城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年七月一九日            関根弘興牧師
             ローマ人への手紙五章一節〜一一節

 ローマ人への手紙連続説教11
  「神との平和に生きる」

 1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。(新改訳聖書第三版)


 パウロは、この手紙で、まず、「すべての人は罪人だ」と書きました。「罪」とは「ずれ」ている状態です。ちょうど電線が断線しているような状態です。人は皆、神様との関係がずれている、断線している状態だというわけです。そして、この人間の「ずれ」が正され、神様とまっすぐな関わりをもつようになることを、パウロは「義とされる」「義と認められる」という表現で説明しました。
 「義と認められる」ために必要なことは何でしょうか。人はいくら努力や修行をしても、自分の力では決して義と認められることはできません。しかし、愛なる神様は、私たちのために救い主イエスを送ってくださいました。イエス様が十字架で私たちの罪の罰をすべて受けてくださったことによって、私たちは、罪と死の奴隷状態から購い出され、神様とまっすぐな関係を回復し、神様の恵みと祝福を受けながら生きることができるようになったのです。私たちのすべきことは、ただ、イエス・キリストがいのちをかけて私たちを贖ってくださったことを信頼し、与えられた救いを感謝して受け取るだけです。「だれでもただ信仰によって救われるのだ」とパウロは力強く語っています。
 そして、パウロは、「信仰によって救われる」ことを説明するために、旧約聖書から、特にユダヤ人たちが尊敬しているアブラハムとダビデを例に挙げていましたね。彼らが義と認められたのは、立派な行いをしたからでもないし、何の罪も犯さない高潔な人物だったからでもありませんでした。アブラハムは、自分の弱さを覚え、恐れと不安におののいているときに、神様の約束を信じて義と認められました。ダビデも、自分の罪を指摘されて、打ちのめされたとき、神様の赦しの約束を信じて義と認められたのです。
 そして、前回の箇所では、ユダヤ人であっても異邦人であっても、イエス・キリストの十字架と復活による救いの約束を信じる人は皆、アブラハムの子孫、つまり、信仰によって神様の祝福を受ける者となるのだということが書かれていましたね。
 今日はその続きで、信仰によって義と認められた私たちがどのような幸いの中にいるのかということをパウロは語っています。

1 信仰によって義と認められた者の幸い

(1)神との平和を持っている

 パウロはまず1節で「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と書いています。義と認められた、つまり、神様とのまっすぐな関係を回復することができたことによって、神様との間に平和が生まれたのです。
 10節に「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら」とありますが、神との平和を持つことができたのは、神様と和解することができたからなのですね。ただ、「和解」というと「仲直り」のようなイメージを持ってしまうかもしれませんが、神様との和解の場合は、神様の方では何の非もありません。私たちが自分勝手に神様に敵対していたわけですが、そんな罪人である私たちを神様が一方的に赦して受け入れてくださったのです。しかも、和解のために必要な犠牲はすべて神様の方で支払ってくださいました。神の御子イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったことによって成し遂げられた和解なのです。その結果、私たちは、義と認められ、神様との平和を持つことができました。ですから、この手紙の中で「神の義」「神との平和」「神との和解」という言葉が出てきますが、その内容はみな繋がっているのです。
 神様に敵対していたのにもかかわらず、神様が御子によって和解させてくださったというのは、パウロ自身が体験したことでもありました。彼は、初めは熱心なユダヤ教徒で、クリスチャンを激しく迫害していました。クリスチャンは神様を冒涜する者たちだから、クリスチャンを迫害することが神様のためだと信じていたのです。彼はユダヤ人の若きリーダーで、公式にクリスチャンたちを弾圧する許可を得ていました。それで、ダマスコのクリスチャンたちを逮捕するために出かけたのですが、その途上、突然天からのまばゆい光に照らされ、地に倒れてしまいました。そして、「あなたは、なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ。わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という声を聞いたのです。このイエス様との出会いを通して、彼の人生は百八十度変わりました。今まで神様のためだと思ってやってきたことが、実は神様に敵対することだったと知ったのです。そして、「とげのついた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ」とイエス様が言われたように、神様に敵対する人生が、どんなに自分も人も傷つけるものであるかを知ったのです。
 それからは、パウロは、イエス様の福音を世界中に宣べ伝える人物になりました。そして、今日の箇所で、「以前は神様に敵対していたが、今では、主イエス・キリストによって、神との平和を持っている」と書いているのです。人生は変わるのですね。

