城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一一月八日            関根弘興牧師
            ローマ人への手紙一〇章一節〜一三節
 
 ローマ人への手紙連続説教24
   「間違った熱心」
  
  1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。5 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。 (新改訳聖書第三版)
 
 今日から、10章に入りました。
 前回、神様は「陶器師」で、私たちはその手にある「土くれ」だということを学びました。この土くれはちょっと生意気で、「なんでこんな風に作ったんだ。勝手に作っておいて、どうして俺たちが責められるのだ!」と文句を言ったりするののですね。しかし、本来なら、捨てられ、壊されても文句を言えないような怒りの器である私たちを、神様は、あわれみの器としてくださったのだとパウロは書いています。そして、陶器師がその作品によって誉れを受けるように、私たちが神様の愛、恵み、真実、慈愛を受け取る器として生きていくことが、神様の誉れとなるというのです。うれしいことですね。
 私たちがあわれみの器とされたのは、私たちの努力や修行によるのではなく、立派な行いによるのでもありません。ただ、イエス・キリストを信じたからです。ただ、信じることによって救われる、それが福音です。
 しかし、その福音は、自分の行いによって救いを得ようとしている人たちにとっては、「つまずき」となりました。彼らは、「ただ信じるだけで救われるなんて虫が良すぎる」と考えるのです。
 とくに、パウロの同胞であるユダヤ人の中に、そう考える人が多くいました。彼らは、自分たちこそ神様に選ばれた民であると考え、神様に律法を与えられたことを誇り、宗教的な熱心さや戒律を守ることが最も大切だと信じていたからです。
 しかし、パウロは、1節にあるように、そんな彼らがイエス・キリストを信じて救われることを心から神様に願い求めていました。彼らが救われるためなら、自分がどうなってもかまわない、というほどの切実な思いをもっていたのです。
 
1 間違った熱心
 
 以前お話ししましたように、この手紙の9章から11章までは、同胞であるユダヤ人に関することが記されているのですが、今日の箇所では、2節にこう書いていますね。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」このことについて考えてみましょう。
 
(1)間違った熱心は、人を不自由にする
 
 彼らは、自分のたちの熱心さによって、自分が神の前に正しいことを証明し、神に認められようと努力していました。彼らの熱心さは大変なものでした。中途半端な熱心ではありませんでした。彼らは、宗教的な細かい規則を一生懸命守ることによって神様に近づくことができる、神様と正しいかかわりを持つことができる、と考えていたので、それは徹底していました。
 例えば、ユダヤの世界では、土曜日が安息日です。安息日という言葉だけを聞くと何となくゆったりできる感じがしますね。もちろん、安息日には一切の労働が禁止です。完全な休みの日なのですが、安息日の過ごし方については、たくさんの規則がありました。例えば、安息日に歩くことができる距離が決められていました。決められた距離以上歩くと、安息日を破ったということになるわけです。また、安息日に持って歩ける荷物の重さの制限がありました。どれくらいの荷物を持って歩けたと思いますか。「干しいちじく二つより重い荷物を持ってはいけない」という規則があったのです。また、お医者さんは、安息日には医療行為をしてはいけませんでした。ただし、人が死にそうな場合と、産気づいて今にも子どもが産まれそうな場合は、例外として取り扱われました。それ以外は、翌日まで待ちなさい、ということになるわけですね。大変なのは料理です。料理をする時に、火を使ってはいけないことになっていました。ですから、安息日には前日作った料理を食べるのです。現在でも厳格なユダヤ教徒は、これを守っているそうです。もっとも、今は文明が進んでいますから、火を使わなくても料理をすることができますね。電子レンジで料理をすればいいわけですが、しかし、電気のスイッチを入れるのも労働になるのです。ですから前日にタイマーをセットして、自動的にスイッチが入るようにするという工夫も必要なわけですね。それがいやなら、ユダヤ人以外の異邦人に料理をさせるわけです。自分たちが火を使うのはいけないけれど、異邦人が火を使うのはかまわないという理屈です。
 パウロが活躍した時代のユダヤ人たちは、そういう細かい決まりを一生懸命守ることが大切だと考えていました。そして、その熱心さの故に自分たちは神様に近づくことができるのだ、また、それが神様に喜ばれることだ、と考えていたのです。
 日本では、よく、「宗教もいいけれど、あまり熱心になっていけない」と言われますね。それは、宗教的な熱心がときどき、人の生活を不自由にしてしまってる姿をよく見聞きするからなんです。例えば、「ものみの塔」(エホバの証人)は、決して輸血をしません。彼らは、「聖書が輸血を禁じている」と解釈して教えるのです。しかし、もちろん、聖書には、どこにも輸血を禁じている箇所はありません。でも、彼らは、命と引き換えにしても、その教えを固守します。そういう意味では、大変な熱心です。命がけの熱心です。しかし、間違った熱心は、結果的にその人の人生を非常に不自由にするのです。
 
