城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年七月二六日            関根弘興牧師
            ローマ人への手紙五章一二節〜二一節

 ローマ人への手紙連続説教12
  「すばらしい代表者」
 

  12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ーーそれというのも全人類が罪を犯したからです。13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。16 また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。17 もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。18 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。                      (新改訳聖書)


 先週は、「神の前に義と認められた者の幸いと特徴」ということを学びました。
 神の前に義とされた者たちは、どのような幸いの中に生きているのでしょうか。まず、第一に「神との平和」、つまり、神様との親しい関係の中で神様とともに生きることができるという幸いです。第二に「神の恵みの上に立っている」という幸いです。また、第三に「神の愛が注がれている」という幸いです。
 そして、そのような幸いの中に生きている者たちの特徴は「喜び」です。神様の栄光を望んで大いに喜び、患難さえも喜ぶことができるのです。人生には辛く困難な時があります。しかし、パウロは、「患難は忍耐を、忍耐は品性を、品性は希望を生み出す。そして、その希望は失望に終わることがない」と語りました。神の平和と恵みの中で豊かに注がれる神の愛を受けながら生きていく人生は、決して失望に終わることがないのです。
 そして、繰り返しますが、「神の前に義と認められた者」となるのは、私たちの努力や頑張りによるのではありません。必要なのは、ただ「信仰」だけです。神様が計画し、実行してくださった救いのみわざを、ただ「ありがとうございます」と感謝して受け取るだけでいいのです。ですから、私たちの側では、義と認められるのは簡単なのですね。けれども、神様の側から見れば、私たちに救いを与えるために、綿密で周到な御計画を立てて、長い年月をかけて救いのみわざを成し遂げてくださったのです。
 考えてみてください。レストランで食事をするとき、出されたごちそうをおいしくいただくのは簡単です。でも、それを作れと言われたらどうでしょう。とても難しいことですね。
 私たちは、神様の御前で義と認められるという救いを単純に信じて受け入れました。ちょうど差し出されたごちそうを感謝していただくのと同じです。救いを受け入れることは、簡単なことです。しかし、その救いを「あなたが自分で完成させなさい」と言われたら、私たちには、どうすることもできません。神様にしかできないのです。
 そこで、今日は、神様が救いの道をどのように整え、開いてくださったのかを考えていきましょう。
 今日の箇所は、かなり理屈っぽい感じですが、二人の人について書かれています。ひとりはアダム、もう一人はイエス・キリストです。どちらにも「ひとりの人」という言葉が使われていますね。
 アダムは、神様に造られた最初の人間です。旧約聖書の創世記に登場します。そして、イエス・キリストは、新約聖書の時代に、神である方が人の代表として来てくださった方です。パウロは、このアダムとイエス・キリストを対比させながら、人間の罪と神様の救いの恵みについて説明しているのです。

