城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一〇月四日            関根弘興牧師
            ローマ人への手紙八章二八節〜三〇節
 
 ローマ人への手紙連続説教20
  「万事を益に」
  
 28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(新改訳聖書第三版)
 
 
 今日は、聖書の中でも特に有名な8章28節の約束の言葉を共に分かち合っていきましょう。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という約束です。
 
1 神を愛する人々
 
 この約束の最初には、今まで一度も出てこなかった表現があります。それは「神を愛する人々」という表現です。パウロはこれまで、「神に愛されている人たち」とか「神の愛が注がれている」とか「神はご自身の愛を明らかにしておられる」ということについて記してきました。神様が私たちを愛しておられる、ということを繰り返し教えてきたわけですね。しかし、今日の箇所では、その逆で、私たちが神様を愛するという書き方をしています。
 それで、少しプレッシャーを感じる方もおられるかもしれませんね。「神を愛する人々には神がすべてのことを働かせて益としてくださるというけれど、私は、果たして神を愛していると言えるだろうか、もっと、神様のために何かしなければならないのではないだろうか」とか、「私は神様への愛が足りないから、この約束から除外されているのではないだろうか」などと思ってしまうのです。
 でも、心配しないでください。私たちが自分の力で神様を愛することができないことを、神様はよくご存じです。「神を愛する人々」とは、すなわち、「神のご計画に従って召された人々」だと書かれていますね。私たちは、自分では神様を愛することのできない者であったけれども、神様が私たちをご自分のもとに召し、神様を愛することのできる者へと変えてくださったのです。
 第一ヨハネ4章19節には、こう書かれています。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
 神様がまず私たちを愛してくださったので、私たちは、本当の愛を味わい、神様や他の人々を愛することのできる者へと変えられたのです。ですから、「神を愛する人々」とは、言い換えれば「神様の愛を味わっている人々」ということができるでしょう。
 人は、ひとたび神様に愛さていることを知ったなら、今度は神様を愛する者とされていく、それがクリスチャンとしての姿なのですね。クリスチャンの生涯は、「神様に愛されている生涯」であり、また、「神様を愛する生涯」でもあるのです。 
 
2 神のご計画に従って召された人々
 
 パウロは、クリスチャンは「神のご計画に従って召された人々」だと言います。
 私たちの側から見ると、自分でイエス様を信じてクリスチャンになったのですが、それが出来たのは、背後に神様のご計画があったからであり、神様が招いてくださったからなのだというのですね。
 そのことを、こんな例話を使って説明することがあります。天国の門の外側には「信じる者は皆、救われる」と書いてあるけれど、その門を入って振り返ると、門の内側には「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」と書いてあるというのです。
 私たちが聖書の言葉に触れたり、教会に行くようになったり、イエス様のことを聞いたりしたきっかけは、人によって様々ですが、すべて神様が計画してくださっていたというのですね。また、ただイエス様を救い主として信じるだけで救われるという道を用意してくださったのも神様です。つまり、私たちが、こうして礼拝をささげ、賛美を感謝をもって神様をたたえることができるのは、神様がご計画に従って召してくださったからだというのですね。
 しかも、29節には「あらかじめ知っておられる人々」、30節には「あらかじめ定めた人々」と書かれていますね。
 神様は、私たちのことを初めからご存じだったというのです。詩篇には、神様は私たちが母の胎の中にいた時から知っておられると書かれています。それどころか、パウロは、エペソ人への手紙の中で、「この世界が創造される以前から神様はあなたを知っておられる」と記しています。そして、その最初の最初から、神様は私たちを召そうと定めておられたというのです。
すごいことですね。
 しかし、ここで、また、心配になる方がおられるでしょう。「神様が最初からどの人を召して、どの人を召されないかを定めているとしたら、召されていない人は、どうあがいても救われないということか」と。
 聖書が教えているのは、そういうことではありません。第一テモテ2章4節には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と書かれています。神様は、すべての人を救うご計画を立て、すべての人を召そうとして招いてくださっているのです。神様はすべての人に救いの道を示して招き続けておられるのです。その神様の招きに応えて、神様を信頼し生きる人々が、神のご計画に従って召された人々であり、「神を愛する人々」と呼ばれるのです。
 
3 神のご計画の目的
 
 では、神様のご計画には、どのような目的があるのでしょうか。
 30節に、こう書かれています。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
 ここに、神様が人々を召した目的が二つ書かれていますね。「義と認める」ことと「栄光を与える」という目的です。
 
