城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年七月五日             関根弘興牧師
              ローマ人への手紙四章一節〜八節

ローマ人への手紙連続説教9
   「信仰の姿」
 
1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。8 主が罪を認めない人は幸いである。」(新改訳聖書第三版)


 パウロは、1章の後半からずっと人間の罪の姿を記してきました。「義人はいない、ひとりもいない」とあるように、すべての人が罪人なのだと記しています。
 「罪」とは、「ずれ」ている状態のことです。神様との関係がずれているということです。丁度、電線が断線しているようなものです。断線していたら、神様のいのちも愛も真実も受け取ることができませんね。ですから、そのままでいいはずがありません。神様は、私たちを愛しておられるので、私たちに祝福を豊かに与えるために、何とかして「ずれている関係」から「まっすぐな関係」へと導こうと願っておられるのです。
 でも、正しい神様と罪ある私たちは、そのままではまっすぐな関係を持つことはできません。神様は完全に義なる方ですから、いかなる罪も罰せずにはおけないのです。そうでなければ、正義が損なわれてしまいますから。そこで、「贖い」という大切な神様のみわざが必要となるのです。旧約聖書の時代には、人の罪を贖うために、動物が身代わりとして捧げられていました。しかし、動物は不完全な身代わりですから、人の罪を完全に贖うことはできませんし、罪の問題を根本的に解決することもできません。そこで、神様は、完全な身代わりとなるお方、神の小羊なるイエス・キリストを与えてくださいました。イエス・キリストが私たちのすぺての罪を背負い、完全な購いを成し遂げてくださったのです。その贖いによって、私たちは、すべての罪を赦され、罪の奴隷状態から解放され、神様とのまっすぐな関係を回復することができるようになったのです。
 では、そのイエス・キリストの贖いによる救いを受け取るためには、いったい何が必要なのでしょう。パウロは、「私たちに必要なのは、イエス・キリストを信じる信仰だけだ」と記しています。つまり、イエス・キリストによる救いを信じ、感謝して受け取るだけでいいのです。
 しかし、誇り高きユダヤ人たちは、「信じるだけで救われるはずがない。モーセによって与えられた律法をきちんと守らなければ救われないのだ」と主張しました。そこで、パウロは、今日の箇所で、ユダヤ人たちが最も尊敬している二人の人物を例に挙げて、「人が神の前に義とされるのは、つまり、救われるのは、決して行いによるのではない」ということを説明していくのですね。この二人とは、アブラハムとダビデです。パウロは、「アブラハムの生涯を見てご覧なさい。ダビデの生涯を見てご覧なさい。彼らも、自分の行いや努力やがんばりではなく、信仰によって救いを得たのです」と記していくわけです。
 4ー5節を見てください。「働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
 もし、行いや働きによって神の救いを得るというなら、救いは、私たちの働きに対する神からの報酬ということになりますね。でも、救いは、私たちが何かをしたり働いたから与えられるのではなく、私たちが何もしなくても神様から一方的に与えられるのです。
 教会では、「恵み」という言葉を使いますが、「恵み」とは「本来は受け取る資格がないのに与えられるもの」です。5節にあるように、「何の働きもない者が神の前に義とされ、救いが与えられる」というのは、まさに神様の恵みなのです。
 「何の働きもない者だって、冗談じゃない。少しは働いてますよ」と異議を唱える方がいるかもしれませんね。人は、いつも自分の努力や働きや才能によって得たものを誇りたがる傾向があります。でも、救いについては、そうした誇りは一切入り込む余地がないのです。パウロは、「救いに関しては、皆、何の働きもない者だ」と言います。そして、その例として、まずアブラハムの姿を紹介しています。

