城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年九月二七日             関根弘興牧師
             ローマ人への手紙八章一八節〜二八節
 
ローマ人への手紙連続説教19
  「三つのうめき」
  
  18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
  26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新改訳聖書第三版)
 
 先週お話ししたように、8章は、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」という罪の赦しの宣言で始まります。そして、8章の最後は、「どんなものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」という言葉で締めくくられています。また、先週読んだ箇所には、「イエス様を信じて受け入れる者の内には父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊の三位一体の神様が宿ってくださり、神の子として、つまり、神様の豊かな祝福の相続人として生きていくことができる」ということが記されていましたね。
 そういうことだけ聞くと、なんだか、クリスチャンになると何の問題もなくなるかのような錯覚を持ってしまいそうですね。しかし、今日の箇所に書かれているように、実際は、クリスチャンになっても、いろいろな苦しみや悩みを経験します。イエス様も「あなたがたは、世にあっては患難があります」と言っておられましたね。聖書は、クリスチャンとして生きていくからこそ味わう困難があることを教えています。
 それでも、忍耐を持って、後に来る栄光を待ち望みつつ歩んでいこう、とパウロは今日の箇所で勧めているのです。それは、ちょうど、産みの苦しみをするようなものだとパウロは説明しています。出産の時は、大きな痛み、苦しみにうめきます。しかし、新しい命を待ち望むからこそ耐えられるわけです。それと同じで、私たちは、将来の希望があるからこそ、今の痛みや苦しみに耐えることが出来るわけですね。
 ところで、今日の箇所には、「うめき」という言葉が三回も出てきます。22節と23節と26節です。最初のうめきは、「自然界のうめき」です。もう一つは、「私たち自身のうめき」、そして、三つ目は、「聖霊のうめき」です。
 内村鑑三という人が、こう言いました。「人間には言葉で表現する喜びとか悲しみもあるけれども、人間が発する一番深い ーーー 心の奥底を表現するものは、うめきである」と。要するに、言葉にならないものを表現するのが「うめき」ですね。
 うめきは、「あ行」ですね。「あー」「いー」「うー」「えー」「おー」です。美しい花を見ると「あー」。すばらしい大自然を見ると「おー」、また、本当に辛く、苦しみもだえるときには、「うー」と、言葉にならないうめきが出るんです。
 逆に、言葉にできるものは、まだ心の奥底から出ているのではないと言えるかもしれませんね。本当に感動したり、深い悲しみや痛みに沈み込んだ時などは、言葉をなくしてしまうものです。うめきしか残りませんね。
 パウロは、自然界が、私たちが、そして、聖霊なる神様御自身がうめいていると言うのですが、それは、どういうことでしょうか。
 
