城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年二月一四日             関根弘興牧師
            ローマ人への手紙一五章一節〜一三節
 
ローマ人への手紙連続説教33
   「望みにあふれるように」
 
 1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。7 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。8 私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、9 また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」10 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」11 さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」12 さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(新改訳聖書第三版)
 
 今日は15章に入りましたが、内容は14章の続きです。
 まず、14章の内容を振り返ってみましょう。パウロがこの手紙を書き送ったローマの教会には、いろいろな人たちが集まっていました。ローマ人も、ギリシャ人も、そして、ユダヤ人たちもいました。世界中から集まった様々な背景の人がいたのです。そして、それぞれ異なった習慣を持っていたので、信仰生活の送り方も様々でした。宗教的に食べてよい物とそうでない物をきちんと区別して生活する人もいれば、何でもかまわずに食べる人もいました。また、ある日を特別な日だと考える人もいれば、どの日も同じだと考える人もたのです。そこで、パウロは、違いがあってもそれぞれが神様に誠実に歩んでいけばいいのだということを教えました。そして、互いにさばき合うことなく、互いを認め合い、愛の配慮をもって歩んでいくことが大切なのだと書き送ったわけです。
 教会に集まる私たちは、信仰生活の長さも、経験もみな違います。理解の度合いも違います。また、いろいろな価値観の違いがあります。でも、皆、神様に愛されている尊い存在なのですね。
 さて、今日の箇所はその続きです。
 
1 パウロの勧め
 
 まず、1ー2節に「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです」とありますね。
 この言葉を読むと、クリスチャンの中に「力のある人」と「力のない人」がいるのかと思ってしまいそうですね。
 もし皆さんが「あなたは力のある人ですか、それとも力のない人ですか」と聞かれたら、きっと「私は力のない弱い者です」と答える人が多いのではないかと思います。ですから、こうした箇所を読むと、ついつい「私は力のない者なのだから、力の強い人が私のために配慮すべきなのだ」と読み込んでしまうこともあるわけです。「私は弱いのだから、教会はもっとこうすべきだ」「私は傷つきやすいのだから、力のある人はもっと私に配慮すべきだ」というふうに考えてしまうのです。そうすると、いつの間にか教会が言葉遣い一つにも気を遣う、まるで、腫れ物に触るかのような雰囲気に支配される場になってしまうことさえあるのです。
 しかし、パウロは、ここで「私たち力のある者」と言っていますね。イエス様を信じているクリスチャンは皆、力のある者だというのです。それは、「スーパーマンのような強靱な人」「何が起こってもびくともしない人」を指しているのではありません。「特別に神秘的な力や不思議な強さが与えられている人」という意味でもありません。パウロが言う「力のある者」とは、讃美歌にあるように、「主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ」ということに頷いて生きている人たちのことなのです。
 パウロは、主の御前で自分が「弱い者」であると同時に、主の力によって自分が「強い者」とされている、という意識をもっていました。それは、私たちクリスチャン一人一人にも言えることなのです。
 パウロには「私は弱い」という自覚がありました。こう書いています。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(第一コリント1・27)「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(第二コリント11・29)
 しかし、同時に「私は主にあって強い」とも告白しているのです。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4・1)「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント12・9)
 ですから、パウロが今日の箇所で「力のある者」と言っているのは、イエス様にあって生かされている私たち一人一人のことだということを理解していただきたいのです。ただし、繰り返しますが、私たちは「弱さ」も持っています。ですから、「自分は力がある」「自分は力がない」とか、「あの人は力がある」「この人は力がない」とか一つの範疇に決めつけてしまうのはよくないですね。
 そもそも教会は力関係など不要な場所です。役割の違いはありますが、それは力のあるなしとは関係ありません。クリスチャンになった年数の違いや、役職があるかないかや、奉仕の働きの違いによって、強いとか弱いとか判断することはふさわしくないのです。私たちはみな弱い存在ですが、イエス様によって強い者とされているからです。
 つまり、パウロは、「誰にでも弱さがある、だから、主に力を与えられながら、互いに弱さを補い合い、互いを喜ばせ、徳を高め合い、相手の益となることをしていこう」と勧めているのです。
 イエス様は、パリサイ人、律法学者と呼ばれていた当時の宗教的指導者たちをよく批判なさいました。彼らは自分たちには力があると考えていました。彼らは「自分たちこそ神様から最も愛されている力のある存在だ」と考えていたのです。しかし、イエス様は、「彼らは自分で自分を喜ばせることしかしない」と言われました。例えば、マタイ6章に書かれていますが、彼らは施しをする時、大げさにラッパを吹き鳴らしました。また、祈る時は、人に見られるように大通りの角に立って祈りました。自分の信仰を見せびらかしたのです。断食をする時は、いかにも「断食をしているぞ」と言わんばかりにやつれた格好をして自分の姿を誇りました。彼らは、自分が脚光を浴び、称賛されること、つまり、自分を喜ばせることにいつも神経を使っていたのです。
 残念ながら、教会の中にも、こうした芽がいつの間にか生えてしまうことがあります。パウロが「自分を喜ばせるべきではありません」と書いているのは、好きな食べ物を食べてはいけないとか、休暇を取って旅行に行ってはいけないとか、趣味を持ってはいけないとか、楽しみをすべて捨てなさい、という意味ではありません。そうでなくて、クリスチャンとして生きていく中で、「私は他の人と違って力があり、立派だ」と自負し、他の人に対して愛の配慮を持たず、ただ自分を誇っている姿を戒めたのです。ちょうど、イエス様が宗教指導者たちを戒めたようにです。
 ローマ教会にも「自分は力がある」と誇っている人たちがいたようです。そこで、パウロは、今日の箇所で、ローマ教会のために二つの祈りをささげています。
 