1 アブラハムの場合

 アブラハムという人は、ユダヤ人から「これ以上の信仰の人はいない」と言われるくらい尊敬されている人です。「信仰の父」と呼ばれ「神の友」とも言われた人物で、ユダヤ人は、自分たちがアブラハムの子孫である、ということに大変な誇りを持っていました。彼の生涯は、旧約聖書の創世記に記されています。
 アブラハムは、最初、異教の地に住んでいましたが、ある時、神様がこう仰せられました。「アブラハムよ。この地を離れ、わたしが示す地に行きなさい。そうすれば、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する」と。
 しかし、アブラハムにとって、住み慣れた故郷を離れるのは大きな決断でした。今なら、「なんだ、そんなことか。私だって生まれ故郷を離れている」と思う方もいるでしょう。でも、当時と今では事情が違います。アブラハムの時代に生まれ故郷を離れるということは、故郷で得た様々な地位や権利を放棄することを意味していたからです。今まで生活を保証してくれていた基盤となるものを一切捨てて出て行くということですから、放浪生活を始めると言っても過言ではないのです。
 また、故郷を離れることは、親族から離れる決断でもありました。当時、警察などありませんでした。誰が自分の命や財産を守ってくれるかというと、親族でした。親族が力を合わせて守ってくれたのです。ですから、親族を離れるということは、今まで自分を保護してくれた人々から離れることを意味します。
 そして、故郷を離れるとは、父の家から離れるということですが、これは、父の家の宗教から離れるということでもあったのです。ユダヤの伝承では、アブラハムの父親は、月の神シンの偶像を彫って、それを売って生計を立てていたと言われています。アブラハムは、その先祖代々の家の宗教から離れるという決断をしたのです。
 アブラハムは、勇気をもって生まれ故郷を出て行きました。しかし、そんな大胆な行動をとったその時に神様が「アブラハムを義と認められた」とは、ひとことも書いてありません。
 アブラハムは神様の示された地に出て行きましたが、そこにバラ色の生活が待っていたかというと、そうではありませんでした。神様に示された地で待っていたのは、大飢饉だったのです。私だったら、すぐ文句を言うと思いますね。「神様。冗談じゃないですよ。約束が違うじゃないですか。あなたが出て行け、というから出て来たのに、食べるものがないではありませんか。飢饉ですよ。」
 アブラハムは食料のあるエジプトに下って行くことにしましたが、その途中、こう考えました。「妻のサラは美人だからなあ。エジプトに行くといろんな男たちが夫である私に嫉妬して、私を殺すかも知れない。そうだ。妻を自分の妹だと言おう。そうすれば大丈夫だ。」彼はエジプトに着くと、妻のサラを自分の妹だと紹介しました。実際に異母兄妹だったので、嘘ではありませんでしたが、妻であるという大切な事実を隠してしまったのです。サラは非常に美人でしたので、彼女を見たエジプト王の高官たちが王に推奨し、彼女は宮廷に召し入れられてしまいました。エジプト王は大変喜び、彼女のためにアブラハムに良くしてくれ、沢山の物を与えたのです。アブラハムは財産家になりました。その時、アブラハムはどんな思いだったでしょうね。妻のことで苦しんだはずです。ジレンマの時が続いたことでしょう。しかし、神様は、サラのことで、エジプト王の家にひどい災いを下されました。それで、王は彼女がアブラハムの妻であることを知ることになったのです。サラは、アブラハムのもとに返され、アブラハムたちはエジプトを離れて、再び神様が示された地に戻って行きました。アブラハムは自分の浅い知恵で行動してしまいましたが、神様が守ってくださったのですね。
 さあ、再出発です。今度こそ、すばらしいことが待っているに違いない、と期待しますね。しかし、またしても期待はずれでした。アブラハムは、故郷から甥のロトを連れて来ていました。彼らは、エジプトで沢山の物を得たこともあって豊かになり、それぞれ多くの家畜を所有するようになっていましたが、土地が狭すぎたためにアブラハムのしもべたちとロトのしもべたちとの間で喧嘩が始まったのです。貧しい時には助け合っていたのに、互いに豊かになってくると、かえって争いが起こるのですから、皮肉なものですね。アブラハムは頭を抱えてしまいました。結局、「このままでは一緒に生活をすることはできない。別々の場所に離れて暮らすことにしよう」ということになりました。そこで、甥のロトは、自分のために肥沃な土地を選び、ソドムのほうに移って行ったのです。
