城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年九月一三日            関根弘興牧師
             ローマ人への手紙七章七節〜二五節

 ローマ人への手紙連続説教17
   「ただ神に感謝」
 
 7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。    (新改訳聖書


今日は、7章の後半からご一緒に考えていきましょう。
 先週は、「私たちの古い人は、キリストと共に死んで葬られた。それは、律法という主人に対して死んだということであり、今、私たちは、新しく生まれた者として、新しい主人であるキリストの恵みの中で生きることができるようになったのだ」というお話をしました。
 律法という主人のもとで生きている時、私たちは、頑張っても戒めを守ることの出来ない自分、罪人である自分、弱い惨めな自分を思い知らされます。しかし、イエス様を信じたとき、私たちの古い人はキリストとともに死んで、律法の支配から解放され、キリストの花嫁として、キリストの恵みの中で生かされるようになったのだとパウロは記していましたね。
 しかし、こんなふうに考える人もいるのではないかと思います。「律法は、私たちが罪ある弱い存在であることを教え、私たちを罪人と定めてしまうものなのですね。では、そんなものは初めから無い方がいいではありませんか。律法こそ私たちを苦しめている源だとするなら、律法そのものが悪いものなのではないのですか」という疑問です。
 それに対してパウロは、7節で「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません」と断言しています。そして、12節で「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」とはっきり書いているのです。
 しかし、パウロは、前回の7章の前半で「私たちは律法に対して死んだのだ。もう律法の支配下にはない」と書いていましたね。それなのに、今度は「律法は聖なるものであり、良いものだ」と記しているのです。一見矛盾のように感じるかもしれませんね。そこで、今日は、この律法の与えられた意味をもう一度探り、それに対する人間の姿を見ていきたいと思います。
  
1 律法(旧約聖書)が与えられた意味

 旧約聖書の律法が与えられた意味を、私たちはどう考えたらいいのでしょうか。
 スポーツの競技のことを考えてみましょう。私は中学、高校とバスケットボールをやっていました。バスケットでは、「ボールを持って三歩以上歩いてはいけない」というルールがあります。そのほかにも「してはいけない行為」がたくさん決められています。とっても不自由だと思いませんか。しかし、もし「何でも自由にやっていい。バスケットのリングにボールを入れさえすればいいのだ」ということになったら、どうでしょう。もうゲームになりません。ルールがあることによって、してはいけないことと、してもいいことがハッキリするわけですね。そして、互いにそのルールを守ることによって、競技のおもしろさや醍醐味を知ることが出来るわけです。
 車の運転もそうですね。道路交通法というのは厄介ですね。けれども、あれが無かったらどうでしょう。「どうぞ、好き勝手に道路を走ってください」と言われたら大変です。事故だらけになってしまうでしょう。
 私は過去二回おまわりさんに捕まりました。一つは、一時停止をしなかった時。もう一つは、スピード違反です。40キロの制限速度のところを60キロ出して捕まったんですよ。ショックを受けましたね。でも、「制限速度なんかないほうがいい」とは考えませんでした。制限速度は事故防止のために必要ですから、オーバーして捕まっても文句は言えませんね。
 つまり、ルール(規則)は、あるべき姿を示したり、生活を守るためにあるわけです。ルールが気にくわないからといって、すべてを自由にしたら、混乱が生じ、かえって不自由になるだけですね。
 私たちの人生も同じです。ルールが無ければ混乱してしまいます。好き放題、やりたい放題では、世界は崩壊します。安心して生活することができなくなります。
 私たちを愛し、真実にあふれた秩序ある神様がおられるならば、その神様が私たちに「あなたがたは、勝手気ままに生きていきなさい。自分の欲望のままに生きていきなさい」とおっしゃると思いますか。そんなことを決して言われるはずがありません。私たちが最も自分らしく生きることができるように、神様は私たちにルールを作ってくださるはずです。「人は、こういうふうに生きていけばいいのですよ」と教えてくださるはずです。
 律法の中には、様々な戒めがありますが、それをまとめるとどうなるでしょう。
マタイ福音書22章36節ー40節で、ある人がイエス様にこう質問しました。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」イエス様は、こうお答えになりました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」
 律法全体と預言者というのは、旧約聖書のことを指しています。つまり、旧約聖書の律法を凝縮すると、「天地を創造された神様を愛し、自分と同じように隣人を愛しなさい」ということになるのですね。これが、人が人らしく幸せに生きるために与えられたルールだということなんです。旧約聖書には細かい戒めがたくさん書かれていますが、それはすべて「神を愛し、自分と同じように隣人を愛せよ」という大きな道しるべに沿ったものなのです。
 ですから、パウロは、旧約聖書の律法は、それ自体は決して悪いものではないのだ、と断言しました。それどころか、律法は良いものだ、と言っています。
 律法は、私たちがどのような生き方をすべきかを教えてくれます。また、私たちが律法に違反をすれば、自分が罪人だということが分かります。しかし、それだけではありません。律法には、違反した人を罪に定めるだけでなく、大切な方向へと導くという役割もあるのです。
 ガラテヤ人への手紙3章24節で、パウロは、「律法は私たちをキリストに導くための私たちの養育係となりました」と書いています。つまり、律法があるからこそ、私たちは自分が律法を守ることの出来ない罪人であることを知り、そして、その状態から救い出してくださる救い主(キリスト)を求めるようになるということなのです。それで、パウロは「律法は私たちをキリストに導くための養育係だ」と言ったのですね。
 礼拝で繰り返しお話ししていますが、旧約聖書を読んで、「私は神様の命令を守れない弱い人間だ。確かに私は罪人だ。私は何て惨めな人間だろう」と思うのは、正しい読み方です。しかし、そこで立ち止まってしまったら、旧約聖書が与えられた意味を十分理解していないことになります。パウロは、「旧約聖書の律法の役割は、私たちの内にある罪を教え、本当の救いを求める方向に向かわせるものだ。律法は、まことの神様に向かわせるためのルールなんだよ」と言っているのです。
 神様は私たちに、旧約聖書と新約聖書を与えてくださいました。旧約聖書は、私たちの人生をイエス様に向かわせるために与えられています。そして、新約聖書を開くと、イエス様のすばらしい救いが約束されているのです。
 ですから、「律法に対して死んで、キリストと共に生きる」というのは、律法を否定することではありません。私たちは律法によってキリストのもとに導かれ、キリストと共に新しい愛の戒めの中で生きるようになるのです。

