城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年一月三一日             関根弘興牧師
            ローマ人への手紙一三章一節〜一四節
 ローマ人への手紙連続説教31
   「社会とキリスト者」
 
  1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。  11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(新改訳聖書第三版)
 
 以前にもお話ししましたように、このローマ人への手紙は、三つの部分に分けることができます。1章から8章は、イエス・キリストによる「救い」について、9章から11章は、「神の民イスラエル」の問題について、そして、12章から16章は、「クリスチャンとしてどう生きるべきか」という実際の生活や倫理の問題について書かれています。今は、その最後の部分を何回かに分けて学んでいるところですね。
 12章には、クリスチャンとしての基本姿勢や行動の指針が記されていました。前回読んだ12章後半には、大切な行動の指針が二つ記されていましたね。一つは「愛には偽りがあってはならない」ということです。感情だけでなく、意志も思いも理性も知性も行動もすべてを働かせながら、神様を愛し、また、互いに愛し合い、互いの最善を願っていこうということでした。そして、もう一つは、「悪を憎み、善に親しむ」ということです。最終的な正しいさばきは神様にお任せして、自分と立場や意見の違う人、自分に敵対する人に対しても、善を行っていこうということでしたね。
 さて、今日は、その続きで、13章全体を読みましたが、ここには、終末の時代に生きるクリスチャンとしてどのように生きていったらいいかということが書かれています。三つの部分に分けて見ていきましょう。
 