 「これで一段落。やっと落ち着いて生活ができるぞ」とアブラハムは思ったに違いありません。しかし、一難去って、また一難です。北方の王たちが連合軍をつくってソドムやゴモラの地域を攻撃し、財産や食料や住民を略奪していったのです。ソドムに住んでいた甥のロトも、家族財産もろとも連れ去られてしまいました。
 その知らせがアブラハムのところに届きました。アブラハムは悩みました。相手は連合軍です。大軍勢です。それに引き替えアブラハムの手勢は知れたもので、なすすべがない状況です。しかし、アブラハムは、自分のしもべたち三百十八人を召集し、彼らを率いて大軍勢に奇襲攻撃をかけました。そして、見事にロトたち家族とその財産を取り返したのです。大変な喜びでした。すごい手柄を立てた後は興奮して気分がいいものです。
 でも、その後、アブラハムを襲ったものは何だったでしょうか。彼はいっときの興奮の後、「あの連合軍の大軍勢がまた襲って来たらどうしよう」という恐怖がわき起こってきたのです。もし今度、彼らに目を付けられて襲われたら、自分の命などひとたまりもない。家族も財産もすべて奪われてしまうだろう。そんなことを考えだしたら目の前が真っ暗になったことでしょう。「ああ、もう駄目だ。それに私はもう九十歳だ。神様は私を多くの国民の父にすると言われたけれど、子どもなんか生まれるはずがない。神様はいろいろな約束をされたが、結局その約束はすべて駄目になってしまうのではないか。ああ、連合軍が襲って来たらどうしよう」と心に恐れが大波のように襲ってきたのです。彼は恐れおののき、疲れ果ててしまいました。そして、自分の弱さを思い知らされたのです。
 しかし、そんな恐れと不安がいっぱいになっていた時、創世記15章で、神様がアブラハムに仰せられました。「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である」と。「あなたは今、恐れているけれど、わたしがあなたの盾になって、あなたを守るから心配するな」というのですね。何という励ましでしょう。
 そして、神様は、夜、アブラハムを外に連れ出して言われました。「さあ、天を見上げなさい。」天には、無数の星が輝いていました。そして、神様は、「アブラハムよ。あの天の星を数えることができるか。あなたの子孫は、この星の数のようになる」と告げられたのです。
 アブラハムは大変落ち込んでいましたが、神様の言葉に励まされ、満天の星を見上げているうち、神様に信頼する思いが与えられていきました。彼は恐れと戸惑いのどん底にありましたが、神様の言葉に励まされ、「神様。あなたを信じます」と告白したのです。そして、創世記15章6節に「彼は、主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれています。今日の箇所でパウロが引用しているのは、この言葉です。パウロは、「アブラハムは、ただ神様の約束を信じたことによって、主とのまっすぐな関係を築くことができたのだ」と語っているのです。
 この告白をしたとき、アブラハムは落ち込んでいました。弱く、疲れ、恐れに満ちていたのです。しかし、その時に示された神様の約束をただ信じたその信仰が、彼を救いに導くものとなったと聖書は教えるのです。
 神様は、まず、ご自分のほうから「恐れるな。わたしがあなたの盾になって、あなたを守ってあげるのだから」と語りかけてくださる方です。神様を信じることができないような困難な時、恐れのある時、神様が真実をもって「恐れるな。わたしを信頼しなさい」と声をかけてくださるのです。その声に対して私たちはただ「信じます」と応答するのみです。それは、私たちが立派だからではなく、功績をあげたからでもなく、ただ神様が恵みを注いでくださるからなのです。

