城山キリスト教会説教
二〇二四年一月一四日
豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一章一節〜五節
 ヨハネの福音書連続説教1
   「初めにことばがあった」
 
 1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(新改訳聖書第三版)
 
 今日から朝の礼拝で私が説教させていただく時は、ヨハネの福音書を読み進めていきます。昨年は、聖書の人物を取り上げました。その前はマルコの福音書を読みました。マルコの福音書の最後で、イエス様は十字架につけられ、葬られ、三日目によみがえられたあと、弟子たちにこう言われました。
 
「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)
 
 「使徒の働き」を読むと、その後、エルサレムにとどまっていた弟子たちに聖霊がくだり教会がスタートしました。多くの人がクリスチャンになりました。しばらくすると、エルサレムでユダヤ人たちによる迫害がおこり、多くのクリスチャンがエルサレムからユダヤ、サマリヤ地方へと散らされていきました。しかし、その後、クリスチャンを迫害していたパウロがイエス様と出会って回心します。パウロを通して福音は異邦人たちに、全世界に宣べ伝えられていきました。
 みなさん。当時の世界の中心はローマ帝国です。ローマは、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカにまでおよぶ広大な領地でした。「すべての道はローマに通じる」と言われたように交通網が整備され、各地にローマの軍隊が置かれ治安を守っていました。そのような状況でパウロを中心にローマ帝国の各地に福音が宣べ伝えられ教会が誕生していったのです。1世紀の中頃のことです。
 そんなクリスチャン、キリスト教会にとって、最初の大きな試練と呼ぶことのできる出来事がローマで起きました。皇帝ネロによる迫害です。きっかけは「ローマの大火」(紀元64年)です。首都ローマが三分の二以上も燃えてしまった大火災です。火災が起きたとき皇帝ネロはローマを離れて別荘にいました。でも、しばらくすると人々の間で「ネロがローマに火を放って、高みの見物をしていた」という噂がおこります。ネロはその噂を打ち消すために、火事の責任をクリスチャンに負わせるのです。そこから大迫害が始まりました。残念ながら、このネロの迫害で、イエス様の弟子ペテロもパウロも殉教したと言われています。紀元60年代の出来事です。クリスチャンたちにとって、ヨハネにとっても大きな悲しみでした。
 さらに、70年代に近づいた頃、今度は、エルサレムでも大変な出来事が起きます。当時、エルサレムには神殿がありました。ヘロデ大王によって80年もかけて再建されたものでした。その神殿に宝物倉があったのですが、当時ローマから派遣された総督が宝を略奪したのです。それがきっかけに、ユダヤ人たちがローマに対して戦争を始めたのです。世界最強のローマの軍隊です。勝てるはずがありません。エルサレムはローマによって破壊され、神殿も完全に壊されてしまうのです。(紀元70年)ユダヤ人にとっては悲劇、エルサレム周辺にいたクリスチャンたちにとっても大きな出来事だったはずです。
 この頃、ヨハネは西アジアのエペソにいました。もう、歳をとって高齢になっていました。90歳近かったとも言われています。様々な試練を通ってきました。辛い経験もしていたはずです。兄弟ヤコブは斬首され、パウロもペテロもネロの迫害で殉教しました。若い頃、一緒にイエス様と過ごした仲間たちは天に帰っていました。「なぜ、自分だけが生かされているのだろうか。」そんな中で、ヨハネは歳をとって自分の生涯をふりかえったときに、心に一つの思いが湧き上がってきたのです。「そうだ。イエス様を伝えたい。」「イエス様について書きたい。」そう考えたのです。
 みなさん。この時、すでにペテロの通訳者マルコが「マルコの福音書」を書いていました。イエス様の弟子で取税人だったマタイも「マタイの福音書」を書いていました。パウロと共に伝道旅行をした医者ルカも「ルカの福音書」を書いていましhた。教会では、すでにそのような福音書が読まれていたのです。もちろん、ヨハネも「既にイエス様の素晴らしさは三つの福音書で伝えられている。でも、私にも書くべき事がある。私を愛してくださったお方、いのちなるお方、光なるお方、イエス様を伝えたい。」そんな思いで晩年のヨハネが筆を取ったのです。
 みなさんは歳をとって何か書き残したいものがありますか。これだけは伝えておきたいというものはありますか。この時のヨハネにとってそれは「イエス・キリスト」だったのです。苦しい迫害がありました。多くの仲間も死んでしまいました。けれども、人生の最後の最後に「私を愛し私を生かしてくださっているイエス様を伝えたい。」ヨハネの福音書には、それほどまでに知ってもらいたいイエスがどういうお方なのかということが溢れているのです。
 だから皆さん、福音書を読むと、必ず感動するはずです。彼が生涯をかけて体験したイエス様が記されているから、どうしても伝えたいと願ったイエス様のことばが、イエス様のみわざが記されているからです。この福音書を読むとき、私たちは、「このお方が与える恵みと真実は、ほんとに豊かなのです。」という、ヨハネのことばにうなずくことができるはずです。
 そして、冒頭1章1節〜5節の書き出しには、そんなヨハネの思いが詰まっているのです。
 
