城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一一月一日             関根弘興牧師
            ローマ人への手紙九章一九節〜三三節
 
 ローマ人への手紙連続説教23
   「あわれみの器」
  
  19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。26 『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」29 また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」
  30 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(新改訳聖書)
 
 まず前回の内容を振り返ってみましょう。
 パウロは、同胞であるユダヤ人の姿に心が引き裂かれるほどの痛みを感じていました。彼らは、旧約聖書を持っているのにもかかわらず、旧約聖書の内容を正しく理解せず、救い主イエス様を受け入れようとしませんでした。自分たちは神様に選ばれたアブラハムの子孫イスラエル人だと誇り、異邦人を見下していました。パウロは、彼らが救われるためなら、自分が呪われてもかまわない、とまで記しています。
 また、前回、私たちは、神様がすべての主権者であることも学びました。聖書の見方は、神様を主語とする見方です。私たちは普通は、「私(関根弘興)は今日、日曜礼拝に出席し、聖書の約束を信じました」というふうに自分を主語にして話すわけですね。しかし、すべての主権を持っている神様を主語とすると、「神は、関根弘興を日曜礼拝に導き、心を開かせ、神の言葉を受け入れさせた」という言い方になるのです。先週の箇所の9章18節には、「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」と記されていますが、これを読むと、「神様は気分のままに、自分勝手に、ある人をあわれみ、ある人をかたくなにされるのだ」と勘違いしてしまうことがあります。しかし、そうではありません。神様が「みこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされる」ということの背後には、すべての人に自由意志が与えられ、また、自分で選択する機会が与えられているという前提があるのです。人は、自分で自分の道を選び取ることができ、また、選び取った結果を受けるのです。それを、神様は主権を持って許容してくださっているのです。
 この「神様の主権」と「私たち一人一人に与えられている自由意志」についてバランスよく理解しないと、間違った疑問や不満が出てきます。それが19節に書かれています。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう」という疑問の声です。少し砕いた言い方をすれば「私が悪いことをしたとしても、神様の主権の中で起こったことなんだろう。神はみこころのままに、あわれんだり、かたくなにされるのだろう。それなら、私には責任がないじゃないか。どうしてそれなのに自分が責められなければならないんだ。神様が全てご存じですべてを勝手に動かしているのだろう」、このようなことを言う人がいたわけですね。
 しばらく前ですが、ある中学生がこんなことを言ってきました。「俺、頭にきているんだ。だってよ、『産んでくれ』って頼んだわけでもないのによ、親が勝手に産んだくせに、ちょっと何かすると文句ばかり言いやがる。俺が悪いことしたってさ、それは勝手に産んだ親が悪いんだよ。俺には責任なんかないさ!」
 これは全くの屁理屈ですね。しかし、私たちも同じようなことを神様に言うんです。「神様が人を創造しただって。神様が勝手に人を造っておいて、何で俺たちを罪人呼ばわりすわけ。冗談じゃないよ。神様が何でも好き勝手にやっているんじゃないか。俺たちは神様のおもちゃじゃないぞ」なんて言うわけですね。
 そこで、パウロは、特に旧約聖書をよく知っている人にはとても馴染み深い陶器師の例を出して、私たちのあるべき姿と態度を教えようとしていくのです。
 
1 神様は陶器師
 
 パウロは、まず、20節ー21節でこう書いていますね。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか。 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」
 これは、旧約聖書のイザヤ書45章9節の言葉をもとにしています。「ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を作るのか』とか、『あなたの作った物には、手がついていない』などと言うであろうか。」
 また、イザヤ書64章8節には、こうも書かれています。「主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」
 もし粘土が陶器師に向かって、「あなたはなぜ、私をこのようにつくったのですか」と文句を言ったらどうでしょう。それはおかしなことだというわけですね。
 それに、考えてください。神様は、義なる神です。真実な神です。愛なる神です。そして、完全で絶対者なる神様です。その神様が不良品や粗悪品をお造りになることがあるでしょうか。いいえ、たとえ私たちは自分に欠けがあるなと思うことがあっても、神様の目から見たら、わたしひとりひとりは高価で尊い、のです。
 また、エペソ2章10節には、こう記されています。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」私たちはみな神様によって良いことのために作られた作品なのです。
 それなのに、残念なことに、土くれが陶器師に文句を言い始めるのです。「なんでこんなふうに作ったのだ」と。私が陶器師だったら、そんな生意気な土くれは、どこかに投げ捨ててしまいますよ。 しかし、神様は、この投げ捨てられて当然な土くれ、神の怒りの器にすぎなくなっているようなものを、神様のあわれみを示す器としてくださるのだと、聖書は約束しているのです。神様の寛容と忍耐は何と大きいことでしょう。粉々に砕かれていいはずの私たち一人一人を神様は「あわれみの器」として生かしてくださっているというのです。
 それでは、神様のあわれみの器とされた私たちは、どのように生きていくのでしょうか。
 