2 ダビデの場合

 それでは、ダビデはどうでしょうか? ダビデもやはり、ユダヤ人からたいへん尊敬されている人物の一人です。彼は羊飼いでしたが、ついにはイスラエルの王にまで上り詰めるという、サクセス・ストーリーを地で行くような人でした。
 ダビデは、イスラエルの国を統一し、敵国に数々の勝利を収めて領土を拡大した力のある王様でした。何でも自由にすることができました。欲しい物は何でも手に入れることができました。思い通りの人生を送れたのです。
 しかし、彼は、それが本当の幸せであるとは考えませんでした。7ー8節の言葉は、ダビデの記した詩篇32編の引用です。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」
 彼は、自分の人生を振り返って、「最も幸せな人とは、どういう人だろうか。」と考えたとき、「本当に幸せな人とは、神様から罪を赦していただいた人だ。それより幸せな人はいない」と詩篇に記したのです。
 なぜそう思ったのでしょう。ダビデは、神を愛し、人々から尊敬される人物でしたが、大変な過ちを犯してしまったことがありました。今なら、テレビのワイドショーが毎日のように取り上げそうな大スキャンダルです。第二サムエル11章ー12章に書かれているのですが、ダビデは、家来のウリヤが戦地に赴いている間に、彼の妻バテ・シェバと関係を持ってしまったのです。バテ・シェバは妊娠しました。このままでは、自分の過ちが夫のウリヤにも世間にも知られてしまいます。そこで、ダビデは、なんと、ウリヤをわざと戦地の最前線に送って戦死させてしまうのです。計画的な犯行です。そして何食わぬ顔で、未亡人になったバテ・シェバを自分の妻にしてしまったのです。
 しかし、人間というのは、心に後ろめたさを感じていると、平安がなくなりますね。自分の罪を隠そうとすればするほど、罪に苦しむ結果になりました。ダビデは、その時のことを回顧して、詩篇32篇3節ー4節にこう書いています。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」大変な苦悩です。
 その時、預言者ナタンがダビデのもとにやって来ました。預言者といっても、ダビデの家来です。しかし、ナタンは、非常に大胆に語りました。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは貧しく、ひとりは富んでいました。金持ちは非常に多くの羊や牛や物を持っていましたが、貧乏な人は一匹の小さな羊しか持っていませんでした。でも、その子羊は大切に育てられ、家の中で家族と一緒に暮らしていました。ある時、金持ちのところにお客さんがやって来ました。金持ちは、沢山いる自分の羊や牛を調理することを惜しみ、貧乏な人が大切に育てていた子羊を取り上げて、お客のために調理してしまったんです。ダビデ王様。この話をどう思われますか。」
 ダビデは、激しく怒り、「そんなひどいやつは死刑だ。殺してしまえ」と怒鳴りました。すると、ナタンは、「王よ。あなたがその人です」とずばりと指摘したのです。そして、神様の言葉をダビデに語りました。「わたしは、あなたに多くの祝福を与えた。あなたが望むなら、もっと多くのものを与えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか」と。
 ダビデは、それを聞いてどうしたでしょうか。「ええい、うるさい。引っ込め。お前は何様のつもりで私を責めるのか」と王の権威をふるってナタンを追い出したでしょうか。いいえ、ダビデは、その場所に崩れ落ちてしまいました。自分で立ち上がることができないほど、打ちのめされたのです。そして、「私は主に対して罪を犯した」と言って、悔い改めたのです。
 神様は、そのダビデの告白を受け入れてくださいました。神様が受け入れてくださるのは、罪を犯さない人ではなく、罪を犯したときに神様の前で正直に告白する人です。
 ダビデは、詩篇32篇5節でこう言っています。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』。すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」そして、先ほどもお話したように、「そむきを赦され、罪をおおわれた人は、何と幸いなことでしょう」とダビデは言ったのです。
 ただ、神様に罪を赦されても、罪の結果は受けなければなりません。ダビデは、この罪の結果として、家族の間の紛争、三男アブシャロムの謀反など、いろいろと悲しい出来事を刈り取らなければなりませんでした。しかし、それでも、彼は神様の前に罪赦され、義とされたのだ、と聖書は語っているのです。ダビデは、一生懸命立派なことをして、善行を重ねて、すばらしい行いをしたから赦されたのではなく、とんでもない愚かな行為をしたにもかかわらず、罪を指摘されたとき正直に自らの弱さを認め、悔い改め、罪を告白したので、赦され、義と認められたのです。
これは、ダビデだけでなく、私たち一人一人の人生においてもそうです。私たちが心に罪を抱えて生きている限り、平安は失われていきます。隠そうとすればするほど、ひずみが生じるのです。
 第一ヨハネ1章9節にはこう書かれています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」正直に自分の心を見つめ、神様の真実を信頼してありのままの自分を認め、告白していく時、私たちは、キリストの十字架の贖いによって罪赦され、生きることができるのです。

 本当の幸せは、神様とのまっすぐな関係を回復することから始ります。それは、人間の努力や行いによってもたらされるのではなく、イエス様の一方的な真実と恵みを知って、素直に応答することから始まるのです。
 そして、神様は「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしはあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41・10)と今日も語りかけくださっています。
 私たちは、誰も自分を誇ることなどできません。アブラハムが恐れと弱さを感じていた時に信仰の告白をしたように、またダビデが正直に自分の罪を認めて悔い改めたように、主の恵みの言葉に単純に応答する者とされながら、今週も歩んでいきましょう。