1 国家との関わり
 
 まず、1節から7節には、私たちと国家との関わりについて書かれています。当時は、ローマ帝国が広大な領土を持ち、多くの国々を属国として支配していました。そのローマ帝国に対して、反旗を掲げる過激分子や反政府グループが各地に現れました。ユダヤ人の中にも、特に、ガリラヤ地方などには過激分子が多かったといわれます。彼らは、「神様以外には王はいない」「神様以外に貢ぎ物をしたり、税金を納めるのはナンセンスだ」と叫びました。そして、「俺たちは武力でローマ帝国に抵抗するぞ」と武力蜂起をしたこともありました。クリスチャンになった人々の中でも、一部の極端な人たちは、ローマ帝国に対して武力で総決起すべきだと主張していたようです。
 そのような背景もあったので、パウロは、12章18節以下で次のように書いたのではないかとも言われています。「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。 善をもって悪に打ち勝ちなさい。」パウロは、過激な人たちに対して、このように言って、自重を促したのでしょう。
 また、新約聖書には取税人がたびたび登場しますね。ローマ政府のために税を取り立てる仕事をしていた人たちです。ユダヤ人たちは、彼らを「ローマの犬」と呼んで軽蔑していました。自分たちを不当に支配するローマ政府に税金を納めるなど、神様や祖国に対する背信行為だと考えていたからです。そして、クリスチャンの中にも、同じように感じていた人たちがいたようです。また、「私は神の国の一員だから、この地上のことは関係ない」と言って、社会的な責任や義務を放棄してしまう人もいたようです。
 そこで、パウロは、今日の箇所では、二つのことを教えています。一つは、1節の「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」ということ、そして、もう一つは、7節の「みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納めなさい」ということです。
 今日の説教は、まるで国税庁からの回し者かと言われそうな内容ですね。ちょうどこれから税金の申告の時期ですからね。タイムリーな説教?かもしれませんね。
 でも、パウロがここで教えていることは、パウロが独自に考えたことではなく、イエス様御自身の教えに基づいているのです。
 マルコの福音書12章にこんな出来事が書かれています。ある時、イエス様のもとに、パリサイ人とヘロデ党の者がやって来ました。ヘロデ党というのは、ローマの共鳴者です。ローマ政府の宣伝広報係みたいなものです。これに対して、パリサイ人というのは、ヘロデ党と真逆で、強烈なユダヤ愛国主義者です。この水と油のような両者が、イエス様を陥れようとして手を結んだのです。彼らは、イエス様にこう質問をしました。「カイザル(ローマ皇帝)に税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」この質問には巧妙な罠が仕掛けられていました。もしイエス様が「カイザルに税金を納めるべきだ」と答えたら、「何だ。イエスは救い主だと言っているが、結局、ローマ政府の手先ではないか。あんなやつの話などあてにならん!」とパリサイ人たちが批判するでしょう。逆に、もしイエス様が「カイザルに税金を納めるべきではない」と言ったら、すぐに「イエスは、ローマ政府に従わない反乱分子だ」とヘロデ党の者が訴えるでしょう。つまり、どちらの答えでも、イエス様を訴えることができるというわけです。ところが、イエス様は「デナリ銀貨を持って来なさい」と言われました。そして、彼らが銀貨を持ってくると、「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」とお尋ねになったのです。彼らが「カイザルのです」と答えると、イエス様は言われました。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」これは大変有名な言葉ですね。「カイザルのものはカイザルに返す。神のものは神に返す。これが私たちが社会の中で生きる上での原則だ」とイエス様は教えられたのです。ですから、もちろんパウロもそのことを大前提として手紙を書いているわけです。
 私たちは、はっきりと二つのことを自覚しなければなりません。一つは「神の国の一員」としての自覚です。そして、もう一つは「この世の国家の一員」としての自覚です。私たちは、神の国と、この世の国という二つのものに属しているのです。
 デナリ銀貨には、カイザルの銘が彫られていました。ですから、イエス様は、「カイザルのものはカイザルに」と言われたわけです。しかし、私たち一人一人には、神様の銘が刻まれています。エペソ1章13節で、パウロは、こう言っています。「あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」私たちは、神の聖霊の証印が押されているのです。ですから、自分が神様のものであることを自覚して生きていくことが大切です。
 それとともに、私たちは、それぞれの国家の一員として生きています。パウロが今日の箇所で「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」と言っているのは、国家の一員としての責任と義務を果たすべきだということです。税金を納めたり、定められた法に従うのは当然だということですね。
 ただ、イエス様が「カイザルのものはカイザルに」と言われたのは、無反省に何の批判も検証もしないで盲目的に従え、という意味ではありません。
 どのような国家も神様の許しのもとに存在していますから、私たちはその一員として従うことが必要です。しかし、一方では、私たちは、神の民として、国家に対する警鐘を鳴らす必要もあるのです。なぜなら、「神のものは神に返す」ことが大切だからです。もし、私たちの神様への礼拝が否定され、無理矢理に別のものを礼拝させられるなら、それは神のものを神に返さないことになります。また、私たちのいのちは神様が与えてくださった尊いものです。ですから、いのちがないがしろにされたり、尊厳が踏みにじられるようなことがあるなら、それは、「神のものを神に返す」ことになっていないのです。
 歴史を見ると、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という原則がゆがめられた国は、方向性を失い、結局、力を失っていきました。
 中世のローマ・カトリック教会の指導者たちは、当時の社会の中で最高の権威をもっていました。しかし、その権威を乱用し、国家と癒着して腐敗し、免罪符というお札を売って利益を得たり、聖書とかけ離れた教えで信徒を支配しようとしていました。いつのまにか、教会さえもが「神のものを神に返さない」姿になってしまっていたのです。それに対して、大胆に抗議の声を挙げたのがマルティン・ルターでした。そして、そこから大きな改革が起こっていったのです。
 私たちは、社会の中で、また、教会の中でも、いつも健全で建徳的な批判精神を持っていることが大切です。もし、神のものが神に返されていないなら、「それは、おかしい」と勇気を持って声を挙げることも必要なのですね。
 そして、第一テモテ2章1節で、パウロは、「国の指導者のために祈りなさい」と書いています。それは、上に立つ人たちが正しい判断をもって政治を行うことができるように祈りなさいということですね。テロや武力ではなく、国のルールを守りつつ、上に立つ人々のために祈ることが大切だとパウロは勧めたのです。それは、教会という組織においても同じです。いつも「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」というイエス様の言葉を判断の基準にして歩んでいきましょう。
 
2 人々との関わり
 
 さて、次にパウロは、8節から、お互い同士の関わりについて記しています。パウロは、イエス様の教えをここでも再び書き記していますね。「互いに愛し合いなさい」「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということです。なぜなら、愛は律法を全うするからだというのですね。律法の様々な規定は、私たちが神様と共に人として最もふさわしい生き方をするために定められたものです。愛に生きることこそ、神の民として生きる私たちに最もふさわしいことなのですね。
 パウロは8節で、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です」と言っています。いい言葉ですね。皆さん、互いに愛し合うことでは大いに貸し借りがあってもいいのですね。時には助けられ、支えられ、時には、逆に励まし、支えることもあるでしょう。愛に生きるとは、「私、与える人、あなた、受け取る人」というような一方通行ではないのです。ある精神科医の方が「自立」ということについてこう語っておられました。「自立とは、何でも一人でできることではなく、貸し借りが自由にできる互いの関係を築くことだ」と。もちろん、その貸し借りというのは金銭のことではなく、時には助けられ、時には助ける、受けるときもあれば、与えるときもある、そのような関係を作るという意味です。パウロ流に言えば、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です」という関係を築くことです。このことをパウロはいつも強調していました。
 そして、10節で、パウロは、「愛は隣人に対して害を与えません」と記していますね。前回、「愛には偽りがあってはなりません」ということばについてお話ししましたが、愛するとは、感情だけに振り回されるのではなく、何が相手にとって最善なのかを冷静に判断することも大切です。何でもかんでも盲目的に相手の要求に応えることが、かえって相手のためにならないこともあるからです。愛は無分別に何かを与えることではありません。相手の最善を願い、時には、厳しい態度をとることもあるでしょう。その時に、相手から「愛がない」と責められることがあるかもしれませんが。
 また、「あなた自身と同じように」愛しなさいとありますね。つまり、まず、自分自身を愛し、いたわることも大切です。自分の限界を超えて相手を愛そうとして無理をすることは、お互いのために決してよくありません。できないときは「できません」と断る勇気も必要です。
 まず、神様に愛されていることを感謝し、いつも相手の最善は何か、自分のできることは何かを知恵を用いて考えながら、互いに愛し合う仲間とされていきましょう。
 
