城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一二月六日             関根弘興牧師
           ローマ人への手紙一一章一一節〜三六節
 
 ローマ人への手紙連続説教27
  「測りがたい神の計画」
 
 11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
  25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。29 神の賜物と召命とは変わることがありません。30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
  33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(新改訳聖書第三版)
 
 先週から、イエス様の降誕の時(クリスマス)を待ち望む待降節(アドベント)に入りました。イエス様が来てくださったことの意味とその大きな愛を覚える時となりますように。
            
 さて、毎回ご説明していますが、この手紙の9章から11章までは、ユダヤ人のことについて書かれています。先週は、11章の前半を読みましたが、こんな質問が出てきましたね。「神様はご自分の選んだ民であるユダヤ人たちを見捨ててしまわれたのではないですか」という質問です。
 当時のユダヤ人たちは、「私たちは神様によって選ばれた民だ」と自負していました。しかし、実際に彼らの置かれていた状況はどうだったかというと、エルサレムのあるユダヤ地域はローマ帝国に支配されていました。また、多くのユダヤ人たちは世界各国に離散して生活していました。「神様に選ばれた王のもとで力ある独立国家を持つ」という理想には、ほど遠い状態だったのです。それで、パウロのもとにやってきたユダヤ人の中にも異邦人の中にも「神様は、ユダヤ人たちを見捨てしまわれたのではないか」という質問を投げかける人たちがいたようです。
 それに対して、パウロは、「神は、ご自分の民を決して退けられない」とはっきり書いていましたね。そして、神様は、ご自分の救いの計画を実現するために、「残された者たち」、つまり、「取って置きの者たち」を備えてくださっているのだと説明していました。
 
 今日は、その続きです。今日の箇所には、神様がまずイスラエルの民をお選びになったこと、そして、異邦人にまで救いが及んだことの背後には、神様の計り知れない深い知恵があるのだということが記されています。
 旧約聖書に書かれているように、神様はイスラエルの民を選び、救いのご計画を示してくださいました。そして約束通りに、救い主が来てくださいました。イスラエルの純粋な子孫は自分たちだけだと自負するユダヤ人であっても、それ以外の異邦人であっても、誰でもイエス・キリストを主と告白して信じ受け入れるなら、神様と親しい関係の中に招き入れられる、と約束されています。
 しかし、この手紙が書かれた当時、イエス・キリストをまことの救い主として認めないユダヤ人たちが大勢いました。彼らは、ローマ政府を倒してイスラエル王国を再建してくれる王を求めていたからです。また、ユダヤ人たちは、自分こそ神に選ばれた民であると自負していたのに、イエス・キリストから罪や傲慢さを指摘されて、怒り、反発し、遂には、十字架につけてしまったのです。
 しかし、それは、すべての人の罪の贖いのために神様が計画しておられたことでした。イエス様は、十字架上で死ぬことによってすべての人の罪の贖いを成し遂げ、三日目によみがえって、御自分が死を打ち破り、すべての人に新しいいのちを与えることのできるまことの救い主であることを証明されました。そして、ユダヤ人の中にも異邦人の中にもイエス様を信じるクリスチャンたちが生まれていったのです。
 ですから、パウロは、すべては神様のご計画の中にあるのだ、と言うのです。33節に「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」と書いていますが、神様は、すべての人が救われることを願っておられ、そのために私たちには到底理解できないような深遠なご計画を立てておられるというのですね。
 
