城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一一月二九日           関根弘興牧師
            ローマ人への手紙一一章一節〜一〇節
 
 ローマ人への手紙連続説教26
   「残された者たち」
  
 1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。6 もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。7 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。8 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」9 ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。10 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」(新改訳聖書第三版)
 
 以前にもお話ししましたように、ローマ人への手紙の9章から11章までは、パウロの同胞であるユダヤ人たちのことが記されています。
 ユダヤ人たちは、旧約聖書が与えられているのに、その中に書かれている救い主についての預言を正しく理解することをせず、せっかく神様が与えてくださった救い主イエス様を受け入れようとしませんでした。パウロは、そういう同胞の姿に心を痛めていました。
 神様は、ユダヤ人もギリシャ人もローマ人もどんな民族の人たちも区別することなく愛し、イエス様を信じて告白する者には誰にでも救いを与えてくださいます。しかし、その中でもユダヤ人は、神様が救いのご計画を全世界に示すために選ばれた特別な民ですから、パウロはなおさら彼らにイエス様の福音を受け入れてもらいたい、信じてもらいたいと願っていたのです。
 そこで、今日の箇所から、「選び」という視点で、三つのことをご一緒に考えていきましょう。
 第一は、「神様の選び」は変わることがないということについて、第二は、5節の「残された者」とはどんな人たちであり、どんな意味があるのかということについて、そして、第三は、その具体例として、エリヤと七千人の人たちについてお話をさせていただきたいと思います。
 
