城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年八月一六日             関根弘興牧師
            ローマ人への手紙六章一二節〜二三節

 ローマ人への手紙連続説教15
  「義のしもべとして生きる」
 
  12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
  15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(新改訳聖書第三版)



前回は、イエス・キリストの十字架の三つの意味について学びました。
 第一に、「身代わりの十字架」ということです。イエス・キリストは、私たちの罪をすべて背負って、私たちの身代わりに十字架について死んでくださいました。神様は、私たちを愛しておられるので、私たちを救うために御子イエスを身代わりとしてくださったのです。ですから、私たちは、十字架を通して神様の豊かな愛を知ることができるのです。
 第二に、「ともにつけられた十字架」です。イエス様が十字架につけられた時、私たちもともに十字架につけられたと聖書は教えます。罪と死の支配下にある私たちの古い人がキリストとともに十字架に釘付けにされたので、私たちは罪と死の束縛から解放されたのだというのですね。
 そして、第三は、「生活の中で味わう十字架」です。私たちは、イエス様の十字架の事実を知り、信じ、思うことによって、その十字架が、遙か昔の出来事ではなく、今も私たちに新しいいのちを与え、実際の生活の中で豊かな恵みを味わわせてくれることを知ることができるのです。

 さて、今日は、その続きですが、パウロが何を書いているかと言いますと、私たちは、キリストと共に死に、葬られ、新しいいのちを与えられてキリストと共に生きているのだから、もはや罪の奴隷として生きるのではなく、義の奴隷として生きていこうというのですね。
義の奴隷として実際の生活の中で具体的にどのように生きていけばいいのかということについては、12章以降に一つ一つ説明されているので、今日は、義の奴隷としての基本的な生き方に絞って学んでいきましょう。
 まず、「奴隷」についてですが、聖書の中では「しもべ」とも訳されています。「奴隷」「しもべ」とは、主人の所有物であり、主人に支配され、主人の命令に服従し、主人に仕える存在ですね。人は皆、自由になりたいと願っていますから、普通は「しもべ」や「奴隷」になりたいと思う人などいません。奴隷よりも主人になることを求めますし、仕えることよりも仕えられることを望むわけです。
 しかし、聖書が教えているのは、人は、もともと何かの奴隷になっているのだということです。「いや、私は奴隷なんかではない。自由だ」と思う方も多いでしょう。しかし、自分の心を正直に見ると、何かに束縛されて生きている姿を発見すると思います。
 パウロは、今日の箇所で、人は皆、何かの奴隷であること、そして、奴隷と言っても大きく二つに分かれるのだと教えています。一方は、「罪の奴隷」「不法の奴隷」であり、もう一方は、「従順の奴隷」「義の奴隷」「神の奴隷」だと書いていますね。そして、20節ー22節にあるように「罪の奴隷」の行き着く所は死であり、「義の奴隷」の行き着く所は永遠のいのちだというのです。
 そして、パウロは、「あなた方は、キリストとともに死に、死者の中から生かされて、神様の恵みの下に生きる者になったのだから、義の奴隷として生きていこうではないか」と勧めているのです。では、義の奴隷として生きていくとは、どういうことなのでしょうか。

1 「義の奴隷」として生きるとは

(1)ささげる人生

 まず、パウロは、12節ー13節で「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされたものとして、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」と書いていますね。
 私たちの人生は、何にゆだねるか、何にささげるかによって大きく変わっていきます。罪の支配にゆだねたり、ささげたりしたら、確実に破壊に向かっていきます。だから、パウロは、「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」と勧めているのです。
 では、神様にささげるとは、どうすることなのでしょうか。

@人生の所有権を明け渡す

 第一に、人生の所有権を明け渡すことを意味します。人生の名義変更をするということです。私たちの人生の書類には「所有権移転日:イエス・キリストを信じて受け入れた日。所有者:神様」と記されているようなものなんですよ。
 最近は、企業もM&Aで買収されることがよくありますね。私たちは、神様によって買い取られたので、今は、個人のブランドではなく、天地を創造された神様ブランドで生きるようになりました。愛と恵みに満ちた神様の支配下に入ったわけですね。そう思うと、ずいぶん豊かな人生になったという感じがしませんか。
 第一コリント6章12節には、こう書かれています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」
 
