城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一一月二二日           関根弘興牧師
           ローマ人への手紙一〇章一四節〜二一節
 
 ローマ人への手紙連続説教25
   「差し伸ばされた手」
  
 14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、
そのことばは地の果てまで届いた。」19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」20 またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現した。」21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」(新改訳聖書第三版)
 
 以前にもお話ししましたが、「ローマ人への手紙」は三つの部分に分かれています。
 最初の1章から8章では、私たちの罪と救いについて書かれています。「人は、いかにしたら神の前に正しい者とされるか、神様とまっすぐな関係を持つことができるか」ということがテーマになっています。二番目の9章から11章では、ユダヤ人に関する問題が取り扱われています。そして、最後の12章から16章では、「クリスチャンとしてどのように生きていけばいいのか」という倫理的な問題が取り扱われています。今日の箇所は、二番目のユダヤ人に関する内容の続きです。
 ユダヤ人たちは、自分たちは、神に選ばれたイスラエル民族の子孫だから、他の異邦人たちとは違う特別な存在だと考えていました。しかし、パウロは、前回の12節で、「神の前では、ユダヤ人とギリシヤ人との区別はない」と言っていましたね。ユダヤ人の救われ方と異邦人の救われ方に違いはない、クリスチャンになる方法が、国籍や民族によって違うということはない、どんな人でも、10節にあるように「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」のだと、はっきり言っています。
 聖書では、この「告白」ということを非常に大切にします。ギリシャ語で「ホモロゲオー」という言葉ですが、これは「同じことを言う」という意味です。「心にあるそのままを神様に告げる」「心の中に与えられた神様の約束の言葉をそのまま神様に告げる」ということです。「心にもないことを言う」という表現がありますね。これは、告白とは言わないのです。心にあることを正直に神様の前に語ることを告白というのです。口先だけでなく、心からの同意をもって神様に語ることです。神様の前では、本音と建前を使い分ける必要はありませんからね。
 でも、「神様は何でも知っているのだから、私が口で告白しなくても、心の内を読んでくれればいいじゃないか」と言う人もいるかも知れませんね。しかし、聖書は、私たちが心で信じたことをそのまま口で告白することの大切さを教えています。口で告白すること、つまり言葉に表すことがとても大切なのです。
 天地創造の時、神様が「光があれ」と言われると光ができました。そのように、すべての被造物は、神様が言葉を発せられたときにできたのです。また、イエス様も言葉を発することによって様々な奇跡を起こしたり、悪い者の誘惑を退けたりなさいました。
 私たちも同じです。神様は私たちに自由意志を与えてくださいました。神様を信じて従うかどうかは、自分の意志で決めるのですが、心で信じるだけでなく、口で告白することによって、自分の意志を神様に対しても自分に対しても明確に表し、一歩前に踏み出す決断ができるのです。そして、その私たちの決断に神様は答えてくださるのです。
 しかし、ユダヤ人たちは、パウロの「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」という言葉に反感を持っていました。「パウロさん、あなたは私たちにイエスを信じて告白しなさいというけれど、イエス・キリストが私たちの罪のために死に、そして、死者の中からよみがえったなんて、今まで聞いたこともない。聞いたこともないことを信じろ、と言われても無理な話だ」というわけです。
 確かに、信じたこともない方を、呼び求めることはできません。聞いたこともない方を、信じることはできません。宣べ伝える人がなくて、聞くことはできません。14節にあるとおりです。
 イエス様から遣わされて福音を宣べ伝える人々がいなかったら、私たちは福音を聞くことはありませんでした。聞かなければ、信じることができませんでしたね。もちろんこの教会も存在していません。
 そこで、今日は、一人一人が神様から遣わされたキリストの証人であり、良きことを伝える者とされているということ、そして、神様のあわれみは全世界に向けられているということをお話させていただきたいと思います。
 
1 キリストの証人
 
 「キリストの証人として生きる」とか「伝道する」という言葉を聞くと、何か義務的な受け取り方をしてしまうことがあるかもしれませんね。「いやー、私なんかちっとも伝道できないですよ」と言われる方もいます。それは、ちょっと捉え方が間違っているかもしれませんね。
 パウロの理解はどうだったのでしょう。彼は、イザヤ書52章7節の言葉を引用して、キリストの福音を伝えることを「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」と書いています。
 「福音」という言葉は、ギリシャ語では「ユアンゲリオン」と言いますが、これは、「良い」という言葉と「知らせ」という言葉が合成された言葉なんです。ですから、「福音」は、「良い知らせ」「良きおとずれ」と訳すこともできるのです。「Good News」ですね。
 この良い知らせを伝えるのは、牧師や伝道者などの一部の選ばれた人だけではありません。クリスチャンである私たち一人一人が良い知らせを伝える者とされているのです。
 では、その良い知らせの内容とは、どのようなものでしょうか。先週、豊村先生もこのことについて話してくださいましたが、もう一度おさらいしておきましょう。
 
