城山キリスト教会説教
二〇二四年二月四日
豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一章六節〜一三節
 ヨハネの福音書連続説教2
   「神の子どもとされる特権」
 
 6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。
7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
 9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(新改訳聖書第三版)
 
 前回からヨハネの福音書を読み進めています。ヨハネはイエス様の弟子たちの中で一番長生きしたと言われています。彼がヨハネの福音書を記した時には、既に他3つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)が書かれキリスト教会で読まれていました。それでも、ヨハネは「私もイエス様について書き記したい。私を愛し、いのちを与え、光として来てくださったお方を伝えたい」と願って筆をとりました。この福音書を読む全ての人にイエス様がどれほど恵みとまことに満ちたお方であるのかを伝えようとしたのです。
 前回は、そのような彼の思いが込められた冒頭部分を読みました。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1・1)ここでヨハネは、「イエス様というお方は『ことば』(ギリシャ語でロゴス)であると書き出したのです。これは、当時の人々、ユダヤ人やギリシャ人にとって衝撃的な内容でした。なぜなら、ユダヤ人にとって「ことば」は、神様御自身、神様の大いなる知恵を意味していたからです。ギリシャ人にとっても、「ことば(ロゴス)」は、宇宙全体を動かしている存在、理性の源、真理を意味していたからです。つまり、ヨハネは福音書の冒頭でこう言ったのです。「皆さん。世界の創造主、すべての人に光といのちを与える神のことばを見たいなら、イエス・キリストを見てください!」「この方こそ世界を保っている方です。イエス・キリストこそ、あなたがたが求めていた神そのものなのです。そのお方が、今、私たちのところに来られたのです。」まるで大スクープ記事を報じるように「この方を知ってください」と伝えているのです。そして、今日は、神のことばであるイエス様について、さらに6節から13節をご一緒に見ていきましょう。
 
1 証言者ヨハネ
 
 まず、ヨハネはイエス様をあかしする一人の人物を紹介しています。それは、自分と同じ「ヨハネ」という名前の人です。同じヨハネでも別の人物で、聖書の他の箇所では「バプテスマのヨハネ」と呼ばれています。6節、7節に、こう書かれています。
 神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人(バプテスマのヨハネ)はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。(ヨハネ1・6-7)
 「あかし」ということばは、これからヨハネの福音書で何度も出てくる大切なキーワードの一つです。裁判などの「証人」「証拠」「目撃証言」という意味があります。みなさん。私たちが何かのものごとを証明しようとするとき、幾つかの方法があります。一つは「実験」です。例えば、「Aという液体とBという液体を混ぜたらCになる」これを証明するには実際に実験してみればいいわけです。また、何か自然現象であれば「観察」します。観察する中で同じ現象が何度も繰り返されれば、それが確かであると証明できます。でも、「実験」でも「観察」でも証明出来ないこともあります。それは「歴史の出来事」です。過去に起こった一度きりの出来事は繰り返すことができないからです。そういう場合、何によって証明するかというと、実際に体験した人や目撃した人の証言です。例えば、私は、この城山教会に2020年8月に赴任しました。それ以前のことは経験していません。でも、知っています。1982年の1月に関根先生が宣教師から開拓伝道を引き継ぎ今年で42年経つこと。小田原駅前のクリスチャンセンターで始まり、約20年後の2003年に、城山三丁目に会堂が建てられました。移転するときには、「資金もない」、「場所もない」、「時間もない」なかで、神様の奇蹟のようだったと聞いています。私はその経緯を経験していません。でも、事実です。なぜなら、その出来事を直接見て体験した証言(あかし)を聞いているからです。
 そのように福音書を書いたヨハネは、これを読む人が「イエスが神の子キリストであることを、信じるため」に書きました。つまり、イエス様が神ご自身であり、救い主であり、そのお方が歴史の中にこられたという事実を、すべての人が信じるために、沢山の目撃証言(あかし)をしるしているのです。そして、その「あかし」の一人目が「バプテスマのヨハネ」です。彼については、この後1章19節以降に書かれているので、今日は詳しくみませんが、当時、彼は多くのユダヤ人たちから預言者として認められ尊敬されていました。この頃、旧約聖書最後の預言者マラキから400年の間、預言者は起こされませんでした。人々は神様のメッセージをきくことができず飢え渇いていました。そこに登場したのがバプテスマのヨハネです。彼は、荒野に住み、人々に「天の御国が近づいた、悔い改めて、罪を告白し、バプテスマを受けなさい」と勧めました。そして、多くの人がヨルダン川でバプテスマを受けたのです。その中には「ヨハネさん。あなたこそキリスト(救い主)なのでは!」と考える人もいました。しかし、8節にこう書いてあります。
 「彼(バプテスマのヨハネ)は光ではなかった。ただ光についてあかし(証言)するために来たのである。」(ヨハネ1・8)
 バプテスマのヨハネ自身も、「自分はキリストではない」と、はっきり否定しました。「私よりも偉大な方がこられます。」「私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(ヨハネ1・27)「私は、荒野で叫ぶ者の声です!」(ヨハネ1・24)イエス様を人々に証言する「声」(証言、あかし)としての使命に徹した最初の証言者だったのです。
 