2 人間の姿

 さて、15節以下を読みますと、律法のもとにある人間の状態が記されています。
 15節で、パウロはこう書いていますね。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」
 この箇所は、聖書の中で最も共感できる箇所の一つではないかと思います。恐らく皆さんも、「うん、そうだ、そうだ」と思いながら読まれたのではないでしょうか。
 人間の特徴の一つは、善と悪という二つのものが心の中で葛藤していることだ、とパウロは言います。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」と彼は言っていますが、私たちの心の中にも、いつもこうした相反する思いが入り交じっているのです。悪いとは分かっているけれどやめられない、してはいけないと思いながらやってしまう、したいと思ってもできない、そういう相反するものが心の中にあるのです。
 なんと、あのパウロにもそういう葛藤があったのですね。パウロはそのことをここで正直に告白しています。彼は、立派な教育を受けた人です。当時の国会議員になれた人です。宗教的にも立派で熱心に戒めを守っていた人です。ユダヤ教徒として、どこから見ても非の打ち所がないと思われた人間でした。人々からも高い評価を受けていました。キリストに出会ってからは、キリスト教会のリーダーとして世界中に福音を宣べ伝えている人です。そんな彼が、正直に自分の心を吐露したのです。
ある学者は、このパウロの「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」という告白は、彼がクリスチャンになる前のことを振り返って言っているのだ、と考えます。しかし、パウロの手紙の流れを見ても、また、私たち自身のクリスチャン生活を振り返って見ても、この告白は、パウロがクリスチャンとして生きているときに感じた正直な告白であると受けとめるのが自然です。
 つまり、私たちは、イエス様によって罪赦された者として歩んでいるのですが、ときどき、その恵みに生かされていることを忘れてしまい、まるで、昔に逆戻りしてしまったかのような経験をすることがあるのです。赦されているはずなのに、神様の愛を味わったはずなのに、自分の姿に失望し、惨めで、出口のない状態に陥ってしまうことがあるのです。「私はクリスチャンです。いつもハッピーです。いつも満たされた思いの中にいます」と言いたいのですが、なかなかそうはいかないのが現実です。パウロと同じように、私たちも「私は善をしたいと思っているのに悪をしてしまう」という葛藤を持つことがあります。そして、「私はなんと惨めな人間なんだろう」と感じてしまうのです。パウロが25節の後半で「この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」と言っていますが、私たちも、そのような相反する矛盾した現実にぶつかることが多いのです。クリスチャンではあっても、自分がしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行ってしまうような弱い存在なのです。
 パウロは、24節で「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫びました。あのパウロがです。皆さんは、こんな叫びをしたことがありますか。聖書を読み、ごまかすことなく真剣に自分の内側を見たら、だれもが、「私は本当に惨めな人間だ。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのだろうか」と叫ぶのではないでしょうか。

3 ただ神に感謝

 しかし、パウロは、その叫びのあとすぐに、25節で、声を高め、喜びに満ちて、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と告白しています。
 そして、次の8章に入ると確信を持って、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と筆を進めているのです。
 旧約聖書の律法は、私たちを罪に定め、イエス様に向かわせます。イエス様は、私たちのすべての罪を背負い十字架についてくださいました。私たちのルール違反の責めをすべてイエス様が受けてくださったのです。イエス様は、私たちと同じ人となって来てくださいましたが、神なる方ですから、御自分の罪のために罰せられる必要はありません。しかし、私たちのすべての罪、過去の罪だけでなく、現在の罪、そして、これから犯してしまうであろう罪もすべて、引き受け、十字架で私たちの身代わりに罰とのろいを受けてくださいました。私たちは、そのイエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝するのです。
 パウロは、「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死の、からだから私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んだ後、すぐに「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と告白しました。この切り替えの早さが大切です。自分の惨めな姿を見て、沈み、悲しみ、失望落胆することがあったとしても、すぐに切り替えて、イエス様がなされた大きな愛のみわざを思い起こし、「主イエス・キリストのゆえに、ただ神様に感謝します」と叫ぶのです。イエス様は、私たちがどんなに惨めな状況に落ち入っても、そこから引き上げ、解放する力を持っておられるからです。
 私たちが生きられるのは、キリストの恵みの下でのみです。私たちが惨めになるのは、いつでも、罪の下に置かれたときです。だから、いつもキリストの恵みの下におかれていることを確認し、告白し、感謝することが大切なのです。
 どうぞ、忘れないでください。私たちは今や、罪の下の住人ではありません。恵みの下に引っ越したのです。恵みの下の住人です。赦しの中に生きているのです。
 しかし、時々、里帰りしたくなることがあるんですね、一年に何回かは。罪の下に里帰りしてしまいそうになるんです。そして葛藤し、自分に絶望し、辛くなることもあるのです。そんな時には、キリストの恵み下にあることを思い出してください。そして、「ただ神様に感謝します」と告白するのです。
 最後に、7章24節ー25節の言葉をもう一度読みましょう。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」