1 罪の代表者

 まず、アダムについて見ていきましょう。パウロは、12節で「ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった」、15節で「ひとりの違反によって多くの人が死んだ」、、18節には「ひとりの違反によってすべての人が罪に定められた」、19節には「ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた」と書いていますね。これはみな、アダムのことです。
 最初の人アダムとその妻エバは、神様が用意してくださったエデンの園に住んでいました。神様のもとで必要なものをすべて備えられ、妻とともに幸せに暮らしていたのです。
 ただ、神様から一つだけ禁じられていたことがありました。神様は、「園の中央にある善悪の知識の木から実を取って食べてはならない。それを食べると、あなたは必ず死ぬ」と言われたのです。これは、「人は、神様の領域にむやみに入り込むことがないように」という警告でした。善悪の基準は神様御自身にあるのであって、人が勝手に善悪を判断すべきではないことを知らせるためのものでした。
 しかし、蛇がやって来て、まずエバを誘惑しました。「大丈夫、大丈夫。その木の実を取って食べても、死にはしないよ。神様はうそをついているんだ。本当は、その実を食べたら、神様のようになれるんだ。今まで知らなかった世界がぱーっと開けて、もっともっとすばらしいことが起こるよ」そんな誘惑をしたわけですね。そこで、エバは木の実を取って食べ、アダムもエバに勧められるまま食べてしまったのです。
 彼らは、神様の命令に背いてしまいました。その結果、どうなったでしょうか。彼らは、神様を恐れ、神様から隠れるようになってしまいました。人は、やましいことがあると隠れますね。それは、最初の人アダムから始まっているのです。また、彼らは、自己弁護と責任転嫁を始めました。アダムは、神様に問われて、こう答えました。「私が悪いのではなくて、この女が悪いんですよ。この女が最初に食べて、私にも食べさせたのですから。」すると、エバは、「神様。私が悪いのではありません。私を誘惑した蛇が悪いのです」と言いました。そして、結局、「神様。あなたがそんな木を置いておくから悪いんです。最終的には、神様。あなたが悪いんですよ」と言わんばかりの態度となっていったのです。この人間の姿が歴史を通じて今に至るまで続いているのだ、と聖書は教えているのです。
 初めの人間アダムは、結局、神のようになろうとする高慢の故に、神に対して不従順な者となりました。その結果、エデンの園にいることができなくなりました。それは、神様との親しい関係が破壊されたということです。そのため、苦しみや葛藤やむなしさや争いを経験するようになりました。また、エデンの園にあるいのちの木の実を食べることができなくなって、永遠に生きることができなくなりました。死が入ったのです。
 そして、聖書は、はっきりと次のことを教えています。「この出来事の後、アダムから生まれてくるすべての人間は、生まれながら神様に背を向ける不従順な姿を継承している」ということ、また、「人は皆、例外なく、生まれながらに、神様から隠れようとする性質を持っている。また、自分の罪を認めずに自己正当化し、責任転嫁して人を責める性質を持っている」ということです。
 ですから、パウロは、アダムは全人類の代表だと言っているのです。いろいろな代表がありますけれど、これは喜ばしい代表ではありませんね。1章の後半から3章にかけて、パウロは、「すべての人は罪人だ」と記していますが、その出発は、初めの人アダムからだというのです。アダムからすべての人に罪が入り、死が入っていったのだ。だから、アダムは全人類の罪の代表者であり、すべての人はアダムにあって、みな罪人なのだというわけです。ちょうど静かな湖面に石を投げると、その波紋が湖面一帯に広がっていきますね。それと同じように、最初の人アダムによって、その波紋はすべての人に及んだのだというわけです。
 実は、ここで使われている「罪」という言葉は、ギリシャ語の原文を見ると、すべて単数形で書かれています。この罪、あの罪というような個別の複数の罪を指しているのではなく、単数形なんです。つまり、「罪が世界に入り」とパウロが言うのは、あんな悪いことをしたとか、あれを盗んだとか、あんな嘘をついたとか、そういう一つ一つの罪について考えているのではないのです。わざわざ単数形で書いているということは、すべての人は、根本的な罪の支配の中に閉じ込められているようなものだと言いたいわけです。神学的に言うと、その根本的な罪のことを「原罪」と言います。私たちは、皆、罪の支配の中に生きているのだ、罪の原理の中に生きているのだ、とパウロは言っているのです。
 しかし、こう反発する人もいるでしょう。「ひとりの人が罪を犯したからといって、どうして全人類が罪人になるんですか。だいたい私とアダムとは全然関係ないじゃないですか。変ですよ。」こう考えたくなるのもわかりますね。でも、その人に、こう尋ねたらどうでしょう。「あなたはアダムと関係がないというのですね。それでは、あなたは今まで一度も罪を犯したことがありませんか?」きっと答えに窮してしまうでしょう。「私は一度も罪を犯したことがない」と言える人は、一人もいませんからね。実は、人は、自分自身の行いによって、アダムの罪の根を引きずっていることを自らが証明していると聖書は教えます。そして、そうした私たちの生活の中で生まれるさまざまな具体的な罪を、パウロは「違反」という言葉で語っています。「人は、アダム以来、皆、罪の支配下にある。そして、実際の生活の中で、それを証明するかのように違反を犯している」とパウロは言っているのです。
 ヨハネ8章1節ー9節に書かれていますが、ある時、イエス様のもとに、姦淫の現場で捕らえられた女性が連れて来られました。律法では、姦淫は石打ち(死刑)に当たる罪です。人々は、イエス様が何と言われるか、固唾をのんで待っていました。すると、イエス様は言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」人々はそれを聞くと、年長者から一人去り、二人去り、みんなそこから去って行ってしまったというのです。
 人がもし真剣に自分を顧み、正直に自分の心を覗いて見るなら、「自分には罪がない」なんて言える人は一人もいませんね。「自分はアダムと何の関係もない」と考えたとしても、現実の自分の姿を見ると、罪の支配の中にあることがわかるのです。また、いのちの源である神様とのつながりを失うことによって、すべての人は死にも支配されているのです。

