城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年一月二四日            関根弘興牧師
           ローマ人への手紙一二章九節〜二一節
 
 ローマ人への手紙連続説教30
    「行動の指針」
 
 9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(新改訳聖書第三版)
 
 今日は、12章の後半です。
 思い出していただきたいのですが、前回読んだ12章の前半には、クリスチャンとしての基本姿勢が書かれていましたね。それは、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」ということでした。イエス・キリストの十字架と復活によって、赦され、きよめられ、新しいいのちによって生かされ、神様との親しい関わりの中で愛と恵みの中に生きる者となったことを感謝し、自分自身の人生をまるごと神様にゆだね、神様の専用品とされていることを喜びながら生きていきなさいということです。そして、それこそ、私たちにとって最も理にかなった礼拝なのだとパウロは言っていましたね。
 また、私たちは、一人一人がキリストのからだの器官とされています。皆、違いますが、違うからこそいいのです。からだは、それぞれの器官が自分の役割を果たし、互いに仕え合うとき、健康が保たれていきます。ですから、一人一人が大切な存在であり、自分の役割を果たしていけばいいのです。人の真似をしたり、人と比べて自己卑下したりする必要などありません。
ここまでが、前回までの内容でした。
 今回は、その基本姿勢を踏まえた上で、クリスチャンの行動の指針とも言えることが記されています。詳しく見ていきましょう。
 まず、9節に大きな二つの指針が示されていますね。一つは、「愛には偽りがあってはならない」ということ、二つ目は「悪を憎み、善に親しむ」ということです。この二つの指針に沿って今日の箇所を見ていきましょう。
 
1 愛には偽りがあってはなりません。
 
 この「偽り」という言葉は、「風を装う」「ふりをする」「見せかける」という言葉です。演劇で役を演じる俳優にも用いられた言葉です。俳優は、悪をただす正義の味方を演じたかと思ったら、今度は極悪非道の役も演じるわけですね。しかし、パウロは、愛は、演じることではない、ふりをすることではない、と言っているのです。では、偽りなく愛するためには、どうしたらいいのでしょうか。
 イエス様は、律法のすべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」という問いに対して、こうお答えになりましたね。
「一番たいせつなのはこれです。・・・『われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12章29節ー31節)このイエス様の言葉から、偽りのない愛を持つために大切な二つのことを考えましょう。
 
@心、思い、知性、力を尽くして愛する
 
 まず、神様を、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、愛せよ」とありますね。これは、感情だけでなく、意志や理性や知性や実際の行動も用いて愛しなさいということです。
 私たちは、ともすれば「愛」とは感情だと誤解してしまうことが多いのではないでしょうか。誰かに対して愛という感情が湧いてこないと、「私はあの人を愛せない。聖書には、偽りがあってはならないと書いてあるから、無理に愛しているふりをするのは良くないし。でも、心から愛せない私は、クリスチャン失格だ」というふうに自分を責めてしまうことがあります。しかし、大切なのは、感情がどうであろうとも、まず、愛そうとする意志を働かせることなのです。意志を働かせて行動すれば、感情はあとから付いてきます。そして、意志を働かせるためには、理性や知性を用いて、正しい情報を得、正しい判断をすることが大切なのです。
 神様をただ感情だけで愛しているなら、その愛はとても不安定なものになるでしょう。調子のいいときには、「神様を愛します」と喜んで言えるのに、何か問題が起こると、「神様なんて信じられない。もうどうでもいい」などとなってしまいます。でも、そういう時にこそ、理性や知性を用いて、神様の愛や恵みを思い巡らし、聖書に書かれている神様の約束を思い起こし、この神様を信頼し続けようと決断し、神様を信頼する者として行動していくことが大切なのです。
 人を愛するのも同じです。「愛が湧いてこないから愛せない」ではなく、愛そうという意志をもって進んでいくのです。感情だけに頼る愛は不安定です。愛しているつもりで、実は、相手のためにならないことや、相手の望んでいないことをしてしまうこともよくありますね。理性や知性を用いて、聖書の教えを思い起こすことや、相手にとって何が最善なのかを判断することも、真実の愛には必要なのです。
 
A順番が大切
 
 私たちがもう一つ気をつけなければならないのは、順番が大切だということです。イエス様は、一番大切なのは、神様を愛すること、次に大切なのは、自分自身と同じように隣人を愛することだと言われましたね。まず、神様を愛すること、つまり、神様の愛の深さを味わうことが大切なのです。この順番が狂うと、私たちの愛は律法的になって、自分の力でできないのに愛さなければならないと無理をしたり、偽ったり、苦痛を感じたりすることになるのです。
 第一ヨハネの手紙4章19節に「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」とあります。まず、神様の愛の深さ、広さ、高さを思いを尽くし、知性を尽くして思い起こし、その豊かさを味わいましょう。私たちは、神様に愛されていることを知るからこそ、愛に生きる者と変えられていくのです。自分に愛があるふりをするのではなく、正直に生きようではありませんか。「神様、私は自分の力では愛することができません。どうぞ愛を満たしてください。そして、私を愛することのできる者へと変えていってください」と神様に祈り、ゆだね、期待しながら、主の愛の中にとどまり続けていきましょう。
 