1 神の深いご計画
 
 パウロの同胞であるユダヤ人の多くは、救い主イエス様を受け入れようとせず、かえって攻撃しました。しかし、パウロは、は、今日の箇所で、そのユダヤ人たちの「つまずき」「違反」にも神様の深いご計画があるのだと説明しています。
 11節にこうありますね。「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。」パウロは、10章19節でも旧約聖書の言葉を引用し、こう記していましたね。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる」と。
 ユダヤ人たちは、「自分たちこそ一番神様に愛されている」と考えていました。確かに、神様は、まず彼らを選び、聖書や律法を与えて救い主を迎える準備をさせ、イエス・キリストの福音もまず最初に彼らに伝えられました。しかし、彼らは、福音を受け入れようとせず、かえって、福音を伝える人々を迫害しました。迫害されたクリスチャンたちは、世界中に出て行き、その結果、福音が異邦人にも宣べ伝えられるようになり、多くの異邦人が福音を信じて救いの喜びに満ちあふれ、神様をほめたたえるようになったのです。そして、パウロは、その異邦人の姿を見たユダヤ人たちが、「あいつらは、私たちの神様に向かって、天のお父様!なんて馴れ馴れしく祈ったり、賛美したりしている。私たちの神様なのに、あの異邦人たちに神様を取られてしまった。こりゃ大変だ。なんとかしなければ!」と、ねたみを起こし、結果的に神様に立ち返るようになるのだ、これが神様の知恵だ、と記しているのです。
 12節では「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう」と記していますね。ユダヤ人たちは、神様に背を向け、イエス様を受け入れようとしないという違反や失敗を犯しました。パウロは、そのことで心痛め、どれほど涙を流したかわかりません。それどころか何度となく同胞からの迫害を受けていました。それでも、パウロの見方は、徹底して前向き、肯定的です。「今のユダヤ人の現実を見ると本当に悲しいけれども、ユダヤ人たちが福音を拒否したことによって、異邦人たちに福音が伝わっていったとするなら、将来、ユダヤ人たちが福音を信じて神様に立ち返るときには、どんなにすばらしいことが起こるだろう」、そう考えると、パウロの中にどれほど大きな希望があふれてきたことでしょう。
 そして、15節には、「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう」と記しています。また、25ー26節で「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです」とも記しています。
 神様は、すべての人が救われて真理を知ることを願っておられます。ですから、パウロは、「今は頑なですべてを拒んでいるような状態にいるユダヤ人たちも、いつかは救われて新しいいのちに生きることができる」という希望を持つことができました。
 といっても、もちろん、これはユダヤ人がみな自動的に救われるということではありません。ユダヤ人であろうと異邦人であろうとイエス様を信じて受け入れることによって救われます。パウロは、将来、ユダヤ人たちもイエス様を信じて救われるようになると期待しているのです。どんなにユダヤ人たちから拒絶され迫害されても、パウロは、決してその希望を捨てませんでした。「神様は選びの民を決して見捨てることはない」と確信していたからです。
 使徒の働き16章に記されていますが、パウロとシラスがピリピの町で伝道していたとき、不当にも逮捕され、鞭で打たれ、投獄されてしまいました。真夜中ごろ、二人が神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、大地震が起こり、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまったのです。驚いてやってきた看守は囚人たちが逃げてしまったと思い、自害しようとするのですが、パウロが大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と止めました。看守が「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねると、二人は答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と。
 これこそがパウロの確信なんです。主イエスを信じることは、その人だけにとどまらず、そのまわりの人々にも広がっていくということですね。でも、これは、自分が信じれば家族も自動的に救われるという意味ではありません。先週お話ししたとおり、あなたがイエス様を信じたということは、あなたが家族にとって「残された者」「取って置きの者」とされたということです。だから、そこには豊かな希望があるのです。
 パウロは、自分をあざけり、迫害し、殺そうとする同胞たちについて、「神は、恵みによって、彼らの失敗さえも異邦人への富と変えてくださるのだ。だから、彼らが本当に心を変えて悔い改め、神に立ち返る時には、ものすごくすばらしいことが起こるのを見ることができるだろう」と記していますね。でも、私たちは、自分にちょっと反対する人、批判する人がいれば、すぐに腹を立ててしまいがちです。そして、「ああ、主よ。あの人はもう駄目です。取り除いてください」と短気を起こしてしまうような者ですね。しかし、神様は、私たちのような短気な方ではないのです。
 聖書のものの見方は基本には、「神様の知恵は、私たちの知恵を遙かに超えてすばらしい」ということが大前提としてあります。ローマ8章28節には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書かれています。私たちには理解できないような苦しみや試練や失敗が襲ってくることがあります。しかし、私たちは、私たちよりも遙かに知恵に富み、すべてを支配しておられる神様の御手の中で生かされているのですから、神様のみわざに大きな希望を持つことができるのですね。
 