1 自然界のうめき
 
 まず、22節で、パウロは、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と記していますね。自然界がうめいているというのです。
 今年の夏も暑かったですが、季節は少しずつ移りゆき、ようやく秋らしくなってきました。日本では、ものの移り変わりの美しさがテーマとなることが大変多いですね。自然の移り変わりの中に、もののあわれ、はかなさ、わび、さびを感じ取るわけです。私は芸術にはまったく疎いのですが、同じ景色を見、絵を描くにしても、画家によってまったく違いますね。同じものを見ても、そこから感じ取るものが違うのです。皆さんは、自然を見て何を感じ取りますか。
 詩篇191節には 「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」と記されています。無限に広がる天を見上げ、星々を見たとき、この詩篇を書いた人は、神の栄光と神の創造の偉大なみわざを感じていたわけですね。
 パウロは、自然を見渡したとき、どう感じたのでしょう。もちろん、美しい花を見れば、美しいと感じたでしょう。夜空の星を眺めて感動したでしょう。しかし、パウロは、さらにその背後に、造られた自然界のすべてのうめきを感じたというのです。では、自然界がうめいているとは、どういうことなのでしょうか。 
 創世記には、神様がこの世界を創造されたことが記されています。すべての生き物が創造され、最後に人が創造されました。その時、神様と人とは非常に良い関係にありました。初めの人アダムとその妻エバとのお互いの関係も良く、また、人と自然界との関係も良かったのです。
 ところが、その関係を破壊してしまう行為をアダムが犯してしまいました。神様が「これを取って食べると死ぬ」と言われた善悪を知る知識の木の実を食べてしまったのです。善悪の基準は神様の領域にあるのですが、人は高慢にも、自分が神のようにすべてを判断する者になろうと考えたわけですね。しかし、その結果、人は、神様のようになるどころか、神様との信頼関係が破壊されて、神様のいのちや祝福を受け取ることができなくなってしまったのです。その状態を聖書では、罪といいます。この罪の結果、人と神様との関係が破壊されただけでなく、人と人との関係も、また、人と自然界との関係も破壊されてしまいました。そのため、この自然界は嘆き、新しく回復されることを待ち望んで「うめい」ている、とパウロは記しているのですね。環境問題が叫ばれて久しくなりますが、パウロが今の時代に生きていたら、もっと明確に自然界の苦しみのうめきを聞いたことでしょうね。
 しかし、パウロは21節で、「被造物全体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」と言っています。どういうことでしょうか。
 人の罪は、すべての関係を破壊してしまう原因となりました。ですから、すべての回復の鍵は、罪の解決なわけです。
 実は、パウロは、すごいことをここで書いているわけです。イエス様によってもたらされた贖いのみわざ、つまりイエス様が私たちの罪を背負い、十字架についてくださったことによって成就してくださった救いのみわざは、人間の罪の問題を解決するばかりか、その結果として、自然界も変えられていくのだと記しているのです。
 そして、19節には、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです」とありますね。私たち一人一人がイエス様を信じ、クリスチャンとされるのは、被造物全体の喜びだというのです。こんなことを考えたことがありますか。今日の帰り道、また近くに咲いている野の花を見て、その花があなたに微笑みかけて、喜んでいる光景を想像してみてください。なんだかうれしくなるではありませんか。この自然界の造られたものはみな、私たちが神の子どもとして主とともに歩んでいくための応援団のようなものですね。一人一人がイエス様の赦しを受け取り、神様を見上げて生きるようになることを、被造物全体が待ち望んでいるのです。
 
2 私たち自身のうめき
 
 次に、23節を読むと、パウロは、「私たち自身もうめいている」と書いています。
 私たちは、イエス様を信じて心に迎え入れてたときに、全ての罪がゆるされ、神様のいのちに生かされる新しい人生が始まりました。それなのに、どうして「うめき」が出てくるのでしょうか。
 実は、聖書では、「救い」という言葉は、三つの意味で使われています。神学用語では、それぞれ「新生」「聖化」「栄化」といいます。
 
(1)新生:新しく生まれる
 
 ヨハネの福音書1章12節-13節には、「この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と書かれています。
 だれでも、イエス様を救い主と信じて受け入れる時に、神様のいのちが与えられ、神様の子どもとして新しく生まれるのです。そのことを「新生」と言います。
 
(2)聖化:変えられ続けていく
 
 しかし、パウロは23節で、「心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」と記していますね。もう神の子とされているはずなのに、「子にしていただくことを待ち望んでいる」とは、どういうことでしょうか。また、イエス様の十字架によってすべての罪が完全に購われているはずなのに、「私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる」とは、どういうことでしょうか。
 考えてみてください。誕生することと、その後、成長していくこととは違いますね。私たちは、イエス様を信じたときに、神の子どもとして新しく誕生しました。でも、その後、大人になるまでには、時間がかかります。「イエス様を信じたらすぐに完全な聖人君主になる」というのは、勘違いなのです。
 私たちは、神の子どもとして生かされていく途上で、様々なことを経験します。うれしいことだけでなく、苦しいことや悲しいこと、時には、行き詰まったり、挫折したりする経験をします。そういう経験をしながら、神様の愛の深さ、恵みの豊かさ、守りの確かさを知り、成長していくことができるのです。 聖書には、「私たちは聖霊の力によってキリストに似た者へと変えられていく」という約束があります。そのことを聖化と言います。クリスチャンは皆、聖化の過程の中にあるのです。まだ完成していませんから、未熟な面、足りない所もいろいろありますが、赤ちゃんが必ず成長していくように、私たちもかならず成長していくのです。
 皆さん、りんごの木は、誰が何と言おうと、りんごの木ですね。実がなるまでには時間がかかりますし、世話も必要です。でも、いつかりんごの実を結びますね。
 それと、同じように、私たちは、イエス様を信じているなら、誰が何と言おうと、笑顔で「はい、私はクリスチャンです。神の子どもです」と言えばいいのです。たとえ教会に行けない時があっても、聖書を読めない時があっても、キリストにつながっているのですから。
 ただ、せっかくの人生です。良い実を結びたいですね。神様は、私たちが豊かな実を結ぶことができるように、聖書のことばを通して栄養を与え、時には、試練を与えて刈り込みをしてくださいます。ですから、クリスチャンになっても、苦しみが襲い、悩みの中を通ることがあります。パウロが言ったように、自分でしたいと思う善をすることが出来ないジレンマにぶつかり、「私は、本当にみじめな人間です」と思わず叫んでしまうこともあります。
 ですから、パウロは、23節で「私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」と言ったのです。それは、つまり、救いを受け、神の子とされた私たちが、神様のいのちによって変えられ続けながら、最後の完成の時を待ち望んでいるということなのですね。そして、そうした歩みの中で出てくるのが「うめき」だというのです。
 冒頭にお話ししましたように、私たちには言葉に表すことのできない「うめき」しかでてこないような時がありますね。自分自身を見て失望したり、困難に遭遇して八方塞がりのような状況に陥るとき、「あー、いー、うー、えー、おー」といううめきしか出てこないのです。でも、それでいいではありませか。24節に「私たちは、この望みによって救われているのです」とあるように、私たちには最終的な救いの完成の時があるという確かな望みがあるのですから。
 
