城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年三月一四日             関根弘興牧師
           ローマ人への手紙一六章一節〜一六節
 
 ローマ人への手紙連続説教36
   「聖徒たちによろしく」
 
 1 ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。2 どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。
 3 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。4 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。5 またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。6 あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。7 私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。8 主にあって私の愛するアムプリアトによろしく。9 キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと、私の愛するスタキスとによろしく。10 キリストにあって練達したアペレによろしく。アリストブロの家の人たちによろしく。11 私の同国人ヘロデオンによろしく。ナルキソの家の主にある人たちによろしく。12 主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。13 主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。14 アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよびその人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく。15 フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たちによろしく。16 あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。(新改訳聖書第三版)
 
 今日は、いよいよ「ローマ人への手紙」の最終章である16章に入ります。
 先週お話しましたように、パウロがこの手紙を書いたのは、ギリシャのコリントに滞在していた時でした。この時、パウロはまだ一度もローマに行ったことはありませんでした。
 この手紙を書いている時、パウロの前には二つの道がありました。一つは、すぐにローマに向けて出発し、ローマ経由でイスパニヤ(今のスペイン)まで行って福音を伝えるという道です。パウロは、まだ福音が伝えられていない場所に福音を伝えることが自分の使命だと自覚していました。そのために、何としてもローマに行って、そこから、ヨーロッパの一番西にあるイスパニアに遣わされたいと願っていたわけです。
 しかし、もう一つの道がありました。ローマに行く前に、まず、ローマとは正反対の方角にあるエルサレムに向かうという道です。それは、困窮しているエルサレム教会を励ますために、アカヤやマケドニヤ地方の教会が集めた義援金を届けるためでした。ただし、パウロがエルサレムに行くことは、命の危険と直結していました。パウロは、クリスチャンになる前は、熱心なユダヤ教徒で、エルサレムのユダヤ当局から権限を与えられてクリスチャンたちを弾圧していたのです。しかし、今や、クリスチャンとなってイエス様を伝える側に回っているのですから、エルサレムのユダヤ当局にとって、パウロは「裏切り者」であり「おたずね者」となっていたのです。ですから、もしエルサレムに行ったら、捕らえられ、殺されてしまうかも知れません。
 しかし、パウロは、エルサレムに行く道を選びました。それは、エルサレムにいるユダヤ人クリスチャンたちと外国にいる異邦人クリスチャンたちの橋渡しをするためでもありました。異邦人の教会が集めた義援金をユダヤ人の教会に届けることによって、クリスチャンが皆キリストにあって一つとされているということを示すことができるでしょう。パウロは、そのことを願って、多くの反対があったにも関わらず、エルサレムに向かうことにしたのです。
 そして、前回の箇所にあったように、ローマ教会に宛てたこの手紙の中で、エルサレムに行く自分のために祈ってほしいと書き送りました。「私はこれからエルサレムに行くけれども、不信仰な人々から守られるように、また、私の奉仕がエルサレムのクリスチャンたちに受け入れられるように、そして、その後、ローマに行って、あなたがたと暖かい憩いの時を持つことができるように祈ってください」と祈りの要請をしたのです。そして、その祈りはすべてかなえられました。エルサレムに行ったパウロは、何度か命の危険に遭遇しましたが、不思議な方法で守られ、しかも、ローマの兵隊に守られながらローマに行く道が開かれていったのです。
 さて、今日の箇所には、人の名前がたくさん出てきますね。こういう箇所は、朗読者泣かせですね。名前を読むだけで一苦労だったと思います。
 パウロは、この手紙を書いているときには、ローマにまだ一度も行ったことがありませんでしたが、ローマ教会に多くの知り合いがいたようです。パウロは、小アジアやギリシャのいろいろな場所に伝道に行って多くの人と出会いましたが、その中に、ローマに移り住んだ人たちがいたのですね。パウロは、その人たちに「よろしく」と挨拶を書き送っているわけです。
 では、今日の箇所に名前が記されている人々は、どのような人々だったのでしょうか。聖書の他の箇所も参考にしながら、見ていきましょう。
 
