城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年一月一七日            関根弘興牧師
             ローマ人への手紙一二章三節〜八節
 
 ローマ人への手紙連続説教29
   「キリストにある器官」
 
 3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。(新改訳聖書第三版)
 
 先週は、12章の1節と2節から、私たちが人生を神様におゆだねして礼拝をささげることが、人として最も理になかった姿である、ということを学びました。
 また、「この世と調子を合わせてはいけない」ということについても学びましたね。「この世」というのは「神様なしの秩序」という意味です。また、「調子を合わせる」とは、周りに合わせて色を変えるカメレオンのような生き方のことです。パウロは、「神様なしの秩序に合わせるような生き方はやめなさい」と注意したわけです。
 そして、パウロは、「心の一新によって自分を変えなさい」と勧めました。ここで「心」と訳されている言葉は、「思い」とか「考え方」「意志的な判断」という意味です。神様が愛してくださり、赦してくだり、いつも共にいて、必要を備え、導いてくださる、と聖書は約束しています。だから、私たちは、聖書が伝える神様の約束をしっかりと熟慮し、意志的に自らの思いや考えを変えていくことが大切だということなのです。それは、自分の力だけでは難しいかもしれませんが、私たちが意志を働かせていくとき、聖霊が助けてくださいます。
 さて、今日は、その続きの3節から8節までを読みました。今日はこの箇所から、自分や人をどのように評価すればいいのかということ、また、お互いの存在の意味について御一緒に考えていきましょう。
 
1 互いに正当な評価をする
 
 今日、最初に考えたいのは、「お互いに正当な評価をしよう」ということです。3節にこう書かれていますね。「あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」まず、この言葉について考えてみましょう。
 
(1)思い上がらないように
 
 当時の教会の中には、自分を過大評価して、うぬぼれている人たちがいたようです。思うべき限度を越えて思い上がっていたのですね。そして、たびたび、人を見下すような態度をとっていたのでしょう。パウロは、そのような姿を戒めているのです。
 私たちは、毎週、礼拝で「主の祈り」を祈ります。これは、イエス様が私たちに教えてくださった祈りです。この祈りの後半部分は、人間の姿をよく表しています。
 まず、「日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りがありますね。それを聞いて、「冗談じゃないよ。そんな惨めな祈りができるか!私は自分の糧は自分で得ている!」と思う人がいるかもしれません。しかし、よく考えてみると、目の前にある糧の一つを取ってみても、神様の介入や助けなしには、自分の力で得ることはできないのです。
 また、「私たちの罪をお赦しください」という祈りがあります。この「罪」という言葉は、本来は「負債」と訳されるものです。私たちは、神様にいろいろなものを借りて、借りっぱなしの状態になっている、しかも、自力で返済することが不可能な状態、破綻した状態なんですね。でも、神様は、その負債をすべて御子イエスに肩代わりさせることによって、私たちの負債を全額免除してくださいました。だから、私たちも他の人の負債を赦す者としてくださいと祈るのです。
 それから、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈ります。私たちは悪しき誘惑に陥りやすい者です。だから、助けが必要なのです。守りが必要なのです。
 神様は、私たちに日ごとの糧を与え、赦し、助け守ってくださる方です。ですから、私たちは「主の祈り」の最後に、神様に向かって「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものです」と告白するのです。「自分の誇れるものなど何一つない。栄光はすべて神様にあるのです」という告白です。この祈りを心から祈るたびに、私たちは、神様の御前で、謙虚になることができるのです。
 ところが、自分を過大に評価し、思うべき限度を越えて思い上がっている人は、「私の信仰は立派だ。私が熱心に求めたから、神様は私に力を与えてくれたのだ。それに比べて、あの人たちは、なんと信仰の弱い連中だ」というような傲慢な心をもって批判的な態度を取っていたのです。
 パウロは、第二コリント12章9節で、「私は自分の弱さを誇る。なぜなら、キリストの力は、弱さのうちに完全に現れるからだ」と語りました。讃美歌にあるとおり、「主、われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ」なのです。主にある一人一人は、自分を誇るのではなく、自分の弱さを覆ってくださり、共にいてくださる主を誇ればいいのです。思い上がる必要などありません。
 
