城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年一月一〇日             関根弘興牧師
             ローマ人への手紙一二章一節〜二節
 
 ローマ人への手紙連続説教28
    「霊的な礼拝とは」
 
 1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(新改訳聖書第三版)
 
 クリスマス、年末、元日が過ぎ、今週からまた、「ローマ人への手紙」から説教させていただきます。
 以前にもお話ししましたように、この「ローマ人への手紙」は、大きく三つに分けることができます。まず1章から8章は、イエス・キリストによって与えられる「救い」について体系的に教えている箇所です。次の9章から11章は、「神の民イスラエル」の問題について書かれています。そして、最後の12章から16章は、「クリスチャンは、どう生きるべきか」という実際の生活や倫理の問題が扱われています。今日から、この最後の部分に入ります。
 この箇所は、まず最初に「そういうわけですから」という言葉で始まっていますね。11章までには、神様の真実、愛、いつくしみ、恵み、そして、素晴らしい約束について書かれていました。すべては、私たちに惜しみなく与えられています。だから、その土台の上にたって、私たちはどのように生きていくべきか考えていこう、というわけですね。
 そして、これから、具体的な指針を読み進めていくわけですが、忘れないでいただきたいことが二つあります。
 第一に、順序が大切だということです。
 最初に1章から11章があって、その上で、12章以降へと繋がっているということです。まず、神様の豊かな愛と恵みと赦しを味わい、神様との親しい関係を回復しましょう。そうすれば、その結果として、今度は、私たちの具体的な生活がそれにふさわしく整えられていくのです。この順序が大切なのですね。
 ところが、どうも、この順序を逆にしてしまう人がいるのです。「一生懸命に立派な行いをし、クリスチャンらしく生きないと、神様に認めてもらえらいのではないだろうか」というふうに考えてしまうのです。でも、そのような生き方は辛いですね。できない自分を責め、絶えず不安や恐れを感じてしまいます。そして、多くの人が、「やっぱり私は立派な生き方なんてできません」と言って、離れていってしまうのです。しかし、聖書の教える信仰生活とは決してそのようなものではありません。
 思い出してください。この手紙の5章には何と書いてあったでしょうか。「私たちがまだ弱かった時、まだ罪人であった時、いや神様に敵対していた時にさえ、なお神様は私たちに愛を注いでくださり、イエス・キリストを救い主として遣わしてくださって、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与え、救いを完成してくださった」と書かれていましたね。これが私たちのスタートです。私たちは、そういう神様の大きな愛と恵みの上に立って、クリスチャンとしての生き方を考えていくのです。
 イエス様も、マタイ11章28ー30節で、こう言っておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
 イエス様は、「まず、わたしのくびきを負ってついて来なさい。ちゃんとついて来られたら重荷を下ろしてもよろしい」と言われたのではありません。そうではなくて、「まず、わたしの与える救いを受け取り、重荷を下ろして休みなさい」と言われたのです。その後で、イエス様のくびきを負って、イエス様の模範に従って歩んで行くように教えておられるのですね。しかもイエス様のくびきを負うことは、決して重荷や苦痛ではなく、たましいに安らぎを得ることができるのです。なぜなら、イエス様のくびきとは、神様を愛し、互いに愛し合いながら生きることだからです。
 さて、第二に覚えておいていただきたいことは、時間がかかるということです。
 神様の愛や恵みを知って救われたら、私たちはすぐに聖書の教えるような生き方をすることができるようになるかというと、そうではありませんね。
 冬になるとスキーやスノボーをされる方がいるでしょう。スキーをするために、どうしても必要なものがあります。スキー道具と雪です。しかし、道具と雪があれば簡単に滑れるかというと、そうはいきません。練習や経験が必要です。練習し、いろいろなコースを経験していくうちに、少しずつ上達していくわけです。
 私たちのクリスチャン生活も同じです。私たちは、イエス・キリストによって素晴らしい永遠の救いが与えられています。それは、決して変わることがありません。そして、実際の生活の場でイエス様の恵みを味わいながら歩んでいくわけです。でも、時には転ぶことがあるでしょう。なかなかうまく滑れなくて悩むこともあるかもしれません。しかし、キリストによって赦され、愛され、生かされ、喜びながら生活していくうちに、少しずつ生き方上手になっていくのです。
 では、以上の二つのことを心に留めながら、12章からの内容を読んでいくことにしましょう。
 今日の箇所には、まず、クリスチャンとして生活していく上での基本姿勢が教えられています。詳しく見ていきましょう。
 
