城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年三月七日              関根弘興牧師
           ローマ人への手紙一五章二二節〜三三節
 
 ローマ人への手紙連続説教35
    「祈りの要請」
 
 22 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、23 今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行くばあいは、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので、24 ――というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです。―― 25 ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。26 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。27 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。28 それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。29 あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。30 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。32 その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。33 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。(新改訳聖書第三版)
 
 パウロは、現在のトルコにあたる小アジア地方やギリシャ地方に何度も伝道旅行に出かけました。その結果、それぞれの地域に教会が生み出されていったわけですが、このローマ人への手紙は、パウロがギリシャのコリントにあるガイオという人の家に滞在しているときに書いたのではないかと考えられています。
 その当時は、ローマ帝国が覇権を握っていましたから、ローマが世界の中心でした。しかし、この手紙を書いた時、パウロは、まだ一度もローマに行ったことがありませんでした。ただ、ローマに教会ができて、様々な人々が一つになって礼拝をささげているという情報は得ていました。それとともに、ローマ教会の中に問題が起こっているという報告も受けたので、まだ見ぬローマ教会の人々に、この教えと励ましの手紙を書いたのです。
 しかし、パウロは、手紙だけでなく、実際にローマに行って、ローマ教会の人々に直接会って話をしたいという強い願いを持っていました。
 さて、この手紙もいよいよ終わりに近づいてきましたが、今日の箇所から三つのことを御一緒に考えていきたいと思います。第一は、パウロが伝道者として歩み、働きをしていくときに持っていた原則について。第二は、この手紙を書いているパウロの今後の計画について。そして、第三は、そのための祈りの要請についてです。
 
1 パウロの原則
 
 使徒の働き1章8節で、イエス様は、弟子たちにこう言われましたね。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 その言葉の通り、パウロは、当時の地の果てであるヨーロッパの最西端のイスパニヤ(今のスペイン)にまで福音を伝えに行きたいと願っていました。「まだ誰も福音を伝えていない場所に行って福音を伝えたい」という情熱を持っていたのです。
 しかし、パウロは、ただ情熱にかられて闇雲に伝道旅行に出かけていったわけではありません。24節に「というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです」と書いていますね。
 パウロは、一匹狼のように自分勝手に伝道の働きをしたわけではありません。いつも、「私は教会によって送り出されている」という姿勢を持っていました。
 確かに、彼は孤独になったことがありました。鞭打たれ、ひどい迫害を受け、死線をさまようことも何度もありました。しかし、「自分ひとりで世界を変えよう」などと考えたことはありませんでした。いつも、「私を支えていてくれる教会がある」「私を送り出し、私のために祈ってくれている仲間がいる」ということを忘れませんでした。
 使徒の働き13章に書かれていますが、パウロは、最初、アンテオケ教会によって伝道旅行に送り出されました。パウロの伝道の背後には常にアンテオケ教会の祈りと支えがあったのです。
 それと同じように、これからイスパニアに行くときには、ローマ教会によって送り出されたいとパウロは願っていたのです。
 パウロは、どこに行っても大胆に語り、すばらしい働きをしてきました。しかし、彼は、それを自分の功績のように語ることはしませんでした。何かが出来たとするなら、それは「ただ神様に用いられたのだ」という思いと、「私の働きの背後には送り出してくれた多くの教会の仲間の祈りがあるのだ」という思いを持っていたのです。
 人間は成功を重ねると、いつのまにか「自分は何でもできる」と思い込んで、高慢になってしまいがちです。そして、往々にして、自分が得意だと思っている分野で失敗するのです。
 パウロは優秀な人物で、優れた知識や知恵や能力がありました。実際、彼が行く所どこでも大勢の人が集まってきました。彼の話を聞いて多くのクリスチャンが生まれ、多くの教会が誕生しました。
 しかし、彼は、ローマ教会に「私に必要なのは、あなたがたによって送り出されることです」と書き送っているのです。彼は、自分の働きのためには、主にある教会から送り出されること、そして、教会の支えが必要であることを知っていました。
 伝道の働きは、伝道者や牧師個人の働きではありません。伝道者としての召命を受けた人と、その人の召命を理解して送り出す働きをする教会との相互の関係によってなされていくものなのです。
 