(2)信仰の計りに応じて
 
 そして、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」とありますね。この箇所は、新共同訳聖書では「信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と訳されています。これは、どういう意味なのでしょうか。
 先週は、スキーのお話をしました。スキーは、道具と雪があればできます。でも、最初から上手に滑ることができるわけではありません。初めてゲレンデに立った時は、スキーで滑っているのか、おしりで滑っているのかわからないほど、ぎこちないものですね。でも、滑っているうちにだんだんと身についてくるわけです。
 信仰生活もそれと似ています。イエス様を救い主と信じて、罪の赦しと永遠のいのちを受け取って新しい人生のゲレンデに踏み出すわけですが、初めは、戸惑うことが多いわけです。聖書に何が書いてあるのかもよくわからないし、神様の姿も漠然しかわからない。しかも、晴れの日もあれば、吹雪のような時もあるし、平坦な滑りやすいコースもあれば、でこぼこの難コースもあるわけです。でも、とにかく、いろいろな経験を積みながら、聖書の言葉に信頼してバランスを取りながら生きていくコツが少しずつ身についていくのです。信仰は年数で決まるものではありませんが、信仰に生きる経験を積み重ねていく中で、私たちは、神様の愛の深さ、広さ、高さがどれほど人知を越えて素晴らしいかを知り続けていくことができるのです。
 そういう意味で、私たちが信仰に生きていくとき、実際の生活の中でそれぞれに違いが出てきても当然なわけです。
 パウロは、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」と言っていますが、それは、つまり、急斜面を綺麗に滑ってこられる人が、初心者コースで転んでばかりいる人を見下してはいけないし、逆に、まだ、あまり上手に滑れない人が、急斜面を滑れる人と自分を比べる必要もない、ということなのです。また、上手に滑れる人が、「俺は上手だから、どんな場所でも大丈夫」と思い上がって自己過信するなら、それは事故の元だと警告しているわけですね。
 大切なのは、神様が、それぞれにすばらしい信仰を与えてくださっているということです。それぞれが神様とのまっすぐな関係を持ち、愛され、赦され、この人生を生きていくことができるということなのです。だから、その恵みによって、お互いを見ていきなさい、とパウロは勧めているわけです。
 どうぞ、皆さん。人と比べるのではなく、神様が与えてくださった信仰によって自分を見てください、評価してください。そして、自信を持ってください。今日、私たち一人一人は、神様に愛されている存在なのですから。
 
2 お互いがキリストのからだの器官であることを認める
 
 そして、パウロは、「私たち一人一人が与えられた信仰によって慎み深く考えていくとき、到達する姿がある」と教えています。それは、一人一人がキリストのからだの器官として生かされているという姿です。
 からだの器官は、それぞれが自分の働きをしながら、互いに仕え合っています。もし、一つの器官が思うべき限度を越えて何かを始めたら、大変なことになります。鼻が口の真似をしたらどうでしょうか。目が鼻の真似をしたらどうなりますか。もう大変なことになります。
 ある本に、「手」に関することが書かれていました。手の指は、みな長さが違いますね。親指は太くて短いし、小指は細いです。もし、五本の指がみな同じ長さになったら、どうなるでしょう。細かい作業などとてもできないというわけです。指の長さがみな違うからこそ、丸いものが手の中に収まるわけです。そう考えてみると、何一つ無駄なものはないし、ちゃんと計算されているわけです。創造者なる神様のすばらしい知恵ですね。 それと同じように、私たちは皆違うのですが、違うからこそ良いのだとパウロは記しているのです。違うからこそ、それぞれがキリストのからだの一部とされているのです。
 ある人が悪口で「クリスチャンは、みな同じように見える」と言いました。でもそうでしょうか。私たちは、皆が同じユニフォームを着ているわけではありません。また、同じ性格を持っているわけでもありません。もちろん、祈りや賛美のスタイルは同じ教会の中にいれば似てくることはあります。でも、教会に集っている一人一人のことを考えると、「本当にみんな違うんだなあ」といつも感じます。行動派の人もいれば、慎重派の人もいる、話好きの人もいれば、無口の人もいるわけです。みんな違うのです。でも、これが大切です。まねをする必要はありません。
 地震の時、ブロック塀が倒れて惨事を引き起こしたことが時々報道されますね。同じものを積み重ねたブロック塀はとても脆いのです。しかし、お城の石垣は地震にも強いと言われています。もちろん、巨大地震が起きたら一部が崩れることもあるでしょうが、ブロック塀に比べたら、はるかに頑丈です。それは、一つとして同じ石がないからだそうです。大きい石もあれば、隙間を埋める小さい石もある、一つ一つ違う石が互いに組み合わされて頑丈な石垣を作るのですね。
 つまり、違うものが集まると、非常に力強いものになるということです。ですから、違いがあるということは感謝すべきことです。違うのがいいのですから、教会の中で互いに比較し合うことはまったく不要です。神様は、それぞれ違う一人一人を選び、キリストのからだを建て上げてくださっているのです。
 もし、あなたが教会に来て、「私とだいぶ違う人がいるな」と思ったら、喜んでください。キリストのからだである教会は、同じ人たちが集まっているのではなくて、違いのある人たちが一つに集められているのですから。
 ただ、違いがあることによって、時には教会の中でお互いに軋轢を生じることがあるかもしれません。教会は、決して天使たちの集まりではありませんからね。でも、大切なのは、お互いが「私たちたちは、キリストにあって一つのからだである。それぞれが違う器官なのだ」ということを認め合い、違いを喜んでいくことです。私たちは、違いのわかる者になりましょう。人の真似をする必要などありません。私たちは主のからだの一部であり、一人一人が大切な器官なのです。それで十分ではありませんか。
 私は、神学生の時、有名な伝道者の真似を熱心にしたことがあります。寮の部屋に大きな鏡があったので、その鏡を見ながら、有名な伝道者のスタイルを研究しました。「よし、今日はビリー・グラハムに挑戦しよう」などと言って、聖書の持ち方や手の振り方、口調などをまねするわけです。しかし、ある時、こんな思いが与えられました。「世界中でビリー・グラハムは一人だけでいい。関根弘興、お前も一人だけでいいんだよ。」もちろん、私たちは、いろいろな人から大切なことをたくさん学ぶことができますし、それは必要なことです。訓練されることも大切です。でも、イエス様は、私たちが人の真似をしたり、人と比べて何かをするということを望んではおられません。なぜでしょうか。一人一人がキリストのからだの大切な一部であるからです。それぞれが必要とされているんです。そのことを誇りとしつつ歩んでいきましょう。
 