(1)義と認める
 
 「義と認める」とは、裁判の時に使われる言葉です。「無罪にする」という意味があります。本来なら、人は皆、自分の罪のために有罪を宣告されるはずであるのに、神様は、私たちを無罪とする計画を立ててくださったのです。その計画を実現するために、イエス様が私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとなって十字架にかかり、私たちが受けるべき罰をみな受けてくださいました。そして、そのことを感謝して受け取るだけで、私たちは、義と認められる、つまり、神の御前に罪なしと認められるのです。神様は、私たちを無罪にするために、愛する御子イエスを十字架にかけるという大きな犠牲を払う計画を立ててくださったのです。
 また、「義」という言葉は、関係を表す言葉でもあります。「義と認められる」ということは、神様と私たちを隔てる壁となっていた罪の問題が解決されるということですから、それは、つまり、「神様と自由に親しい関わりを持つことができるようになる」「神様とまっすぐな関係の中に歩むことができる」ということでもあります。私たちは、罪のない者と認められることによって、神様に向かって「アバ、父よ(お父ちゃん)」と呼びかけ、心の思いをすべて打ち明け、祈り、賛美をささげ、礼拝する者として生きていることができるようになるのです。それが神様が私たちのために立ててくださったご計画なのです。
 
(2)栄光を与える
 
 もう一つは、「栄光を与える」ということです。神様が私たちに与えようとしておられる栄光とは、どのようなものでしょうか。
 29節に、こう書かれていますね。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」
 また、第二コリント3章18節には、こう書かれています。「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 私たちは、イエス・キリスト同じ栄光の姿に変えられるというのですね。
 そして、29節後半に、「それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」とありますが、私たちは、神の子どもとされるだけでなく、イエス様の弟、妹となるというのですね。ただ、イエス様が「長子」となるというのは、ただ一番上のお兄さんになるという意味ではありません。聖書の中で使われる「長子」という言葉には、特別な意味があります。長子には特別な地位と役割が与えられていました。父親の権威と責任を受け継ぎ、財産の多くを受け継ぎ、また弟や妹たちに対する権威を持っていたのです。ですから、イエス様が私たちの長子となられるというのは、イエス様が神様の祝福と権威を受けて、私たちを守り導いてくださるということなのです。私たちは、イエス様のような栄光の姿に変えられていくとともに、イエス様によって神様の豊かな恵みと祝福を受けることが出来る者とされているのです。
 
4 素晴らしい約束
 
 そして、28節の素晴らしい約束があります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」という約束です。
 先週お話ししましたように、私たちは、様々な痛み、悲しみ、困難を経験します。「神様、どこにいるのですか!」と叫びたくなるような孤独感に襲われることもあります。うめきしかでてこないような状況に出くわすこともあります。しかし、パウロは、神様が「すべてのこと」、つまり、どう見てもマイナスにしか思えないような出来事をも働かせて益としてくださる、というのです。
 この「益」と訳される言葉は「善」という意味です。英語だと「Good」です。神様は、すべてのことを働かせて私たちの人生に善いものにしてくださるというのですね。
 その例として、たとえば、旧約聖書の創世記に記されているヨセフの人生を見てみましょう。神様は、すべての人を救うために、まず、イスラエル民族の祖先であるアブラハムという人物をお選びになりました。アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブが神様の祝福を受け継いでいきましたが、ヤコブには、十二人の息子がいました。その中の十一番目がヨセフです。
 ヨセフは、父ヤコブに特別にかわいがられていたので、兄たちは、ヨセフを妬み、ヨセフを奴隷商人に売り飛ばしてしましました。そして、父ヤコブには、「ヨセフは野の獣に殺されてしまった」と報告したのです。
 ヨセフはエジプトに連れて行かれ、そこでの奴隷生活が始まりました。ヨセフは、主人に気に入られて、全財産の管理を任されるまでになったのですが、主人の妻を誘惑したというあらぬ疑いをかけられ、投獄されてしまいます。
 今度は、いつ終わるかもしれない獄中生活が始まりました。しかし、そこでもヨセフは看守長に気に入られて、投獄された政府高官の世話係になりました。ある時、高官二人がそれぞれ意味のわからない不思議な夢を見たのですが、ヨセフが見事に彼らの夢を説き明かし、実際にその説き明かしの通りのことが起こりました。
 その二年後、エジプトの王が夢を見たのですが、その意味を説き明かすことのできる者がいません。その時、獄中で夢を説き明かしてもらった高官がヨセフのことを思い出したので、ヨセフは王の前に呼び出され、見事、王の夢を解き明かしました。今後七年間の豊作の後に、七年間の飢饉が起こるという夢だったのです。ヨセフが豊作七年間に食料を蓄えるよう進言すると、王はヨセフを信頼し、王の次に高い地位に任命して、エジプト全土の管理を任せました。囚人だったヨセフが、一夜にしてエジプト全土を支配する総理大臣になったのです。
 さて、七年の豊作の後、大飢饉が起こりました。ヨセフの父や兄弟たちがいたカナンの地も飢饉のため食料が底をついてしまいました。そこで、兄たちが食料を買うためにエジプトにやってきて、ヨセフの前にひれ伏しました。目の前の総理大臣が、昔、自分たちが奴隷商人に売ったヨセフだとは、まったく気づかなかったのです。しかし、最後にヨセフだとわかると、兄たちは恐れました。復讐されるのではないかと思ったのです。
 しかし、ヨセフは、こう言いました。「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45・5)そして、ヨセフは、父と兄弟たちとその家族をエジプトに呼び寄せて養いました。それによって、イスラエルの民は滅びを免れることができたのです。
 ヨセフは、兄たちにこう言いました。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50・20)
 ヨセフは 兄たちに奴隷として売り飛ばされるという最悪の経験をしました。しかし、神様がそのことを用いて、イスラエルの一族を救うという素晴らしいみわざをなしてくださったのです。
 そして、この教会も、神様がすべてのことを働かせて益としてくださるという経験をしましたね。
 もう十七年も前になりますが、当時は、駅前の場所を借りて礼拝をしていました。ところが、突然、その場所を出なければならなくなったのです。一年間だけ近くのマンションのワンフロアを借りることができましたが、その先のことはまったくわかりませんでした。準備も資金もほとんどない状態で、わずか一年間で土地を探し、教会堂を建てるなど不可能に思えました。しかし、実際はどうでしょう。一年の内に、小田原駅から遠くない場所に、それも城山という名前をそのまま使用できる場所に土地が与えられ、資金も集まり、この会堂を建てることができたのです。それまで使用していた場所を急に出なければならなくなったからこそ、新しい会堂を持つことができるようになったわけですね。今、私たちは、「確かに神様はすべてのことを働かせて益としてくださった。ハレルヤ」と告白できるではありませんか。
 また、私自身のことを考えてもそう思います。
 私は神学校を卒業した後、栃木県の餃子で有名な宇都宮の教会の牧師になることがほぼ決まっていました。小田原などまったく考えていなかったのです。しかし、突然、その道が閉ざされてしまいました。そして、その直後に、小田原で宣教師が始めた開拓伝道を手伝わないかという話が入ってきたのです。そこで、私は、二年間だけお手伝いをするつもりで小田原にやってきました。ところが私を招いた宣教師が、私の神学校卒業の直前に心筋梗塞で天に召されてしまったのです。そこで、急遽、私が開拓伝道を始めたばかりの城山教会の責任を持つことになりました。わずかな人数で、自前の会堂も牧師館もなく、ほとんど何もない状態でした。「宇都宮の教会のほうが良かったなあ」と何度思ったかわかりません。しかし、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいました。今は、こうして皆さんと共に礼拝をすることができているのですから。
 私はいままでの経験から確信していることがあります。それは、一つの道が閉ざされたら、もっと良い道が開かれていくということです。何度か道が閉ざされましたが、神様は、それも益と変えてくださいました。ですから、今のコロナ禍の中でも、28節のパウロの言葉を繰り返し、繰り返し、告白していきたいと思っています。
 