1 神の選び
 
 第一は、神様の選びは変わることがない、ということです。
 この11章の冒頭に、こんな質問が出てきます。「神様はご自分の民を見捨ててしまわれたのではないですか」という質問です。それに対してパウロは、「絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。神はあらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません」と答えていますね。
 ところで、聖書の中では、「イスラエル人」「ヘブル人」「ユダヤ人」という呼び方が出てきますが、どれも同じ民族のことを指しています。
 「イスラエル」という名は、イスラエル人の先祖のヤコブが神様から与えられた名前で、「神様に選ばれた民」であることを示すものです。「私たちは、イスラエル人だ」と言うのは、「私たちは、神様に選ばれた民だ」という誇りを表しているわけですね。そして、イスラエルを構成する十二の部族の一つがベニヤミン部族というわけです。
 「ヘブル人」は、旧約聖書の時代、外国人がイスラエル人に対して使っていた呼び方です。
 新約聖書では「ユダヤ人」という言い方が多く使われていますが、ユダヤ人と呼ばれるようになったのには歴史的経緯があります。イスラエル王国は、ソロモン王時代に全盛期を迎えましたが、その後、ユダ部族、ベニヤミン部族を中心にした南ユダ王国とその他の十部族を中心とした北イスラエル王国に分裂しました。そして、北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされてしまいました。北イスラエルの人々は、他の民族と混血し、宗教的にも純粋さを保つことができませんでしたが、南ユダの人々は、外国に捕らわれ支配されている間も民族の純潔と信仰を守り、ペルシャ帝国時代には、故郷に戻ってエルサレムの町や神殿の再建をしました。その人々がユダヤ人と呼ばれています。ですから、ユダヤ人は、自分たちだけは迫害や困難の中でも信仰を守り抜いたという自負があったことでしょう。
 では、新約聖書が書かれた当時のユダヤ人の状況はどうだったでしょう。ユダヤ人たちは、自分たちの独立した国家を持っていたわけではありません。ローマ帝国の支配下にあり、ローマ皇帝から派遣された総督と、ローマ帝国によって認められたエドム人の王ヘロデの家の者たちに支配されていたのです。ある程度の自由は与えられていましたが、決して満足のいくものではありません。多額の税金も納めなければなりませんでした。また、すべてのユダヤ人がエルサレムのあるユダヤ地方で生活できたわけではありません。多くのユダヤ人たちが世界各地に離散していて、それぞれの町で自分たちの会堂を持って集まり、信仰を守っていたのです。
 そのような状況の中で、このように言い出す人たちがいました。「おかしいじゃないか。本当に私たちは神様に選ばれた民なんだろうか。神様に選ばれているなら、どうしてこんなに不自由で苦しい生活を強いられているのか。きっと神様は、我々を見捨てたに違いない。」
 また、パウロは、世界各地に福音を伝えて回りましたが、それぞれの場所で生活しているユダヤ人たちがパウロのもとに来て、「私たちは、神様に退けられてしまったのでしょうか」という質問を投げかけてきたわけです。
 そこで、パウロは、「神が御自分の民を見捨てるなんて、絶対にそんなことはありません」と強い口調で記しているのです。
 でも、こうした彼らの疑問は、私たちにもよくわかる気がしませんか。私たちも同じように考えることがよくあるからです。自分の思うようにいかなかったり、問題が起こったりすると、「イエス様を信じたのに、こんなことが起こるなんて。もしかしたら、神様は私を見捨てたのではないだろうか」と思ってしまうのです。
 そういう時に大切なのは、自分の感情ではなく、聖書が教えている事実と聖書の約束を信頼することです。信仰に生きることは、感情や気分とは関係ありません。信仰のつまずきのもっとも大きな原因は、自分の感情や感覚だけに頼ろうとすることにあるのです。
 例えば、時々、イエス様が一緒にいてくださるとまったく感じられないことがあります。「主よ、あなたはどこかに隠れてしまったのですか!」と叫びたくなるような辛い時もあるでしょう。でも、そういう時に「聖書は何を約束しているのだろうか」ということを思い起こし、信頼していく勇気が大切なのです。
 ヘブル13章5節には、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」という主の約束が書かれています。また、イザヤ49章15ー16節には、こう書かれています。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」
 しかし、こういう話をすると、人間とは勝手なもので、「そうか、神様が決して見捨てないなら、何をしても大丈夫なんだな」と誤解して、自分勝手な生活を送る人たちがいました。
 また、ユダヤ人の中には、「私は、神に選ばれた民だから、大丈夫だ」と高慢になって、自分の姿を反省しようとしない人たちもたくさんいたのです。
 それに対して、パウロは9節で、旧約聖書の詩篇69篇22ー23節を引用しています。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」つまり、「神様が決して見捨てない。でも、その神様の約束を逆手にとって神様の御心を無視するような生き方をし続けるなら、その人は、つまずき倒れてしまう。そのような生き方をしていると、暗闇の中を背中を曲げて手探りするような状態、自分でどこを歩いているのか、どこにいるのかわからなくなってしまうような状態に陥ってしまう」とパウロは警告しているのです。
 いつもお話ししていますように、信仰生活においては、バランスということが本当に大切なんです。神様の選びは確かなものです。私たちが今日こうして神様を礼拝し、イエス様を信頼し生きていくことができるのは、神様の選びの中に加えられている証拠です。そして、それは、「神様はあなたを決して見捨てない」という保証付きのものです。「私だけは例外じゃないか」なんて思わないでください。大丈夫です。しかし、「選ばれているのだから、何をしても赦されるんだ」といって自分勝手な放縦の生活をするなら、それは、人生のつまずきになる、ということも覚えていてください。
 
