城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一〇月一一日           関根弘興牧師
             ローマ人の手紙八章三一節〜三九節
 
 ローマ人への手紙連続説教21
  「四つの問いかけ」
  
 31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(新改訳聖書第三版)
  
 いよいよ、この8章も大詰めとなりました。
 先週は、神を愛する人々に与えられたすばらしい約束について学びました。「神は、私たちのために、すべてのことを働かせて益としてくださる」という約束です。神様は、私たちを赦し、義と認め、神様とのまっすぐな関係の中で歩むことができるようにする計画を立ててくださいました。最終的には、私たちをキリストに似た者、栄光の姿に変えてくださるという計画です。神様は私たちを永遠に至るまで導き支えてくださるお方なのです。ですから、途中でいろいろなことがあったとしても、神様はすべてのことを働かせて益としてくださるのだと、パウロは確信していたのですね。
 さて、今日の箇所では、パウロは、これまで記してきたことの総まとめするかのように、キリストにある一人一人に力強いメッセージを書き送っています。今日の箇所で繰り返し出てくるのは、「だれが・・できるでしょう」とか、「・・するのはだれですか」という問いかけの文です。ここには四つの問いかけが記されていますが、それは、私たちの人生に襲って来るいろいろな問題の中で生じる問いかけでもあります。そして、この四つの問いかけにどのような答えるかが、私たちの人生にとって、非常に大切なのです。
 ですから、今日は、それぞれの問いかけと、それに対する答えについて、ご一緒に考えていきましょう。
 
1 「だれが私たちに敵対できるでしょう」
 
 一番目の問いかけは、31節の「だれが私たちに敵対できるでしょうか」です。
 「あなたに敵対できる人がいますか」と聞かれたら、私たちは、なんと答えるでしょうか。パウロの答えは、「だれも私たちに敵対できない」です。ただし、「もし、神が私たちの味方であるなら」という条件付きです。
 実は、原文のギリシャ語では「味方」と訳される言葉は出てきません。原文では、「神様が私たちのためにいてくださるなら」という表現になっているんです。「神様が私たちのためにいてくださるなら、だれも私たちに敵対できない」というのですね。
 ある人々は、「神様はいるかも知れない。でも、遠く離れたところにいるので、私たちには到底理解することも追求することもできない。私たちには分かり得ない存在だ」と考えます。もちろん、私たちの小さな理解力で、神様のすべてが分かるわけがありません。しかし、パウロがアテネで伝道したとき、「神様は、私たちひとりひとりから遠く離れている方ではありません」(使徒17・27)と人々に語りました。また、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのです」とおっしゃいました(ヨハネ14・9)。イエス様は、神である方なのに、人となってこの世に来てくださいました。私たちと同じようにこの地上を歩かれたのです。そのイエス様を見た者は、父なる神様を見たことになる、というのです。そうすると、神様という方は決して遠い遠い遥か彼方の存在ではない、ということですね。
 また、私たちは、イエス様を信頼して生活していく中で、神様が私たちとともに歩んでいてくださることを知っています。イエス様は、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28・20)と約束してくださったのです。
 考えてみれば、私たちは、以前はどうだったでしょうか。 私たちの味方になろうとしてくださる神様に敵対していたような者でした。「神様なんか要らない。神様を求めるなんて、弱い人間のすることだ。救ってくれなんて頼んだ覚えもないし、余計なお世話だ」などと言っていたのです。少なくとも、私はそうでした。
 そのように神様に敵対していた私たちのために、神様は何をなさったでしょうか。ご自分の愛する御子イエス・キリストをこの世に遣わして、私たちの罪を全部背負わせ、私たちの代わりに十字架につけられたのです。御子は、罪のない、全くきよい方であるのに、私たちが受けるべきを罰をすべて引き受け、死に渡されたのです。神様は、なぜそのようなことをなさったのでしょうか。私たちの罪を赦し、私たちに最善の人生を与えるためです。そして、私たちが神様とまっすぐな親しい関係を回復するためなのです。
 私たちの信じている神様は、けちな神様ではありません。パウロは、32節にこう記しています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」私たちの信じている神様は、惜し気なく与え尽くす方です。ご自分のひとり子さえ惜しまずに死に渡された神様が、私たちの最善を願われないはずがないではありませんか。この神様が私たちの味方としていてくださるのです。一体、だれが私たちに敵対できるでしょう。
 
