城山キリスト教会説教
二〇二四年二月二五日
豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一章一四節〜一八節
 ヨハネの福音書連続説教3
   「恵みとまことに満ちた方」
 
 14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」
16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(新改訳聖書第三版)
 
 ヨハネはこの福音書の冒頭で、イエス・キリストについて、このお方は「ことば(ロゴス)」なるお方であると紹介しました。それは、「イエス・キリストこそ、世界の創造主、人々がずっと求め、探求してきた神なるお方そのものだ」という宣言でした。
 前回の箇所では、「ことば(ロゴス)」なるイエス様が、この世界にきてくださったのに、残念ながら多くの人々はイエス様を理解せず拒絶したと記されていました。しかし、イエス様はたとえどんなに拒絶されても、人々の心の扉を叩き続けてくださるお方です。だから、その「お方を受け入れた人々」つまり「イエス様、あなたを私の心にお迎えします」そう信じるなら、どんな人も「神の子どもとされる特権」が与えられます。天の父なる神様との関係が回復し、どんな時もそのお方に「お父さん」と呼びかけ、神様の愛と恵みを受けながら生かされていくのです。それは、決して人の努力や行いではなく「ただ、神によって」与えられる特権です。パウロは、そのことをエペソ人への手紙2章8節でこう言いました。
 
 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2・8)
 
 さて、今日の箇所でヨハネは更に詳しくイエス様について紹介しています。大きく3つのポイントで見ていきましょう。
 
1 ことばは人となられた
 
 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1・14)
 
 ここで「人」と訳されているギリシャ語「サルクス」の直訳は「肉」です。当時の人々にとって「肉」は「弱く朽ち果てていくもの」「悪の性質を持っている」と理解されました。「ことば」(ロゴス)は「理性の源」、「良いもの」、「善なるもの」という意味です。ですから、ヨハネが「ことば(ロゴス)が肉(サルクス)になった」と聞いた人々は次のように反応したはずです。「神のことば(ロゴス)である方が、私たちと同じような肉(サルクス)をとって来るなどあり得ない」そう考える人が多かったのです。しかし、ヨハネははっきりと宣言したのです。「神のことばであるイエス様が人(肉)となって来られ私たちの間にすまわれたのです!」と。
 ここから私たちは大切なメッセージを受け取ることができます。一つは、神様が私たち人間を理解してくださるということです。
 
 (1) 神様が私たちを理解してくださる
 
 新約聖書のヘブル人への手紙には、人となられたイエス様が私たちと同じ立場に立ってくださり、神と人との間でとりなしをしてくださる大祭司のような方であるといわれています。へブル4章15節にはこう書かれています。
 
 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル4・15)
 
 ここに書かれているように、イエス様が私たちと同じ人間として来てくださったということは、「私たちの苦しみや試みを同じように経験してくださった」ということです。だから、イエス様は私たちを深く理解してくださるお方なのです。
 聖書は、決して私たち人間が自分で修行や努力をして神様に近づかなければならないとは教えていません。その反対に天地を造られた神様の方から、神の子であるイエス様が、私たちのところに来てくださり同じ経験をし、理解してくださるのです。それが聖書の素晴らしいメッセージです。
 
 (2) 私たちが神様を知ることが出来る
 
 そして、「神のことばが人となられた」ということは、私たちが神様をはっきりと知ることが出来るということでもあります。
 数年前、子どもが通っていた幼稚園の保育参観に行きました。その幼稚園では親が見学するわけでなく、先生と同じように、子どもたちと半日過ごしました。子どもたちは園庭で思いっきり遊びます。そして、ダンゴムシやアリを見つけると大喜びです。「アリさん、そっちにいったら危ない!」子どもたちは良かれと思ってアリが進む方向を変えようとします。でも、アリには通じません。逆に驚かせて散っていってしまいます。もし、アリに子どもの気持ちを理解してもらおうとするならどうしたらいいでしょうか。実際には不可能なことですが、こちら側がアリと同じになるしかないのです。
 皆さん。「神が人となられた」ということは、神様が私たちに伝えたいことがあるということです。ご自身を知って欲しいと願っておられるということです。ヨハネ1章18節には、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1・18)と書いてあります。私たちは、太陽の光が照らしている場所や物を見ることはできます。しかし、太陽そのものはまぶしくて見ることができません。そのように天地を造られた神様は聖なるお方ですから、私たちは神様を見ることができないのです。人の知識や努力では神様を理解することも、説明することはできないのです。「いまだかって神を見た者はいない」と書いてあるとおりです。
 しかし、そのような私たちのために「神を解き明かす方」であるイエス様が来てくださいました。だから、もし私たちが神様を知りたいと願うならばイエス様を見れば良いのです。聖書を通して、イエス様の「ことば」を聞くとき、イエス様がなされた「みわざ」を見るとき、イエス様がどのようなお方なのかを知るとき、私たちは神様がどれほど素晴らしいお方であるのかを知ることができます。神様がどれほど真実で愛に満ちておられるのかを知ることができるのです。「ことばは人となられた」ということは「神様が私たちを知り」また「私たちも神様を知ることができる」というメッセージです。
 