5 私たちは知っています
 
 ところで、パウロは、ここで、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と記していますが、この「知っている」という言葉について、最後に考えてみたいと思います。
 この手紙が書かれたギリシア語には、「知る」という意味を表す単語がいくつかあります。単に知識として知っている意味の単語もあれば、体験的に深く知っているという意味の単語もあります。
 パウロは、様々な経験を味わってきたのですから、ここで確信に満ちた強い表現の単語を使って、「私は、今までの経験から、そのことを体験的に知っており、確信しています」という言い方をすることもできたのではないかと思います。しかし、実際にここでパウロが使っている「知る」という単語は、「まだ体験的には知らないけれど、知識としては知っている」というような控えめな表現のものなのです。
 私たちは、嵐のまっただ中では、聖書の約束を知っていても、本当にそのようになるのだろうかと疑問持ってしまうことがありますね。確信など持てないし、これから先どうなるのだろう、という不安に襲われてしまうこともあります。それでも、「しかし、聖書にこう書いてあることを私は知っています」とあえて自らに言い聞かせていくことが大切だとパウロは教えているように思うのです。
 旧約聖書のエレミヤ書29章11節にこう書いてあります。「主はこう仰せられる。わたしはあなたがたのために立てている計画を、よく知っている。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」この言葉が書かれた時、人々は、将来も希望もまったくないような状況に置かれていました。国が破れ、敵国の奴隷として連れて行かれてしまうという絶望しか見えない状況でした。しかし、エレミヤは、そんな中で、人々に馬鹿にされようが、なじられようが、かまわずに、「神様の計画は、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだ」という神様からの預言の言葉を語り続けたのです。
 私たちは、聖書に書かれている約束を今は確信できないかもしれません。何十年か経ってからやっと、確かに神様はあの時の出来事を益としてくださった、良きにしてくださった、と思わされることもあるでしょう。
 でも、是非知ってください。神様が私たちに与えてくださった約束は、決して取り消されることも失われることもありません。ですから、すべてのことを働かせて益としてくださるという約束を信頼し、心に留め、告白しながら、少しばかりの勇気を持って歩んでいこうではありませんか。