2 この世(人々)の反応
 
 それでは、バプテスマのヨハネが証言しているイエス様について、この世の人々はどんな反応をしたでしょうか。9節以降にこう記されています。
 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネ1・9−11)
 イエス様は「すべての人を照らす光」として来てくださったのに、「世はこの方を知らなかった(知ろうとしなかった。理解できなかった)」のです。さらに、11節で、イエス様は「ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」とあります。「ご自分のくに」は「自分の場所、家」とも訳せます。みなさん。考えてみてください。自分が家に帰ったのに、誰も自分を迎え入れなかったどうですか、悲しいですね。
 もう、20年以上前ですが、私が大学生1年生の時、夏休みに千葉の寮から兵庫県の実家まで車で帰省しました。渋滞を避けるため夜中に軽自動車で10時間以上かけて帰りました。私の実家は、父が牧師なので教会の一階にある牧師館でした。徹夜で運転してヘトヘトで、早朝、家の玄関を開けて入っていくとダイニングに知らないおじさんが座ってコーヒー飲んでいたのです。後でわかるのですが、当時、教会に通い始めていた人で、知的ハンディキャンプのある方でした。彼は、毎朝、作業所に行く前に教会によってコーヒーを飲んでから仕事に出かけていたのです。そのおじさんが家に帰った私に向かって第一声こう言ったのです。「お前、誰や。」私も寝不足で疲れていましたから頭にきて「『お前、誰や』って、お前が誰や。俺はここの息子の臨太郎や!」それを聞いたおじさんはニコッと笑って「そうか。そうやったか。お前が臨太郎か、悪かった。」そこから、事情を聞いて仲良くなりました。自分の家に帰って「お前は誰だ」って言われて、受け入れられないなんて普通はありえないことですね。今では笑い話ですが貴重な経験でした。
 でも、皆さん。イエス様は、「わたしは、わたしの家にきたのです。あなたたちはわたしの家族です。」そのようにこの世界に来て下さったのに、人々はそのお方を、まるで「お前、誰や」とばかりに拒絶したのです。実際に福音書を読み進めると「救い主」をずっと求めていたはずのユダヤ人たちをはじめ、多く人々がイエス様を拒みました。最終的にはイエス様を十字架につけて殺してしまったのです。文字通り、「このお方を受け入れなかった」のです。しかし、それはユダヤ人だけではありません。聖書は、全ての人がイエス様を受け入れない、心の扉を閉ざしている、それが人間の姿だと教えているのです。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」イエス様に出会う前の私たちの姿です。そんな私たちにイエス様はどうされたでしょうか。ご自分受け入れない一人一人を見捨てて「もう好き勝手にしろ!」といわれたでしょうか。いいえ、イエス様はたとえ拒絶されても、救いの手を引っ込めるのではなく、逆に人々の心の戸をたたき続けてくださいます。ヨハネ黙示録3章20節にはこう書かれています。
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙3・20)
 イエス様は、どんなに拒絶されても、私たちの心の扉を叩き続けてくださるのです。
 
3 神の子どもとされる特権
 
 だから、もし、私たちがイエス様に心開くなら12節にこう書いてあります。
 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1・12)
 「イエス様、あなたを信じます」「私の心に入ってください」そう言って心の扉を開き、イエス様を受け入れた人々は「神の子どもとされる」と約束されているのです。
 