1 フィべ
 
 まず、フィベという女性が紹介されていますね。
 この手紙はコリントで書かれたのですが、今のように郵便制度が整っているわけではありませんから、誰かに届けてもらわなければなりません。ちょうど、コリントの隣町であるケンクレヤの教会の執事であるフィベという人がローマに行くということを聞いて、パウロは、この手紙をフィベに託したようです。ただ、ローマ教会の人たちはフィベがどういう人なのか知りませんでした。そこで、パウロは、1節と2節に丁寧にフィベの推薦文を書いたわけです。こうすれば、フィベも安心ですし、受け取った教会も安心ですからね。
 
2 プリスカとアクラ
 
 それから、3節に「プリスカとアクラ」という夫婦の名前が出てきます。プリスカは、他の箇所では「プリスキラ」とも呼ばれています。
 パウロは、アテネからコリントに行った時にこの夫婦に出会いました。
 実は、パウロの宣教は、どこに行っても大成功、というわけではありませんでした。パウロにも思うようにいかない時が度々あったのです。パウロがアテネに行った時のことでした。アテネにはパルテノン神殿が建ち、多くの哲学者や討論好きな人たちがたくさん集まっていました。その人々に、パウロは単純な説教をしたのです。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神様がおられます。私たちは、この神様の中に生き、動き、また存在しているのです。神様は、私たちから遠く離れてはおられません。だから、神様を求めるなら見いだすことができます。悔い改めて、神様を求めなさい。神様は死んだ者をよみがえらせることがおできになるのです」と説教したわけです。ところが、イエス様の復活の話になると、アテネの人たちの多くが、まったく話を聞こうとしなくなってしまったのです。聖書の中心は十字架と復活です。そのもっとも素晴らしい復活のメッセージを聞こうとしなかったのですから、パウロは失望し、意気消沈してしまいました。彼は、これまでどんな迫害にも耐えてきました。しかし、アテネでの経験は、暴徒たちによって石を投げつけられるよりも辛いものだったかもしれません。パウロの語る言葉に、ほとんどの人が興味も反発も示さなかったからです。ただあざ笑いながら、「このおしゃべりは何を言っているのか」という具合で、まったくの「無関心」だったのです。「説教者殺すにゃ刃物はいらぬ、あくびの三つもすればよい」というわけです。「ああ、牧師は今日も何だかわけのわからない、私と関係ないことを言っているよ」、そんな態度で聞かれていれば、説教者は本当に失望してしまいますね。
 アテネの人は、イエス様に無関心、永遠の救いの福音に無関心、すべてを治めておられる神様に無関心でした。わざわざ「知られない神に」と刻んだ祭壇を作る熱心はあっても、まことの神様を求めることには無関心だったのです。興味があるのは、ただ自分の知識を増すことだけでした。
 意気消沈したパウロは、アテネを去り、コリントに向かいました。彼は、この後、再びアテネに行って伝道したという記録はありません。おそらく、パウロが生涯で最も落ち込んだのが、この時だったのではないかと思います。彼はすっかり自信をなくしてしまいました。パウロは、後に、コリント人への手紙の中で、この時のことをこう書いています。「あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。」
 パウロはアテネで大きな挫折を味わってコリントに行ったわけですね。しかし、コリントに行っても何が期待できるでしょう。コリントは、当時、最も不道徳で不品行に満ちた都市の一つだったのです。
 しかし、このコリントで、パウロは、クリスチャンの夫婦に出会いました。それが、プリスキラとアクラです。
 使徒の働き18章1ー3節にはこう書かれています。「その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。」
 当時のユダヤ教の教師は、手に職を付けて他人の厄介にならないようにするという慣習がありました。パウロも以前、ユダヤ教の熱心なパリサイ派の若きリーダーでしたから、テント職人としての技術を身につけていました。それで、自らの手で働きながら伝道することもあったのです。
 パウロが意気消沈してコリントに行った時に出会ったクリスチャン夫婦は、パウロと同じテント職人でした。何と不思議な神様のタイミングでしょう。この夫妻は、ローマに住んでいたのですが、皇帝クラウデオがローマにいるユダヤ人に対して追放命令を下しました。これは、紀元52年頃のことだそうです。ローマを追放されることは、この夫妻にとって大きな試練だったはずです。しかし、その結果としてコリントに移り住んだことにより、パウロと出会いました。その出会いをきっかけに、コリントでの宣教の土台が築かれていったわけです。パウロは、一年半の間、腰を据えてコリントの伝道に取り組みました。そして、そこから多くのクリスチャンが誕生したのです。
 その後、パウロがコリントを離れてエペソに行った時、この夫妻も同行しました。そして、パウロがエペソを去った後にもエペソ教会を支えたのです。使徒18章25ー26節には、アポロという伝道者がエペソに来て説教したとき、それを聞いていたこの夫婦が「彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した」と書かれています。それによって、アポロの働きがますます豊かなものになっていったのです。
 その後、皇帝クラウデオのユダヤ人追放命令が無効になったので、この夫妻はローマに帰りました。そして、最後には、またエペソに戻ったようですが、パウロがこの手紙を書いたときには、ちょうどローマにいたのですね。
 パウロは、この夫妻のことを「キリスト・イエスにある同労者だ」と言っています。そして、「自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれた」と感謝を送っています。また、「異邦人のすべての教会も感謝している」とも書いています。 パウロの大きな働きの背後には、この夫婦のようなクリスチャンたちがいたのですね。
 