2 恵みの代表者

 しかし、今、赦しといのちに導く新しい支配がもたらされた、とパウロは語ります。そして、その「代表者」こそ、イエス・キリストだと言うのです。
 アダムは罪人の代表者です。その罪の故に、すべての人は罪の支配のもとに閉じ込められてしまいました。しかし、イエス・キリストは、恵みの代表者として来てくださったのです。
 アダムは、人が神のようになろうとする高慢と不従順によって全人類に罪と死をもたらしました。しかし、イエス様は、神であられる方なのに、私たちと同じ人となって来られました。徹底した謙遜な姿をとって来てくださったのです。
 ピリピ2章6節ー7節には、びっくりするようなことが書かかれています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」
 アダムの神様への不従順によって罪と死が支配するようになったけれども、イエス・キリストの従順によって、今度は、赦しといのちが一人一人を支配するようになったのだ、とパウロは告げているのです。
 今日の箇所の17節ー18節には、こう書かれていますね。「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。」
 イエス様には、嘘や偽りが全くありませんでした。イエス様には一点のしみもありませんでした。イエス様の生涯は、正しさに満ちていました。イエス様は、本当に信頼できる方でした。そんなイエス様が十字架につけられたのです。十字架は、極悪人を処刑する道具です。悪いことをしたから十字架につけられたというならわかりますが、正しいのに、まったく罪がないのに十字架にかけられるとは、どういうことでしょうか。
 第一ペテロ2章22節-25節には、こう書かれています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
 他の人の罪を背負うことができるのは、どのような人でしょう。それは全く罪のない人です。なぜなら、罪のある人は、自分の罪のためにさばかれるからです。ですから、他の人の罪を負うことなどできません。イエス様だけが人の罪を背負うことのできる方です。全く罪を犯したことがないからです。イエス様は、私たちの身代わりに十字架で罪の罰を受けてくださいました。それによって、私たちは、義と認められ、神様との関係が回復し、神様のいのちを受けることができるようになりました。イエス様は、十字架によって、アダムから続いている罪と死の支配を完全に断ち切って、新しい恵みの支配をもたらしてくださったのです。
 これは大いなる人生の化学変化ですね。皆さん、これが福音です。イエス様を信じ生きるということは、私たちを支配するものが替わることなんです。今まで支配していたものに替わって全く別の新しいものに支配されるのです。私たちは、罪と死の支配から、恵みと義といのちの支配に移されたのです。
 パソコンのことを考えてください。パソコンを動かすためには、まずオペレーション・システム(OS)と呼ばれる基本ソフトを入れなければなりません。どんなOSを入れるかによって、同じパソコンでもまったく違うものになるのですね。私たちがイエス様を信じると、古い罪と死のOSアダムから、新しい恵みのOSキリストに切り替わります。外側の容姿は変わりませんが、内側はすべて新しくされるのです。
 今日、クリスチャンの方はぜひ知ってください。私たちがイエス様を信じて救われたということは、もはやアダムにある世界に生きているのではなく、イエス様にあって神様の赦しといのちと、そして、前回お話ししたように神様との平和の中で生きて行くことができるということなのです。
 今日の箇所の21節には、こう書かれています。「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」
 また、コロサイ1章13節では、パウロはこう記しています。 「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」
 私たちは皆、罪の支配の中に生きていた者です。しかし、イエス様が来られたことにより、恵みの支配の中に生きる人生に移されたのです。もちろん、クリスチャンになっても罪を犯すことがあります。しかし、イエス様の十字架による赦しを、いつも確信して生きることができる、そういう恵みの支配の中で生きていくことができるのです。
 確かに困難はあります。苦しみがありますし、悲しいこと、つらいこともあります。クリスチャンであろうがなかろうが、問題は起こってきます。しかし、先週お話したように、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、品性は希望を生み出します。そして、この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちは、キリストのいのちの支配のなかに生かされているのですから。皆さん。私たちはイエス様による新しい恵みの波紋の広がりの中で生きているのです。

3 律法の役割

 最後に律法の役割を整理しておきましょう。13節ー14節にこう書かれていますね。「というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。」
 人は、アダムの時代から罪に支配されるようになりました。しかし、神様は、アダムの違反の直後から救いの御計画を開始しておられたのです。まずアダムの子孫から救い主が生まれることを予告し、次に、アブラハムの子孫であるイスラエル民族の中から救い主が生まれることを予告なさいました。そして、イスラエル民族にモーセを通して律法をお与えになりました。その律法によって、人は、自分が律法を守ろうとしても守れない罪人であることをはっきりと自覚するようになったのです。律法があるからこそ、人は、自分が違反ばかり繰り返すものであることがわかるようになったのですね。20節に「律法が入ってきたのは、違反が増し加わるためです」とあるとおりです。そして、そんな自分を救ってくださる方を求めるようになったのです。つまり、神様が律法をお与えになったのは、人に罪を自覚させ、救い主が必要であることをわからせるためだったのですね。そして、神様は、綿密な御計画によって、最も適切な時に救い主を送ってくださったのです。
 私たちは自分の罪を知れば知るほど、そんな自分のために十字架にかかってくださったイエス・キリストの恵みの素晴らしさを知ることができるようになります。ですから、パウロは、20節で「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」と力強く語っているのですね。パウロは、以前、クリスチャンを迫害していた自分が「罪人のかしら」だと自覚していました。だからこそ、そんな自分を救ってくださったイエス様の恵みの素晴らしさを語らずにはいられなかったのです。
 私たちも、イエス様によって満ちあふれている恵みの支配の中で、今週も自信を持って生きていきましょう。