城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年七月一二日            関根弘興牧師
             ローマ人への手紙四章九節〜二五節

ローマ人への手紙連続説教10
  「同じ信仰」
 
 9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。11 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、12 また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。14 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。15 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(新改訳聖書第三版)


まず、今までの内容を振り返ってみましょう。
 パウロは、すべての人が「罪人」だと言っています。聖書に書かれている「罪」とは、「神様との関係がズレた状態にある」ということです。いのちと愛と正義と真理の源である神様との関係がずれてしまっているために、様々な問題が生じてくるというのですね。つまり、パウロは、皆、神様との関係がずれた状態にあるのだ、と言ったわけです。
 では、「救い」とは何でしょうか。ずれている神様との関係がまっすぐにされ、神様のいのちや愛やまことを十分に受けることができる状態になることです。そのように神様との正しい関係が回復することを、パウロは、「義とされる」「義と認められる」「義とみなされる」という表現で説明しています。つまり、今日の箇所にも繰り返し出てくる「義とみなされる」「義と認められる」という言葉は、「救われる」という言葉に置き換えることもできるのですね。
 では、神様とのまっすぐな関係を回復するためには、どうすればいいのでしょうか。
 私たちには、罪や汚れがありますから、そのままでは完全に聖く正しい神様とまっすぐな関係を持つことは不可能です。つまり、まず私たちの罪の問題を解決し、私たちが聖いものとなる必要があるのです。しかし、私たちは自分の力ではそれができません。そこで、神様の方で、私たちのために救いの道を用意してくださいました。神の御子であり何の罪もないイエス様が、私たちの身代わりに十字架ですべての罪の罰を受けてくださることによって、そのイエス様を信じるだけで罪のない者と認められ、神様とのまっすぐな関係を回復することができるという道です。私たちの側には、何の努力も能力も善行も必要ありません。ただ、「イエス・キリストを信じれば救われる」という神様の約束を信じるだけでいいのです。
 ところが、ユダヤ人たちの中には、「信じるだけではだめだ。律法もきちんと守らなければ救われない」と主張する人々がいました。そこで、パウロは、前回の箇所で、「あなた方が尊敬している先祖のアブラハムやダビデも、ただ信仰によって救われたではありませんか」と説明したのです。もちろん、アブラハムやダビデの時代には、まだ救い主イエス様は来られていませんから、イエス様を直接信じたわけではありません。しかし、彼らは、「わたしがあなたを赦し、救い、祝福する」という神様の約束を信じたので、義とみなされたのです。

1 割礼のある者も割礼のない者も

 そして、今日の箇所に続くわけですが、まず、9節に「それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか」とありますね。「この幸い」というのは、「ただ信じるだけで義と認められる」という幸いのことです。そして、「割礼のある者」と「割礼のない者」というのは、「ユダヤ人」と「ユダヤ人以外の異邦人」のことです。以前にも説明しましたが、「割礼」とは男性の生殖器の包皮を切り取る儀式で、まことの神の民であるという印でした。神様がお与えになった律法の中に神の民として歩む者は全員割礼を受けなければならないという規定がありました。ですから、ユダヤ人は律法に従って割礼を受け、自分たちは「割礼のある者」、つまり、神の民であるという誇りをもっていたのです。
 さて、パウロが前回例に挙げたアブラハムとダビデは「割礼のある者」でした。そこで、「割礼のあるユダヤ人は信仰によって義とみなされるというのはわかったけれど、では、割礼のない異邦人たちはどうなのか」という疑問が出てくるわけです。そこで、パウロは、今日の箇所で、「アブラハムが信仰によって義とみなされたのは、割礼を受ける前だったではありませんか。つまり、割礼がなくても、信じるだけで義とみなされるということです。アブラハムは、義と認められた『証印』として割礼を受けたのであって、割礼は、義と認められるための『条件』ではありません。割礼を受けているかどうかに関係なく、ただ信仰によって救われるのです」と説明しているのです。
 そして、11節途中から12節にこう書いていますね。「それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。」ここに、「割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父」、また、「割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父」という言葉が出てきます。つまり、「割礼を受けていなくても、受けていても、アブラハムのような信仰を持つ者がアブラハムの子孫なのだ」ということなのですね。
 そして、パウロは続けて、14節からこう説明しています。「割礼を受けて表面的に律法を守るだけでは、神様の祝福を相続することはできません。人は皆、自分の力で律法を守ろうとしても、違反を繰り返して神様の怒りを受けるしかない罪人なのですから。神様の祝福を相続するためのは、信仰によるしかないのです。」
 そして、16節で、「神様は、アブラハムに『わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした』と言われたけれど、それは、律法を持っているユダヤ人だけでなく、アブラハムの信仰にならうすべての人々に神様の恵みの約束が保証されているということなのです」と説明しています。
 では、「アブラハムの信仰にならう」とは、どういうことなのでしょうか。