2 「訴えるのはだれですか」
 
 二番目は、33節の「私たちを訴えるのはだれですか」という問いかけです。
 私たちは、クリスチャンとして生きていくとき、いろんな声を聞きます。私は高校生の頃、よく言われました。「お前。ほんとうに、それでもクリスチャンか」。「でもクリ」と言われたりしました。「それでもクリスチャン」の省略形です。どういうわけか、「クリスチャンというのは何も悪いことをしない聖人君子のような人間だ」と思っている人が結構いるんです。だから、「お前。それでもクリスチャンか」と言われるわけですね。
 しかし、そういう外側の声よりもっと辛いのは、私たち自身の心が自分に訴えかけてくることです。自分の内側の声が自分を責めるのです。これは結構深刻な問題となっていきます。私たちは決して完全ではありませんね。失敗もすれば、落ち込みもします。不本意な行動をとってしまうこともあります。そんなとき、自分を責める声が訴え始めるのです。「お前は本当に駄目な人間だな」「クリスチャンだ、なんて言ったって、お前は落第じゃないか」「お前は同じ失敗を何回繰り返したら気がすむんだ。それでもクリスチャンか」こういう声が、自分の内側からよく聞こえるわけですね。自分の心が自分を訴えるのです。そして、いつもいつもそういう声に責められていると、自分に失望してしまうのです。そして、その声はキリストの恵みを覆い隠してしまいます。そんな経験がありませんか。
 パウロは、そのことを大変よく知っていました。この手紙を書いたパウロは、決して完全な立派な人間だったわけではありません。彼も自分の心に訴えてくる声を聞いていました。7章にも出てきましたね。「お前は本当に惨めな人間だ。言っていることとやっていることが違うじゃないか」という声を聞いたのです。
 しかし、彼は、そういう声を聞きながらも、その惨めさを味わいながらも、「私たちを訴えるのはだれか。もはや、私たちを訴える者はいない」と結論づけたのです。なぜですか。それは、神様が「あなたを義と認める」と約束し、実行してくださったからです。
 「義と認める」とは、前回も出てきましたが、「ローマ人への手紙」の中心的な言葉です。「義」という言葉は法廷用語です。「義」とは、「無罪」「罪がない者とみなす」ということです。なぜ、そんなことが可能なのでしょう。 
 皆さん、法廷を想像してみてください。私が裁判官の前に立たされたとします。検事は私の罪状を読み上げ、論告求刑します。でも裁判官は、「その訴えは却下する」と無罪を申し渡します。すると翌日、私はまた、別の検事によって訴えられます。しかし、裁判官は、また訴えを退け無罪を言い渡します。その翌日も、またその翌日も、同じことが繰り返されます。そうしているうちに、私を訴える検事はいなくなってしまうのです。
 裁判官は、いつもこう告げるのです。「あなたの身代わりにイエス・キリストが十字架で罰を受けた。あなたの罪は、キリストがすべて背負い、受けるべき罰を身代わりとなって受け、支払うべき代償はすべて支払った。だから、だれがあなたを責めようが訴えようが、あなたを無罪とみなす」と判決が下るのです。
 聖書には、「愛は多くの罪を覆う」(1ペテロ4・8)とあります。キリストのいのちをかけた十字架の愛は、私たちの弱さ、惨めさ、過ち、私たちの罪を覆ったのです。ですから、自分を責める生き方はやめましょう。自分を責める生き方は、神様の愛のみわざを拒むことと同じですね。そのような生き方は神様も喜ばれません。
 もちろん、私たちが自分の言動に対して反省するのは大切なことです。罪を犯してしまったら、正直に神様に申し上げ、悔い改めて生きることが必要です。しかし、ただ自分を責め続け、自分を訴え続けていくような人生を、神様は願ってはおられません。どんなに訴える者がいても、責める声があっても、すべて神様が却下してくださるのです。
 