A握っている手を開く

 私は、子供の頃、「ジャングル・ドクター」という絵本をよく読みました。聖書の真理をやさしく教えるために擬人化した動物たちが登場するシリーズですが、猿の話がいろいろと出てきます。その中の一つにこんな話がありました。
 ある人が、猿を捕まえるために、猿の大好物が入っている壷を置いておきました。そこに猿がやって来て、壷に手を入れ、中のものを出来るだけたくさん掴んで取り出そうとするのですが、握った手が壺の口に引っかかって抜けません。ジレンマですね。手を開いて握っている物を放せば、すぐに手を抜くことができるのですが、それでは大好物を手に入れることができません。そうこうしているうちに、壺を仕掛けた人がやって来て、猿はまんまと捕まってしまうというわけです。
 握っているものを手放せばいいのに手放せない。それは、絵本の猿だけではなく、人間も同じです。神様の前で、「これは私のものです。あれも私のものです。みんな私のものです」と握っているようなものです。自分で握っていないと大切なものを手に入れることができないと思い込んでいるのです。
 しかし、皆さん、義の奴隷になったのですから、握った手を開きましょう。「神様。すべてはあなたのものです。この体もあなたのものです。私の能力もあなたのものです。私の家庭もあなたのものです。私の時間もあなたのものです。私の経済もあなたのものです。すべてがあなたのものです」と握っていた手を開くのです。そうすれば、神様はその開いた手にたくさんのものを委ねてくださるでしょう。私たちは、その任されたものを適切に管理していけばいいのです。

B口を大きく開ける

 詩篇81篇10節にこう書かれています。「わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」
 私たちは、神様の器です。神様を人生の主として礼拝し、信頼し、大いに賛美していくときに、神様は私たちを愛や恵みやすべての善いもので豊かに満たしてくださるのです。神様に向かって口を大きくあけましょう。そして、与えられたものを感謝して受け取り、信仰と賛美をささげつつ仕えていきましょう。

 ささげるとは、神様名義に書き換えられた人生を生きることです。いつも手を開き、すべてを神様におゆだねすることです。そして、口を大きく開き、豊かに満たしてくださる神様を信頼し、賛美しながら生きていくことです。
 そういう意味では、毎週行われている礼拝は、私たちが自分自身を義の器として神様にささげることを確認する時ですね。「主よ。私を義の器としてあなたにささげます。私の新しいこの週をあなたにささげます。どうぞ、あなたの最善をなしてください。そして、私があなたから任されたものを忠実に管理できますように」と祈りつつ礼拝をささげていきましょう。
 
(2)伝えられた教えの規準に従う人生

 次に、17節ー18節でパウロはこう書いていますね。「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」
 つまり、「義の奴隷」として生きるとは、「伝えられた教えの規準」に従って生きるということなのです。それは、教会が教会として存在するために動かすことのできない規準であり、また、私たちクリスチャン一人一人にとっても大切な規準となるものです。
それでは、この「伝えられた教えの規準」とは、いったい何でしょうか。それは、大きく分けて二つあります。

@「福音」という規準

第一コリント15章1節には、次のように記されています。「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」
ここには、福音の中心的な内容が書かれていますね。福音、つまり、良き知らせとは、イエス・キリストが旧約聖書の約束の通りに私たちのもとに来てくださり、私たちの罪を背負って十字架について死んで葬られ、よみがえられて、今も生きておられるということです。そして、この福音を信じて受け入れるなら、永遠の救いが与えられるのです。つまり、イエス・キリストの十字架と復活こそ、福音の中心であり、イエス・キリストご自身が福音そのものなのです。これは、教会が歴史を通して伝えていかなければならないシンプルで、かつ、最も大切なメッセージです。
 ところが、当時から、その福音の内容をゆがめて教える偽の教師が出没していました。そこで、パウロは、この手紙1章から8章で、真の福音についていろいろな角度から説明しています。そして、このまことの福音を規準として従うことが、義の奴隷の生き方なのだと教えているのです。

A「クリスチャンとしての生き方」という規準

 そして、まことの福音を信じたら、私たちの生活は必ず変化するはずです。自分の欲望のまま罪に支配された生活から、神様に喜んで仕え、愛に生きる生活に変化していくのです。その新しい生活の規準を、パウロは、この手紙の12章から16章に詳しく記しています。そして、その規準に心から従って生きていくことが義の奴隷としての生き方だと教えているのですね。

2 「義の奴隷」として生きる上で覚えておくこと

 さて、義の奴隷として生きるとは、神様にすべてをささげてお任せし、伝えられた教えの規準に従って生きることだとお話ししましたが、ここで、ぜひ覚えておいていただきたいことがあります。