2 残された者
 
 そして、この「神様の選び」と関連して、パウロは、5節で「恵みの選びによって残された者がいます」と書いていますね。 この「残された者」とか「残りの者」という言葉は、英語では「レムナント」と言いますが、非常に大切な聖書の用語です。 「残された者」というと、余りものとか、置いてきぼりにされてしまったものというような印象がありますね。日本では「残り物には福がある」と言いますが、聖書では、どのような意味で使われているかというと、「残された者」とは、「神様が、ご自分の計画のために残しておられる者」という意味なんです。ある方は、「残された者」という言葉を「取って置きの者」と言い換えました。大変いい言葉ですね。神様は、御自分のために「取って置きの者」を用意されているというのです。そして、私たち自身も神様の「取って置きの者」なのだと教えているのですね。
 旧約聖書を読むと、この「残された者」たちがどのような者かがわかります。神様は、人を造り、豊かな愛をもって守ってくださいました。しかし、人は、「神様なんていらない」といって神様に背を向け、自分勝手にふるまい、堕落し、自ら滅びに向かう状態に陥ってしまいました。しかし、そうした中においても、神様を心から敬い、畏れ、礼拝する残りの者がいたのです。ヘブル人への手紙11章を見ると、そういう取って置きの人たちのリストを見ることができます。アベル、エノク、ノア、アブラハム、ヨセフ、モーセ、そして、たくさんの預言者たちが出てきます。多くの民が神様に反逆して、もう神様に捨てられても仕方がないというときに、必ずこのような取って置きの人物が出てくるのです。
 そして、「取って置きの者」の最高峰は誰でしょうか。それは、私たちの救い主として来てくださったイエス・キリストです。すべての人を照らすまことの光なる方です。真っ暗な闇を照らす光として来てくださった救い主イエス様こそ、真の「取って置きの者」なるお方なのです。
 そして、このイエス・キリストを信じ受け入れる私たち一人一人が、神様の恵みによって、「残された者」「取って置きの者」とされるのです。神様が私たちを選んでくださったと言うことは、私たちを「取って置きの者」としてくださっているということなのですね。今日、私たちは、どうでもいい余りものではありません。神様の「取って置きの者」として生かされているのです。
 