2 つぎ木された人生
 
 パウロは、異邦人である私たちがクリスチャンになったのは、「つぎ木されたようなものだ」と記しています。「異邦人は、野生種のオリーブである。栽培されたオリーブ(イスラエル)の枝が良い実を結ばないので、神様は、その枝を切って、替わりに野生種のオリーブの枝をつぎ木された。そして、つぎ木された野生種のオリーブは良い実をたくさん結んだ。しかし、だからといって野生種のオリーブの枝は、決して自分を誇ることはできない。なぜなら、枝は、台木の根が吸収した栄養分をもらっているおかげで実が結べるのだから」というのですね。
 つまり、パウロは、同胞であるユダヤ人たちのことを思いながら、一方で「異邦人クリスチャンたちよ、決して自分を誇ってはいけない。あなたがたは、つぎ木された枝にすぎないのだ」と釘を差しているわけです。
 神様は、すべての人に救いをもたらすために、まず、イスラエル民族をお選びになり、彼らを通して、ご自分の愛とまことと力を示し、また、彼らの子孫から、救い主イエス様を誕生させてくださいました。つまり、イスラエル民族の歴史の土台の上に、異邦人たちの救いの道が開かれたということが言えるです。ですから、異邦人が「ユダヤ人は神様から捨てられた枝だ。私たちのほうが偉いんだ」などと考えて。もし自分を誇るようなことがあるなら、それはよくないことだとパウロは言っているのです。
 人間の癖の一つは、高慢です。自分の力を誇り、いつのまにか、自分の力で救いを達成したかのような思い上がりを持つことがあるのです。しかし、私たちは、自分の力によってクリスチャンになったのではありません。一方的な神様の恵みによってつぎ木されただけです。ですから、互いの信仰を比べたり、優越感に浸って人を見下したり、逆に自己卑下をしたりするのは愚かなことです。私たちは皆、つぎ木された者であり、台木の根っこから吸収した栄養をもらって生きているのです。
 ですから、パウロは22節で「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです」と記しています。
 パウロは、ここで「神のいつくしみの中にとどまっている」ことが大切だと教えていますね。「神のいつくしみの中にとどまる」とは、自分の力の限界を知り、自分では自分を救うことが出来ない、実も結ぶことが出来ないことを知ることなんです。だから、根からの栄養が必要です。その栄養を受けて成長していくのです。
 神様は私たちに必要な栄養を十分に与えてようとしておられます。その神様の大きな愛と知恵の中に生かされ、聖書の言葉を自分の栄養として受け取っていく必要があるのです。神様は御自分が育てておられるオリーブの木に私たちをつぎ合わせてくださいましたが、それは、私たちが神様のいつくしみの中にとどまり、豊かな実を結ぶためなのです。
 その一方で、パウロは、「倒れた者の上にあるのは、きびしさです」と書いていますね。これは、ユダヤ人たちのことを指していますが、異邦人も神様のいつくしみの中に留まっていなければ切り落とされるとパウロは警告していますね。神様の一方的な恵みといつくしみにとどまることをしないで、自分で自分の救いを全うしようとするなら、枝である必要がありません。枝が「私は台木から養分をもらう必要などありません。私は自分でやっていけます」という高慢な態度を取るなら、切り落とされてしまうというわけです。それには、きびしさを感じるでしょう。しかし、選択するのは、私たち自身なのです。
 そして、もし切り落とされても、「もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです」と約束されていますね。ユダヤ人であっても異邦人であっても、私たちがあらためて神様に信頼しようとするなら、神様は、必ず、もう一度、つぎ木し直してくださるのです。
 
 さて、今まで9章から11章までの内容を何回かに分けてお話してきましたが、そこにはパウロの同胞であるユダヤ人に対する愛と彼らに対する神様の真実が記されていましたね。
 私たちも神様のいつくしみの中で生かされていることを深く覚えていきましょう。お互い自分自身を振り返ると、かつては不従順な者でした。「神なんかいるものか」などと神様に敵対していた者でしたね。それが今、神様のあわれみによって赦され、生かされ、こうして礼拝を捧げる仲間とされています。私たち一人一人が、神様の測りがたいご計画の中に置かれているということをぜひ覚えていてください。私たちの人生を神様が導いてくださっているのです。神様は愛なる方です。真実な方です。あわれみ深く恵みに富む方です。神様の知恵と知識は、測り知ることのできないほど深く、その神様が一人一人に立てておられる計画は将来と希望を与えるためのものです。私たちは、この神様のいつくしみの中で生かされているのです。
 今日の箇所の中で、特に、心に刻んでいただきたい言葉があります。それは、29節の「神の賜物と召命とは変わることがありません」という言葉です。これは、9章から11章までの内容の結論の言葉です。
 神様は救い主イエス様を遣わし、私たちを招いて永遠のいのちを与えてくださいました。これは、すばらしい賜物です。そして、この賜物は、決して変わることがありません。神様が私たちを招いてくださった選びも決して変わることがないのです。
 イスラエルの民の多くは、イエス様を拒否しました。だから、捨てられて、それで終わりなのでしょうか。そうではありません。パウロは、彼らもいつか神様に立ち返るときが来ることを信じ期待し、希望を告白しました。神様の計画はすべての人にとってすばらしい計画であるはずだからです。そのすばらしさは、計り知ることができません。
 私たちにはわからないことがたくさんありますが、キリストによって選び出され生かされていることのすばらしさを味わい、底知れず深い豊かな神様の知恵を知識に信頼して歩んでいきましょう。また、神様の恵みによってつぎ木された者として、謙遜に感謝しつつ生きていくことにいたしましょう。