2 パウロの計画
 
 パウロは、世界の都ローマに行き、その後、イスパニヤに行きたいと願っていました。ローマは、当時、世界の中心でしたから、ローマを起点として、地の果てにまで福音を伝えたいと願っていたわけです。ただ、今まで何度もローマに行こうとしましたが、行くことができないでいました。
 さて、今、パウロの目の前に二つの道があります。エルサレムに行く道と、ローマ経由でイスパニヤに行く道です。この手紙を書いたコリントは、エルサレムとローマのちょうど中間地点に位置しています。ローマに行くなら、コリントから直接行く方がはるかに楽です。
 しかし、パウロは、まず、ローマと反対方向のエルサレムに行って、そこからローマに向かおうと考えました。だいぶ遠回りをすることになりますね。エルサレムからローマまでは、直線距離で二千三百キロもあるのです。今のように交通機関が発達しているわけではありません。旅をすること自体、大変危険を伴いました。それなのに、パウロは、わざわざエルサレム経由でローマに行こうとしたのです。なぜでしょうか。エルサレムのクリスチャンたちの現状を見過ごすことができなかったからです。
 エルサレムの町では、多くの人が神殿や神殿関係の職業に就いていました。その神殿の実務の大部分を握っていたのは、サドカイ派に属する人々です。サドカイ派の人々は、「イエスこそ最大の敵だ」と思っていました。なぜなら、クリスチャンたちは、「神殿でささげるいけにえの動物によってではなく、十字架で御自身をささげてくださったイエス様によって罪がきよめられる」と言い広めていたからです。
 また、エルサレムには、律法を熱心に守ろうとするパリサイ派と呼ばれる人々がたくさんいました。彼らも、イエスを敵と見なし、クリスチャンたちを迫害しました。なぜなら、クリスチャンたちが、「律法を守ることによってではなく、イエス様を信じることによって救われる」と宣べ伝えていたからです。
 このようにクリスチャンはエルサレムの二大勢力であるサドカイ派とパリサイ派に敵視されていましたから、エルサレムでクリスチャンになった人たちは大変だったことでしょう。神殿関連の仕事をしていた人たちもたくさんいたはずですが、クリスチャンになったという理由で仕事を失ったり、様々な迫害を受けたりしていたでしょう。さらに、それに加えて、ユダヤ地方で飢きんが起こり、その日の生活にも事欠くという事態になっていました。
 ですから、パウロは、エルサレムのクリスチャンたちを助けたいという強い思いを持ち、まず、エルサレムに行こうと決断したのです。
 ただ、パウロがエルサレムに行くのは大変危険であることは誰の目にも明らかでした。パウロは、昔は、熱心なパリサイ派に属する人でした。熱心なあまりクリスチャンたちを迫害していたほどです。ところが、クリスチャンたちを迫害するためにダマスコに行く途中、イエス・キリストに出会い、劇的な回心をしてクリスチャンになり、今度は逆に、キリストの福音を大胆に宣べ伝える人間になってしまったわけです。ですから、エルサレムのユダヤ当局者からすれば、裏切り者の筆頭格です。決して生かしておいてはいけない人物の一人とされていたわけです。もしパウロがエルサレムに行ったら、逮捕され、処刑されるかもしれません。いのちの保障はありませんでした。
 ですから、誰が考えても、パウロがエルサレムに戻るよりも、ローマ経由でイスパニヤに行ったほうが得策に思えました。もちろんイスパニヤも未知な世界ですから、いろいろな困難があるでしょう。けれども、もし行けば、新しい場所に教会ができるでしょうし、明らかにいのちの危険のあるエルサレムに行くよりは、イスパニヤに行くほうが安全だと思えました。
 しかし、パウロは、現在のギリシャにあたるマケドニヤやアカヤ地方の教会の仲間たちが集めた義援金を携えて、エルサレムに向かうことにしたのです。
 パウロは、27節にこう書いています。「彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」
 イエス様の福音はどこから出発したのでしょう。エルサレムのユダヤ人クリスチャンたちからです。エルサレムのクリスチャンたちの大きな祈りと犠牲、そして愛の奉仕があったからこそ、福音は世界中に広がっていきました。つまり、異邦人は霊的なことでエルサレム教会からいろいろなものを与えてもらったわけですね。だから、エルサレム教会が困窮している今、こんどは異邦人教会が物資的な物で彼らを援助することは、当然ではないか、とパウロは言っているのです。
 しかし、別に彼が行かなくても、誰か代理人に持たせてやればいいのではないかと思いますね。しかし、パウロは、自分自身で行くことにしました。なぜでしょうか。それは、自分が異邦人からの義援金をエルサレムの教会に持っていくことによって、これまで何かとぎくしゃくしていたユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンたちに対して、「私たちは互いに主にあって一つとされているのだ」というメッセージを身をもって示すことになると考えたからです。
 ただ、そのためには、どうしても必要なことがありました。それは、仲間の祈りでした。
 
3 祈りの要請
 
 パウロは、30節ー32節で、こう願っていますね。「私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。」
 パウロは、ここで三つのことを祈って欲しいと願っています。
 
@「ユダヤにいる不信仰な人々から救い出されるように。」
パウロは、自分がエルサレムに帰れば、危険が待ち構えていることを十分承知していました。だから、そこから救い出されるように祈ってくださいと頼んでいます。
 
A「エルサレムに対する奉仕が受け入れられるように。」
パウロでさえ、自分が受け入れられるだろうかという不安や恐れを持つことがありました。特に、エルサレムでは、彼は以前大勢のクリスチャンを容赦なく迫害していましたから、今だに、彼に対して疑心暗鬼になったり、こだわりを感じているクリスチャンもいたでしょう。そういう人々に自分の奉仕が受け入れられるよう祈ってくださいと願わずにはいられなかったのです。
 