(1)解放、回復の知らせ
 
 イザヤという預言者が活躍していた時代、イスラエルの人々は残虐なアッシリヤ帝国の脅威に怯えていました。その中で、イザヤは、もうすぐイスラエルの国は敵国に滅ぼされ、人々は捕虜となり、神殿があるエルサレムは廃墟と化してしまうと預言しました。これは、「お先真っ暗」というニュースですね。でも、イザヤは、その一方で、今日、引用された預言の言葉を語ったのです。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。」(イザヤ52・7ー10)
 イザヤは、悪い知らせしか聞こえてこないような状況の中で、神様からの「良い知らせ」を聞きました。それは、「神様が王となって、救いのみわざを行ってくださり、捕らわれた人々を解放し、廃墟を回復させ、慰めを与えてくださる」という内容だったのです。
 このイザヤが語った「良い知らせ」は、今、イエス・キリストによって実現されたとパウロは記しているわけです。イエス・キリストの十字架と復活によって、罪の束縛からの解放、平和の回復、慰めが与えられました。そして、私たちは、イエス様を主として心から信頼し、礼拝することができるようになったのです。
 パウロは、この手紙の1章16節でこう書いていますね。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」福音は、すべての人に救いを得させる神の力、罪と死の束縛を破壊するダイナマイトのような力だと語ったのです。その福音の中心は、もちろん、イエス・キリストです。このイエス・キリストを宣べ伝えることこそ、「良い知らせ」であり、そこには、罪の赦しと解放、回復、慰めがあり、また、あがめるべき方をあがめていく真の礼拝者が生まれるのだと言うのです。
 
(2)勝利の知らせ
 
 昔、ギリシャでは沢山の戦争がありました。どちらが勝ったか負けたかということは、一刻も早く知りたい重大なことです。ですから、戦争に勝つと、伝令が自分の町に向かって一生懸命に走っていきます。ちなみに、マラソン競技はここから始まりましたね。そして、町に着くと戦勝報告をするのです。「俺たちは勝利したぞう!」これが「ユアンゲリオン」、つまり、「良い知らせ」なわけですね。ですから、福音というのは、単なる朗報ということだけでなく、勝利報告でもあったのです。戦勝報告を聞いた人々は、「やったあ。万歳!」と大喜びをしますよね。それと同様に、福音は、それを受け取った人の中に、大きな喜び、解放、そして「なんと素晴らしいんだろう!」という声を沸き上がらせるものなのです。ですから、クリスチャンは、勝利の伝令者だというわけですね。 
 人間にとってどうすることもできない問題に「死」というものがあります。
 芥川龍之介は、自らの命を絶ってこの世を去りましたが、彼の遺書の中に「わが子等へ」と題するものがあります。その遺書には、「人生は死に至る戦いであることを忘るべからず。・・・もしこの人生の戦いに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ」と書かれていたというのですね。人間としての苦悩、罪責、さまざまなものが交錯し、彼は自らの命を絶ったのでしょう。しかし、この知らせは、あまりにも悲痛な知らせです。
 しかし、パウロは、第一コリント15章54ー55節でこう言っています。「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」パウロは、「死はキリストの勝利に飲み込まれてしまったのだ」と語っているわけですね。なぜなら、イエス・キリストは死から復活し、今も生きておられる方だからです。また、このキリストにあって、私たちは、朽ちることのないいのちを受けることができるからです。これはまさに死に対する勝利宣言ですね。
 また、この手紙の8章31ー37節で、パウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できようか。私たちはこの方によって、圧倒的な勝利者にされているのだ」と書いていましたね。この「勝利者」というのは、「一番になる」という意味ではありません。私たちは、人生の中でいろいろな葛藤や軋轢、また戦いを経験してますね。困難があります。苦難もあります。問題が押し寄せて来ます。押しつぶされそうになり、涙することもあります。しかし、イエス・キリストは、ヨハネ16章33節で「わたしはすでに世に勝ったのです」と宣言されました。そして、「恐れるな。わたしがいつもあなたとともにいる」と約束してくださっているのです。
 パウロは、いろいろな経験をしました。第二コリント11章23ー28節にあるように、数多くの患難に遭遇しました。石で打たれ、瀕死の重傷を負ったことがあります。盗賊にあったこともありました。投獄されることもありました。また、自らが開拓した教会に混乱が生じていると聞いて、心配で心配で居ても立ってもいられないというような思いに何度も襲われました。どれほどの涙を流してきたことでしょう。しかし、彼がいつも確信していたのは、そういう中にあっても、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」「主に信頼する者は失望させられることがない」「私たちはキリストにあって勝利者である」という約束でした。
 