1 初めに『ことば』があった。
 
 みなさん。小説でも最初のことばは大切ですね。「トンネルを抜ければそこ雪国だった」「我が輩はネコである。名前はまだない。」ヨハネは考えたと思うのです。「どう書きはじめようかマタイは旧約聖書を意識して『アブラハムの子、ダビデの子…』という風に系図から始まってるな…」「マルコは、『イエス・キリストの福音の初め』ストレートで良い。さすがペテロの通訳者。」「ルカは『私たちの間ですでに確信されている出来事については…』と丁寧に時代背景から始まっている。さすが医者、論理的だ。」と、考えたかは分かりませんが、ヨハネはいろんなことを考えて考えて、そして、これだ、と筆をとりました。
 
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1・1)
 
 なぜこういう書き出しなのでしょうか。実は、当時この福音書を手に取った人々にとって、この書き出しはとてもインパクトのあるものだったのです。
 「ことば」と訳されているのは、新約聖書が書かれたギリシャ語では「ロゴス」(ことば、理性)とも訳されます。ヨハネはイエス様を紹介するにあたって、この方は「ロゴス」(ことば、理性)なるお方だと紹介しているのです。
 
(1)「ロゴス」=ことば
 
 みなさん、「ことば」には力がありますね。先日、元政治家の田中真紀子さんがテレビでおっしゃっていました。「政治家はことばが命だ。ことばで仕事をするんだから、『答弁を差し控える』なんてどうゆうことか…」ことばには力があるということです。ことばによって、人を励まし生かすことも、その反対に人を傷付けてしまうこともあります。そのように「ことば」には人に対する影響力があります。
 そして、聖書では「神様のことば」というとき、「創造する力」を意味します。創世記1章3節に、「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった」と書いてあります。詩篇33篇6節には「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって」とあります。聖書は「神様のことば」には「創造する力」があることも教えているのです。
 
(2)ユダヤ人にとっての「ロゴス(ことば)」
 
 また、ユダヤ人にとって「神のことば」は「神様ご自身」を指す場合もありました。「十戒」に「主(ヤーウェ)の御名をみだりに唱えてはならない」とあります。だから、ユダヤ人たちは、旧約聖書で「神」(ヤーウェ)と書かれているところは、「主」とか「神のことば」と言い換えたりもしていました。ですから、ヨハネが、イエス様を「ことば」なるお方と紹介するとき、ユダヤ人たちにとっては、このような響きがあったはずです。「このお方は、世界を創造された『神のことば』、つまり『神御自身』なのです。『神御自身』を見たいならイエスを見なさい。」と宣言しているわけです。
 
(3)ギリシャ人にとっての「ロゴス(ことば)」
 
 当時のローマ社会には、ギリシャ的な考えを持つ人が多くいました。彼らにとって「ロゴス」は「理性の源」という意味がありました。古くから「万物は流転する」という考え方があって、宇宙全体は秩序とパターンがあって、それを動かしている大もとが「ロゴス」、つまり「理性の源」であるという考えです。だから、ギリシャ的な考えをもつ人たちに対して、ヨハネはこう言っているのです。「皆さん、この世界の秩序を保っている『ことば=ロゴス』を知っていますよね。昔からこの『ロゴス』を探り求めてきたでしょう。イエス・キリストこそ『ロゴス』なのです。」つまり、ヨハネ福音書は、一行目から、「ユダヤ人たちが求め、ギリシャ人たちが追求してきた『ことば』なるお方、ロゴスがイエス・キリストなのです。」と知らせているのです。
 だから、当時の人にとって、新聞の大見出しと同じようなインパクト、衝撃があったのです。「何だ!それは。どんな存在だ!」「その人について知りたい。」そう思わせるような書き出しなのです。もしかしたら、「私は日本人で別にユダヤ人でもギリシャ人ないし、関係ない」と思われるかもしれません。でも、日本人も漠然と自分を越えた大きな存在があって、この世界を導いているのではと信じている人は多いですね。お正月には初詣にもいきますし、いろんなパワースポットと呼ばれるような場所が話題になります。
 伝道者の書3章11節に「神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」とあります。どんな人も、みんな自分を越えた大きいな存在を感じています。でも、はっきりとはわからないのだと聖書は教えるのです。
 ヨハネは、ユダヤ人(つまり、聖書を知っている人)も、そうでないギリシャ的な人も、そして日本人も、全ての人が求めている大いなる存在、「ことば=ロゴス」なるお方が来られた。それがイエス・キリストなのですよ。そして、そのお方は、「神と共にあった」「ことばは神であった」とあるように、「神様とまったく同じ本質、神そのものなるお方だ」と記しているのです。だから、この福音書を通して、イエス様を知るとき、漠然とした神様がどのようなお方であるのかをはっきり知ることができるのです。
 
2 「ことば」はどのようなお方
 
 そして、ヨハネは続く1章3節から5節で、イエス様がどのようなお方なのかを記しています。
 
(1)創造主なるお方
 
「すべてのものは、この方によって造られた」(ヨハネ1・3)
 