B「喜びをもってローマ教会に行き、ともにいこいを得ることができるように。」
 
 さて、この祈りの結果は、どうなったでしょうか。使徒の働きを読むと、この三つの祈りは、どれも不思議な方法で実現したことがわかります。
 まず、「不信仰な人々から救い出されるように」という祈りですが、パウロがエルサレムに着くと、予想通り困難が待ちかまえていました。
 彼が神殿にいるのを見た者が、「パウロは神聖な場所を汚している」と言って群衆をあおりたて、暴徒たちがパウロを殺そうと迫ってきました。しかし、ローマの治安部隊がやって来て、騒ぎの中心人物であるパウロを逮捕し、兵営に連行したので、パウロは難を免れました。
 また、パウロが別の場所に移送される途中でパウロを暗殺しようと計画する者たちがいましたが、たまたまパウロの姉妹の子がその計画を漏れ聞いてローマの隊長に通報したので、暗殺計画は未遂に終わりました。
 その後、パウロはしばらく囚われの身になっていましたが、そのために、かえって、ユダヤ議会やローマの総督やその地域を支配する王の前に出て、弁明する機会を与えられました。普通ならなかなか会うことのできない政治の中枢にいる人々の前で、自分の人生がイエス様を信じてどのように変えられたか、また、神様が自分を通して何をしてくださったかを、大胆に語ることができたのです。神様は、ローマ軍に逮捕されるという不思議な方法で、普通ならあり得ない場所で、パウロをキリストの証人としてお用いになったわけです。
 パウロは、その後、どうなったでしょうか。彼は、ローマ市民権を持っていたので、正当な裁判を受ける権利がありました。そこで、「私はカイザルに上訴します」と訴えたのです。
 その結果、ローマで裁判を受けるため、ローマ軍の護衛付きでローマに行くことになりました。護衛付きですから、途中で暴徒や強盗に襲われる心配はありません。旅費を払う必要もありません。もちろん、囚人として護送されるわけですから、劣悪な環境の旅ではあったでしょう。途中、嵐に襲われ、船が難破するという危機も味わいました。しかし、ともかく、パウロは、願っていたとおりにローマに行くことができたのです。
 使徒28章30-31節には、ローマでのパウロの生活についてこう書かれています。「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」
 自費で借りた家といっても、番兵の監視付きで、自由に出歩くことはできなかったでしょう。しかも、ずっとローマにいなければなりません。パウロは行動的な人ですから、一カ所にじっとしているのは好きではなかっただろうと思います。
 しかし、神様は、半ば強制的に「パウロ。ここにいなさい」とパウロを休ませておられたかのようです。外に出ることはできませんでしたが、訪ねてくる人たちがたくさんいたので、福音を語ることができました。また、パウロは、その二年の間に「獄中書簡」と呼ばれる一連の手紙を書きました。「エペソ人への手紙」「ピリピ人への手紙」「コロサイ人への手紙」「ピレモンへの手紙」です。そして、その手紙がいろいろな教会に回覧されることによって、イエス様の素晴らしさを分かち合う大きな働きがなされていったのです。
 まさに、彼にとってローマでの二年間は、彼の生涯の充電期間になりました。祈ったとおりに、ローマのクリスチャンたちとの憩いの時間を持つことができたのです。
 
 このように、エルサレムに行ってからのパウロには様々な出来事が起こりましたが、その一つ一つの背後に、ローマ教会やその他の多くの教会の祈りがありました。「不信仰な人々から守られ、エルサレムに対する奉仕が受け入れられ、ローマに行って憩うことができるように祈ってください」というパウロの要請に応ずる具体的な祈りが積み重ねられていたのです。
 
 パウロは、この章の最後に「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン」という祈りを記しています。
 パウロは、波乱に満ちた、いのちの危険が隣り合わせの生活を送りました。しかし、パウロは、「どのような状況にあっても、平和の神が私とともにいてくださる」と確信していたのです。
 ローマでの生活の後、パウロがイスパニアに行ったかどうかは、聖書には書かれていないのでわかりません。伝承では、パウロは、ローマの囚人生活から解放された後、イスパニアに出向き、その後、ローマで再度投獄され、斬首されて殉教したと伝えられています。それが史実に基づくものかどうかわかりませんが、パウロは、多くの教会の祈りに支えられ、主のために勇敢に自分の進むべき道を歩んでいく生涯を送ったのです。
 彼自身、第二テモテ4章7節にこう書いています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」
 
 私たちの人生は、自分の計画通り、思い通りにはいかないかも知れません。また目の前に二つの道があり、どう選択したらよいかわからないこともあるでしょう。でも、神様に委ねつつ、自分の心に与えられる志を大切にしながら進んでください。神様が道を備えてくださいますから。
 また、私たちは、共に祈り合い、互いに祈りのサポートをしながら歩んでいきましょう。心の平安が失われ、落ち込み、不安になる時もあるでしょう。でも、だからこそ、パウロが祈ったように、平和の神様がともにいてくださいますように、と祈りながら今週も進んでいくことにしましょう。