  皆さん。あなたの生活をもう一度点検してみてください。「イエス・キリストの良い知らせ」がもたらされたからこそ、私たちは今、ここにいます。この「良い知らせ」を生活の中で喜びと希望をもって味わい、互いに分かち合っていくことによ
って、私たちは、「良いことの知らせを伝える者」とされていることを知っていくのです。
 
2 全世界に向けられる神様のあわれみ
 
 先ほどお話ししましたように、パウロの同胞であるユダヤ人たちは、パウロの話に対してこんな反応をしたようです。「パウロさん、イエス・キリストを信じれば救われるなんて、今までそんなこと聞いたことがない」と。
 よく「聞いてないよ!」と口癖のように使う人がいますね。本当は聞いているはずなのに、「そんなことを聞いてないよ」と言うのです。ユダヤ人たちも、「そんなこと、聞いてないよ」とパウロに語ったわけです。
 しかし、パウロは詩篇19篇4節の言葉を引用して、「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた」と語っています。「論より証拠。キリストのみことばが地の果てまで届いたからこそ、あなたがたが軽蔑していたあの異邦人たちですらイエス様を救い主と信じ、従っているではないか」と言ったのです。だから、「知らない」「聞いてない」ということではなく、「聞こうとしない」「耳を傾けない」ということだとパウロは指摘しているのです。つまり、弁解無用ということですね。
 考えてみれば、「良き知らせ」は、まず最初にユダヤ人たちに伝えられたわけですから、彼らが真っ先にイエス様を信じ、従っていいはずです。しかし、結果はそうではありませんでした。彼らが拒否したことにより、異邦人に「良き知らせ」が伝えられていきました。
 パウロは、続けて旧約聖書の申命記32章21節を引用しています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」これは難しい言葉ですね。どういうことかと言いますと、「ユダヤ人は、異邦人に与えられた神様の救いを見て、『神様は何であんな異邦人に祝福を与えているんだろう』とねたみを起こし、怒るに違いない。そして、異邦人のほうに行ってしまった神様の祝福を、何とかして自分たちのほうに取り戻したいという願いを起こすのではないだろうか。そうなってくれたらいいのに」という思いで、パウロはこの箇所を引用したのです。これは、パウロが同胞であるユダヤ人たちを愛するがゆえに引用した言葉だと思うのですね。異邦人のほうに行ってしまった祝福を自分たちに取り戻したい、それほどまでのねたみがユダヤ人の間に起こり、「キリストの祝福を私たちの内にもたらしてください」と謙遜に祈ることができるようになることをパウロは心から願っていたわけです。
 でも、当時のユダヤ人たちの多くは、キリストの福音に対して心を開こうとはしませんでした。そういう人たちに対して、パウロは、イザヤ65章2節の神様の言葉を引用しています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。
 皆さん。神様は、何とあわれみ深い方でしょうか。傲慢で、「自分は一番神に近い」と豪語し、自分の行いで自分を救うことができると考え、うわべだけの宗教儀式だけを行っている人たちに、神様は、「わたしは一日中、手を差し伸べた」と言われるのです。それが聖書が教える神様の姿です。
 皆さん、自分のことを考えてみましょう。少なくとも自分が神様に対して不従順な者であったことはすぐに分かりますね。神様なんか要らない、神様が私の人生に関わる必要はない、そんなことを言っていた私たち一人一人に対して、神様の手は休みなく一日中差し伸ばされていた、と聖書は記しているのです。
 神様の選びの民であるユダヤ人だけでなく、今日、神様は、全ての人にご自分の愛の手を差し伸ばしておられます。申命記33章27節には、神様の腕というのは「永遠の腕」だと書かれています。すばらしい言葉ですね。また、イザヤ50章2節で、預言者イザヤは、「主の手が短くて私たちを救えない、なんていうことがあるだろうか。そんなことは絶対にない」と記しています。私たちも、この神様の差し伸ばされた手によって救われたのです。
 ある方が「救い」とは何かと問われたとき、こう答えました。それは「差し伸ばされた手」だと。溺れている時、どんなに自分で自分の手を引っ張り上げても無駄ですね。でも、だれかが手を差し伸ばし、あなたの腕をしっかり握り、引き上げてくれるなら、助かります。
 私たちは、神様が差し伸ばしてくださった手に対してどうすべきなのでしょうか。もし、「助けは必要ない」と払いのけたら、溺れていくしかありません。でも、差し伸ばされた手に向かって自分の手を伸ばせば、神様は、必ずしっかりと握りしめて引き上げ、抱き寄せてくださるのです。
 どうぞ、今日覚えてください。神様の手は、いつも私たちに差し伸ばされています。そして、神様の手は私たちをしっかりと握り続けてくださいます。
 それぞれがイエス様のもたらしてくださった「良い知らせ」を味わい、分かち合う者とさせていただきましょう。