城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年九月一六日            関根弘興牧師
              ローマ人への手紙八章一節〜一七節
 
 ローマ人への手紙連続説教18
   「いのちと御霊の原理」
  
 1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。8 肉にある者は神を喜ばせることができません。9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(新改訳聖書第三版)
 
 今日から8章に入ります。
 8章は、まず、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」という言葉で始まっています。そして、最後は、「どんなものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」という言葉で締めくくられています。つまり、8章は、「あなたを罪に定めるものは何もない」という高らかな宣言で始まり、「あなたを神の愛から引き離すものは何もない」という確信の言葉で終わっているわけですね。
 この8章には、パウロがすべてのクリスチャンに確信していて欲しいと願っている内容が記されているのです。ですから、8章を詳しく学ぶことには、私たちの信仰生活への大きな支えになることでしょう。
 
1 いのちと御霊の原理
 
 私たちがクリスチャンになってからも襲ってくる問題の一つは「罪責感」です。「私は赦されているのだろうか」という漠然とした不安です。
 ホスピス病棟でチャプレンをされていた先生が、ある時こんなことをおっしゃっていました。「赦されていないと感じる人ほど、死に対して恐れを持つようです。」人は皆、最後には神様の前に出なければならないことを本能的に知っているのでしょう。正しい神様の前に出た時に「自分は赦されている」という確信があれば、死の恐れが取り除かれていくというのですね。
 先週の7章の後半で、パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と記していました。パウロのような人でも、自分の中に相反する思いが交錯し、自己矛盾を感じるときがあったのですね。
 しかし、パウロは、そのすぐ後の8章の最初に、「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」とはっきり書き記しています。そして、その理由を2節と3節に記しています。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」というのです。
 ここに「いのちの御霊の原理」と「罪と死の原理」という言葉が出てきますね。この「原理」と訳されている言葉は、いままでよく出てきた「律法」と同じ言葉です。「法則」とも訳されます。
 パウロは、ここで何を言いたいかというと、旧約聖書の律法の法則つまり、律法に一つでも違反したら罰せられるという法則に支配されて生きているときには、私たちは、自分の罪を思い知らされ、死んで滅びるしかない者であったけれど、救い主を信じた今では、神様の御霊の支配の中で、いのちをもたらす法則、つまり、すべての人はイエス・キリストを信じるだけで罪を赦され、永遠のいのちを得ることができるという法則によって生かされているのだというのです。
 今日、皆さんに最初に覚えていただきたいのは、キリストを信じた私たちは、いのちの御霊の原理、法則の中に生かされているのだということです。引力の法則に支配されている場所では、物は必ず落下します。いのちの御霊の法則に支配されている私たちは、永遠のいのちによって生かされることが決まっているのです。
 では、いのちの御霊の原理のもとにある私たちは、どのような状態にあるのでしょうか。
 
2 御霊に従う者
 
 パウロは、これまで二つのものを対比しながら説明してきました。まず最初に、「アダムにある人々」と「キリストにある人々」という対比がありました。次に、「罪の奴隷」と「義の奴隷」という対比もありました。また、「律法を主人とする生き方」と「キリストを主人とする生き方」の対比もありましたね。そして、今日の箇所では、パウロは、「肉に従う者」と「御霊に従う者」という二つの生き方を対比させて説明しています。
 
(1)肉に従う者
 
 まず、「肉に従う者」とは、どのような人でしょうか。
 今日の箇所には「肉」という言葉がよく出てきます。「肉によって無力になった」「肉の思い」「肉にある者」など、たくさん出てきますね。
 この「肉」という言葉は、聖書の中にたくさん出てきますが、使われる文脈によって意味がまったく違うので、誤解が生じることがあります。「肉」という言葉が出てくるたびに、どのような意味で使われているのか考える必要があるのです。
 パウロの手紙に出てくる「肉」という言葉には、大きく分けて二つの意味があります。
 まず、「肉体」を表す場合です。例えば、この手紙の4章には「肉による私たちの先祖アブラハムの場合は、どうでしょうか」とありますが、これは、「私たちと同じ肉体を持った人間」というような意味です。
 しかし、今日の箇所に出てくる「肉」という言葉は、全く違う意味で使われています。「神様を自分の生活から除外し、計算に入れない生き方」という意味です。要するに、「神様なんか必要ない。私の人生は、私中心で生きていきます」ということです。自分が自分の主人になっていること、つまり、自己中心性というものが「肉」の特徴なんです。自分が中心でないと気がすまない、これは人間の生き方の癖のようなものですね。
 パウロは、8節で、「肉にある者は神を喜ばせることができません」と書いています。また、13節で、「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです」と警告しています。神様を自分の生活から除外し、神様のすばらしい約束を拒否し、ひとりよがりで自分勝手な生き方をするなら、神様のいのち、愛、救い、恵み、祝福、平安を受けることはできず、結局、滅びに至ることになるのだ、とパウロは言っているのです。
 