(2)恵みの上に立っている

 それから、パウロは、2節で「キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた」と書いていますね。私たちは今、恵みの上に立っているというのです。
 人生をどのような土台の上に建て立て上げていくかは、大きな問題です。もし自分の努力や頑張りを土台にしたらどうでしょうか。努力ができなくなったら、頑張れなくなったら、人生の土台が崩れてしまいますね。
 マタイ7章24節ー27節で、イエス様は賢い人と愚かな人のたとえ話をなさいました。賢い人は岩の上に家を建てましたが、愚かな人は砂の上に家を建てました。外側から見たら、両方とも立派な家で、何の違いもありません。しかし、嵐が襲ってくると、砂の上に建てた家はあっけなく倒れてしまったというのです。土台が肝心だということですね。私たちの人生がもし砂の上に建てた家のようであったら、嵐が襲って来た時、いとも簡単に崩れてしまうでしょう。しかし、岩のような堅固な土台の上に建っているなら、嵐が襲って来ても崩れることはありません。瓦の一部が飛ぶかも知れません。窓ガラスが壊れるかも知れませんが、倒れることはないのです。
 信仰によって義と認められた人の人生は、神様の恵みという土台の上に築かれています。恵みとは、受けるに価しない者に注がれる一方的な神様の愛のみわざです。パウロは、今日の箇所で私たちが恵みを受けたのは、次のような時だったと書いています。
  @私たちがまだ弱かったとき(6節)
  A私たちがまだ罪人だったとき(8節)
  B私たちが敵だったとき(10節)
 私たちが強く、立派で、神様に従って生きていたとき、ではなく、弱く、罪人で、敵だったときに、神様が恵みを注いでくださったというのです。この「敵」とは、神様に背を向けて自分勝手に生きているだけでなく、神様を侮って生きている者の姿です。もし、あなたの前に「私は全く弱い人間です。罪人です。そして、あなたのことが大嫌いです」という人が現れたらどうしますか。「それなら、ここに来ないでください」と言いたくなりますね。しかし、神様は、弱く、罪人で神様に敵対する私たちのためにイエス様を与えてくださいました。そのイエス様が私たちのために十字架の苦しみを受け、いのちをかけて神様との和解の道を開いてくださったのです。
 私たちが土台としているのは、そういう恵みです。それは、私たちがどのような状態であるかに関係なく、神様が一方的に与えてくださる恵みなのですから、何があっても揺らぐことはありません。ですから、私たちは、安心してその確かな土台の上に人生を建て上げていくことができるのです。

(3)神の愛が注がれている
     
 神様がそのような恵みを与えてくださったのは、神様が私たちを深く愛しておられるからです。その神様の愛は、都合のいい人だけを愛するような利己的な愛ではありません。相手がどんな状態であってもありのままを無条件で愛する愛です。8節に「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」と書かれているように、私たちが神様に逆らう罪人であっても、神様はなおも愛し、救い主を与えてくださったのです。それによって、私たちは真実の愛を知ることができるようになりました。そして、5節に「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と書かれているように、イエス様を信じる私たちの内に住んでくださる聖霊が絶えず神様の愛を示してくださるのです。ですから、私たちは、私たちを愛してくださる神様に向かって、自由に親しく「天のお父さん」と呼びかけることができますし、その愛に満ちた天の父が私たちの人生を最後まで守り導き、救いを完成させてくださることを信頼して歩んでいくことができるのです。

2 信仰によって義と認められた者の特徴

 さて、信仰によって義と認められた人には、一つの大きな特徴があります。それは、「喜んでいる」ということです。今日の箇所には、「喜んでいます」という言葉が三回出てきますね。クリスチャンの大きな特徴は「喜び」なのです。では、パウロは、今日の箇所で、何を喜んでいると書いているでしょうか。

(1)神の栄光を望んで喜んでいる

 まず、2節には「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」とありますね。私たちは、自分の人生の中に神様の栄光が現れることを期待して喜ぶことができるというのです。聖書には、神様が私たちに新しいいのちを与え、成長させ、キリストのような栄光の姿に変えていってくださるという約束があります。そして、それは聖霊の働きによるというのです。どんな風に変えられていくか楽しみですね。また、第一コリント10章31節に「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」とありますが、私たちの毎日の平凡な生活の中にも神様が栄光を現してくださるのです。