1 神に受け入れられる、聖い、生きた供え物
 
 1節に「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」とありますね。これが、私たちのクリスチャン生活の基本です。
 「こりゃ、まずいぞ。今日の説教は、ずっと聞いていると大変なことになりそうだ。牧師は、教会のために何でもささげろ、って言うんじゃないか。まず財布の紐をギュっと締め、気をつけて聞かねば!」そんな風に思わないでくださいね。また、「私は、神様に何かをささげるために来たのではなくて、神様から何かいただきたいと思って来ているんですけど」という人もいるかも知れませんね。でも、どうぞ安心してください。今日の箇所には、一人一人の人生を豊かにする秘訣が書かれているのです。
 「ささげる」というのは、神様にゆだねるということです。自分で自分を握りしめ、自分の力でなんとかしようとするのではなく、神様にゆだね、神様の御手の中で育まれていく、ということです。ちょうど赤ちゃんがお母さんの懐で憩うように、私たちは永遠の神様の懐に憩うことができるのです。神様は、一人一人にとって、何が最善かをご存じです。また、最善のことを行う知恵と力を持っておられます。伝道者の書3章11節には、「神様のなさることは、すべて時にかなって美しい」と書かれています。それならば、その神様にゆだねて生きるのが最も確実で安心な生き方ですね。
 ところで、今日の箇所で、パウロは「あなたがたのからだをささげなさい」と書いていますね。なぜあえて「からだ」という言葉を使っているのでしょうか。
 実は、当時、猛烈な勢いでキリスト教会を脅かしていた教えがありました。グノーシス主義といわれるものです。これを説明するのはなかなか難しいのですが、簡単に言うと、「物質は悪で、魂や霊は善だ」という思想なんです。彼らの考えでは、「からだは物質だから悪だ」ということになります。つまり、人間は「からだ」という悪に包まれているというわけです。だから、彼らは、「人間の魂や霊という善を、からだという悪の牢獄から解放することが救いなのだ」と考えたのです。そこから、二つの考え方が生まれてきました。一つは、禁欲主義です。「肉体の欲望を押さえて、からだの中にある魂や霊を解放する」という考え方です。そして、もう一つは、快楽主義です。「どうせ、からだは悪なんだから、欲望のまま快楽にふければいいではないか。その隙に魂を解放しよう。大切なのは魂なのだから」という考え方です。いずれにしても、からだと魂や霊とを切り離して、こちらは悪、こちらは善という二元論的な考え方をしていたのです。当時、このような思想が流行していました。
 そのような中で、パウロは、「あなたがたのからだを、ささげなさい」と言ったのです。それを聞いて驚く人もたくさんいたでしょう。「悪であるからだを神様にささげるとは、どういうことですか」というわけです。
 しかし、本来は、私たちのからだも魂も霊もすべては神様が造ってくださった善いものだと聖書は教えています。それなのに、私たちもグノーシス主義の人たちのように間違って、「からだはどうでもいい、心が大切だ」というように考えてしまうことがありますね。それで、パウロは、あえて「あなたがたのからだを、ささげなさい」と言っているのです。
 では、からだをささげるとは、どういうことでしょうか。それは、私たちの毎日の生活そのものを神様にゆだねて生きていく、ということです。家で洗濯をしている時、会社へ行っている時、学校にいる時、食事をしている時、そういう毎日の生活そのもののすべて、営みのすべてを神様にゆだねて生きるのです。そうすると、毎日の生活の中で、何が生まれてくるでしょう。実に具体的な祈りが生まれてきます。そして、毎日の日常の中に神様が共に歩んでくださることを知ることができるのです。
 皆さん、パウロは、ここで「立派な行いを神様にささげなさい」とは決して言いませんでした。また、「特別な神秘的な経験を神様の前にささげなさい」とも言いませんでした。「からだをささげなさい」と言ったのです。私たちのからだは、いつも丈夫であるわけではありません。弱さがあります。時には失敗もあります。気落ちしてうなだれてしまう時もあります。からだとはそのようなものです。完全な人など誰もいません。でも、そんな私たちのからだをささげるということは、神様に自分のありのままを、毎日の生活そのものを、ゆだねるということなのです。「これを人生の基本姿勢にしなさい」とパウロは言っているのですね。
 そして、ささげるときには、三つの意識を持ってささげることが必要だというのです。
 