3 与えられた賜物を主のために用いる
 
 そして、パウロは、6節で、「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っている」と書いていますね。神様は、一人一人に異なった賜物を分け与えてくださっているのです。今日の箇所には、預言する、奉仕をする、勧めをする、分け与える、指導する、慈善を行うなどが書かれていますが、その与えられた賜物を用いていこう、とパウロは勧めていますね。
 しかし、これを読んで、「私には、無理だ。このリストに該当するものが一つもない」と思ってしまう方がいるかもしれませんね。でも、賜物は、クリスチャンの数だけ与えられているものなのです。一人一人に何かしらの賜物が与えられています。それを自覚していないことが多いだけなのですね。
 すると、今度は、「それじゃ、自分の中にどんな賜物があるのか、探そう」と考える方も出てくるでしょうね。しかし、あえて言わせていただきますが、自分の中の「賜物探し」のようなことはしないでください。なぜなら、自分で賜物を探そうとすると、勘違いをすることも多いからです。これが自分の賜物だと思い込んだが、実はそれは勘違いだったということも結構あるのですね。ですから、「私の賜物はこれこれです」なんて、決めつけないほうがいいでしょう。そうではなく、今与えられ、任され、置かれている場で自分らしく誠実に生きていくとき、自覚するしないにかかわらず、あなたの賜物が生かされていくのです。
 私は、今、牧師をしていますが、いったい中学、高校の同級生の何人がこのことを想像できたでしょう。私は、内気な性格でしたし、人前で話すなんてしたことがなかったのです。私が小学校で人前に出たのは、学芸会で手品をした時だけです。しかし、今、私は牧師として人前に立って大胆に説教を語らせていただいているのですね。
 ある人は、自分で勝手に「自分は何もできない」とか「自分はどんな奉仕にもふさわしくない」と思い込んでいるのです。
 聖路加病院の日野原先生が、「高齢化の時代を迎えて、どう生きていけばよいのか」という質問にこう答えておられました。「高齢者たちが、自分たちはまだまだ分数の分母の役割を担うことができる、ということを知ることです。まだまだ使われていない脳細胞はたくさん残っていますからね。自分たちにはまだまだやるべきことがたくさんある、ということを知ることが大切なんですよ。だから、私は与えられた今日という一日を精一杯生きていこうと思うんです。今を生きる過程の中で死はあるんですからね。そしてその傍らに、いつも心安らぐ音楽を持っていようと思うんです。」
 「それぞれが分母の役割を担うことができる」、これは、パウロが言う「恵みによってそれぞれの賜物を生かして歩んでいきなさい」ということに通じることだと思うのです。
 私の母は、病気になって殆ど動けなくなったときも、この城山教会のために祈ってくれていました。母は、祈ることによって分母の働きをしたのだなと思います。 
 誰もが必要とされているのです。神様は、一人一人に自覚するしないにかかわらず賜物を与え、それぞれが生かされている場所で用いてくださっています。それは、小さな小さなことかもしれません。何気ない笑顔かもしれません。ほんのひと言かもしれません。
 そして、是非知っておいていただきたいのは、一人一人の存在そのものが神様の賜物だということです。私たち一人一人が神の作品として存在している、それは素晴らしい賜物ですね。 ですから、人と比べるのではなく、自分をことさらに卑下するのでもなく、自分自身の存在そのものが賜物であることを大切にしていきましょう。