城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年八月九日              関根弘興牧師
              ローマ人への手紙六章六節〜一一節

ローマ人への手紙連続説教14
  「キリストにあって生きる」
 
6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(新改訳聖書第三版)

 「ローマ人への手紙」は、深遠な神学的な内容を含んだ手紙です。パウロは、この手紙の中で、「人は、自分の善行や努力によってではなく、ただ単純な信仰によって神様との関係がまっすぐにされ、永遠の救いが与えられるのだ」と語っています。そのことを神学用語では「信仰義認」と言います。私たちにとっては、ただ「救い主イエス様を信じます」と単純に応答すればいいのですから、とても簡単に思えますね。簡単すぎて「本当にそれだけで救われるなんて話がうますぎる」と疑う人がいるくらいです。しかし、私たちがそんなに簡単に救いを受け取ることができるのは、神様がずっと以前から綿密な計画を立てて、大いなる救いのみわざを推し進め、成就してくださったからなのです。ですから、「信じれば救われる」という単純な事実の背後には、神様の深い恵みのみわざがあるのですね。
 パウロは、そのことをぜひ理解してほしいという熱い思いをもって、少し理屈っぽいのですが、この手紙の中で詳しく説明しています。ですから、この手紙を読んで、神様がイエス・キリストによって成し遂げてくださった救いの内容を詳しく体系的に知ることによって、私たちは、信仰生活に大きな励ましと支えを得ることができるでしょう。
 私はパソコンが大好きで、部品を集めて自作のパソコンを組み立てたりしていました。だいぶ前の事ですが、冬の時期に、パソコンのスイッチにふれた瞬間、パチッという音がして故障してしまいました。静電気のせいだったのですね。しかし、私はあまり動揺はしませんでした。なぜなら、二つのことを知っていたからです。第一は、大切なデータは別の記憶装置にすべて移してあるので大丈夫だということ。そして、第二に、たいていのパソコンの不具合は、原因を調べれば対処方法がわかるということです。
 なぜこんなお話をしているかといいますと、これは、私たちの信仰生活と似ている面があるからなのですね。私たちの人生には予期せぬ不具合が起きるものです。永遠の救いが与えられていても、自分の弱さに絶望したり、聖書の約束が信じられなくなったり、失望したりすることがありますね。その時に、神様が与えてくださった救いについて、よく理解しないままただ信じているのと、その救いに関して知的な面においてもよく理解しているのとでは、対処の仕方が変わってくるわけです。人生の中でいろいろな不具合が生じたときも、与えられた救いの広さ、深さ、高さを知っていれば、いたずらに恐れたり迷ったりすることなく、適切な対処をすることができるわけですね。
 パウロは、ピリピ4章12節でこう記しています。「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」つまり、パウロは、イエス様によって与えられた救いがどのようなものかをよく知っていたので、何が起こっても、どんな境遇におかれても、動揺したり戸惑うことがあっても、適切に対処することができたということなのですね。
 繰り返しますが、クリスチャン生活は、単純な信仰によって始まります。しかし、そのあと、信仰によって与えられた救いとはどのようなものなのか、また、救いにあずかっているとはどういうことなのかを聖書から学んでいくことによって、あらゆる境遇に対処する秘訣を知ることが出来るようになっていくのです。

 さて、先週は、バプテスマ(洗礼)についての話でしたね。「キリストにつくバプテスマを受ける」とはどういうことなのかについて三つのことを学びました。「キリストにつくバプテスマを受ける」とは、第一に、「キリストの恵みのまっただ中にまで浸される」ことです。まさに「キリストべったら漬け」ですね。それによって、私たちは、キリストの香りを放つ者と変えられ続けていくのです。第二に「キリストにつくバプテスマ」は、「キリストとともに死んで葬られる」ことを象徴的に表しています。そして、第三の意味は、「キリストにつぎ合わされて、キリストのいのちを受けながら歩んでいくことだ」というお話をしました。
 そして、今日の箇所で、パウロは、二番目の「キリストとともに死んだ」ということについて、さらに深く詳しく説明しています。
 そこで、今日は、キリストの十字架の意味を整理して考えていくことにしましょう。パウロは、この手紙の中で、キリストの十字架について大きく三つの視点から説明しています。