2 神のあわれみの器として
 
@神の栄光を現す
 
 923ー24にはこう書かれています。「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」
 人はいつも責任転嫁をしてしまう癖をもっています。そして、しまいには「すべての責任は神様にある」とまでエスカレートしてしまいやすいのです。しかし、そんな責任転嫁の人生からは何の良きものも生まれません。その中からは生きる喜びや充足感を得ることは決してできません。しかし、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、神様に立ち返りさえすれば、神様は大きな愛と赦しを示し、あわれみの器として造りかえてくださるのです。
 皆さんは、あの放蕩息子の話をご存じでしょう。自分勝手に放蕩三昧したあげく、父親からもらった財産をすっかり使い果たしてしまった息子は、父親のもとにもどる決心をします。もちろん、息子として受け入れてもらえるとは思っていませんでした。雇い人の一人として雇ってもらおうと思って帰っていくのです。しかし、どうでしょう。父親は、遠くに帰ってくる息子の姿を見つけると、すぐに走り寄り、抱きしめ、家に招き入れたのです。それは想像もつかないような「赦しの愛」です。
 こういう話をすると、「それが駄目なんですよ。甘い!そんなに甘やかすと、同じようなことを繰り返しますよ」と言う人がいます。しかし、本当にそうでしょうか。
 時々誤解される言葉の一つに「ありのまま」ということばがあります。「ありのまま」で神様は受け入れてくださるのだから、「私は何にも変わる必要がないじゃないか」と考えるのです。皆さん、神様は、あの放蕩息子を迎えた父親のような方です。私たちがどんな過去を持っていても、どんなに責任転嫁をして生きてきたとしても、神様のもとに帰るなら、そのままを受け入れ、神の子として迎えてくださる方です。しかし、もし私たちがその大きな神様の愛とあわれみを知ったなら、以前の生活に逆もどりしようなどとは思わなくなるはずです。愛されているということを本当に知った人は、愛に生きようとする者へと変えられていくのです。
 神様は、御自分がお造りになった器である私たちに、怒りではなく、あわれみを満たしてくださいます。私たちを滅ぼすのではなく、赦し、恵みを満たそうとしてくださるのです。そのために神の御子イエス様が、私たちのすべての罪を身代わりに背負って十字架にかかってくださいました。考えられないほど大きな愛です。「わたしは、あなたのすべてを知っている。あなたの罪も、弱さも、どれだけ反抗していたかも全部知っている。それでもなお、わたしのあなたに対する愛は変わらない。さあ、わたしのもとに立ち返ってきなさい。わたしと一緒に人生を歩もうではないか。」神様は、そう語りかけてくださいます。私たちが、神様との正しい関係の中で生きていくことができるのは、ただ神様のあわれみによるのです。そして、わたしたちがその神様のあわれみを満たす器となることが、神様の栄光を現すことになるのです。
 陶器師は何によって名声や誉れを得るのでしょうか。作品を通してです。神様も、御自分の作品を通して栄光を現そうとなさっています。たとえば、詩篇19篇1節には「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」とありますね。この大自然を見渡す時、神様の偉大さ、神様の栄光を見ることが出来ます。そしてさらに、神様は、私たち一人一人を通しても、ご自分の栄光を現そうとしておられるのです。私なら、そんな方法はとりません。自分の力を見せつけて圧倒させるような方法をとるでしょう。しかし、神様は、御自分の作品である私たちを通して栄光を現すという方法をとられるのです。
 でも、誤解しないでください。それは、私たちが立派で非の打ち所がない人間になることではありません。以前は「怒りの器」であった私たちが、今は神様の「あわれみの器」として生かされている、そこに神の栄光が現されるのです。私たちは滅ぼされるべき怒りの器でした。砕かれて捨てられて当然の器であったはずの私たちが、今、神様の大きな愛と赦しといのちを受けて生かされています。こうして賛美し、礼拝し、感謝し、生かされています。そこに神の栄光が現れていくのです。
 