3 キリストを着る
 
 パウロは、この世界が終末を迎える時が迫っているのではないか、と考えていたようです。11節-12節に、こう記していますね。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。」
 聖書は、「この世界は、いつか終わる。そして、その時に、キリストはもう一度来られて、主にある一人一人を天に引き上げ、救いを完成してくださる」と教えています。それと同時に、「その時がいつなのかは誰も知らないのだから、いつその時が来てもいいように備えながら落ち着いた生活をしなさい」とも教えています。
 ところが、「終末が近いなら税金なんて払わなくたっていいじゃないか。神様を認めないローマ政府に従わなくてもいいではないか」と言い出す人がいたり、「もう仕事をしても無駄だ」と言って仕事を放り出してしまう人や、「終末が近いなら、自分の欲望のまま好き勝手なことをしよう」と考えて羽目を外す人たちもいたのです。
 それに対して、パウロは「この世界の終わりは近い。でも、それまでは、この世の社会生活を放棄するのではなく、襟を正して光の子らしく歩んでいこう」と勧めたのです。そして、13節にあるように、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活はやめなさい。そういう生活は、自らを破壊し、滅びに向かうだけだ」と欲望のまま生きることのないよう警告したのです。国が神のものを神に返さない姿勢を続けると滅びに向かうように、私たちもただ自分の欲望の中だけに生きていくと滅びに向かうだけだとパウロは警告したわけですね。
 そして、パウロは14節で、「主イエス・キリストを着なさい」と言っています。
 この言葉は、4世紀の有名な神学者アウグスチヌスが回心するきっかけとなった言葉として有名です。アウグスチヌスは若い時、放蕩生活をしていました。母親のモニカは、いつも涙を流しながら息子のために祈っていました。彼自身も自分の生活がこれではいけないと考えていたのですが、どうしても改めることができませんでした。ある時、彼は庭を散歩していました。善き生活をしようとしても、いつも失敗してしまう自分に失望し、悲嘆にくれていました。「いつまで、いつまで、明日も、また明日も、私の堕落の終わりとならないのか」と叫び続けていたのです。その時、突然、「取りて読め、取りて読め」という声が聞こえました。子供の声のようでした。彼はその言葉が出てくるような子供の遊びを思い出そうとしましたが、何も思い当たりませんでした。そこで、ある友人の腰掛けていた席にすわると、そこにはパウロ書簡集が置かれていました。そこに、このローマ13章13節と14節の言葉が記されていたのです。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」アウグスチヌスは、その著「告白録」の中でこのように述べています。「この言葉を読んだ時、私の人生は変わった。主イエス・キリストを着なさい、という言葉で自分の人生は百八十度変わった。」
 この「主イエス・キリストを着なさい」というのは、何か立派なことをしなさい、修行しなさいということではありません。自分の力で頑張って努力して立派になりなさい、ということでもありません。上着をはおるように、ただ主イエス・キリストを着なさいというのです。衣は寒さやいろいろな攻撃から守ってくれます。そのように主キリストを身にまといなさいということです。それは、一人一人に差し出されている愛の衣です。癒しの衣です。救いの衣です。そして、その衣の故に守られ、暖かさを保ち、生きていくことができるわけです。
 アウグスチヌスは、そのことを発見したのです。自分の内側を変えようとどんなに努力してもできなかったのに、「主イエス・キリストを着なさい」というこの一言で変えられたのです。
 私たちは、主イエス・キリストを救い主と信じたとき、キリストを着る者とされました。一番のおしゃれは、主キリストを着ること、身につけることです。キリストが私を覆ってくださっている、そのことを信頼し、感謝し、喜ぼうではありませんか。
 
 私たちは、この国に生きています。ですから、この国のために祈り、また「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という基本に立って、なずべき務めを果たしながら、互いの最善を願いつつ、キリストの守りの中を歩んでいきましょう。