2 イエス・キリストの栄光
 
 次に、ヨハネは「イエス・キリストの栄光」について語っています。
 
 私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1・14)
 
 みなさんは「栄光」と聞いてどんなイメージを持たれるでしょうか。辞書で「栄光」の意味を調べると、「輝き」、「誉れ」、「名誉」、「名声」と書いてありました。私はスポーツが好きなので野球やサッカーのワールドカップをイメージします。昨年3月に野球のWBCで日本が世界一になりました。表彰式で大谷選手が優勝カップを持ち上げて、金の紙吹雪がまっていました。そのように優勝したら人々から賞賛され、拍手喝采の嵐を受けます。メディアで取材されて仕事は増え収入もアップするでしょう。そのように私たちの考える「栄光」は「上へ上へ」と昇っていくイメージです。
 しかし、イエス様の生涯はそのような「栄光」とはかけ離れているように思えます。イエス様はベツレヘムの家畜小屋でお生まれになりました。貧しい大工の息子として育ちました。30歳を過ぎた頃、公の活動を始められましたが、イエス様の周りにいたのはガリラヤの無名の弟子たちです。イエス様のまなざしと手はいつも苦しんでいる人、社会の隅に追いやられている人に向けられたのです。そして、最後は最も惨たらしい十字架の死を受けてくださいました。イエス様の生涯から見ることのできる姿は「上へ上へ」と昇ることとは正反対の「下へ下へ」と下っていかれる姿です。パウロは、そのようなイエス様の姿についてピリピ人への手紙2章でこう記しています。
 
 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2・6−8)
 
 ここに書いてある通り、イエス様は神であることを捨て、ご自分を無にして、人と同じようになってくださいました。しかも、十字架の死にまで従われたのです。最も高いところにおられる方が最も低いところにへりくだってくださったのです。それがイエス様の姿です。そして、パウロは、そのイエス様を最終的に神様が高く上げてくださったと言っています。
 
 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2・9−11)
 
 「下へ下へ」と下られたイエス様を神様が高く上げて栄光を与えてくださいました。だから、すべての人が膝をかがめてイエス様を礼拝するのです。黙示録5章12節に、このお方は「誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙5・12)と書かれている通りです。イエス様こそ栄光を受けるにふさわしい方です。だから、私たちは毎週このようにイエス様を礼拝しているのです。
 そして、皆さん。その上で、ヨハネが「この方の栄光を見た」と言った「栄光」は、それだけではないのです。ヨハネの福音書には「栄光」ということばが何度も出て来ます。それが具体的に何をさすかというと、これからヨハネの福音書を学んでいく中で次第に明らかにされてくるのですが「十字架と復活」の出来事をさしているのです。ヨハネの福音書の中では、イエス様がたびたび「私の栄光」「私の栄光をうけるときがきた」(ヨハネ12・23)とおっしゃっています。その「栄光」は明確に「十字架と復活」をさしているのです。
 つまり、イエス様は「十字架こそ、わたしの栄光です」といっておられるのです。言い換えるならば、「あなたのために命を捨てることがわたしの栄光なのだ」と言われているのです。イエス様は、私たちのためにご自分のいのちを捨てるのをいとわないお方なのです。十字架によって私たちのすべての罪が赦されて神の子とされること、それは私たちにとっての最善ですね。「そのために生きることがわたしにとっての栄光なのだ!」とイエス様は言ってくださるのです。
 みなさん。「自分の栄光は、あなたの最善がなされることだ」と言ってくれる人がいるでしょうか。イエス様は「あなたの救いの為に、あなたの最善のために、わたしのいのちを与えることこそが、どんなトロフィーを受けることよりも栄光だ」と言ってくださるお方なのです。
 今朝、みなさんはここに座っていて「自分のどこに栄光があるのか」と思うかもしれません。でも、イエス様は、今、礼拝している私たちをご覧になって心から喜んでおられるのです。私たちがイエス様に出会い、救いを受け取って神様を礼拝するものとして生かされている、それをイエス様は心から喜び「わたしの栄光がここにあるのだ」と言ってくださるのです。
 でも、そうきくとある人は考えるかもしれません。「いいえ。私はそんな存在じゃない。何も特別なことはないし、立派な人でもない、イエス様にそんな風にいってもらう資格ありません。」そう考える私たちにヨハネはこう言うのです。
 今日の三つ目のポイントです。「このお方は、恵みとまことに満ちておられる」と。
 
3 恵みとまことに満ちた方
 
 この方(イエス様)は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1・14)
 