(3)栄化:救いの完成
 
 私たちは、時にはうめきつつも、神の子として生かされていることを深く味わい知りながら歩んで行きます。そして、最後には、どこに行き着くのでしょうか。
 ピリピ3章21節に、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」と約束されています。これは、将来の救いの完成の約束です。キリストと同じ栄光の姿に変えられる、それを「栄化」と言います。
 
 このように、救いには、三つの意味が含まれています。私たちは、イエス様に救われ、救われ続け、完成されるのです。今は、完成の時を望みつつ、救われ続けている状態なわけですね。 パウロは、ピリピ3章12節にこう記しています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」キリスト・イエスが捕らえてくださっているのですから、かならずゴールに到達することができるのです。ですから、そのことを確信し、完成を目指して進んでいきましょう。
 
3 御霊のうめき
 
 そして、ぜひ知っていただきたいことがあります。私たちがうめいている傍らで、共にうめき、とりなしてくださる方がおられるということです。その方こそ、信じる一人一人に与えられている聖霊、御霊なる神様です。
 私たちは、自分一人でうめくのではありません。一緒にうめいてくださる方がおられます。弱い私たちを助けるために、御霊もともにうめいてくださるのです。
 26節に、「私たちは、どのように祈ったらよいのわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」と書いてありますね。
すばらしい約束だと思いませんか。私たちは、決して一人で信仰生活を送っているのではありません。神様は、私たちがうめき苦しんでいる姿を見て、放って置かれる方ではありません。私たちの内に聖霊を送り、弱い私たちを助け、支えてくださるのです。ある時は、もう祈ることもできない、という困難に見舞われることもあります。しかし、私たちのその思いを理解し、言いようもない深いうめきによってとりなしてくださる聖霊なる方が共にいてくださいます。
 ですから、私たちは強がって生きる必要はありません。神様の前に自分の弱さをさらけ出せばいいのです。祈れないときには祈れません、と告白すればいいではありませんか。安心して正直に自分の弱さを打ち明ければいいのです。
 そして、27節にはびっくりするようなことが書いてありますね。「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」とあります。
 「人間の心を探り窮める方」とは、神様御自身です。神様は私たちの心を探り窮める方です。表面だけを見るのではなく、私たちが言葉に言い表すことの出来ない「うめき」を聞き、心の奥底まで理解することのできる方なのです。
 時々、こんなふうにおっしゃる方がいますよね。「私は祈りが下手で、祈れないんです」と。でも、心配しないでください。祈りに上手も下手もないのです。私たちがうめくことしかできない時にも、聖霊がともにうめいてくださり、私たちのためにともに祈ってくださいます。そして、私たちの心の奥底までご存じの神様がその祈りをすべて理解してくださるのですから。
 
 さて、今日は、三つのうめきについて考えました。自然は私たちの人生が回復されることを願い、うめいています。私たちも完成の途上にあるクリスチャンとして、様々なうめきを発することがあるでしょう。でも、覚えていてください。私たちのことを百パーセントご存知のキリストの御霊が、私たちの内に住み、私たちと共にうめき、とりなし、私たちを支えてくださるのです。
 そして、パウロは、確信に満ちて28節を語りました。これは、来週の説教のテーマとなる言葉ですが、この言葉を読んで閉じることにいたしましょう。
 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」