@神に受け入れられる供え物として
 
 神様は、完全に義なる神様です。ですから、いかなる罪も受け入れることができません。私たちは皆、罪がありますから、本来は、神様に受け入れていただくことはできない存在でした。しかし、神様は、私たちを愛しておられるので、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。キリストは、罪のない方なのに、私たちの身代わりに十字架にかかり罪の罰を受けてくださったのです。それによって、私たちは罪のない者と認められ、神様に受け入れられる者とされました。
 ですから、「自分を神に受け入れられる供え物としてささげる」というのは、何か立派な行いをするとか、落ち度のない生活をするということではなく、イエス・キリストによる救いを信じ、受け取った者として生きていくということなのです。
 
A聖なる供え物として
 
 「あなたは聖なる者ですか」と問われたら、きっと大抵の人は、「とんでもない。聖にはほど遠いですよ」と言うでしょう。
 しかし、パウロは、いつも手紙の中でクリスチャンたちに「聖徒たち」と呼びかけ、「あなたがたは神様の前に聖なる者とされたのだ」と教えています。
 「聖」とか「聖い」という言葉を聞くと、何かとても立派で高潔な感じがしますが、聖書で使われている「聖」という言葉は、元々は「分離されている」とか「区別されている」という意味があります。つまり、「聖なる者」「聖徒」とは、「この世から区別され、神様の専用品となった者」「神様にささげられた者」という意味なのです。ですから、クリスチャンは皆、「聖なる者」であり、「献身者」なのですね。
 パウロは、「神様の専用品とされていることを自覚し、神様に人生をささげたものとして生きていこう」と勧めているのです。
 
B生きた供え物として
 
 では、「生きた供え物」とはどういう意味でしょうか。
 創世記2章7ー8節にこう書かれています。「神は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」この「生きものとなった」とは、「応答可能な者となった」いうことです。私たちは、ロボットのように自分の意志を持たず、ただ神様が操作されるままに動いているわけではありません。神様は、私たちに自由意志を与え、神様に向かって自由に願い、求め、感謝し、賛美することのできる応答可能な者として造ってくださいました。私たちは、自分の意志を用いて、神様の愛の呼びかけに応答しながら生きていくのですね。それが生きた供え物をささげるということです。
 
2 霊的な礼拝
 
 私たちは、イエス様の十字架と復活によって成し遂げられた救いを受け取ることによって神様に受け入れられる者となることができました。そして、神様の専用品として、神様の愛に自発的に応答しながら人生をゆだねて生きていくことができます。そして、そういう自分自身をささげることこそが「あなたがたの霊的な礼拝です」とパウロは言っていますね。
 この「霊的な礼拝」とはどういう意味でしょうか。
 まず、「礼拝」と訳される言葉は、ギリシャ語では「奉仕する」という言葉からうまれました。「神様への奉仕」それが礼拝だというわけですね。英語では「service」と言います。礼拝は神様へサービスだというわけです。ときどき、こうおっしゃる方がいますね。「私は、何の奉仕もできなくて、礼拝に出席するだけですみません」と。それは大いに考えを変えたほうがいいですね。なぜなら、礼拝こそ神様へのすばらしい奉仕だからです。ネット中継を通してであろうが、どこであろうが、私たちが「神様、あなたをあがめます」と礼拝をささげるそのこと自体が、すばらしい神様への奉仕なのです。
 そして、その礼拝の中身は「ささげること」です。赦され、生かされ、神様の専用品とされたことを感謝し、賛美をもって私たち自身をささげるのです。そのような礼拝の姿こそ、「霊的な礼拝」なのだとパウロは言うのですね。
 でも、「霊的」と言われてもぴんと来ませんね。何か超自然的な現象を想像する方もおられるかもしれません。
 実は、この「霊的な」と訳されている言葉は、原文では「理にかなった」という意味です。新改訳聖書2017では「ふさわしい礼拝」と訳されています。私たちが「神様。私は、私のすべてをあなたにささげ、おゆだねします」と告白し、礼拝することは、人にとって最も理にかなった姿、人にもっともふさわしい姿だとパウロは記しているのです。
 ともすると、私たちは自分の利益だけを考え、仕えるより仕えさせようとし、脚光を浴びることを求め、自分が中心でないと気が済まないという状態に陥ることがあります。でも、それは、決して理にかなった生き方ではないというのですね。私たちの人生にとって「最も理にかなった生き方」、それは、私たちを造り、愛し、最善をなしてくださる神様にすべてをゆだねて、「神様。あなたこそが私の人生の主です」と告白しつつ、心からの礼拝をささげていく中にあるのです。これが、クリスチャンとしての基本姿勢です。だから、私たちは何よりも礼拝を大切にするわけです。
 