(2)間違った熱心は、知識に基づいていない
 
 パウロは、自分の同胞であるユダヤ人たちの宗教的な熱心をよく理解していました。なぜなら、パウロ自身も、イエス様と出会う前は、宗教的に大変熱心だったからです。その熱心さは、だれにも負けないほどのものでした。しかし、それほど熱心だった彼が、「私が以前持っていた熱心、また、他の同胞たちが持っている熱心は、本当の知識に基づくものではなかった。間違った熱心だった」と記しているのです。
 こういう言葉は、誰が語るかによって響きが違いますね。もし、私がこんな風に言っても、「関根さん。大体、あなたは初めから熱心でなかったから、そんなことを言うんですよ。それは、怠けの口実でしょう」と言われるに違いありません。しかし、誰にも負けない熱心さを持っていたパウロが語っているので、大変説得力がありますね。
 それでは、彼は、自分の熱心が間違った熱心であったことを、どのようにして知ったのでしょうか。イエス・キリストと出会ったことによって知ったのです。
 パウロは、イエス・キリストに出会って、初めて、自分が真の知識を持っていなかったことに気づきました。自分は聖書に精通していると自負していたけれど、本当は、何もわかっていなかったということに気づいたのです。神様が律法をお与えになったのは、律法を守ろうとしても守れない人間の弱さ、罪深さに気づかせるためであり、また、人間はいくら頑張っても自分の力で救いを得ることができないことを教えるためでした。そして、だからこそ、すべての人に救い主が必要であり、イエス様こそ神様のもとから来られたまことの救い主であることを、パウロはイエス様に出会ってようやく知ることができたのです。
 パウロは、4節で「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」と書いていますね。これは、この手紙の8章までの大きなテーマでしたね。私たちは、律法を守って神様に義と認められようとしても決してできません。しかし、イエス・キリストが私たちに代わって律法の要求をすべて満たしてくださいました。イエス様は、十字架によって、律法の規準に達することのできない私たちが受けるべき罰をすべて受けてくださり、また、復活によって私たちに新しいいのちを与え、「神を愛し、自分と同じように隣人を愛しなさい」という律法の中で最も大切な戒めを喜んで守ろうとする者に変えてくださったのです。イエス様が律法を成就し、救いを完成してくださいました。ですから、私たちは、イエス様が完成してくださった救いを、ただ感謝して受け取るだけでいいのです。
 パウロの同胞のユダヤ人たちは、その知識がないために、自分で熱心に律法を守って救いを得ようとしていました。その彼らにパウロは、「あなたがたの熱心は間違っている。救い主イエスについての知識がないからだ」と語っているのです。
 パウロは、コロサイ2章3節では、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」、第一コリント1章30節では、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」と記しています。「イエス様を知ることなしに、真の知識も知恵も救いも得ることはできないのだ。イエス様抜きで、神様に義なる者、聖なる者と認めていただくことはできないのだ」と繰り返し語っているのですね。
 
(3)間違った熱心は、高慢を生む
 
 少し考えてください。いまコロナ・ウィルスのために不自由を強いられていますね。でも、研究が進み、完全な治療薬が完成したらどうでしょう。もし、私が感染したら、すぐにその治療薬のお世話になります。「よーし、自分の力で治療薬を作ろう。がんばるぞ」などとは決して思いません。もし完全な治療薬があるなら、それをただ受け入れればいいわけです。単純な話ですね。
 ところが、私たちは、完成されたものを単純に受けるよりも、自分の力で別のものを作ろう、という発想を持ってしまうのです。そして、その熱心さが霊的な高慢さ、宗教的な高慢さを生むこともあるのです。3節に「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです」とありますね。彼らは、救い主イエス・キリストを受け入れず、自分の力でできる、救い主など必要ないと考えていたのです。 それに対して、パウロは、6節ー7節でこう書いていますね。
「しかし、信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを引き降ろすことです。また、『だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを死者の中から引き上げることです。」
 これは、旧約聖書の申命記3012ー13の引用ですが、パウロはここで何を言いたいのかといいますと、当時、こんな風に言い出す人がいたのです。「あの人の熱心さは並大抵ではないから、きっと天に上って神様と直談判できるに違いない。もしかすると、あの人なら地下にもぐって死人をよみがえらせることだってできるかも知れない」と。つまり、自分たちの努力や熱心さで天に上ったり、地の底に下ったりできるかのような錯覚をする高慢な人が出てきたのです。このような熱心さは救い主など必要ないという思い上がり、高慢を生むのです。つまり、パウロは、「人が自分の努力や熱心さで永遠の救いを得ることができると考えるなら、それは見当違いであり、その熱心さは、かえってその人を高慢にしてしまう」と言っているのです。
 天に昇り、地に奥底に下ることのできるのは、まことの救い主イエス様だけです。8節に申命記30章14節を引用した「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」という言葉がありますが、神様のみことばそのものであるイエス・キリストが御自分から私たちの近くに来てくださったのです。そのキリストを高慢になって否定することのないように、とパウロは戒めているのです。
 