3 「罪に定めるようとするのはだれですか」
 
 三番目の問いは、34節にあります。「罪に定めようとするのはだれですか」という問いかけです。私たちがキリストの十字架によって罪を赦され、神様を信じて歩むようになった後も、私たちを何とか罪に定めようとする力が襲ってきます。
 しかし、34節に「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」と書かれていますね。 何と幸いなことでしょう。十字架で死なれたイエス様は、よみがえられて、天に昇り、今、父なる神様のみもとで私たちのためにいつもとりなしをしてくださっているというのです。
 前々回の8章26節には、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」とありましたね。御子イエス様も聖霊も、私たちのためにとりなしてくださっているのです。
 また、 第一ヨハネ2章1節にはこう書かれています。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」キリストは、私たちのために十字架でいのちを捨ててくださったばかりか、いつもとりなしをし、弁護してくださっているのです。私たちには、最もすばらしい永遠の専属の弁護士がいるのですね。
 教会員の緒方陽子さんの御主人は、天に召される半年ほど前に洗礼を受け、この教会で葬儀を行いました。御主人は、長い間弁護士として活躍されてきた方でしたが、ある日、突然、「牧師と話がしたい」と言われたので、私がお宅に伺いました。私は、御主人に聖書の話をしてから、こんな質問をしました。「緒方さん、自分自身のために弁護士が必要ではありませんか。」すると、御主人は「必要だ」と答えたのです。私は、先ほど読んだヨハネの手紙を引用し、イエス・キリストこそ永遠の弁護士となってくださる方であることをお話ししました。すると、御主人は、イエス様を救い主として受け入れ、その後、洗礼を受けられたのです。
 皆さん、イエス様という素晴らしい弁護士がおられ、いつも私たちのために、とりなしをしてくださっているのです。私たちを罪に定めようとする者がいても、イエス・キリストが私たちの弁護をしてくださるのですから、心配することはないのです。
 
4 「キリストの愛から引き離すのはだれですか」
 
 四番目の問いかけは、35節にある「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか」です。
 イエス様は、私たちのために、すべての罪の罰を引き受けてくださいました。あざけられ、むち打たれ、手足を釘で十字架に打ち付けられて、想像を絶する激しい苦しみを味わってくださったのです。私たちを救うために御自分のいのちも惜しまない、それほどの大きなキリストの愛から、私たちを引き離すことができるものがあるでしょうか。パウロは力を込めて、「誰も、何ものも、引き離すことなどできない」と記しているのです。どんな患難、苦しみがあったとしても、私たちをキリストの愛から引き離すことなどできない、それほど大きな愛なのだというのですね。
 私たちは、時々、「私は本当に神様に愛されているのだろうか」と疑問を持ち、神様の愛がわからなくなってしまい、自分から離れてしまいそうになることもありますね。人間関係でつまずいたり、困難に直面して疲れ果ててしまい、「神などいない」と失望してしまうこともあるかもしれません。
 でも、私たちがどんな状態に陥ったとしても、私たちが神様から離れそうになっても、神様の愛は決して変わることがありません。申命記33章27節に「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に」とあるように、私たちがどんなに落ち込んでいたとしても、神様の大きな愛のみ腕が支えてくださっているのです。そのことを覚えていてください。
 
 私たちの神様は、ご自分のひとり子をさえ惜しまずに与えてくださるほど私たちを愛してくださっています。だから、こう告白しようではありませんか。「神様。あなたを信頼します。あなたを心から愛します。あなたは私の味方であり、私を罪に定めず、赦し、弁護してくださる方、私を愛し続けてくださる方なのですね」と。
 最後に、第二コリント12章9ー10節を読みましょう。パウロは、こう記しています。「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
 不思議な言葉ですね。「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」皆さん、私たちは弱くても大丈夫です。弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難があっても大丈夫です。なぜなら、そういう時にこそ、キリストの力を知ることができるからです。
 この一週間、四つの問いに対する明確な確信を握って歩んでいきましょう。また、その確信がさらに豊かな確信となっていくように期待していきましょう。