(2)御霊に従う者
 
 しかし、「私たちは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩んでいる」とパウロは言っていますね。
 キリストを信じ生きる私たちは、「御霊に従う者」だというのです。では、「御霊に従う者」とは、どのような人なのでしょうか。
 「御霊」とは「神様の霊」であり「聖霊」とも呼ばれます。目には見えないけれど、確かにおられ、みわざをなしておられると聖書は教えているのです。
 ところで、聖書では、「父なる神様」「御子イエス・キリスト」「聖霊」について、あるときはそれぞれ別の方のように、また、あるときにはまったく同じ方のように書かれていることがあるので、混乱する方もおられるでしょう。
 ですから、まず、聖書の神様について整理して起きましょう。
 神様は唯一の方です。しかし、父、子、聖霊という三つの位格を持っておられます。位格というのは、人間の人格にあたるもので、神様なので「位格」という言葉を使っているのです。唯一の神様が三つの位格をもっておられることを「三位一体」と言います。父も、子も、聖霊も、同じ本質を持ち、いつも同じ一つの思いと目的をもって協同してみわざを行われる一体なる神様なのです。
 神様は永遠の存在であり、天地万物をお造りになったほどの大きな大きな神様ですから、私たちの頭ではとても神様のすべてを理解することは難しいのですが、神様は御自身を「父」「御子」「聖霊」として私たちに現してくださいました。
 ですから、父なる神様を信じて従うこと、御子イエス・キリストを信じて従うこと、聖霊を信じて従うことは、どれも同じことを意味しているのです。
 この三位一体の神様を信じることが私たちの信仰の土台です。もし、この三位一体の神様を否定すると、恵みの福音も途端に消えてしまうのです。
 たとえば、イエス・キリストが神なるお方でなく、私たちと同じただの人間だったとしたらどうでしょう。その場合、イエス様も私たちと同じ罪人なわけですから、私たちの罪を代わりに背負って完全な罪の贖いをすることなどできません。つまり、イエス様の十字架では、救われないことになります。そうなると、私たちは、自分の努力と修行とがんばりで救いを得なければならないことになってしまうのです。イエス様の神性を否定することは、私たちに際限のない努力と頑張りが要求されるということになっていきます。
 それでは、聖霊はどうでしょうか。聖霊は、神様の霊であり、イエス・キリストを信じる一人一人の内に宿り、いつもともにいてくださいます。そして、私たちの助け主として、神様の愛と恵みを知らせ、イエス・キリストが救い主であることを示し、聖書のことばを理解する知恵を与え、私たちの歩むべき道を示し、成長させ、豊かな実を結ぶようにしてくださる方です。聖霊がまことの神様であるからこそ、私たちは、聖霊によって神様の御性質を味わい、神様のみこころを知り、神様に信頼し生きていくことができるのです。そして、聖霊が「父なる神」「御子イエス・キリスト」と同じ本質をもっておられるからこそ、聖霊が私たちとともにおられるということは、父なる神様がともにおられるということであり、また、イエス・キリストがともにおられるということにもなるのです。
 その聖霊がまことの神様であることを否定したらどうでしょう。神様がいつも共にいてくださる、という約束を失うのです。そして、この方がいつも聖書を通して導いてくださるという確信もなくなっていきます。すると、どうでしょう。私たちは、その代わりに、目に見える神を作り始めるのです。それは、特別な教祖であったり、組織であったりします。そして、教祖の言葉が絶対となり、特別の組織に依存したり、人が勝手に考え出した教えに振り回されるようになるのです。
 ですから、キリスト教会では、聖書の三位一体の教えを否定するグループを「異端」といいます。異端の特徴は、「イエスの十字架は完全ではないから、努力しないと救われない」「聖霊の導きなんてないのだから、特別に真理を知ることができる力を持った教祖の言うことに絶対服従しなくてはならない」などと教えるのです。それは、聖書の恵みの福音を根底から否定することになってしまうのです。
 しかし、感謝なことに、私たちが神の子イエス様を救い主として信じ受け入れたときに、無条件で聖霊なる神様が内に宿ってくださり、「神がいつも私と共にいて一緒に歩んでくださる」という約束が成就したのです。
 マタイの福音書1章23節には、イエス様が人としてこの世にお生まれになった時に、「その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言が成就したと書かれています。「インマヌエル」とは、「神は私たちとともにおられる」という意味です。つまり、神様が人として私たちのもとに来てくださり、ともにいてくださるようになったということですね。
 しかし、その後、イエス様は十字架につけられ、死んで、葬られ、復活して、天に昇っていってしまわれました。その後は、もう神様は私たちとともにおられなくなってしまったのでしょうか。いいえ、イエス様は、御自分の代わりに聖霊を送ってくださいました。その聖霊が信じる一人一人の内に住んでくださることによって、三位一体の神様がいつも私たちとともにおられるという約束が成就しているのです。
 イエス様は、天に昇っていかれる前に、弟子たちに約束なさいました。「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません」「見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます」と。その約束は、信じる一人一人に聖霊が与えられることによって実現したのです。
  このように、イエス様を信じ、御霊を受けて生きる人の状態を、パウロは、いろいろな言い方で表現しています。「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」「キリストの御霊を持っている」「神が私たちのうちにおられる」「キリストが私のうちに住んでくださる」など。
 この聖書の教える三位一体の神様を正しく理解すれば、「御霊に従う者」とはどのような人かがわかってきますね。
 