2 パウロの祈り
 
(1)互いに同じ思いを持つように
 
 パウロは、まず、5-6節で「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです」と祈っていますね。
 私たちが同じ思いを持ち、心を一つにすることができるようにというのです。そのためには、何が必要でしょうか。
 
@忍耐と励まし
 
 私たちの信じている神様は、忍耐と励ましの神様です。神様は、私たちの弱さをよくご存じで、忍耐をもって私たちの成長を見守り、励まし続けてくださいます。だから、私たちも忍耐強く、互いに励まし合いながら進んで行くことができるのです。
 ところで、聖書の教える忍耐とは、ただ耐え忍んでいるということではありません。どんな苦難や困難の中にあっても、神様が共にいて守り導いてくださっていることを信頼して生きていくことです。「確かに今はトンネルの中かも知れない。でも、神様はこの中に私を置き去りにされる方ではない」ということを信じ、歩み続けることです。
 私の卒業した高校は、アイスホッケーがとても強い学校でした。ですから、試合があるとみんなで見に行きました。彼らの試合や練習を見ていると、いつも大声で叫んでいる言葉がありました。それは、「ルックアップ」という言葉です。「顔を上げろ」ということです。手元や足元ばかりを見ていては、正確なパスやシュートができない、顔を上げて全体の状況を常にとらえることが大切なのだ、というようなことなのですね。「ルックアップ」、いい言葉ですね。
 私たちは、問題が起こると、問題ばかりに目を留めてしまいがちです。そして、「ああもう駄目だ」と思ってしまうことがよくありますね。しかし、そこで「ルックアップ」です。
 モーセの生涯を思い起こしてください。モーセはイスラエルの民を導いてエジプトの奴隷生活から脱出させる働きをしました。その途中、彼らが紅海の浜辺に宿営していると、エジプトの軍勢が追いかけて来ました。前には紅海が広がり、後ろにはエジプトの大軍が押し寄せて来ます。絶体絶命のピンチです。モーセはどうしたでしょうか。彼は「ルックアップ」、すなわち、上を見上げたのです。「主を見上げ、信頼していきます」という告白です。すると主は、海の中に道を開いてくださいました。前に進めず後ろに退くこともできない状況の中だからこそ、上を向いて生きる「ルックアップ」ですね。どんな状況でも絶望せずに上を向く、それが、忍耐して生きるということなのです。ですから、忍耐とは、決して消極的な姿でなく、上を見上げて歩む積極的な信仰の姿です。
 そして、神様は、私たちが忍耐して歩むことができるように慰め、励ましてくださいます。パウロは、第二コリント1章4節で、こう書いています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」
 神様に慰めと励ましを受けることによって、今度は、私たちが互いに慰め合い励まし合いながら忍耐をもって、つまり、上を見上げて、共に進んで行くことができるのです。もちろん、それは、簡単なことではありません。様々な経験の中で、神様の慰めと励ましを受け取りながら、忍耐強い者へとされていくのです。
 