A行いによるのではなく
 
 しかし、ユダヤ人たちは、パウロの言葉に同意しようとはしませんでした。「神様のあわれみだけで、何にもしないで救いを受けることができるなんて、あまりにも虫がよすぎる。やはり一生懸命律法を守って、頑張って、努力して救いを掴むのが人の生きる道だ。立派な行いこそが私たちの道だ」と考えていたのです。
 31節-32節に「しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです」とパウロは記しています。ユダヤ人たちは、自分の努力や行いによってしか救いは得られないと考えていました。ですから、「イエス・キリストを信じる信仰によって、神様の一方的な恵みによって救いを得ることができる」という福音は、「つまずきの石」になったのです。
 パウロは25節以降に、ホセアとイザヤという旧約聖書の二人の預言者の言葉を紹介しています。
 25節ー26節の「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる」というのは、ホセア1章10節、2章1節、23節からの引用です。イスラエル人だけでなく異邦人にも福音が広がっていくことを預言しています。
 また、27節ー28節の「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる」というのは、イザヤ22節-23節の引用です。これは、イスラエル人だからといっても、皆が神様に選ばれた特別な民というわけではないということです。
 つまり、イスラエル人であっても異邦人であっても、神様が与えてくださった救い主を信じる者が、救われ、神様の民とされるのだということなのです。
 そして、29節の「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう」というのは、イザヤ1章9節の引用です。ユダヤ人たちは、神様の律法を守ることによって、つまり、行いによって神様に受け入れられようとしました。しかし、神様の律法を完全に守ることができる人など一人もいません。神様のあわれみがなければ、私たちは皆、ソドムやゴモラの町が滅ぼされてしまったように滅びるしかないのだというのです。
 律法の行いによって救われることはできない私たちに、神様のあわれみが示されました。ただイエス・キリストを救い主として信じることによって救われ、神様とともに生きていくことができるという福音を与えてくださったのです。
 しかし、ユダヤ人たちにとっては、この福音こそが、そして、イエスキリストご自身が「つまずきの石」となってしまいました。パウロは、32節-33節にこう記しています。「なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。『見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」
 
B失望させられることがない
 
 行いによって救いを得ようとする者には、福音は、そしてイエス・キリストは、つまずきの石となるでしょう。
 しかし、パウロは、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と記しています。文語訳の聖書では、「これに依り頼む者は辱められじ」と訳されています。口語訳聖書では、「依り頼む者は、失望に終わることがない」となっています。なんと力強い言葉でしょう。たとえ失望や落胆があったとしても、失望のまま終わることがない人生が保証されている、というのです。
 高価なものには、鑑定書とか保証書が必ず付いていますね。神様の目から見たら、私たちは「怒りの器」のようなものでした。しかし、神様は、私たちを「あわれみの器」として新しく造り替えてくださいました。そして「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と語りかけてくださるのです。そればかりか、私たちの人生にすばらしい保証書を付けてくださいました。それは、「彼に信頼する者は、失望させられることがない。あなたの人生は失望があっても決してそれで終わることはない」という永遠の人生の保証書です。詩篇121篇8節を読むと「主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる」と約束されています。つまり、神様の保証期間は、今からとしこしえまでなんです。
 
 私たちに与えられている信仰は、とてもダイナミックなものです。それは、私たちが自分の善行や努力で手に入れられるような安っぽいものではありません。私たちの救いは、私たちがいくらがんばっても努力しても手が届かない高価なものです。その救いを与えるために、神様のもとから来られたイエス・キリストが御自分のいのちかけて十字架についてくださり、復活し、私たちの救いを成就してくださいました。私たちは神様のその圧倒的な大きな恵みとあわれみの中で生かされているのです。
 旧約聖書の哀歌322ー23にこう記されています。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。」
 主のあわれみは尽きることがありません。この週も主に信頼しつつ、神様へ感謝と賛美を持って歩んでいきましょう。