@聖書のことばに従う者
 
 神様は、天地創造の初めから、いろいろな方法で私たちに御自身を現し、語りかけてくださいました。それが、聖書に記されています。聖霊は、その聖書のことばを通して、神様がどのような方か、また、神様の約束がどのようなものかを教えてくださるのです。ですから、「聖霊に満たされる」とは「聖書のことばに満たされる」ことであり、「御霊に従う者」とは「聖書のことばを信頼して従う者」だと言うことができるのです。
 
Aイエスキリストを救い主として信じる者
 
 聖霊の最も大切なみわざは、イエス・キリストがまことの救い主であることを示すことです。ですから、御霊に従う者とは、イエス・キリストを救い主として信じ、「私の救い主はイエス様です。私の主人はイエス様です」と告白することができる人です。9節には、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」とありますね。聖霊を「キリストの御霊」と呼んでいます。つまり、聖霊に従うとは、キリストに従うことと同じなのですね。
 クリスチャンになるとは、心の主人が交代することです。今まで自分自身が主人であった、つまり、パウロ流に言えば「肉に生きていた人生」でしたが、「イエス様。あなたが私の主人として私の心の真ん中にお入りください」とイエス様を迎え入れることによってクリスチャンになったのです。そして、イエス様を人生の主としてあがめ、従っていくこと、それが、御霊に従う者の生き方です。
 
A父なる神の子供として生きる者
 
 聖霊のもう一つのみわざは、愛と恵みに満ちた父なる神様を示すことです。
 14節に「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」、15節には「あなたがたは、・・・子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます」とありますね。
 聖霊は、神様が愛に満ち、私たちを喜んで迎え入れ、最善のことをしてくださる父であることを示してくださいます。だから、私たちは安心して、神様に「お父さん」と呼びかけ、神様のみもとに近づき、何でも願い求めることができるのです。
 ただ、私たちが神様の子どもにされたといっても、私たちが神様のように全知全能になってしまうわけではありません。生きる上での「立場が変わった」のです。「神様と養子縁組を結び、神様の養子とされた」のですね。
 旧約聖書の時代には、神様は、聖なる方、畏れるべき方であり、罪ある人間が気軽に近づくことなどできませんでした。遠くから手を上げて、「神なる主よ」「万軍の主よ」と、厳かに呼びかけるだけだったのです。でも、イエス様を信じ、聖霊が内に宿ってくださった私たちは、神様の子どもとして、神様を恐れることなく、「お父ちゃん」と呼べるようになったのです。
 しかも、神様の子どもとして、私たちは、神様のもとにあるあらゆる良きものを相続する者となりました。
 ただし、前置きがあって、17節にこう記されていますね。「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」ここに、「苦難をともにしているなら」という言葉がありますね。神の子どもとしての人生は、「俺は神の子だ」と踏ん反り返り、威張り散らして生きる人生ではありません。私たちは神の国の相続人であり、永遠の天の御国を継ぐ者とされていますが、それまでには、いろいろな苦しみや患難もあるということが示唆されているのです。聖書はとても正直にこうしたことを記しているのですね。
 しかし、聖書には、三位一体の神様がいつもどんなときも私たちとともにおられ、試練とともに脱出の道もそなえてくださることが約束されています。
 そして、8章の最後にパウロが書いているように、私たちを神の愛から引き離すことのできるものは何もないのです。
 そのことを信頼し、今週も、神の子として生かされていることを誇りながら、御霊に従い生きる者として歩んでいきましょう。