動をしていくことが大切なのです。この手紙の10章10節には「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」、10章13節には「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」と書かれています。つまり、イエス様が救い主だと心で信じたら、「イエス様、あなたが救い主であることを信じます。私とともに歩み、私を導いていってください」と告白し、祈り求めるのです。そうすれば、聖書に書かれている約束のとおり、イエス様は、かならずその通りにしてくださいます。
 信仰に生きるというのは、決して難しいことではありません。神様が用意されたイエス・キリストによる救いを受け取り、聖書に書かれている素晴らしい数々の約束の言葉を信頼し、その言葉にもとづいて生きていくことだからです。しかも、私たちがそうすることができるように、聖霊が助け、導いてくださるのです。
 たとえば、私たちは、罪を赦されはしましたが、完全な人間になったわけではなく、今でも間違ったり、失敗したりします。でも、第一ヨハネ1章9節に「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」とあります。その約束を信頼して、神様の御前でありのままの自分を言い表せばいいのです。
 また、自分がクリスチャンになってもまったく変わっていないと感じるとき、神様が私たちを成長させてくださるという聖書の約束を信頼し、希望を持って生きていけばいいのです。
 また、どんな困難な状況にあっても、「わたしがいつもあなたとともにいる」「神がすべてのことを益としてくださる」という約束を信頼して生きていくのです。
 では、イエス様を信じて生きることによって、どのような結果がもたらされるでしょうか。 
第一ペテロ1章8節ー9節にこう書かれています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
 キリストを愛し、信頼し、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びがある、それが信仰の結果だというのですね。
 考えてみれば、毎週の礼拝の様子は面白いですね。コロナ感染予防の自粛の中で、朝っぱらから「感謝、感謝」なんて歌っているんです。「イエス様、あなたを心から愛します」と賛美しているわけですね。端から見たら、どういう団体だって思われるかもしれませんね。でも、私たちはイエス様を信じ、困難や苦しみがあっても、聖書の約束を信頼して生きていこうとしているわけです。そして、その聖書の約束が信頼に値する確実なものだからこそ、そこに感謝と希望と喜びが生まれてくるわけですね。

A「信仰」についての誤解

 しかし、信仰について誤解している人がたくさんいます。
 たとえば、「ああ、そうか。自分の信仰によって神の義を得たんだな。自分が一生懸命に信じたから救われたんだ」と、自分の信仰が立派であるかのように誇る思いが生じて来るわけです。そうすると、ちょっとおかしくなってきますね。
 もし、自分の信仰の力で救われたと考えていると、順調なときはいいのですが、問題が起こったり苦難に襲われて自分の弱さが見えてくると、「自分はイエス様を信じる信仰が足りない。こんな頼りない信仰では、イエス様に見放されてしまうのではないか」と思い込んでしまうのです。自分の信仰の状態に振り回されることになってしまうのですね。
 実は、信仰についてこのように考えている人は結構多いのです。信仰すらも自分のすべき行いの一つであるかのように考え、信仰が浅いとか、深いとか、立派だとか、足りないとか、自分勝手に判断して、信仰が重荷となってしまうことがあるのです。

B聖書が教える「信仰」の姿

 しかし、聖書で教えている「信仰」とは、そのようなものではありません。パウロは、22節で「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と記していますが、この箇所は「イエス・キリストの信仰による神の義」と訳すこともできるのです。
 どういうことかといいますと、信仰にはいつも二つの面があるということです。一つは、一人一人がどれだけ神様に信頼しているか、という私たち側の信仰という意味です。しかし、それよりも先に、イエス様のほうで私たちを信頼して真実を尽くしてくださっている姿があるというのです。つまり、私たちが一生懸命信仰を持ったからイエス様が救ってくださったというのではなく、まず、イエス様の真実が豊かに注がれているからこそ、私たちはイエス様を信頼することができるようになったということなのです。自分の手でイエス様の手を握り続けていようと思っても、途中で力尽きてしまいます。けれども、実は、イエス様の手が私たちの手をしっかり握っていてくださるのですから、決して落ちることはありません。そのことを信頼して生きていくこと、それが信仰なのです。
 エリコの町に住むザアカイは、町一番の嫌われ者でしたが、イエス様がエリコに来られると聞いて、イエス様を見に出かけました。しかし、人混みで見ることができません。そこで、木の上に登って眺めていたのです。噂通りの方がどうか確かめてやろうという興味本位の気持ちだったと思います。イエス様に何かを願い求めようなどとは思っていなかったでしょう。ところが、イエス様が急に立ち止まって、「ザアカイ、木から下りてきなさい。今日、私はあなたの家に泊まることにしているから」と呼びかけられたのです。ザアカイは喜んでイエス様を家に招き、その時から彼の人生は一変しました。私服を肥やすことに熱心だったザアカイが、財産を貧しい人々に施し、だまし取った物を四倍にして返すような男に変わったのです。イエス様がザアカイの家に行かれたのは、ザアカイが善行をしていたからでもないし、しっかりした信仰を持っていたからでもありません。ザアカイがただ木の上で高みの見物をしているときに、イエス様の方から呼びかけてくださったのです。ザアカイは、その招きに単純に応答しただけです。そこには、イエス様のザアカイへの信頼があり、その信頼に応えるザアカイの信仰の応答があったのです。そして、それが彼の救いをもたらしました。
 この「ローマ人への手紙」を書いたパウロも同じです。パウロは、クリスチャンを迫害していました。ところが、ダマスコのクリスチャンたちを迫害しに向かう途中、まばゆい光に打たれ、地に倒れてしまったのです。そして、イエス様が語りかける声を聞き、クリスチャンになりました。パウロは、イエス様を求めるどころか、迫害していました。信仰とは真逆の生き方をしていました。それなのに、イエス様の方からパウロに現れ、語りかけてくださったのです。ですから、パウロは「自分の信仰によって救いを得た」などとは到底言うことができませんでした。まずイエス様のあふれるばかりの愛と真実があったからこそ自分は信仰を持つことができのだと実感していたのです。

 3章22節から24節までを、もう一度を読みましょう。「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」信仰による神の義は、すべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。そこには、人種、国籍、社会的地位など関係なく、誰でも、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められるのです。 今週も、私たちを愛し、信頼して、呼びかけてくださるイエス様に応答し、聖書の約束の言葉に信頼しながら、歩んでいきましょう。