3 ルポ
 
 次に紹介したいのは、13節に書かれているルポスです。
 実は、この人の父は、マルコの福音書15章21節に登場するクレネ人シモンだと言われています。イエス様が十字架を背負いゴルゴタの丘に向かって歩んで行かれる途中のことでした。「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた」と書かれています。ここで、わざわざ「アレキサンデルとルポスとの父、シモン」と紹介されていますね。
 マルコの福音書は、ペテロの通訳者として伝道に同行したマルコが、ペテロの宣べ伝えたことを書き記したものだと言われています。そして、この福音書は、ローマで書かれたと言われているのです。ですから、マルコの福音書とローマ教会とは、密接なつながりがあったのでしょう。そのことを考え合わせますと、わざわざ「アレキサンデルとルポスとの父、シモン」と記しているのは、読者であるローマ教会の人たちがアレキサンデルやルポスのことをよく知っていたからだろうと考えられるのです。
 それで、13節のルポスは、マルコの福音書のルポスのことで、イエス様の十字架を背負ったクレネ人シモンの息子だろうと言われているのです。
 ルポスの父シモンは、クレネ出身のユダヤ人だと思われるのですが、過越の祭りに列席するために、はるばる北アフリカの港町クレネからエルサレムにやってきました。エルサレムに行って過越祭に参加できるなど、一生に一度あるかないかのことです。ですから、エルサレムに行くことを楽しみにして長い準備をしてきたことでしょう。「過越の祭りの光栄に浴することができる」と胸を弾ませながら念願のエルサレムに入ったのです。しかし、町中が大騒ぎになっているではありませんか。「いったい何の騒ぎだろう」と思って見渡すと、処刑される犯罪者が十字架を背負わされて、ゴルゴタ(どくろ)と言われている場所に向かって歩いているのです。「なんと嫌なところに出くわしてしまったのだ。せっかくのエルサレム巡礼なのに」と思ったかもしれません。立ち止まって見ていると、ちょうどシモンの前で、十字架を背負ったイエス様が倒れてしまったのです。すると、ローマ兵が、「おい、そこの男。代わりに担げ」と、見物していたシモンを無理矢理引っ張りだし、イエス様の十字架を背負わせたのです。
 聖書には、このシモンがそれからどうしたかは何も記されていませんが、おそらく、シモンは、イエス様の十字架を担いながら、「何て自分は不運な人間なんだろう」と思ったことでしょう。しかし、十字架につけられたイエス様を見て、また、十字架上のイエス様のことばを聞いて、イエス様こそまことの救い主であることを知ったのでしょう。そして、そのことが奥さんに伝えられ、息子のアレキサンデルやルポスに伝えられていったのでしょう。
 パウロは、ルポスだけでなく、ルポスの母に対しても、「私の母」と呼ぶくらいに大変親しみを感じていたようです。おそらく、ルポスの母から多くの慰めと励ましを受けていたのでしょう。
 