 つまり、「イエス・キリストは、この世界を創造された創造主だ」と語っているのです。皆さん。そのようなお方に信頼して生きているのですから、なんと心強いでしょうか。コロサイ人への手紙2章3節には、こう書かれています。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」また、ヤコブの手紙1章5節には、こう書かれています。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」神のことばであるイエス様は、知恵と知識に満ちた方です。その知恵は世界を生み出すほどの知恵です。ですから、私たちがこの方に生きる知恵を求めていくことができるのは、なんと幸いなことでしょう。
 皆さんが何か作るとき、プラモデルでも、家の家具でも、いきあたりばったりだと旨くいきません。ちゃんとした論理的な手順が大切です。面倒だからと説明書を読まずに作ると後悔します。また、電化製品を買って故障してしまったり困った時には、それを造ったメーカーに聞くのが一番です。ヨハネは、イエス様は世界のすべてを創造されたお方、つまり、すべてをご存じで知恵と力に満ちたお方だと紹介しているのです。そのお方が共にいてくださって共に生きるということは安心なことですね。
 ですから、私たちは困った時この方に祈ることができます。「イエス様は、これはどういうことでしょうか教えてください。どうしたらいいでしょうか知恵をください。」そして、聖書を通して、さまざま答えを受け取ることができます。もちろん、聖書は、マニュアルのように、クリスチャン生活Q&Aのように書かれているわけではありません。でも、私たちが、「イエス様、この問題に解決を与えてください。」そのように祈りながら、聖書のことばに耳を傾けるとき、神様が答えをくださいます。聖書は私たち信じる者の内にイエス様が住んでくださって、私たちに思いを起こさせ、私たちと共に働いてくださるとも約束しています。イエス様を信頼しながら歩む中で解決に導いてくださるのです。
 
(2)いのちなるお方
 
 続けて、ヨハネはイエス様についてこう言います。
 
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハネ1・4)
 
 皆さん、考えてみてください。この時のヨハネはかなりの歳をとっていました。自分のいのちが、先細っていって、消えていくように感じていた時です。そのような年老いたヨハネが、「イエス様はどういうお方ですか」と聞かれたときに、「この方にいのちがあった」と言ったのです。このイエス様の「いのち」とはどのような何でしょうか。
 
 @ いのちは、すべてを生かすものです。
 
 イエス様は、すべてを創造された方です。私を生かしてくださるお方、それがヨハネの確信です。過去に迫害もあった、辛い経験もあった、でも、イエス様はすべてを生かしてくださるお方です。
 
 Aいのちは、死からよみがえらせるものです。
 
 今、自分は生きているけど、仲間たちを思えば、亡くなった者もいます。でも、イエス様ご自身が復活されたように、やがてイエス様を信じる者をよみがえらせてくださいます。よみがえりの希望を与えるお方です。
 
 Bイエス様のいのちは、永遠です。
 
 私たち人の命には限りがあります。心臓が動く間、息している間の命です。でも、イエス様は世界が創造される前から存在された永遠なるお方なのだから、このお方のいのちは、けして終わることのない永遠のいのちです。
 
(3)光なるお方
 
 イエス様がそのような「いのち」だからこそ、「人の光」、私たちにとっての希望の「光」なのです。皆さん、「光」は、生きていくためになくてはならないものです。光がなければ何も見えません。動くことができません。真っ暗な冷たい世界です。でも、ひとたび光がさしたら、目の前がパッと開けます。暖かさを感じます。
 私は、健康の為に週に何度か、朝、ジョギングをしています。国道一号線を駅伝の選手になったつもりで小田原中継所あたりまで走ります。おとといの金曜日、行きは日の光があたらなくてすごく寒かったです。でも、帰り道、坂をくだって丁度、目の前に海が見える辺りにきたとき、太陽の光がパッと照ったのです。ほんとに暖かかったです。光に照らされるとこんなに暖かいんだと力が湧いてきたのです。光は、前に進んでいく力を生きる勇気を与えます。同じように、イエス様は私たちの人生になくてはならない「光」として、私たちを照らし、心をあたため、生きる力を与えるのです。
 そして、このイエス様の光は、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1・5)とあるように決して奪われることがありません。私の人生にどんな暗闇あったとしても、どんなに迫害があっても、どんな困難があっても、奪われることのない光です。そういうイエス様が、今も生きて、私たちともにいてくださる。それがヨハネの確信なのです。同時に、それは私たちの信仰の告白ともなるのです。
 みなさん。この福音書の冒頭でヨハネはこう言っています。「このお方に、イエス様に、いのちがあるのです。私を生かすいのち。あなたを生かすいのち。それは、決して失われることのない希望の光です。」そして、その方がどんなお方なのか、具体的な内容を、このヨハネの福音書の中で豊かに書きしるしているのです。これから、少しずつヨハネの福音書を読み、イエス・キリストご自身を、いのちなるお方の恵みを味わってまいりましょう。お祈りします。