A賛美
 
 それから、6節に「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです」と書かれていますね。
 私たちは、互いにさばき合うのではなく、心を一つにして、声を合わせて、救い主キリストを与えてくださった父なる神を賛美していくことが大切です。教会の特徴は、賛美です。もし、教会の中に賛美がなくなったら、もはや教会ではありません。もし、クリスチャンの生活の中に賛美がなくなったら、その生活を点検する必要がありますね。
 詩篇34篇1節で、ダビデはこう歌っています。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」ダビデは決して順調な生涯を送ったわけではありません。次から次へと問題や困難が襲ってきました。しかし、彼は問題のただ中で、神様を信頼し続け、慰めと希望を得ました。ですから、ダビデは「主は苦しみから救い出してくださる。私はあるゆる時に主をほめたたえる」と神様を賛美したのです。
 また、ダビデは、詩篇22篇3節ではこう歌っています。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」神様は私たちの賛美の内に住んでくださる、というのです。「神様は目に見えないのでわからない」と言う方がいます。そういう方は、心から神様をほめたたえてみてください。神様に心から感謝をささげ、賛美をささげるのです。すると何がわかるかというと、神様が共にいてくださることがわかるのです。なぜなら、私たちの神様は、私たちの賛美を住まいとしておられるからです。
 皆さん、主にある私たちは積極的な民です。賛美の中で神様の約束を見いだし、賛美の中で神様の励ましを受け取ることができ、賛美の中で希望を持つことのできる民だからです。
 パウロは、異邦人もユダヤ人も、すべての民が声を合わせて主の御名をほめたたえる姿を見ていました。それはどんなに大きな励ましとなったことでしょう。9ー11節でこう記していますね。「また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。『それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。』 また、こうも言われています。『異邦人よ。主の民とともに喜べ』さらにまた、『すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。』」
 私たちは賛美の民とされています。私たちは議論する民ではありません。さばき合う民でもありません。非難し、批判し合う民でもありません。私たちは心から共に主に賛美をささげる民です。私たちは、職業、身分や立場、学歴の違い、肌の色、財力など様々な違いがあります。しかし、主にある教会では、そんなことは関係ありません。主にあって、私たちは賛美の声を一つに合わせて進んでいく者たちとされているのです。
 
(2)望みにあふれるように
 
 パウロの二つ目の祈りは、「望みにあふれるようしてください」というものです。13節で「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」と祈っていますね。私たちの神様は、忍耐と励ましだけでなく、望みを与えてくださる神様です。「私たちにとっては不可能に見えても、私たちの主にとっては不可能はない」という希望を与えてくださるのです。そこで、パウロは、この望みを与えてくださる神様に何を願ったのでしょう。
 
@信仰による喜び
 
 パウロは、「信仰による喜びを満たしてください」と祈り求めました。信仰とは、主を信頼して生きることです。主の十字架によって罪が赦され、永遠のいのちによって生かされていることを信じて生きることです。また、主がいつもともにいてくださることを信頼して歩むことです。そして、天の御国に移ってからも主と共に永遠に生きることのできる希望を持って生きていくことです。そういう信仰に生きるとき、喜びが湧いてきます。それは、誰も消すことのできない喜びです。パウロは、その喜びがさらに豊かになるようにと祈っているのです。
 
A信仰による平和
 
 次に、パウロは、「信仰による平和を満たしてください」と祈りました。東京駅で小さな女の子が迷子になって泣いているのを見かけたことがありました。迷子になったら不安です。行き先がわからない、どこにいるのかわからないからです。あるべき場所から離れ、いつもそばにいてくれる人から離れてしまったら不安になりますね。
 私たちも、天地を造られた神様に背を向け、神様のもとから離れてしまったら、迷子の状態になってしまいます。目的を見失い、不安と恐れを感じます。しかし、私たちが神様のもとに帰り、神様のふところに憩うとき、必ず平和がやって来ます。本来自分がいるべき場所に帰るなら、本当に安心することができるのです。
 また、平和とは、神様との平和という意味でもあります。私たちは神様に敵対し、神様に恐れを抱いていた者でした。でも、イエス・キリストを信じ、神様との関係が修復されたのです。今では、神様に親しく呼びかけ、神様の愛と恵みを受けながら生きることができます。本当の平和を得ることが出来たのです。そして、そして、その平和は私たちの生活のあらゆる領域に広がっていくものなのです。パウロは、私たちがこの平和に満たされるように祈っています。
 
B聖霊の力
 
 そして、パウロは、「聖霊の力によって望みにあふれさせてください」と祈りました。私たちの信仰生活において、大切なことは、「聖霊なる神様が、イエス様を信じる私たちの内に宿ってくださる。そして、私たちの助け主として、いつも共にいてくださる」ということを確信することです。
 聖霊は、父なる神、御子イエス・キリストと同じ本質も持っておられる方で、私たち一人一人といつも共にいて、助け、励まし、導いてくださる方です。この方が共にいてくださるので、私たちは決して一人ではありません。そして、第二コリント3章18では「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と書かれています。聖霊は私たちの生涯の全ての領域で働いてくださり、私たちを栄光から栄光へと変えてくださるのです。このように素晴らしい望みを聖霊なる神様は私たちに与えてくださいます。この聖霊の力によって、私たちは支えられ、生かされ、変えられていくのです。
 
 今週も、互いに心を一つにし、声を合わせて主をほめたたながら歩んでいきましょう。