(2)患難さえも喜んでいる

 そして、3節には「患難さえも喜んでいます」とありますね。私たちは、幸いの中に生かされているといっても、問題や苦しみがいっさい無くなるということではありません。
 神との平和を持っているというのに、なぜ患難があるのだろうと思ってしまうことがあるかもしれません。しかし、聖書が約束している「平和」とは、単に「争いや問題がない」というような「平穏無事」な状態を意味する言葉ではありません。激しい戦いの中にあっても、問題のまっただ中にあっても、苦しみの中にあっても、決して揺らぐことのない神様との関係がある、だから、安心、平安を持つことができるということなのです。
 私たちではなく、神様が私たちを愛し、恵みによって平和の中に招き入れてくださいました。すべて神様が用意してくださったのです。それならば、私たちがこれから失敗したり、道を逸れてしまったとしても、神様が私たちを見捨てることなど決してありません。でも、私たちは、健康ですべてが順調だと「神様に愛されている」と思えますが、病気になったり何か問題が起こるとすぐに「神様に愛されていないのではないか」と不安になりますね。順風満帆な時なら「神様の愛が私たちに注がれています」と大胆に告白できるし、他の人たちに対しても説得力があるけれど、問題を抱えているときには無理だと思ってしまいがちです。
 しかし、パウロは、そうではないと教えています。神様は、私たちを愛しておられるがゆえに患難をも与えてくださるのだというのです。3節ー4節にこうありますね。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」また、ヘブル12章10節ー11節には「父なる神様は、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめることがある。そういう懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるけれど、後になって平安な義の実を結ばせる」と書かれています。神様は、私たちを愛しておられるからこそ、時には試練をお与えになります。しかし、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。そして、試練を通して私たちを成長させ、試練の中で神様の深い恵みを味わわせ、決して失われることのない希望を与えてくださるのです。
 パウロは、肉体に弱さを抱えていましたが、第二コリント12章9節でこう書いています。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたにじゅうぶんである。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
 繰り返して言いますが、問題や苦しみがないことが神様に愛されている証拠ではありません。パウロは、神様の愛は、患難の中でさらに豊かに現されていくものだと語っているのです。
 神様は愛なる方です。神様の愛の対象は私たち一人一人です。だとするならば、問題に悩み、解決を求めている私たちに、神様が助けを与えないはずがないではありませんか。パウロは、その神様の愛を信頼して、5節で「この希望は失望に終わることがありません」という確信を記しています。神様の愛が注がれているのですから、どんなことが起こっても、私たちの人生が失望で終わることはないのです。
 「でも、私は、パウロのように立派な信仰者ではないから、患難を喜ぶなんてとてもできない」と思う方もおられるでしょう。しかし、パウロが「患難さえも喜んでいます」と言うのは、悲しんだり苦しんだり悩んだりすることはまったくない、という意味ではありません。患難があれば、誰でも悩みます。悲しみ、苦しみ、葛藤、戸惑いを経験します。まるで出口のないトンネルに入ったような思いに駆られます。表情は暗くなり、ため息も出ますし、やり場のない怒りも出てくるでしょう。「信仰者は決して暗い顔をしてはいけない」などと考えないでください。詩篇を読むと、「涙」がたくさん出てくるではありませんか。詩篇6篇6節には「涙が流れて流れて洪水のようになり、私の寝床を押し流す」なんて大げさな表現もあるくらいです。悲しいときには、悲しみを表せばいいのです。苦しいときには、うめいてもいいのです。それが自然なことです。
 「患難を喜ぶ」というのは、自分を押し殺して無理に喜ぼうとすることではありません。悲しい、苦しいけれど、それでもなお、神様の愛を信頼し、神様がこのことをも益としてくださると期待し、希望を告白しながら歩んでいくことなのです。信仰生活には、少しばかりの勇気と大胆さが必要です。私たちは、涙を流し、苦しみもがきながらも、「主よ、あなたが最善をなしてくださることを私は知っています」と告白し、「この希望は、決して失望に終わることがない」と信じて生きていくのです。
 人生で最も大切なことを学ぶことのできるのは、多くの場合、患難や問題の中で苦しんでいる時です。パウロはクリスチャンになったが故に、命の危険に何度も遭いました。患難の連続でした。それで彼は神様を恨んだでしょうか。いいえ。それどころか「あらゆる状況に対処する秘訣を学んだ」と記しています。それは、私たちの人生においても同じです。「私の人生にはたくさんの悲しい出来事があった。苦労があった。お先真っ暗ということもあった。でも、そのことを通して神様は私を育み、導いてくださった。神様に愛されていることを知ることができる生涯であった」と告白することができるでしょう。

(3)神を喜んでいる

 そして、パウロは11節で「私たちは神を大いに喜んでいるのです」と記しています。「神を喜ぶ」という表現には「神を誇る」という意味もあります。
 神様は、いのちと愛と真理とすべての善いものの源なる方、御子をさえ惜しまずに与えるほどに私たちを愛し、豊かな恵みで満たそうとしてくださる方です。その神様がおられ、その神様とともに歩めることを喜び、誇る人生の中に本当に生き生きとしたいのちが湧き出てくる、とパウロは確信していたのです。

 キリストの福音は、平和をもたらします。患難があるところに、希望を与えます。喜びのないところに、神様を喜ぶという前向きの人生を与えてくれます。なぜなら、神様の愛が注がれているからです。
 今週も神様の愛の深さを、高さを、大きさを味わいつつ歩んでいきましょう。