(1)福音を土台とする

 先ほどお話ししましたように、パウロは、この手紙の中で、まず最初に「福音」について詳しく説明し、後半で「クリスチャンとしての生き方」を教えているのですが、この順番が大切だということを覚えておいてください。もし私たちが前半の「福音」についての説明を読まずに、後半の「クリスチャンはこのように生きるべきだ」という説明だけを読んだら、どうでしょう。「私にはとても無理だ。私はクリスチャン失格だ」と思ってしまうのではないでしょうか。クリスチャンになったら、こうしなければいけない、ああしてはいけないと言われているように感じて辛くなってしまうでしょうね。
 もし私たちが福音を土台とせずにクリスチャン生活を送ろうとしたら、必ず律法主義になってしまいます。福音は、神様が救い主イエス様を与えてくださり、そのイエス様の十字架と復活によって、私たちは無条件に罪赦され、永遠のいのちを与えられ、イエス様とともに歩み、聖霊の助けを受けながら、神様の恵みと守りと導きの中で成長していくことができると教えています。もしその福音が無ければ、私たちは、自分の力で信仰生活を送っていかなくてはならなくなります。一生懸命奉仕をしなければならないとか、立派な生活を送らなければならないとか、決められたことをきちんと守らなければならないとか、そういうことの繰り返しになっていくのです。そうするとクリスチャン生活が重荷となり疲れ果て、自分を責めて落ち込むことになってしまいます。
 私たちにまず必要なのは、福音のメッセージです。この手紙の1章から順に読んでいくとき、弱く、罪深く、神様に敵対している者であった私たちのために、いのちを捨ててくださったキリストの愛を知ることができます。そして、神様が私たちを罪の支配から恵みの支配に移してくださったことを知ることができます。だからこそ、神様の愛と赦しと恵みを確信して、喜びと平安をもってクリスチャン生活を送っていくことができるのです。赦され愛されていることを知ったからこそ、心から神様の愛に応えていきたいと願うようになるのです。
 ですから、いつも、まず福音を十分に受け止め、それを土台として生きていくことが大切なのです。

(2)時間がかかる

 先週もお話しましたが、私たちは、頭でわかっていることと実際とのギャップに苦しむことがあります。
 たとえば、結婚すると名字が変わりますね。今まで田中さんだった人が、鈴木さんと結婚すると今度は鈴木さんと呼ばれるわけですね。最初は、新しい名前に慣れていませんから、頭でわかっていても、以前の名前で呼ばれた方がピンとくることがあるわけですね。
 先週もお話ししたように、私は、まったくの金槌で泳げなかったんです。ですから、夏の最も嫌な思い出は、プールの時間でした。小学校の時は、プールのある日は毎回仮病を使って休んだものでした。ひ弱な小学生だったんです。ずっと泳げなかったんです。畳の上では泳げるのですが、水の中では全く駄目なわけです。「人は水に浮く」ということは頭でわかっているのに、沈んでしまうんです。
 でも、大人になってからスイミング・スクールに通って、やっと泳げるようになりました。今では頭で理解していることと実際とのギャップはほとんどなくなったんです。
 クリスチャン生活も同じようなところがあります。クリスチャンになっても、頭ではわかっていても、体がついていかないということがあるわけです。
 パウロは、今日の箇所で、伝えられた教えの規準に心から服従することが大切だと記していますね。
 私は、スイミング・スクールに通い始めたとき、忠実に行ったことがありました。それは、インストラクターの言うことをちゃんと聞いて実行したことです。すると、次第に泳げるようになってきたのです。
 私たちの人生のインストラクターは誰ですか。もちろん、イエス・キリストですね。ヘブル人への手紙12章2節には、こう書かれています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
 イエス様を模範として見つめ、イエス様の言葉を聞いて実行しようとしていくときに、私たちは少しずつ「伝えられた教えの規準」に沿った生き方ができるようになっていくのです。  パウロが言う「服従しなさい」とは、盲目的に何も考えずに従うということではありません。聖書の言葉をよく聞き、実際の生活に適応していくことです。イエス・キリストを人生のインストラクターとして信頼し、従いながら歩んでいくことなのです。
 福音には、ダイナマイトのような力があります。福音を信じたときに、私たちは罪と死の束縛から解き放たれ、新しいいのちによって生きる者として歩み始めました。福音は私たちの生き方そのものを変えていきます。そして、その福音の力によって、私たちは次第に成長し、キリストのような姿に変えられていくのです。ですから、自分の現状に落ち込むことがあっったとしても、なお神様の力を信頼して、希望をもって歩んでいきましょう。
 今週も福音を深く味わい、神様の支配の下で義の奴隷としての幸いな生活を送っていきましょう。