3 心の一新
 
 しかし、実際にクリスチャン生活を送っていると、「確かに、神様に人生をゆだね、ささげていくことは、理にかなっているのかもしれないけれど、なかなかそういうふうにできない」と思ってしまうこともあるでしょう。
 そこで、パウロは2節で、「この世と調子を合わせていけません。心の一新によって自分を変えなさい」と勧めています。
 この「調子を合わせる」という言葉は、「外側を変える」という意味です。周りの顔色を見て自分を変えるカメレオンのような生き方です。これは疲れるんです。そして、「この世と調子を合わせてはいけません」とある「この世」とは、「神様なしの秩序」という意味です。つまり、パウロは、「クリスチャンよ。神様なしの秩序の中でまわりに合わせようとするんはやめなさい。神様の愛と恵みをしっかりと見つめて生きていきなさい」と勧めているのです。
 そして、そのために、「心の一新によって自分を変えなさい」とパウロは言います。ここで「心」と訳されている言葉は、「感情」ではなく、「思い」とか「考え方」とか「意志を用いた理性」という意味の言葉です。英語だと「マインド」です。つまり、パウロは、「理性を用いて意志的に自分の考え方を変えていきなさい」と勧めているのです。もちろん、その背後に、聖霊なる神様の大きな助けがあります。
 ある人がこんなことを言っていました。「クリスチャンは、あまり自分で考えることをしない。ただ信仰、信仰と言うだけで何も考えない」と。しかし、それは誤解です。私たちは、自分の心で、自分の理性で、神様から与えられたすばらしい恵みをよく考えること、熟慮することが大切です。神様がどんなにすばらしいことをしてくださったかということを、理性的にじっくり考え、整理し、味わうのです。そして、「神様に愛されている者として自信をもって進んでいこう」と意志的に自分を変えようとしていくのです。信仰に生きるときに、こうした意志的な理性の決断や判断はとても大切です。そうでなければ、信仰が、その時その時の状況や感情に翻弄されてしまうことになるでしょう。問題が起こったときや、「神様は私を見捨てられたのではないか」と思えるときにも、意志的、理性的に神様の愛と恵みを思い起こし、神様の言葉に信頼して進んでいくことが大切なのです。
 そして、この「心の一新によって自分を変えなさい」の「変える」という言葉は、「メタモルファー」という言葉です。これは、さなぎが蝶に羽化するときに使う言葉です。醜いさなぎがきれいな蝶に変わる、そのような劇的な変化を指している言葉なのですね。
 世界は変わっていきます。いろんな秩序、枠組みというものは変わっていきます。歴史は変わります。人々の考え方も変わっていきます。しかし、決して変わることのないイエス・キリストの恵みの中で、聖霊の助けを受けつつ、思いを新しく変えていきましょう。そして、神様に礼拝をささげること、これが私たちの人生にとって最も理にかなったことであることを覚え、この週も一歩ずつ歩んでいきましょう。