1 身代わりの十字架

 まず、パウロは、5章8節でこう書いていましたね。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
 私たちは罪人、つまり、神様との関係がずれてしまい、神様を無視し、背を向けて生きている者でした。私たちは罪のある状態のままでは神様との関係を回復することはできません。神様は完全に正しい方ですから、私たちの罪を罰しなければなりません。つまり、私たちは、そのままでは罪の罰を受けて滅びるしかない状態だったのです。
 しかし、そんな私たちを救うために、神様は御自分の御子イエスを救い主として与えてくださいました。そのイエス・キリストが、私たちの身代わりとなって、私たちの罪の罰を受けてくださったので、私たちは、罪のない者と認められ、神様との親しいまっすぐな関係を回復することができるようになったのです。つまり、イエス様の十字架は、私たちのために愛する御子のいのちさえ与えることを惜しまない神様の深い愛を鮮明に示すものなのですね。
 イエス様の弟子の一人であるヨハネも、こう書いています。 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(第一ヨハネ3・16)
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4・10)
 十字架を見ると、一人一人に注がれている神様の大きな愛がわかってきます。キリストは私たちを愛し、私たちの身代わりに十字架についてくださいました。それによって、私たちは罪赦され、義とされ、神様とまっすぐな関わりを持って生きることができるようになったわけです。ですから、まず、このイエス様の十字架は、私たちの身代わりの十字架である、ということを心にしっかり刻み込んでいきましょう。

2 ともにつけられた十字架

 次に、今日の箇所の6節には、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」と書かれていますね。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」というのです。これは、どういう意味でしょうか。

(1)「古い人」とは

 思い出していただきたいのですが、パウロは、5章の後半で、「ひとりの人によって罪が全世界に入った」と書いていましたね。このひとりの人とは、最初に造られた人アダムです。
 聖書は、すべての人はアダムの末裔だと記しています。このことについては反発を感じる人もいるかもしれません。でも考えてみてください。「私が存在している」ということは、私の両親が存在していたことになりますね。両親が存在していた、ということは、そのまた両親が存在していたことになりますね。突き詰めていけば、出発があり、その最初の小さな出発が今を形成しているわけです。私は関根の息子として生まれました。自分で選んだわけではありません。気づいたときには関根弘興という名前だったんですよ。そこには私の意志などまったく介入していないんです。でも、関根家に生まれたら、誰が何と言おうが関根なんですね。それと同じように、私たちは皆、自分の思いや考えや意志などとは無関係にアダムから続く歴史の中に生きていて、アダムの末裔です。そして、すべての人が、アダムの罪の根を引き継いでしまっていて、罪と死の原理の中に生きているというわけですね。パウロは、こうしたアダムから引き継いだ状態を「古い人」と言っているのです。
 もう一度6節を読みましょう。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」とありますね。つまり、「古い人」とは、「罪のからだ」を持つ「罪の奴隷」である人ということです。以前から繰り返しお話ししているように、「罪」とは、神様との関係がずれた状態ということです。神様と断線しているので、神様のいのちを受けることができず、本当の愛や正義や生きる目的がわからなくなり、悪いとわかっていてもやってしまうような罪に束縛された状態にあるのが古い人なのです。

(2)死んでしまった者は、罪から解放されている
 
その古い人が「キリストとともに十字架につけられた」とパウロは言っていますね。古い人は、キリストとともに十字架につけられて死んでしまったのだというのです。そして、7節で「死んでしまった者は、罪から解放されているのです」と書いています。
 ここで、誤解しないでいただきたいのですが、パウロは、「クリスチャンになったら罪を犯さなくなる」と言っているのではありません。クリスチャンになっても、すぐに完璧な人になるわけではありません。失敗したり、罪を犯してしまうことがあります。しかし、罪に捕らわれたままになっていることはないのです。イエス様は私たちの過去や現在の罪だけでなく、将来の罪のためにも十字架にかかってくださいました。そのことをよく理解していれば、たとえ罪を犯してしまったとしても、神様の前に罪を言い表し、イエス様の十字架によってその罪も赦されたことを感謝し、神様とのまっすぐな関係を保っていけばいいのです。
 パウロは、11節では「罪に対して死んだ者」という言い方もしていますね。死んだ人はいくら呼びかけても応答しません。そのように、罪の呼びかけがあっても応答しなくなる、罪に支配されたり翻弄されたりすることがなくなる、それが罪から解放されているということなのです。

(3)キリストとともに生きるようになる

 古い人がキリストとともに十字架につけられた後、キリストとともによみがえるのは新しい人です。私たちは、罪と死の支配から解放され、キリストの恵みの支配の中に移されて、神様のみ前に生きる者とされたのです。