2 救いを得るために
 
 それでは、どのようにしたら、人は救いを得ることができるのでしょう。それは、正しい知識に基づけばいいわけですね。つまり、イエス・キリストを基とすることです。パウロは、9節で具体的に二つのことをあげています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
 
(1)口でイエスを主と告白する
 
 第一は「あなたの口でイエスを主と告白すること」です。
 「イエスを主と告白する」、これは言葉は単純ですけれど、ちょっと勇気のいる告白ですね。イエス・キリストを主と告白するということは、イエス様に自分の人生の支配権をお渡しするということです。そして、「私は、イエス様のしもべです。イエス様に従っていきます」と告白することになりますね。
 しかし、「自分の主人は自分自身だ」「自分の人生は自分で支配するのだ」と思っている人々はたくさんいます。いつも、自分が主人公でないと気がすまないのです。自分を中心にして世界が動かないと気分が悪いのです。そういう人は、イエス様に人生の王座を明け渡すことが難しく感じるかもしれません。 でも、「イエス様は私の主です」と告白することが平安な生涯を送る基礎となるのです。自分が人生を支配しようとする生活、自分が、自分が、という生活では、最終的に自分だけが取り残されることになります。
 それに対して、「イエスは主である」と告白からは、何がもたらされるでしょうか。イエス様を主と告白していくとき、私たちは、人として本来あるべき謙遜の姿を取り戻し、神様を礼拝し、感謝と賛美を持って歩むようになります。また、イエス様は、平和と調和をもたらす主ですから、イエス様を主として生きることは、人生の平和と調和に繋がるのです。私たちは、どんな境遇にあっても決して失われることのない平安を持って生きていくことができます。また、赦され愛されている者として調和の中で生きていくことができるのです。
 
(2)復活されたイエス様を信じる
 
 二番目に必要なのは、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じる」ことです。
 イエス様は、十字架につけられ、死なれました。しかし、それで終わったのではありません。三日目によみがえられました。そして、今もイエス様は生きておられるのです。
 もし、「イエス様は死んだ。それで終わり」ということであったら、クリスマスなんて、やらないほうがいいですね。大体、死んでしまった人の誕生日を毎年祝うことはしませんね。イエス様の誕生を毎年お祝いするのはなぜでしょう。イエス様が今も生きておられるからです。
 「イエス様は残念ながら墓の中で眠っておられるのです。ですから、今は何の力にも救いにもなりません」というなら、「イエス様は主です」という告白には何の意味もありませんね。死んだ方を主として生きることはできません。イエス様が今も生きてみわざを行ってくださる方だからこそ、イエス様を主として生きることができるのです。
 ヘブル13章8節には、「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも、同じです」とあります。イエス様は、永遠に生きておられる方であり、過去、現在、未来に渡って私たちを救うことができるお方だというのです。
 10節に「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と書かれていますが、「人間的な熱心さや行いや修行によって救われる」とはひと言も書かれていませんね。人は、神様の前に心を込めて「イエスは主」と告白し、今も生きておられるイエス様を信頼して生きることによって救われるのです。
 
3 信じる者への約束
 
 そして、そのように生きる人々に対して、パウロは、聖書から二つの約束を引用しています。
 
(1)「彼に信頼する者は、失望させられることがない」
 
 パウロは、9章33節でもこの言葉を引用していました。この言葉が大好きだったんですね。これは、旧約聖書のイザヤ書28章16節の引用です。口語訳聖書では、「失望に終わることがない」と訳されています。クリスチャンになってからも、失望が襲ってくることがあるでしょう。しかし、失望に終わらない人生が約束されているのです。前回お話ししたとおりです。
 
(2)「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」
 
12節ー13節にこう書かれていますね。「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深く恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる『のです。」 13節の言葉は、ヨエル書2章32節の引用です。民族を、国境を、言語を越えて、どの国の人であっても、主の御名を呼び求める者は救われるのです。聖書で使われる「名」とは、その人の人格を含めた存在そのものを指します。ですから、主の御名を呼び求めるとは、愛とまことと恵みに満ちた救い主イエス・キリスト御自身を呼び求めるということです。
 普通、契約書には、いろいろな但し書きが付いていますね。「但し、以下のような人には適用されません」というように書いてあるわけです。しかし、聖書は、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。例外はありません」なんですよ。ですから、私たちは大胆にいつでもどこでも主を呼び求めるのです。「主よ。あなたを信頼します。主よ。助けてください。解決を与えてください」と呼び求め続けていくのです。
 皆さん。どうぞ、今週も肩の荷を下ろしてください。いろいろな思い煩いをイエス様にゆだねて、イエス様が今も生きておられることを告白し、主の御名を呼び求めつつ歩んでいきましょう。