 (1)「恵みに満ちた方」
 
 「恵み」とは無条件に与えられる「プレゼント」です。「受けるに値しない者に与えられる神様の愛の行為」です。神様が一方的に無条件に与えてくださるのが「恵み」です。
 前回お話した、イエス様の「放蕩息子の譬え」を思いだしてください。自分勝手に放蕩三昧をして惨めな姿で帰ってきた息子を父親はそのまま受け入れました。ある方は「何度聞いても納得がいかない。甘すぎる。」と思われるかも知れません。「自分勝手な息子を、そんなに簡単に受け入れたら駄目だ。教育上良くない。」私たちはそういう発想を持ちます。しかし、放蕩息子はみじめな状態を自覚し、「もう息子と呼ばれる資格はない。だから、雇い人の一人にしてもらおう。」そう思って帰ってきたのです。その息子を父親はずっと待っていました。そして、「受けるに値しない者」なのに彼を無条件で受け入れたのです。父親の側の一方的な愛の行為です。だから、私たちがどんなに納得できなくても、私たちの理解を超えていても、これが「父なる神様の一方的な愛の行為」で「恵み」だと、イエス様は教えておられるのです。
 だから、誰一人「私なんかふさわしくない」と言う必要はないのです。新約聖書ローマ人への手紙5章20節にこう書いてあります。
 
 罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5・20)
 
 この手紙を書いたパウロは「イエス様の十字架による恵み」がどれほど大きいのかを人々に語り続けました。だから、それを聞いたある人は、「パウロさん。罪が増すところに恵みも増し加わるなら、どんどん罪を犯したほうが、恵みがもっとよくわかるじゃないか。」そんな誤解が生まれるほどだったのです。それほどまでにパウロは「恵み」を語ったのです。
 そして、城山教会の皆さんは、このことを関根先生から何度も聞いておられますね。「私も、パウロと同じような誤解が出るほどに、イエス様の恵みとまことを語り続けたい。」と、これまでずっと語ってこられました。
 安心してください。私も同じ思いです。「私も、イエス様の恵みを、父なる神様の一方的な愛を、誤解が生まれるほどに語り続けたい。」そう心から願っています。「城山教会に最近、新しい牧師がきたけど、二人続けて同じことばっかりいっている。口を開けば恵み恵みと語っている。」そんな噂が立つほどに聖書からまっすぐに「恵み」を語り続けたいと思っています。
 そして、私はこうも信じます。聖書から正しくイエス様の恵みが語り続けられたなら、ありのまま受け入れてくださる神様の愛を知れば知るほど、私たちは以前のような罪の生活やみじめな状態に戻りたいとは思わなくなると。もちろん、クリスチャンになってからも弱さがあります。失敗することだってあります。でも、神様はイエス様の十字架の血潮によって全て赦し、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。その神様の愛を受け続けるなら、私たちはもはやありのままではいられない、少しずつ少しずつ変えていただくことができると信じます。私たちのうちに住んでくださる聖霊なる神様によって、キリストに似た者とされていくと約束されているからです。
 
 (2)「まことに満ちた方」
 
 そして、ヨハネは「恵み」に満ちたイエス様は「まこと」に満ちたお方、真実なお方だと言いました。
 今日の招きのことばで読んでいただいた第2テモテ2章13節にはこうあります。
 
 私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(2テモテ2・13/新改訳2017)
 
 イエス様は真実なお方です。100%信頼することが出来るお方です。私たちは本当に信頼できる人、正しい情報を持った人のそばにいると安心しますね。
 昨年の夏、小学校の夏のキャンプに参加しました。1年生から3年生までの子ども8人のカウンセラーとして参加しました。夜中、一人の男の子に起こされて「一緒にトイレに付いて来てほしい」と言われました。私も幼い時そうでしたが、子どもは暗い中一人でトイレに行くのを怖がりますね。「おばけがいるかも知れない」「誰かにさらわれるかもしれない」と思うものです。でも、大人がついていって電気をつけて「ほら、おばけなんかいないよ。ここにいてあげるから大丈夫だよ。」と言えば安心します。
 そのように人は信頼できる人がいて、本当のことを知っている人がそばにいたら不安や恐れから解放されます。真実なイエス様のことば聞き続けるとき、私たちは色々な不安や恐れから解放していただけるのです。
 もちろん。クリスチャンになってからも不安を感じることがあります。恐れも感じるし、自分は全然、解放されてないと思うこともがあるかもしれません。でも、皆さん。夜怖がっている子どもは一日で恐れから解放されません。昨日は安心して寝ても、今日もまた「夜が怖い」といいます。でも、その都度、その都度、大人が「大丈夫だよ」と語りかけて電気を付けて、そばにいたら安心します。そうやって安心を重ねながら成長していきます。
 私たちも、ある意味では繰り返し繰り返し、イエス様のことばを聞きながら、そのお方によって励まされて、少しずつ少しずつ恐れや束縛から解放されていくのです。イエス様が与えてくださる自由の中を生かされていくのです。
 イエス様は「恵みとまことに満ちたお方」です。そして、私たちは「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受け」(ヨハネ1・16)ています。恵みの上にさらに恵み、溢れんばかりのイエス様の恵みを受けながら、このお方に感謝と賛美をささげつつ、この週も歩んでいきましょう。お祈りします。