3 エリヤと七千人の残された者
 
 パウロは、この「残された者」について、旧約聖書のエリヤの出来事を例に挙げて説明しています。
 エリヤは、旧約聖書の第一列王記の17章から登場する北イスラエルの預言者です。当時の北イスラエルの王は、アハブでした。アハブの妻イゼベルは、有名な悪妻の一人です。イゼベルは、バアルやアシェラという偶像を拝み、真の神様に仕えている預言者たちを次々に捕らえ、殺していきました。
 そこで、エリヤは、アハブ王に言いました。「あなたがたはの命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」
 王は、エリヤの言うとおりにバアルとアシェラの預言者たちをカルメル山に集めました。イスラエルの人々も大勢集まってきました。そこで、エリヤは皆の前に進み出て言いました。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」そして、二頭の雄牛を用意させ、二つの祭壇の上に一頭ずつ載せて、バアルの預言者たちに言いました。「さあ、あなた方は自分の神の名を呼びなさい。私は私の神の名を呼ぼう。その時、天から火を降らせ、牛を焼き尽くすことのできるほうが本当の神様なのだ。」
 そこでまず、バアルの預言者たちが、祭壇の前で「バアルの神様、どうぞ火を降らせてください」と一生懸命叫び始めました。しかし、叫んでも叫んでも何も起こりません。エリヤはそれを見て、「あなた方の神様は、どこか旅行にでも行ってるんじゃないのか。それとも昼寝でもしているのか。もっと大声を出さないと起きてくれないのではないか」と嘲って言いました。彼らはさらに興奮して、槍や剣で自分の身体を傷つけ、血を流しながら、「バアルの神よ、どうぞ火を降らせてください。火を降らせてください」と、叫び続けましたが、朝から午後三時頃までずっと叫び続けても、何も起こらないのです。
 さあ、エリヤの番になりました。彼は、主のために築いた祭壇の上にたきぎを並べ牛を載せてから、人々に、その祭壇に水をたっぷりかけるように言いました。祭壇は水浸しです。そして、エリヤは神様に祈りました。「神様、どうぞ私の祈りに答えて、天から火を降らせ、あなたこそが真の神様であることを人々に示してください。」すると、たちまち火が降ってきて祭壇を焼き尽くしてしまったというのです。それを目撃した民は、畏れ、ひれ伏して、一斉に言いました。「こそ神です。こそ真の神です。」そして、エリヤは、バアルやアシェラの預言者たちを一掃してしまったのです。
 しかし、このエリヤの大勝利を聞いたアハブ王の妻イゼベルは、烈火の如く怒り、エリヤを殺そうとしました。それを知ったエリヤは、どうしたでしょうか。大胆にイゼペルに立ち向かったでしょうか。いいえ、意外なことに、エリヤは、恐れて、荒野に逃げ出してしまったのです。カルメル山では、あんなにも大胆に素晴らしい働きをしたエリヤが、その直後に、急に落ち込んでしまったのです。今で言えば、バーンアウト、燃え尽き症候群のような状態になってしまったのです。エリヤは、恐れ、疲れ切って、自分の死を願って「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」と祈るほどでした。第一列王記19章を読むと、本当に惨めなエリヤの姿が描かれています。
 神様は、そんなエリヤを休ませ、食べ物を与え、シナイ山に導いて、エリヤに語りかけて言われました。「エリヤよ。ここで何をしているのか」と。エリヤは、答えて言いました。「私はあなたに熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」エリヤは、自分はひとりぼっちだ、自分だけが孤軍奮闘していて、味方は誰もいない、と考えていたのです。
 しかし、神様は、「エリヤよ。おまえ一人が奮闘しているわけではない。わたしはイスラエルの中に、真の神を信じる人々を七千人残してある。また、おまえの後継者として、エリシャという者を用意している」と言われたのです。エリヤは、自分一人で頑張ってやってきたと思っていました。しかし、エリヤの背後には、七千人もの人たちが準備されていたというのです。
 考えてみてください。あのカルメル山でエリヤとバアルの預言者たちが対決した時、聖書には書かれていませんが、残された七千人が、エリヤのために背後で祈っていたに違いありません。預言者エリヤ一人だけが脚光を浴びましたが、実は、神様は、取って置きの七千人を用意してくださっていたのです。
 私たちは、時々、「自分一人で何でもやってきた」と考えることがあります。でも、本当にそうでしょうか。もしそう考えると、思うようにいかない現実にぶつかったとき、ショックが大きいですね。出来る人ほど、そのように考える傾向があります。しかし、私たちの信仰生活の背後には、多くの支えがあり、多くの残された者がいるのだと聖書は教えているのです。
 私は、この教会に遣わされてから三年間、国内開拓伝道会という団体からの支援を受けていました。この会の創設者は、アメリカの人のプールという方です。プールさんは、最初は自分が宣教師として日本に来て伝道しようと思っていたのですが、言葉の壁が大きな問題となりました。そこで、彼は考えたのです。「私が自分で日本に宣教に行くよりも、日本人の牧師の開拓伝道の働きを金銭面で支援するほうがいいのではないか」と。彼は、アメリカで仕事をし、その収入を、日本の一度も会ったことのない開拓伝道中の牧師たちのために捧げていきました。そして、その輪が広がり、国内開拓伝道会という組織ができたのです。
 このプールさんが、一度、小田原に来られたことがあります。駅に出迎えると、すぐに私を見つけ、私の名前を呼んでくださいました。プールさんは、いつも日本で開拓伝道している人たちの写真を見ながら祈っていたので、実際にお目にかかる前から、私の顔も名前もよく覚えてくださっていたのです。
 この城山教会が建て上げられた背後には、こうしたプールさんのような「取って置きの方たち」の祈りと支援があったのですね。
 皆さん、エリヤは、孤軍奮闘し、ひとりぼっちという感覚に襲われました。「私が頑張っても無駄だった。私が殺されたら、もはやこの国に一人も神様を敬うものがいなくなる。神様は、決して選びの民を見捨てないというけど、私が死んでしまったら、見捨てられてしまうのではないだろうか。まさに滅びる寸前ではないだろうか」というような思いを持っていたでしょう。しかし、神様は、「いや、違う。恵みの選びによって残されている者がいるのだ」と約束してくださっているのです。
 
 今、孤軍奮闘しているように感じている方がおられるかもしれません。しかし、あなたの背後に多くの神様の選びの器が、取って置きの人たちが用意されていることを忘れないでください。
 そして、自分自身も神の選びの器、取って置きの者とされていることを覚えながら、今週も歩んでいきましょう。