 さて、以上のことを踏まえて、今日の箇所でパウロが教えていることを見ていきましょう。
 
(1)神様を愛する
 
 11節ー12節に、神様を愛することの具体的な勧めが書かれています。
 まず、11節に「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」とありますね。この「勤勉で怠らず」とか「絶えず励みなさい」という言葉を読むと、ドキっとしますね。特に、私などは「勤勉」という言葉に拒否反応が出てしまいます。しかし、この「勤勉」と訳されている言葉は、「熱心」とも訳せます。また「霊に燃え」と書いてありますね。つまり、私たちが主に仕えて生きるとき、そこに燃える熱いものがあるか、ということなのです。
 前回もお話しましたが、「礼拝」には「奉仕」「サービス」と言う言葉が用いられます。「主に仕える」の中心は、「神様を礼拝する」ことなのです。今日も私たちはいろいろな方法で礼拝をささげていますが、どうでしょうか。賛美をささげているとき、心に熱いものが湧いてきませんか。主の愛について、また、約束のみことばについて語られるのを聞くとき、「主よ、感謝します。あなたを信頼します」という告白が出てきませんか。主の愛が一人一人を覆ってくださっていることを覚えるとき、心が熱くなってきますね。その礼拝の姿こそ、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕える」姿なのです。私たちは、打ち上げ花火のようにポーンと一瞬燃えたかと思ったら消えてしまうのではなく、じわじわと目立たなくても内に燃える心を持ちながら、礼拝をささげ続けていきましょう。
 また、12節に「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」とありますね。クリスチャンでも、人生には様々な患難があります。しかし、どんな中でも神様の変わらぬ愛と恵みを感謝し、神様の約束を信頼して望みを抱いて喜び、祈りの中で神様のつながりを確認しながら忍耐強く歩んでいきましょう。それが、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして神様を愛する姿なのです。
 詩篇121篇には、「主はあなたを守る方。主はあなたを今よりとこしえまでも守られる」「主は、すべてのわざわいから、あなたを守られる」とはっきり約束されています。ローマ5章5節には、「私たちの希望は「失望に終わることはない」と約束されています。また、ローマ8章37節には、私たちは最終的に圧倒的な勝利者となるという約束もあります。
 キリスト教会の歴史の中で、特にパウロがこの手紙を書いたローマ帝国の時代に、クリスチャンにとっての最も大きな患難は、迫害でした。多くのクリスチャンが迫害により命を奪われていきました。しかし、どんな迫害もず、クリスチャンたちを撲滅することは出来ませんでした。彼らは迫害の中で天を見上げ、永遠を見つめ、生涯を閉じていったのです。迫害によっても希望を失うことはありませんでした。また、迫害があったにもかかわらず、多く人たちがクリスチャンになっていったのです。クリスチャンに与えられた希望を奪い去ることのできるものは何もないのですね。
 パウロは、ローマにいるクリスチャンたちの苦境を知っていました。だから、希望を持ち、患難に耐え、祈り続けるようにと勧めたのです。私たちの人生にも何が起こるかわかりませんね。今、苦境に立たされている方もおられるでしょう。でも、だからこそ、希望をもち、忍耐し、祈ることによって、励ましと慰めを受け取り、神様を愛し続けていきましょう。
 
(2)隣人を自分と同じように愛する
 
 それから、パウロは今日の箇所で「隣人を自分と同じように愛する」ことについて具体的にいくつかのことを教えています。
 
@相手を尊敬する
 
 まず、10節に「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と書いてありますね。
 ローマ帝国が支配していた当時の社会は、階級制がはっきりしていました。ローマ市民権を持っている人々と持っていない人々との間には大きな差がありました。貴族もいれば、奴隷もたくさんいました。交通が発達していましたから、いろいろな国の人たちもいました。そして、いろいろな職業の人もいたのです。そういう人々がキリストを信じて教会に集まってきたわけです。ですから、当時の教会は、大変面白いメンバー構成だったはずです。高い地位の人もいれば、奴隷もいる、金持ちもいれば、貧乏な人もいる、ローマ政府に仕えている人もいれば、ローマに反対している人もいたでしょう。そんな彼らが、主にある兄弟姉妹として集っていたわけです。キリストの福音は、この世の価値観を覆してしまうほどの麗しい力がありますね。
 私たちも、様々な違いのある者同士が集められています。しかし、キリストにあって兄弟姉妹とされ、それぞれが神様から与えられた賜物と使命をもって、互いに助け合う者とされているのです。ですから、お互いを自分にはない素晴らしいものをもっている人と尊重しなさい、とパウロは教えているわけです。
 
A相手の必要を満たす
 
 13節に「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい」とありますね。これは、互いに助け合い、もてなし合い、歓迎し合いなさい、という勧めです。教会とは、そういう場なのですね。
 