2 アブラハムの信仰

 パウロは、20節ー21節で、アブラハムの信仰についてこう書いていますね。「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」ここだけ読むと、「アブラハムは、『信仰の父』と呼ばれるだけあって、素晴らしい信仰を持っていたんだな。私は、こんな立派な信仰にならうことができるだろうか」と思ってしまいますね。しかし、創世記に記録されているアブラハムの姿を見ると、アブラハムにも私たちと同じように弱さや迷いや疑いがあったことがわかります。それでも彼が「信仰の父」と呼ばれるのはなぜでしょうか。彼は何を信じたのでしょうか。
 今日の箇所の17節に「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです」とありますね。アブラハムは、神様が「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」だと信じたというのです。
また、ヘブル人への手紙11章19節には、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました」と書かれています。
 これらの言葉は、アブラハムの生涯に起こった大きな二つの出来事に関係しているので、その二つの出来事について詳しく見ていきましょう。

(1)イサクの誕生

 アブラハムには子供がありませんでした。しかし、先週お話ししたように、神様はアブラハムに「あなたの子孫は天の星のように増える」と約束なさいました。ところが、なかなか子供ができません。アブラハムも妻のサラも年を取って、もう妊娠は不可能だと思えました。そこで、アブラハムが85歳になったとき、妻のサラは、自分の代わりに女奴隷のハガルにアブラハムの子を産ませることにしました。当時、不妊の妻の代わりに女奴隷に子を産ませるというのは、当たり前のように行われていたことだったので、アブラハムも同意し、翌年、ハガルはアブラハムの子イシュマエルを産みました。アブラハム夫婦は、神様の約束を自分たちの力で実現させようとしたわけですね。しかし、それは神様のみこころではありませんでした。
 アブラハムが99歳になったとき、神様は、再びアブラハムに現れて、「わたしは、サラによって、来年の今ごろ、あなたにひとりの男の子を与える」と仰せられました。
 その時、アブラハムはどうしたでしょう。こう書かれています。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』 そして、アブラハムは神に申し上げた。『どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。』」(創世記17・17ー18)
あれ、完全に疑っているではありませんか。「アブラハムはひれ伏し、そして笑った」と書いてありますね。「こんな年寄りの私たち夫婦に子どもが生まれるはずがないではないか。神様は何をおっしゃるんだ。アッハッハ!」という感じですね。
 しかし、パウロは、今日の箇所の20節で「アブラハムは、不信仰によって神の約束を疑うようなことをしなかった」と書いています。いったいどういうことなのでしょうか。
 アブラハムは「サラが子供を産むはずがない」と心の中で笑いました。神様の言葉に対する疑いが彼の心を揺さぶったのです。しかし、そんな彼に神様は、なおもこう言われました。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。私は、彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする」と。神様は、一番最初にアブラハムに「生まれ故郷を出て、わたしが示す土地に行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する」と約束なさっていました。その約束は、その後、アブラハムが疑ったり、迷ったり、失敗しても、決して無効になることはなかったのです。神様の側から見たら、「アブラハムが疑いを持ってしまったとしても、自分がアブラハムに与えた契約はびくともしない。わたしが約束したことは必ず実現する」ということなんです。 つまり、パウロが「アブラハムが不信仰によって神の約束を疑うようなことをしなかった」というのは、アブラハムの信仰が、この神様の側の真実、神様の約束の確かさに支えられていたということなのです。アブラハムは、自分が百歳、サラは九十歳でもう子供など望みえない時に、疑い迷いながらも、神様の力強い約束のことばに励まされて望みを抱いて信じ続けることができたということなのですね。
 そして、神様は、約束通りイサクを与えてくださいました。死んだようなサラの胎から新しいいのちが生まれたのです。