 (1)「神の子どもとされる」とは
 
 みなさん。「神の子どもとされる」というのはどういうことでしょうか。神のようになって奇跡を行うのでしょうか。そうではありません。聖書がいう「神の子どもとされる」というのは、「天の父なる神様との壊れていた関係が回復される」ということです。イエス様はそのことを教えるために一つのたとえ話をされました。ルカの福音書15章にある「放蕩息子のたとえ」です。
 ある人に、二人の息子がいました。下の息子が父親にいいました。「父さん。財産をわけてください」まだ、お父さんが生きているのに相続財産をもとめて譲り受けたのです。彼は、すぐに遠い国に行って放蕩三昧しました。財産を湯水のようにあっという間に使い果たしてしまうのです。ぼろぼろになって、食べることも、生きることもままならない、惨めな状態に陥りました。その時、彼は我に返って思うのです。「そうだ。父さんのところに帰ろう。」「でも、もう息子と呼ばれる資格なんてない。雇い人のひとりにしてもらおう」と考え、勇気ふり絞ってを帰りました。一方の父親はずっと息子の帰りをまっていました。だから、遠くに息子の姿を見つけると走り寄って息子を抱きしめました。一番良い着物を着せ、指輪をはめさせ、靴をはかせ、改めて息子として受け入れたのです。「自分はもう息子ではない」と思っていた彼を父親はそのまま迎え入れました。たとえ遠く離れていても、どんなに自分勝手な生活をしても、息子であることに変わりはないからです。だから、父親の方から走り寄って抱きしめたのです。これが天の父なる神様の姿です。
 そして、聖書は、私たちは皆「放蕩息子」のようだと語ります。創世記には、人は神様によって造られたと書いてあります。だから、広い意味ではもともとはみんな神様の子どもです。神様の愛を受け、神様との麗しい関係の中に生きるものとして造られました。でも、最初の人アダムとエバが神様に背をむけたときから、その関係が壊れてしまったのです。しかし、もし私たちがそのことに気がつき、父なる神様の方に向くなら、神様はいつでも「我が子よ、よく帰ってきた」と言って「神の子ども」としてくださるのです。そのためにイエス様がきてくださいました。光なるイエス様は私たちの心を照らし、神に背を向けている私たちの状態を悟らせ、帰る道を照らし、導いてくださるお方です。だから、イエス様を信じて受け入れるならば、誰でもすぐに「神の子どもとされる特権」が無条件で与えられるのです。
 
 (2)「神の子どもとされる『特権』」とは
 
 みなさん。「特権」は「特別な権利」と書きます。どういう内容でしょうか。それは、「神様に近づき、呼びかけることができる権利」です。みなさん。どんな偉大な王様でも、普通の人が近づくことが許されない立場の人でも、その人の子どもなら堂々と近づくことができます。そして遠慮なく話しかけることができます。それと同じように「神の子」されたなら、天の父なる神様に堂々と近づき、いつでも呼びかけることができるのです。だから、パウロはローマ8章15節でこういっています。
 「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊(聖霊なる神)を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」
 どんなときも、いつもでも、何度でも、天の神様に「お父さーん。」と呼びかけ祈ることができるのです。その資格、権利が与えられるのです。
 さらに「神の子どもとされる特権」は、「神様の良いもの(嗣業)を受け継ぐ権利」でもあります。先ほどの「放蕩息子」の譬えには後日談があります。弟が戻った後、兄はおとがめなしの弟に腹を立てました。父親に文句を言うのです。その時、父親は兄にこういいました。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」(ルカ15・31)兄も弟も子どもですから、父のもの(嗣業)を受け継ぐ権利があるのです。だから、私たちが神の子とされるというのは、神様が持っておられる良いもの、豊かなご性質(愛、真実、聖さ)を、受け継ぐ者とされているのです。私たちは「自分は愛がない」「聖くない」「真実ではない」と感じるかも知れません。でも「神の子」とされたのだから、神様の愛を、真実を、聖さを、神様のご性質を受けて生かされていくのです。神様が持っておられる良いものが与えられ、私たちを通してそれが周囲に流されていく、そういう存在とされているのです。素晴らしい「特権」なのです。
 
 (3)「ただ、神によって」
 
 そして、今日の箇所の最後、1章13節にはこう書かれています。
 「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1・13)
 つまり、「神の子となる特権」を得るために、私たちの側に求められるものはないのです。この世の「特権」を得るためにはそれなりの対価が求められます。ふさわしい「家柄」、それを買い取る「資金」、人並み外れた「努力」かもしれません。でも、「神の子どもとされる特権」は、そうではありません。ただ「その名を信じた人々」「イエス様を心に受け入れた人々」それだけで与えられるのです。「ただ、神によって」です。これ以上の保証はありません。私たちの側がどんなに揺らごうとも、心に疑いがやってくることがあっても、たとえ自分の状態がどうであっても、「ただ、神様によって」生まれたのですから、それは誰も奪うことができないのです。安心して堂々と「神の子」としての人生を歩むことができるのです。ですから、この週も「天のお父さん」と呼びかけ、主の大きな愛と恵みの中を歩んでまいりましょう。お祈りします。