3 生活の中で味わう十字架

そこで、大切なのは、こうした十字架の事実が生活の中にどう生かされていくか、ということです。
 古い人がキリストと共に十字架につけられ、罪から解放されたとか、キリストにあって神に対して生きた者とされたと言われても、実際の生活の中ではピンと来ないという方もおられるでしょう。
 私は、三十歳まで泳げませんでした。理屈では、人は比重の関係で水に浮くことがわかっています。水に浮いて手足を動かせば、だれでも泳ぐことができるとわかってはいるのです。でも、体がついて来ないわけですね。どういうわけか、私の場合は、水に入ると沈んでしまうのです。でも、スイミング・スクールに通い、水に慣れてくると、だんだん泳げるようになりました。今では、トビウオのようですよ。
 何を言いたいかというと、私たちは、罪の奴隷から解放され、恵みの支配の中に生きる者とされたのですが、実際の生活の中でそれが実現するには時間がかかるということです。それは、だれでも泳げると頭でわかっていても、実際に泳げるようにようになるまでにはギャップを感じるということと似ているのです。古い人は滅び、新しく生きる者とされたけれど、つまずいたり、倒れたり、溺れそうになったり、自分のふがいなさを感じることがありますね。そんな自分を見て、信仰によって救われ、新しくされたはずなのに、どうして何も変わらないのだろうと思うこともあるでしょう。自分の信仰に疑いを持ったり、自分を責めてしまうこともあるでしょう。
 パウロは、そんな私たちに対して、信仰生活を送る上で大切なことを教えています。

(1)知る

パウロは、6節で「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」と記していますね。
 この「知っています」というのは、「理解している」ということです。
 理解の仕方は二つありますね。一つは、教えられて知的に理解すること、そして、もう一つは、体験的に知って理解することです。クリスチャン生活にはこの両方が必要なのです。
 私たちは、まず十字架の意味を知的に理解することが大切です。でもそれだけでなく、体験の中でも理解することが必要です。人は水に浮くようにできていると頭でわかっているだけでなく、実際に水に入って浮くことができれば、理解が確信へと変わっていくわけですね。そのためには、知的に理解したことを実際に試してみることが大切ですね。
 「キリストの十字架は、遙か昔の出来事でよくわからない」と言う方もいます。でも、その十字架の出来事について、まず知識として知るのです。古い人はすでに葬られたこと、今は罪の支配の中に生きるのでなく、赦され、いのちの中に生かされていることを知的に理解し、その理解したことに基づいて実際に赦され愛されている者として生きてみるのです。そうすれば、体験的にも理解できるようになっていくでしょう。

(2)信じる

 それから、パウロは、8節で「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」と書いていますね。
 「信じる」とは、「思い込む」ことではありません。よくわからないまま感情にまかせて「信じます」と言うことでもありません。
 人は何かを信じ、その信じたことを土台にして行動します。つまり、人は何を信じるかによって人生が変わっていくのですね。パウロは、キリストによる救いを信じ、それを土台として生きていこうと勧めています。聖書に書かれている事実を知り、それを信じ、その信じたことを土台として生きていくのです。
 イエス様の十字架を信じることは、完全な罪の赦しを信じることです。過去から解放され、新しくされたことを信じることです。キリストと共に死に、キリスト共に生きることになる、と信じるからこそ希望が生まれます。勇気が生まれます。過去にとらわれることなく、今を生きることができるのです。

(3)思う

 そして、パウロは、11節に「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」と書いています。
 この「思いなさい」という言葉は、とてもおもしろい言葉で、「計算する」という意味があるのですね。十字架を見つめ、十字架を思い、その意味を理解し、自分は罪の支配に生きるのではなく、イエス様にあって生きた者とされていることを計算に入れて生きていきなさいということなんですね。
 「あの人は、ほんとうに計算高い!」という表現は、褒め言葉ではありませんね。しかし、信仰の世界では違います。「あなたの人生を計算してみなさい。キリスト抜きの人生とキリストとともに生きる人生を計算してみなさい。キリストの十字架のゆえにもたらされる恵みを計算して歩んでいきなさい」とパウロは勧めているのです。

 私たちは、イエス様を信じたばかりの時は、生まれたての赤ちゃんと同じです。最初は、簡単なことしかわかりません。上手に歩くこともできません。つまずいたり、やろうとしても出来ないことがたくさんあります。でもキリストにあって生かされているのですから、少しずつ成長していきます。頭で理解できることも増えるし、体験から多くのことを学んでいきます。そのことを知り、信じ、思いながら、恵みの中を歩んでいきましょう。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5章17節)