4 すべての聖徒たち
 
 パウロは、この16章で、ローマ教会の二十五名の友人たちの名を挙げてあいさつを送っています。当時は、教会と言っても大きな会堂があったわけではありません。5節に「家の教会」という表現があるように、有志たちの家が解放され、そこで礼拝がもたれていました。今日の箇所に出てくる人たちのリストを見ると、実に多様な人たちがいたことがわかります。
 パウロが「同労者」と呼んでいる人がいました。また、パウロのいのちを守ってくれた人、アジヤでキリストを信じた最初の人、ローマ教会のために非常に労苦した人、パウロといっしょに投獄されたことのある人、キリストにあって練達した人、主にあって非常に労苦した人がいました。
 その中には、何人もの女性がいます。ユダヤ人たちもいました。異邦人たちもいました。
 8節に出てくるアムプリアトという人は、皇帝の家の者のリストに多く見出される名だそうです。皇帝の関係者か皇帝直属の奴隷だったのかもしれません。
 また、10節にアリストブロという名があります。この人はヘロデ大王の孫で、ローマで生涯を終えた人物だと考えられています。そして、その家の人たちとあるので、家族だけでなく、その家の奴隷たちも含まれていたとも考えられます。
 そして、11節にはヘロデオンという名がでています。この名前はヘロデとの関係を示す名前です。10節のアリストブロの関係者だと思われますが、王族の血を引く者だったのでしょう。 また、11節にナルキソの家の者が出てきます。ナルキソと言う人は、ローマ皇帝クラウデオの時代、奴隷から成り上がった悪名高き人物だと言われています。その悪名高い腐敗し切ったナルキソの家の中でクリスチャンが起こされていったということなのですね。たぶん、こうしたニュースは、遠く離れたパウロの耳にも届き、イエス様の救いのすばらしさを改めて知ることになったのでしょう。
 また、14節のアスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、これらの人たちは、奴隷か、解放された奴隷で、クリスチャンになった人々と考えられています。
 そして、パウロは、「その人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく」と記しています。パウロは、相手の社会的地位や身分に関係なく、主人か奴隷かも関係なく、キリストを信じるすべての人々に「兄弟」と呼びかけています。教会には、様々な人々が集まっていました。しかし、互いに主にある兄弟姉妹として歓迎し合っていたのです。
 そして、パウロは、「すべての聖徒たち」とも呼びかけています。皆、主にある聖徒、つまり、神様の専用品として生きている仲間だからです。
 教会とは、社会的な地位も、職業も、人種も、功績も、血筋も、すべてを乗り越えて、主にあって一つとされている集まりなのですね。
 そして、パウロは、一人一人に「よろしく」と挨拶を送りました。この「よろしく」と訳されている言葉は、「安否を問う」とも訳されている言葉です。原文のギリシャ語では「抱擁する」という言葉に強調を表す「ア」と言う言葉が付け加えられて出来た言葉です。「よろしく」と言う訳では、ちょっと軽い感じがしてしまいますが、本来のこの言葉のイメージは、ぎゅっと抱きしめて、「大丈夫かい。元気かい」と問うような感じなのです。パウロは、距離は離れていても、まるで一人一人を抱きしめるように挨拶を送っているのです。
 
 私たちは、同じ教会に集う者ですが、置かれている環境も状況もみな違います。でも違っていていいのです。でも忘れないでください。私たちは、みな主にあって一つとされている、主にある同労者であり、兄弟であり、聖徒たちだということです。ですから、主にある仲間として、互いの安否を問いながら、互いに支え、また支えられながら、歩んでいきましょう。