(2)イサクをささげる

 もう一つの大きな出来事は、イサクが少年になった頃に起こりました。
 百歳になってやっと与えられた息子イサクをアブラハムは溺愛していたことでしょう。しかも、神様の約束の実現はすべてこの一人息子にかかっていたわけですね。しかし、神様は、アブラハムにこう命じられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」全焼のいけにえとは、すべてを焼き尽くすささげものです。愛する息子を殺して火で焼いてささげなさいというのですから、アブラハムの苦悩がどれほど大きかったか想像することもできません。普通、いけにえとしてささげられるのは動物です。異教の神モレクに幼児をいけにえとしてささげるという大変忌まわしい儀式が行われていたことが聖書に記録されていますが、それはいつも非難の対象でした。聖書の神様が子供をいけにえとしてささげよと命じるなどというのは、普通なら決してありえないことです。それなのに、息子を全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたのです。しかも、神様は「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていたのに、そのイサクを全焼のいけにえとしてささげてしまったら子孫などできませんから、全く矛盾した命令です。アブラハムは、考えれば考えるほど、わからなくなったに違いありません。
しかし、アブラハムは葛藤の末に神様の命令に従う決心をし、イサクを連れてモリヤの山に出かけていきました。そして、山の上に祭壇を築き、イサクを縛り、祭壇のたきぎの上にイサクを置き、刀を取ってイサクをほふろうとしたのです。そのとき、神様が言われました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」と。そこに、角をやぶにひっかけた一頭の雄羊がいたので、アブラハムは、その雄羊をイサクの代わりに全焼のいけにえとしてささげました。 これは、誰もが知っている有名な出来事ですが、ヘブル11章19節には、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです」と記されています。今日の箇所では、パウロは「神様は死者を生かす方だ」とアブラハムが信じたのだと記しています。「神様は、イサクとその子孫を祝福するという約束を破るはずがない。だから、イサクを全焼のいけにえとしてささげても、きっと生き返らせてくださるはずだ」とアブラハムが信じたというのですね。

2 私たちの信仰

 パウロは、23節で、「アブラハムが信仰によって義とみなされたと聖書に書いてあるのは、私たちのためでもある」と言っていますね。今までは、旧約聖書の遠い昔の話で自分と何の関係があるのかと思っていた方もおられるかもしれませんが、実は、アブラハムの信仰の姿は、私たちの信仰の姿と共通しているんですよ、とパウロは言うのです。
 私たちは、クリスチャンになっても、アブラハムと同じように疑い、悩み、葛藤します。自分で良くないとわかっていることをしてしまうこともあります。そして、「ああ、自分はなんて駄目な人間なんだ」と自分の弱さを嘆くことがたびたびあるでしょう。私たちの信仰はジェットコースターのように揺れ動いてしまうのです。しかし、神様の約束は、決して変わりません。私たちの疑いや迷いによって、神様の永遠の救いが無効になることなどないのです。だから、疑いや葛藤が襲ってきても、なお神様の約束が変わらないことを覚えて、その約束に生きることができます。アブラハムが疑い迷いながらも「神には約束されたことを成就する力がある」と信じたのと同じように私たちも信じることができるのです。
 また、アブラハムは、「神様は死者をよみがえらせることもできる」と考えてイサクをささげる決心をしました。それと同じように、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」(24節ー25節)とパウロは書いていますね。神様が主イエスを死者の中からよみがえらせたということ、つまり、イエス様の復活は、私たちの信仰の中心です。イエス様が復活されたからこそ、イエス様がまことの神の御子キリストであり、イエス様の十字架の購いが完全なものであり、神様の救いと永遠のいのちの約束が確実なものであることが証明されたからです。
 アブラハムは、神様は「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」だと信じました。そして、「彼は望みえないときに望みを抱いて」信じたのです。それと同じように、私たちが、「イエスキリストが救い主として来てくださり、私たちの罪の贖いのために十字架で死んで葬られ、三日目に死人の中からよみがえり、今も生きておられる」ということを信じることは、「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」を信じていることであり、「望み得ないときに望を抱いて」生きている者とされているということです。つまり、私たちがイエス様の十字架と復活を信じる信仰は、アブラハムが持っていた信仰と同じなのですよ、とパウロは記しているわけですね。
 私たちは、疑い、迷い、弱さを覚えるときにも、決して無効にならない神様の永遠の救いの約束があるからこそ、立ち直ることができます。また、死者を生かし、無から有を生み出すことの出来る神様を信じるからこそ、勇気がわいてきます。希望が生まれるのです。
 最後に、ローマ4章23節から25節までをご一緒に読んで閉じることにいたしましょう。
「しかし、『彼の義とみなされた』と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」