B相手と同じ立場に立つ
 
 そして、15ー16節には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません」とありますね。
 キリストのからだの器官として一つにされている仲間として、ともに喜び、悲しむのです。ただ、「泣く者と共に泣く」というのは、割合簡単にできるのですが、「喜ぶ者と共に喜ぶ」というのは、なかなか難しいですね。人が喜んでいる姿を見ると、ねたみやひがみが出てきて、素直に喜べないことがあるからです。例えば、誰かが成功していると、思わず「神様。何であの人が成功しているんですか」「私のほうが成績が良かったじゃないですか。私のほうが努力したじゃないですか」などと思ってしまうわけです。
 当時の宗教家たちは、聖書や神様に関する詳しい知識を持っていました。しかし、彼らが取税人や罪人と呼んで軽蔑していた人々がイエス様を信じて喜んでいる姿を見て、共に喜べなかったのです。彼らは、「自分が正しい。自分のほうが神様のことをよく知っている」という高ぶった思いを持っていたために、他の人を見下し、共感することができないどころか、批判ばかりしていたのです。
 もし教会の中に、主の恵みを共に喜べない姿があったら、なんと寂しいことでしょう。もし、お互いの存在を喜び合うことができないなら、その集まりは、重く暗い雰囲気に変わってしまうでしょう。
 といっても、私たちは弱く、共に喜べないとき、悲しめない時もあります。そのときは、先ほどお話ししたことを思い出してください。あえて意志や理性や知性を働かせて相手の成功を喜び、相手の悲しみを思いやることが大切なのです。その過程で、神様が自分を心から共に喜び、悲しむ者へと成長させてくださることを期待していきましょう。
 
2 悪を憎み、善に親しみなさい。
 
 さて、今日の箇所の二つめの指針は、「悪を憎み、善に親しみなさい」ということです。21節には、「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」と書かれていますね。具体的にどうすればいいのでしょうか。
 
(1)敵の祝福を祈り、必要な助けを与えるる
 
 14節に「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」とありますね。「祝福する」とは、神様が相手にとっての最善を行ってくださるよう祈ることです。
 イエス様は、マタイ544節で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。この「敵」とは、自分と立場の違う人と考えてよい言葉です。そう考えると、私たちには敵がたくさんいますね。考え方や行動の基準が合わない人はたくさんいるわけです。時には、意見を戦わせることもあるでしょう。そんな時にも相手の最善を願うことが大切です。また、20節にあるように、相手が必要としているものを与えることによって積極的に愛を示していくことが、最終的に悪に打ち勝つことになるというのです。
 
(2)神様に任せる
 
 そして、19節に「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」とあります。
 相手が悪意を持って何かしてきたら、こちらも同じ悪で報いる、これが一番簡単な方法です。やられたらやりかえすのですね。それが決して問題の解決にならないことは、頭では分かっているのですが、実際に自分が傷つけられたときは、やりかえしたくなりますね。私はよく映画を見ますが、リベンジ(復讐)ものが大好きです。悪い奴は懲らしめられると気分がスカッとするわけです。
 しかし、パウロは、自分で復讐するのではなく、神様に任せなさい」と教えます。そして「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」と記しています。これは箴言20章22節の引用です。「『悪に報いてやろう』と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。」
 不本意なことがあるでしょう。悔しい思いをすることもあるでしょう。ドラマや映画のようにスカッと解決することがないかもしれません。しかし、私たちは、「主があなたを救われる」という約束を信じ、最善の解決を期待しましょう。
 
 さて、今回のような箇所を読むと、いつも思い出す人物がいます。「わたしの隠れ場」という本を書いたコーリー・テン・ブームというオランダ人の女性です。コーリーは、第二次大戦中、ユダヤ人たちを自宅にかくまったために、ナチスの強制収容所に入れられ、過酷な生活を強いられましたが、終戦後、戦争によって精神的な痛手を受けた人々のために施設を作り、神の愛と赦しを説いて各地を回るようになりました。ところが、ある集会で話し終えた時、一人の男が、感激の笑みを浮かべて近づいてきました。それはなんと、収容所でコーリーたちを苦しめた残虐な看守たちの一人だったのです。彼は、「あなたが言われたように、イエス様が私の罪を洗い流してくださったことを思うと、嬉しくてたまりません」と言って握手を求めてきました。ところが、コーリーの心には激しい怒りと復讐したいという思いが湧き上がってきました。コーリーは、心の中で必死に祈りました。「イエス様、私はこの人を赦すことができません。どうか、あなたの赦しを私に与えてください。」そして、コーリーが思い切って彼の手を取った時、コーリーの心に相手への愛があふれてきたというのです。コーリーはこう書いています。「主が私たちに『敵を愛せよ』と言われる時、その命令に添えて、愛そのものをも与えてくださるのです。」
 
 イエス様は、十字架につけられたとき、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23・34)と祈られました。イエス様は、悪に対して溢れる愛をもって打ち勝たれたのです。そのイエス様の姿を仰ぎ見つつ、今週も歩んでいきましょう。